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2009年01月10日

骨が語る古代の家族と社会3 弥生時代

骨が語る古代の家族と社会2 縄文時代に続いて、弥生時代です。田中良之著『骨が語る古代の家族-親族と社会』(2008年)より。
弥生時代の分析例もそれほど多くなく特に開始期のものはない。最も古い時期のものが弥生前期(紀元前3世紀頃)の土井ヶ浜遺跡で、以下順に紹介します。基本的には縄文時代同様、双系社会とされていますが、次第に格差の存在が観察されるようになります。
基層をなした双系社会~弥生時代の親族関係
土井ヶ浜遺跡(山口県下関市)弥生前期~中期初頭
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逆に女性同士の間には血縁者らしき値は得られていないが、別の成年女性と幼児を再葬したものは血縁と推定されている。これは母子か親族内の女性と幼児の関係である可能性が高く、母系的要素もまた認められることになるため、父系と母系の両要素が併存する双系の社会であった可能性が最も高いと考えられる。
(写真は1116号墓人骨。土井ヶ浜人類学ミュージアムよりお借りしました。)
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二列埋葬墓の親族関係
永岡遺跡(福岡県筑紫市)弥生前期末~中期中頃 永岡遺跡1を参照。
栗山遺跡(福岡県甘木市)弥生前期末~中期中頃
ともに列状墓地(二列埋葬墓)――中央に墓道と考えられるベルト状の空閑地があり、その外に二列の墓地、さらにその外には祭祀土壙(ドコウ)を配し、全体で五列の構成をとる。列ごと、列間でそれぞれ男性同士、女性同士、あるいは男女間に血縁者らしき関係が認められる。嫁取りと婿取りが混在する選択居住婚)である、双系の社会であった可能性が高い。
(※引用者注)骨が語る古代の家族と社会2 縄文時代に記したように、移籍を前提とした選択居住婚ではなく、通い婚つまり別居婚の可能性が大。
しかし、そこには家族のような小単位は見ることができない。また列自体にも家系のような系列は見えない。従って、この段階では家族が親族集団に埋没し、親族集団が優位であったといえよう。
この時期(紀元前1世紀~0年頃)には大規模な列状墓地とともに墳丘墓・区画墓が存在し、男性優位の傾向が現れる。
吉野ヶ里遺跡(佐賀県)
墳丘墓――中心の甕棺を取り囲むように甕棺が分布し、多くは細型銅剣を副葬している。弥生時代に銅剣など武器類を副葬した人骨は男性であることから、墳丘墓の被葬者は男性主体であった可能性が高い。
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(写真は吉野ヶ里遺跡の甕棺墓。IPA「教育用画像素材集サイト」よりお借りしました。
西小田遺跡(福岡県隈)
区画墓――中心主体の男性を放射状に取り囲む形で区画墓が造られているが、被葬者は男性に大きく偏っている。
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(写真は西小田遺跡の甕棺(上甕・下甕)。筑紫野市歴史博物館よりお借りしました。中期後半中期末~後期初頭も参考に。)
墳丘墓区画墓の被葬者は男性優位なので「王墓」として評価されることが多いが、成年男性の墓地である点が異様である。「王族」の墓であれば、後の古墳埋葬者のように、女性と子供も含んだ構成であると考えられるからである。
むしろ、区画墓の被葬者たちが隈・西小田遺跡の数ヶ所、あるいは周辺の集落をも含めた、いくつかの列状墓を形成した集落から選ばれた男性を主体とする人物によって構成された可能性が高いといえよう
土井ヶ浜遺跡(山口県下関市)中期中葉~後半
土井ヶ浜遺跡は前期(紀元前3世紀頃)と中期中葉(紀元0年前後)~後半(1世紀頃)の二つの時期に営まれており、後者の墓地群は列状ではなく集塊(シュウカイ)状である。分析可能であった被葬者の間ではいくつもの血縁関係が見出され、選択居住婚双系の可能性が高い社会であるといえる。
また頭骨21個と多数の体部骨を集骨した墓もあり、それまで知られていた集骨が男性主体であった事実と整合している。集骨は数世代に及ぶ人物の墓から人骨を掘り返し、1ヶ所にまとまたものであり、当時の住民の記憶に明確に留められていた社会の達成者の貢献した人物、およびその子供たちの集合であると考えられる。そして、集骨された人物が血縁を基礎としているらしいこと、同様の集骨は土井ヶ浜遺跡には他にいくつかあることなどから、集骨されたのは氏族の分節である出自集団の中から選択された人たちであったと考えられよう
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(写真は土井ヶ浜遺跡の頭蓋の集骨。土井ヶ浜人類学ミュージアムよりお借りしました。)
中ノ浜遺跡(山口県下関市)弥生中期中葉~後半
nakanohamaiseki-tuika2.jpgなお同様なことは、何体もの被葬者を埋葬した石棺にもいえる。埋葬された8体(男性3体、女性1体、乳~幼児4体)中、少なくとも成人男性二体と幼児一体は血縁関係にあることが推定され、成人は男性三体と女性一体であることから、夫婦の単位は想定しがたい。
石棺の使用は数世代に及んでいるので、先の集骨と同様に、出自集団から選択された人物が世代を超えて埋葬されたと考えられる。その中には乳~幼児も含まれていること、このような大型石棺がいくつも存在するものではないことから、選択される範囲が出自集団の中でも狭まっていたこと、出自集団間にも差が生じていたことを想起させる
(写真は中ノ浜遺跡の集骨埋葬と思われる墓。山口県の文化財よりお借りしました。)
厚葬墓
同時期(中期後半、1世紀頃)の先進地域であった北部九州では、前漢の大型鏡や青銅器類などを副葬した厚葬墓が出現する。そのうち三雲南小路遺跡では、豊富な副葬品をもった甕棺墓が二基並列して造られ、周囲には墓がみられず、墓域は周溝によって区画されている。
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(写真は三雲南小路遺跡の二基並列した甕棺墓。伊都国の文化財よりお借りしました。)
また須玖岡本遺跡でも、厚葬墓は上部に大石をもって、他の甕棺群から離れた位置にあり、墳丘があった可能性が高いという。厚葬墓を伴わない墓地でも中心主体の墓壙が大きいというかたちで格差が認められる例がある。
大分県日田市吹上遺跡では中心主体として向き合って挿入された二基の甕棺があり、一基には銅戈1・鉄剣1・ゴホウラ製貝輪15・硬玉製勾玉1・管玉480以上を副葬した熟年男性、もう一基には硬玉製勾玉1・イモガイ製貝輪17を副葬した熟年女性が葬られていた。すなわちゴホウラ=男性、イモガイ=女性という男女指導者のシンボルを持ち向き合って葬られていた。
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(写真は吹上遺跡の男性の銅戈と貝輪。ヴァーチャル日田市よりお借りしました。)
中心主体が一基だけという墓の例では甘木市栗山遺跡の男性の例がある。
集団の代表者たる中心主体の被葬者が、男性のケースとともに、男女のペアのケースが出てきたことは、中期前半(紀元前1世紀)が双系の親族関係であり、この時期の本州西端でもそうであることと整合する。
古墳出現前夜の親族関係
福岡県行橋市前田山遺跡の弥生時代終末期(3世紀半ば)の墓群は、複数世代に及び、累代的に兄弟姉妹のペアを基本して埋葬されている。しかも出自集団から選択された人物であり、全ての住民が墓を作る段階ではないことを物語っている。そしてこの選択性と男女のペアは、中期後半(1世紀頃)の厚葬墓に認められた単位であり、同時に古墳時代前期(3~4世紀)に連続するものである。そのペアの実態がキョウダイであったことは注目に値する。

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comments

図は大きな幹を把握でき、いろいろと想像を刺激し大変よいと思います。
ただ残念ながら文字が読み取れません。横長のポップアップにしたらどうでしょうか。文字も横長に対応して修正できれば申し分ないですが、そのままでも何とか読めます。
年代実寸の小さな図は、中に入れないで独立させて表示した方がよいと思います。上の図と対応させて上下に並べたら如何でしょうか。

  • 大杉
  • 2009年4月10日 19:29

>大杉さん
アドバイスありがとうございます。
はじめての自作図解で、なかなか苦心していました。
図解の文字は、画像をクイックしていただくと、拡大され、さらに、その画像の中にカーソルを持っていくと拡大表示が出るので、それをクイックすると、さらに拡大していただけます。そうすると文字は読めると思いますが、今度は大きすぎて全体を捉えにくいですよね。(汗)
大杉さんの仰るように、横画像にし、年代実寸の小さな図は別画像にして並べようと思います。
アドバイスありがとうございました。(感謝)

  • yidaki
  • 2009年4月11日 21:03

すごい!!
この図解、自作されたんですね!!
さらに旧人や原人のことを追求されている方がいるだなんて、素敵です!!
今、自然の摂理から環境を考えるhttp://blog.sizen-kankyo.net/blog/2009/04/000518.htmlというブログで、人口問題を扱っています。
人類がこれだけ増えた要因を、生物史から順に追っており、もうすぐ人類の極限時代に入る予定です。
人類がどうやって進化をしてきたか、とっても勉強になるブログですね!!
参考にさせて頂きます♪

  • ホイホイ
  • 2009年4月30日 22:12

>ホイホイさん
コメントありがとうございます。
猿人⇒原人⇒旧人⇒新人(この区分は適切ではないかもしれません)の観念機能の進化を、外圧状況と照らし合わせる形で、分担して調べていっています。
図を見ていただくと解るように、500万年にわたる人類史の中でも現生人類の歴史はまだほんの一瞬です。しかしほんの数万年で、様々な発明をして、人口は増え、地球上に拡散していきます。
その要因はなんなのか?様々な事象から仮説を立て追及していこうと考えています。
新しい発見があれば、その都度図解に付加して、組み替えていこうと思っています。
ブログの方もちょくちょく行かせて頂きます。
これからもよろしくお願いします。

  • yidaki
  • 2009年5月2日 19:44

図が違います。

  • るんるんじじい
  • 2013年7月15日 09:26

moncler men’s down coat dark blue 共同体社会と人類婚姻史 | 【逆境⇒進化】初期人類の逆境 vol.3<人類進化の系統樹図解>

共同体社会と人類婚姻史 | 【逆境⇒進化】初期人類の逆境 vol.3<人類進化の系統樹図解>

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