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2007年10月22日

中国村落部の実態

私たち日本と歴史的にも繋がりの深い中国。
しかし、社会の様子はかなり差異が見られます。
親族や親しい仲間に対しては極めて結束力が強く、それ以外の人々に対しては極めて非情で冷たいという、日本人にとっては??な面があるようです。
今回は、そんな中国の村落における実態を記したサイトを紹介します。
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近現代中国における社会統合の諸段階   奥村 哲

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Ⅰ.中国の伝統社会
よくいわれることであるが,伝統社会といわれるものは,実はそれほど古いものではな
く,近代の前夜,16・17 世紀以降に形成されたものである。岸本美緒氏によれば,「16 世
紀という時代は,世界史的にみても,激動の時代であ」り,「そこには,新大陸の豊富な銀
に支えられた国際商業の活発化とそれにともなう地域的・階層的緊張の増大という共通の
背景があった」。「この衝撃がもたらした変動は千篇一律のものではなく,世界の各地域は
それぞれ独自の方法でこの衝撃を乗り切り,社会の再編成を実現して」いったという(岸
本,1998)。とすれば,各地域の個性的な伝統社会は,実は16 世紀の「グローバリズム」
の産物だということになるであろう。
とはいえ,私にはこれ以上展開する力はないので,以下,村松祐次・足立啓二両氏の議
論によって,中国の伝統社会の特徴を確認しておこう。村松氏(村松,1975)は西洋,足立
氏(足立,1998)は日本と比較して中国社会を類型化し,個別主義的心性や組織性の低さを
強調している。村落については,足立氏は次のように特徴づけている。①明確な固有の領
域がない。②共同業務は看青などきわめて限られており,「日本の伝統社会において,自明
のこととして共同業務と見做される諸業務が,そこでは私的に遂行される」。③日本のムラ
には決定と執行の機構があるが,中国では「『寄り合い』に相当する全体集会が存在」せず,
運営の中心になる「会首」も明確な村民の代表とはいえない。④「日本のムラは,構成員
が代々特定された閉鎖的・排他的であ」るが,「中国の村落は,一般的に開放的である」。
⑤紛争処理において,日本のムラは独自の掟を持ち,村八分などの独自の処分権を行使し
たが,中国では村が定めた規則はなく,村落の名による裁判もなかった。このように足立
氏は,「村落全体を表現する共同団体が包括的に共同機能を発揮した日本のムラと,そのよ
うな団体が存在せず,社会的機能は私的に遂行されるか目的別任意団体によって遂行され
た中国村落」という,対比で捉えているのである(足立,1998)。
このように村としての結びつきが緩やかだったということは,共通の社会的な利害関係
も希薄だったということである。また,社会の結びつきが緩やかであれば,国家の支配も
ルーズにならざるをえない4)。周知のように,清朝期の地方の統治機構は県までであり,
また知県に課せられた職務も,税糧のノルマの達成と最低限の治安の維持でしかなかった。

日本の村落は、家族や個人的つながりよりもムラを単位とした共同体となっていました。ムラが先ず在って、その中に家族や仲間がいる、集団全体をどうして行くかが最重要課題となっていました。
一方、中国の村落ではムラとしての一体感が弱く、人々が村落を自らの帰属単位と意識することも薄かったように感じられます。
日本では集団破壊に対しての厳罰として「村八分」がどこでもありましたが、中国では「村八分」が見られなかったというのも象徴的です。
中国社会は、父系血縁つながりの「宗族」と仲間や連帯の契りを結んだ「幇」によって構成されていると言われます。
都市部における人間関係や事業上の連帯が「宗族」や「幇」が中心になっているというのは分かりますが、村落においても、村落集団全体の結束より、各自が属する「宗族」や「幇」に収束しているのはどうしてでしょうか。
「宗族」や「幇」の極めて強い結束力は自然発生的なものではなく、極めて人工的な人間関係であるように感じます。
本源集団が破壊されて確固たる収束先が見え難くなったことに加え、私益競争の強烈な外圧に対抗する自集団第一の人工集団として形成されていったのでしょうか。

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