2010年02月20日
日本語の成り立ち(文字編)3~漢字の輸入と格闘~
前々回と前回の記事で、日本語(文字)は造語能力に優れており、新しい or 外国で生まれた事物まで→柔軟に翻訳→自前の概念にする=対象に同化しやすい言語であることがわかりました。
今回は、中国から漢字を輸入して【日本語化】していく過程を追いかけてみたいと思います。
◆中国における漢字のルーツは、B.C.1500年ころ中国・殷(商)時代、亀の甲羅や牛や鹿の骨に刻まれた「亀甲獣骨(略して甲骨)文字」まで遡ることができます。
B.C.1300年ころ以降は、同様の文字が青銅器などの金属や、石に刻まれるようになり、「金石文」と呼ばれています。
以降、春秋戦国時代にかけて中国各地で多様に変化していきますが、B.C.221年、始皇帝が秦を建てるとともに、焚書坑儒を通して文字・言語の統一を図ります。
その後、前漢~新を経て~後漢(~A.D.220)末期には、現在も用いられている「明朝体の起源となる楷書」が確立していたと考えられています。
◇日本が漢字を取り入れていくのには段階があります。
古事記や日本書紀では、3C終わりころに『論語』や『千字文』に対面したことが記されていますが、もっと以前から中国から持ち込まれた青銅器や金印などに刻まれた金石文を眼にしているはずで、中国と往来していた倭人には「漢字を読解できる人がいた」と考えることもできます。
3Cに書かれた漢字と思しきものが書かれた遺物も発見されていますが、
↑↑熊本県玉名市柳町遺跡の4世紀初頭の井戸から出土した木製短甲の棒状留め具の黒い痕跡
「田」という文字の一部に見えるが真偽のほどは…
↑↑三重県嬉野町片部遺跡の4世紀初めの流水路跡の小型丸壺の土器の口縁部の線刻
◇実際に日本国内で漢字を書いたことがはっきりしているのは5~6C。
朝鮮半島で王朝を築いていた百済は、高句麗、次いで唐・新羅からの軍事的圧力が強まる中で、倭国との同盟関係を強化しています。
百済王の后は倭人の中から選ばれ、その王子が王位に付くまでの間、倭が王子を人質として預かっていたこと、仏像・経典を携えて諸博士が渡来している(仏教伝来)ことなどから、国内でも漢字での記述がなされていたと考えられます。
↑↑5~6Cに製作された和歌山県橋本市隅田八幡神社の人物画像鏡
Wikipediaによる大意「癸未(きび、みずのとひつじ)の年八月十日、大王と男弟王が意柴沙加(おしさか)の宮におられる時、斯麻が長寿を念じて開中費直(かわちのあたい)、穢人(漢人)今州利の二人らを遣わして白上同(真新しい上質の銅)二百旱をもってこの鏡を作る」
極東の地、日本列島も、大陸での玉突き略奪の同類闘争圧力に晒されるようになり、海外と文書でやりとり=漢字を用いはじめたのだと思われます。
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- posted by nandeyanen at : 2010年02月20日 | コメント (4件)| トラックバック (0)