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2007年10月30日

共同体と葬式

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『日本の礼儀と習慣のスケッチ』より
こんにちは。
最近葬儀関連の施設の仕事をしていることと、知人に葬式が相次いだ話を聞かされることが多く、ついつい「葬式」というものについて考えることが多くなってきました。
近年では「葬祭業者」さんというものが存在し、故人のご家族に代わって葬儀一式を取り仕切ってくださいます。しかし昔は(といっても私が子供のころまで含みますが)葬式に限らず冠婚葬祭といえば、地域のみんなが集まって昼夜問わず 共同で行っていましたね。
そこで今日は「共同体と葬式」について調べてみました。
共同体にとって葬式とはいったいどのような意味があるのでしょうか。そもそも葬式っていったい何なのでしょう?
皆さんも一緒に考えてみてください。応援よろしく

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世界にはいったいどのような葬式があり、日本とはどのような違いがあるのかなど、いろいろ疑問は出てきますが、今日は私たち日本人にとっての葬式に絞って考えてみたいと思います。
まず、「葬式(葬儀)」というと、なくなった人を弔う為の、一定の作法・形式に則った「儀式」のことを言いますね。 しかし今日は特に「作法・形式」が確立する以前、残された共同体成員の死者に対する思いがどのようなものだったのか、その精神世界に少しでも近づいてみたいと思います。
日本人のルーツといえば、縄文人。『縄文と古代文明を探求しよう!』ブログにいくつか縄文時代のお墓や、埋葬にまつわる情報が紹介されています。
縄文人にとってお墓とは何だったのか?(リンク
「屈葬とベンガラについて」(リンク)に、その辺の情報が紹介されています。

屈葬を、胎児の姿勢であると捉えてみると、まさにこれから一日が始まらんとする朝の昇り行く太陽の朝焼け色、そして一日を終え、沈み行く太陽の夕焼け色、そしてまた次の日同じように昇り行く太陽になぞらえ、死者への再生の願いをこめ、屈葬し出産時の血に見立てたベンガラを亡骸にまいたと考えることもできそうです。

またブログ中に紹介されていた「大湯環状列石」(リンク)より

西田遺跡(岩手県)などに見るように、東日本の縄文時代の集落の基本構造は、中心に円形広場を配し、その外周縁に居住区域を、さらにその周りに廃棄域を巡らすものである。
死者は集落中央の「円形広場」に葬られているのである。円形広場内に共同の墓地を設定する事は、「死と生の間に隔たりが今日よりは遥かに少なく、死者と生者の間に緊密な関係が息づいていることを示しているともいえよう。

当時の人々は、人が亡くなるといつの日かまたこの世に生まれ変わってくると信じていたようですね。 その為上記の「屈葬」という埋葬方法の理由としては、胎児の姿に似せた(?)姿で埋葬したという説はかなり有力な説だと思います。そして再生を願ってのベンガラの散布etc.死者の再生を願ったからではないかと思われる事実がいろいろ発見されているようです。
また墓を集落の中心部に作っていたこともその考えに結びつくのではないでしょうか。
つまりは再生を信じているからこそ墓も集落の中央に作ってこの世に残っている共同体の成員と一緒に暮らしてきたのではないかと考えられます。
このように共同体において葬儀とは、残された成員が死者に対する再生の願いを込めた弔いの行為なのだと思います。
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『大湯環状列石』よりお借りしました
最後にこれも「縄文と古代文明を探求しよう!」で紹介されていたサイトからの引用です。ここでも縄文人の死者に対する再生の考え方が書かれています。
『縄文文化と現代(リンク
 

そして、その自然が季節に応じて多様な幸を豊かに与えてくれる循環を見て、人々は自分らの「懐妊、誕生、思春期、成人、結婚、死」というサイクルを再生過程と見てゆく。死は生まれ変わりの契機とみてゆくのである。人生の重要画期が、当時の人々の儀礼、信仰の対象になったであろう。
(中略)
埋葬法 だが、この「悲しみと恐怖を克服」することは個人ではできないのであり、「集団の力が必要」となり、ここに「宗教的な掟」「儀式」が必要になる。その一つが埋葬法である。
 
 縄文時代の葬送法は土葬で、楕円形の土坑墓に手足を折り畳んで葬る屈葬が一般的だった。石を胸に抱かせて葬る抱石葬がみられることもあるので、縄文人は死者がよみがえってくるのを恐れていたという解釈がある。逆に、屈葬は子宮の中の胎児の姿であり、再生への願望をあらわしていた、という解釈もなりたつ。あるいは、たんに土を掘る労力を節約したのだという解釈もある。

当時の屈葬の解釈はいくつかあるようですが、皆さんはどの説が有力だと思いますか?

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