2007年10月10日
敬語はなんのためにあるのだろう?
↑日本語敬語(クリックすると大きくなります)
世界の言語の中で、敬語の言語表現が体系的に文法化されているのは、日本語、朝鮮語、中国語ぐらいのようですが、敬語の起源について調べてみると、その歴史について書かれた興味深いサイトがありましたので紹介します。
敬語が、固定的な身分制を超えた意思疎通の手段として機能していたことがうかがえます。
敬語とは? より引用します。
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★敬語はなんのためにあるのだろう?
・明治以前の日本社会は固定した身分制で、生まれたときの身分を変更することは、原則としてできませんでした。にもかかわらず、日本の歴史上で、革命やクーデターはほとんど起こらなかったのです。
・この時代の人々は、上位者にお願いや申し開きをするとき、敬語を使ってきました。敬語を使えば、相手より身分が下であることを言語的に明らかにすることになります。
★敬語が平和な歴史をもたらした。
・明治以前の上位者は、コミニュケーションのたびに、神の地位にまつりあげられることになって、寛容にならざるをえず、下位者の言うことを聞き入れたために、上下の理性的な交流が可能になりました。
・敬語がなければ、この固定された身分・階級の上下の人々は、互いに意志疎通することができません。敬語を使って交流したからこそ、日本人は互いのことをよく知り合い、平和な歴史を歩むことができたのです。
・上下の人間関係において、下から上に使う敬語を「階級遵守語」といいます。この用法は日本独特で外国には見られません。
・日本人が現在でも、自分の要求を通そうとするとき本能的に下になろうとするのは、敬語を使う下位者になって相手を上位者にまつりあげてしまうと、相手はその願いを聞き入れざるを得ない心理になることを、歴史的に知っているからにほかなりません。
・日本人は目の前で頭を下げている相手を糾弾することはできないともいえますね。
逆に言うと、日本社会において、頭を下げるのが嫌いな人は、多くの要求を受け入れざるを得ないと覚悟したほうがいいかもしれません。
★敬語が日本の未来を救う。
・明治以後、上下の身分秩序が崩れ、敬語を使っても上位者に要求を聞き入れてもらえなくなりました。そしてまた、前近代には決して頭を下げることがなかった上位者(社会的地位の高い人)が、いとも簡単にマスコミの前で国民に向かって頭を下げるようになってしまいました。
・前近代の下位者(家来)は、殿様に反対したり抗議したりするとき敬語を何重にも使って丁寧に、ときには命がけで、あるいは涙ながらにお願いしました。殿様はたいていの場合それを聞き入れたので、自浄作用がはたらいて、組織(幕府・藩) 全体が崩壊するような事態を避けることができました。
・ヨーロッパ社会には、日本のような上下の間で使う敬語は存在しませんでしたが、対等の人間関係で使うエチケットとしての敬語(礼儀語)が発達しました。現在の欧米の成熟した市民社会と民主主義は、この礼儀語が支えています。激しい議論を展開するときでさえ、決して汚い言葉でののしったりせず、比喩や婉曲表現を多用して、相手を尊重しながらコミュニケーションするのが礼儀語なのです。
(~後略)
敬語には、話し手から見て敬うべき(目上の)人物をすべて敬語的上位として待遇する絶対敬語と、同じ人に対して、登場人物との関係によって尊敬語や謙譲語を使い分ける相対敬語という分類がありますが、世界中で相対敬語と言えるのは日本語だけのようです。
周りとの調和を優先し、自分の立ち位置が移動していくという日本人の特質を良く表しているのではないかと思います。自分を表すことばが英語などに比べて非常に多いという特徴もそのことを示しているのではないでしょうか。
自分のことばというより、関係を築くためのことばであると言えるのかも知れませんね。他の言語との違いなど、もっと追求してみたいと思います。
- posted by yuji at : 2007年10月10日 | コメント (2件)| トラックバック (0)
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comments
「アジアの稲作文化に共通の文化」と言うのにすごく惹かれますね。
稲作文化は集団作業性と自然との共生文化性が、「個人」の意識など発生せず、先祖との一体として続いている人種の一部としての自分と言う意識が芽生えてくるのでしょうか。
死者は自分たちを見守ってくれると言う「祖霊崇拝」は、欧米ではない文化なんですかね。
欧米では死ぬとキリストの元に行き遠い天国から見ているのかな~。
一方で、日本でも仏教では死ぬと天国や地獄に行くと言う。しかし、草葉の陰で見てくれていたり、更にはお盆には帰って来てくれるくる!!
日本は仏教の天国地獄文化と、シャーマニズムがゴチャゴチャに成っている感じがしますね。
様式として仏教はあるが、精神世界では自然崇拝からくる、シャーマニズムが支配的なような気がします。
葬儀の時に坊さんを呼ぶが、仏教では死者に向かってお経を唱えない。告別式なでのお経もあくまで阿弥陀様などへのお経らしい。
だから、読経が終わると坊さんは退席して、親族だけが死者を拝み出棺するのだそうだ。
日本文化は外来文化を受け入れながらも、精神世界は変えない出来たのか?
共同体社会と人類婚姻史 | インドネシア・トラジャ族のお葬式
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