2006年10月06日
世界の暴力連鎖は、『マルツゥ』から始まる?
人類の争いの起源は、平和な狩猟採取生活から略奪を開始した,部族闘争に起源すると思われます。
それが中東発で、紀元前3000年頃、中東地域は急激な乾燥化を迎えて、狩猟採取生活がとても困難になってきていた為です。
『セム系部族社会の形成』のサイトの中で「今日の世界は暴力連鎖のただ中にあり、その一大要因としてセム系部族社会の存在が考えられています。」と書かれてあります。
そのサイトの中にある「マルトゥの結婚」:シュメール語で書かれた粘土板には、町の外に住むマルトゥが、結局、町の有力者の娘と結婚するという物語が,書かれてあり、当時は婚姻制度がどうだったのかを,思い馳せながら読むと.......。
註)『マルトゥの結婚』文献の翻訳文は巻末に添付します。短いので是非呼んでみてください。
●この頃の結婚は,どのようにしていたのだろう。
歴史的には、採取耕作部族は母系で入り婿婚であったが,その後の遊牧~略奪部族の発生とともに,父系嫁取婚となる。
この時代(紀元前2000年以前)は、砂漠化による自然圧力の激化により略奪闘争はすでに始まっています。イナブの町は,そのような略奪で勝利したシュメール人が、城壁に囲まれた家に暮らし,周囲の農地を耕していた。
マルトゥはその周辺にまで迫ってきている狩猟民族です。(歴史上では,その後シュメール都市国家を、マルトゥなどのセム系アッカド人が征服します)
●母親が息子に指示を出しています。
『母親はマルトゥに助言を与える。結婚しなさい。けれども市外に家を持ち、果樹園をもって、仲間と暮らせ。そこで井戸を掘って暮らしなさい。』
物語だからやわらかい表現となってしまっていますが、実態は「マルトゥに部族から出て行き,イナブ町を侵略して定住しなさい。だけど,彼らの町の外から支配して,部族の仲間と暮らすように。」といった助言のような気がします。豊かな町を目の前にして、母親が急き立てたのかもしれません。
●物語では,(シュメール人からみたら)野蛮なマルトゥが格闘技コンテストで勝って町の支配者の娘を所望する,と書かれてありあます。
が、実態は侵略闘争を仕掛けられて,劣勢のイナブ町の支配者は,娘を差し出す政略結婚で,皆殺しを逃れたのではないかと思う。
その結果、膨大な数の家畜が娘の家に送られる。婚資がイナブ町の支配者に支払われたのでしょう。
最後の、『娘による結婚宣言。イナブへの賞揚。』は,その後のセム系アッカド人の繁栄を賞賛しているように読めます。
『マルトゥの結婚』は,紀元前3000年頃に沙漠化により,食糧確保が厳しくなった狩猟部族が農耕部族から略奪を開始して、都市国家を作ったが、より強靭な略奪部族に攻められて武装~略奪が激しくなってきた契機。今日の,世界の暴力連鎖に繋がっている!!
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『マルトゥの結婚』の翻訳
①イナブの町への称揚
②イナブ町の郊外では、人々は網を広げ、ガゼル(牛の一種)狩猟にあけくれている。ある夕刻、神の前での獲物の「分配」の場で、「分配」の量が定められる。独身者の量を1とすれば、妻子ある男は3、妻を持つ男は2であったが、独身者マルトゥ神は、2と定められる。
③不満を抱いたマルトゥは、母親に訴える。友人たちはすでに妻子をもっているが、自分だけが独身だ。独身の自分の「分配」の量は友人の量より多い。
④肉の量決定が同じ原理で繰りかえされ、マルトゥはふたたび母親に訴える。結婚させてほしい。そうすれば、「分配」をあなたのところへもってくる、と。
⑤母親はマルトゥに助言を与える。結婚しなさい。けれども市外に家を持ち、果樹園をもって、仲間と暮らせ。そこで井戸を掘って暮らしなさい。
⑥ちょうどその時、イナブの町は祝祭ではなやいでいた。マルトゥは友人たちとともに、イナブにでかける。マルトゥは広場で開かれていた格闘技コンテストに参加して、つぎつぎに相手を殺していく。
⑦格闘技の主催者ヌムシュダ神はマルトゥの勝利を喜び、褒賞として財宝を与えることを提案するが、マルトゥはそれを拒否して、かわりにヌムシュダ神の娘を所望する。
⑧ヌムシュダは、婚資として大量の家畜をマルトゥに要求する。
⑨マルトゥは、イナブの町の有力者たちだけでなく、奴隷女たちにまで貴金属の贈り物を気前よく与える。
⑩結婚が決まると、ヌムシュダの娘にたいして、女友達が忠告する。マルトゥと結婚してはなりません。あんな野蛮な、テント住まいの、かずかずの禁忌を犯し、神を敬うことをしない人と結婚してはなりません。
⑪娘による結婚宣言。イナブへの賞揚
- posted by postgre at : 2006年10月06日 | コメント (2件)| トラックバック (0)
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comments
確かに「狩猟・採集」から「農耕・牧畜」という括りは西洋的だなぁと思いました。
考えてみれば日本や東南アジアにおいては「採集→農耕」の流れはあっても「狩猟→牧畜→遊牧」の文化はあまり見られません。
特に日本では貝塚に見られるような「漁労」が大きなウエイトを占めているように思います。こうした「漁労文化」は狩猟・採集どちらの概念になるのでしょうか?(貝捕って狩猟というのも何か違和感が…)
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