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2007年09月19日

元禄の大阪商人は、恋愛~心中に共感した。

江戸時代の、商売の中心地「大阪」には、江戸文化よりも、より庶民的な生活が有ったのではないか?
そう思って調べてみると「元禄文化」がありました。
確かに、学生の頃に歴史の授業で、そんなのがありましたね。
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浄瑠璃:曽根崎心中 「ロック曽根崎心中」さんからお借りしました。

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 ★さくら・きゃんぱす★より

元禄文化の特色・・・
どんな社会背景の中で、どんな特色の文化がおこったか。
元禄時代=5代政治綱吉の治政のころになると、町人の経済活動が盛んとなり、三都を中心に商業が発達しました。こうした商人の台頭とともに、上方の豪商を中心にした、町人の考えや生活を反映する町人文化がおこり、これはしだいに新興の江戸町人にもおよんでいきまいした。
 これは(イ)足利氏と能楽、戦国時代と茶の湯というように、支配者の保護のもとに生まれた文化ではなく、大衆の中から自然に生まれたものでした。(ロ)作品が商品として複製され、販売され、大衆のものとなった(本、版画、芝居など)(ハ)文化の内容が仏教とまったく無関係となった などの大きな特色をもっていました。

元禄文化の文芸・・・
どんな人物が出て活躍したか。どんな作品が生まれたか。
寺子屋の普及で、文字の読解が広まり、木版印刷術の発達で、町人の中にも文芸が広まって、職業作家が生まれました。井原西鶴は、町人の現実的な生活や感情を主題に、町人の散文学として、浮世草子をあらわし、数々の作品を残しました。松尾芭蕉は、室町時代に発達した連歌から独立した俳諧(俳句)を芸術として高め、『奥の細道』の紀行文をあらわしました。
 16世紀末から、三味線の音色に合わせて語った浄瑠璃節は、人形浄瑠璃作家近松門左衛門と義太夫節をよくする竹本義太夫が出て、浄瑠璃の芸術性を高めました。近松には「国性爺合戦」「曽根崎心中」などの作品があります。また、17世紀に流行した阿国歌舞伎は、元禄の頃、市川団十郎、坂田藤十郎の名優が出て、今日の歌舞伎に大成し、民衆演劇として発達していきました。

その中で、気にかかったのが、「人形浄瑠璃作家 近松門左衛門」 彼の作品の「曽根崎心中」です。
「曽根崎心中」は実話のようで、ストーリーはウキペディアによると、

『曽根崎心中』は、元禄16年(1703年)4月7日早朝に大阪堂島新地天満屋の女郎はつ(21歳)と内本町醤油商平野屋の手代である徳兵衛(25歳)が梅田・曽根崎の露天神の森で情死した事件に基づいている。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
徳兵衛は、実の叔父の家で丁稚奉公をしてきた。誠実に働くことから信頼を得、店主の姪と結婚させて、店を持たせようという話が出てきた。
徳兵衛は、お初がいるからと断ったが、叔父のほうは徳兵衛が知らないうちに、結納まで済ませてしまう。固辞する徳兵衛に、叔父は怒り、とうとう勘当を言い渡す。その中身は、商売などさせない、大阪から出て行け、付け払いで買った服の代金を七日以内に返せ、というものであった。徳兵衛は、やっとのことで、継母から結納金を取り返すが、どうしても金が要るという友人・九平次に三日限りの約束でその金を貸す。
語り終えたところで、九平次が登場。同時に、お初は喧嘩に巻き込まれるのを恐れた客に連れ去られる。 徳兵衛は、九平次に返済を迫る。が、九平次は借金など知らぬと、逆に徳兵衛を公衆の面前で詐欺師呼ばわりしたうえ、散々に殴りつけ、面目を失わせる。 兄弟と呼べるほど信じていた男の手酷い裏切りであったが、死んで身の証を立てるより他に、身の潔白を証明し、名誉を回復する手段が、徳兵衛にはなかった。 
(中略) 
真夜中。お初と徳兵衛は手を取り合い、露天神の森へ行く。互いを連理の松の木に縛り覚悟を確かめ合うと、徳兵衛は脇差でお初の命を奪い、自らも命を絶つ。

興味深かったのは、
①「曽根崎心中」のヒットで一躍有名な劇作家となる作者の「近松門左衛門」は、父が浪人の元武士そうです。江戸中期頃になると下級武士は様々な職業に鞍替えしている事が分ります。士農工商が固定身分ではなかった事が、うかがい知れます。
②商家の跡継ぎとして、丁稚奉公であたたき上げた従業員の男を入り婿として、娘と結婚させる。優秀な男を婿入りさせると言う母系文化で、商家を維持していくシステムのようです。浪花の商家では入り婿が結構多かったらしい。
③商人の手代が、遊女と結婚しようと約束する。今より遊女は社会的地位が認められていたようである。
④商人の力が強くなって(=都市化、市場が拡大してきて)きた。そして、婚姻が男女二人の「恋愛」婚と移行してきた。その移行期の軋轢で、抵抗があるほど燃え上がる恋愛が「心中」に繋がった。「曽根崎心中」が大ヒットして、少しの間は、心中が急増したらしい。どうやら、この頃から庶民に本格的な「恋愛」結婚が発生してきたのではないかと、思っています。

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comments

「集団往生」という言葉、共同体にピッタリだと私も感じました。
共に仲間と生活し、その集団によって供養されることほど幸せなことは無いように思います。
このような集団や先祖に対する意識は、大変重要であると感じます。我々が今ここにいるのはそんな先人たちのお陰であり、仲間が居たからです。
今や、共同体が無くなり、この意識もかなり希薄になっている自分がいます。どうすれば再生されていくのだろうか?やはり、個人が感謝の念を取り戻し、集団にゆだねていくことが出来ることができるかが鍵のように思いました。

  • 河内のおやじ
  • 2007年11月5日 10:00

はじめまして。TBを辿ってきました。
>今まで起源や意味についてあまり考えたことがありませんでしたが、この供養の形態は日本人特有の儀式であり精神世界だった。
中国や朝鮮にも、宗族レベルの供養があるとおもいますが、いかがでしょう?
魯迅の『阿Q正伝』で、阿Qが畏れたのは結婚して子孫を残せないこと。死後も生前同様、自分の子孫に『供養』してもらえないので(道教?の民間宗教では500年の供養で生まれ変われるとされているそうです)、永遠に死後の世界を彷徨い続けなアカンと、信じていたからだそうです。
こういった『血縁関係』=宗族による供養ではなく、地縁や共同作業での人間関係による供養をも『仏教的に』拡張したところ、しかも今日に至るまで、残っている点にこそ(中国にも南北朝時代まで地縁があったそうですが、阿Qのような者のために葬式・供養をしてくれる酔狂な者はいない)、日本的良さ=独自性があったのではないでしょうか?
無縁仏にせず、この世での様々な『縁』での供養という実践。
以上は、『はるかより闇来つつあり』で、新島淳良氏の説明が元ネタです。

  • 三介
  • 2007年12月22日 07:16
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