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2008年02月11日

南インド ドラヴィダ人:ナーヤルの母系社会~ドラヴィダ人とは?

『インド南西部ナーヤル・カースト~婚姻様式とカースト制度』に引き続いて、インド南西部ケーララのドラヴィダ人:ナーヤルの母系社会に迫りたいと思います。
ナーヤルの社会は全インドのヒンドゥ・カーストが父系制であるのに対して、(明確な資料が残っている範囲という条件は付きますが)例外的な『母系大家族制』でした。それも、ヒンドゥ・カースト社会から孤立していたわけではなく、ヒンドゥ・カースト社会の一員として母系社会を維持していました。しかし、この制度はイギリス支配下で大きく変化し、最終的にはインド独立後の1976年の「ケーララ合同家族制度(廃止)法」によって法的には消滅しています。
☆父系社会の中のナーヤル母系社会とはどんなものだったのか?なぜ、そのような社会になったのか?
☆20世紀まで続いたその母系大家族制が崩壊したのはなぜ?
☆そもそも、ドラヴィド人って?インダス文明との関係は?
などなど、ドラヴィダ人:ナーヤルの母系社会にはたくさんの「なんで?」が浮かんできます。これらの「なんで?」に少しでも迫ってみようと思っています。
それには、インドについて、これまでの一般的な「インド=アーリア文化」という一面的な捉え方ではなく、「北インド・アーリア文化」「南インド・ドラヴィダ文化」という切り口が手がかりになりそうです。まず、そもそもドラヴィダ人とはどんな人々なのか?その歴史をしらべて見ました。
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●インダス文明とドラヴイダ人
インダス文明は、紀元前2500年ころから1800年ころにかけて、インド西北部インダス川流域を中心に栄えた都市文明です。唯一の残された文字資料である印章その他に刻まれた「インダス文字」が、いまだに解読されていないため、残念ながらその担い手がはっきりしていませんが、その最有力候補がドラヴィダ人です。
%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%80%E3%82%B9%E6%96%87%E5%AD%97.jpg<インダス文字>
ドラヴィダ人は、紀元前3500年くらいに中央アジアのどこかからアフガニスタンを経由してインドへ進出してきたものと考えられているので、「インダス文明」の担い手はドラヴィダ人である可能性はきわめて高いと思われます。
最近のコンピューターを用いた研究によって、インダス文字自体は解読できなくても、その文字によって書かれた言語の特徴がつかめるようになり、それがドラヴィダ語だという説が強くなってきてます。また、南インドを重視する研究者によれば、その先史遺跡から発見され、いわゆるインダス文字に似たサインが刻まれた土器片や石器は、インダス文明を築いたのがドラヴィダ人である証拠だともいわれています。
ただし、インダス文明とドラヴィダ人を直接に結びつける証拠は今のところ発見されていません。
●現代インドにも残る母系社会
当時の文献が残っていないのではっきりはしませんが、後世のドラヴィダ人の生活や文献から、当時のドラヴィダ人の社会は母系社会であったと推測されています。
☆インド南西部のドラヴィダ人:ナーヤル、彼らは20世紀まで母系社会を維持していた。(今回のメインテーマです)
☆後世のインド人一般の命名法に母系社会の影響が見られる。「○○○の子」(○○○は母親の名前)という命名法が盛んに行なわれ、碑文の中にもその証拠が多数ある。
☆インドの原語の仏典、ジャイナ教聖典では、両親のことを常に『母と父』とし、この傾向は若干のウパニシャッドにも認められる。(このような家族概念は、家父長制を堅持していた当時の中国人には受け入れられず、漢訳仏典では、すべて『父と母』に改めている)
☆父より母を重んじる思想は、古代インドの『マヌ法典』にも現れている。「父は師よりも百倍、しかし母は父よりも千倍多く優れている」と説かれる。
インダス文明は謎が多い古代文明ですが、それを解く鍵は「母系=共同体的体質」にありそうです。(ブログ『縄文と古代文明を探求しよう!』さんの記事も参考にしてください)
●ドラヴイダ人の南インドへの移動
インド北西部に居住していたドラヴィダ人は、紀元前1500年くらいに、その地に侵入してきたインド・アーリア人によって押されるように南進を開始します。
一部はそのなかに吸収されましが、他は徐々に東部、南部へと移動を開始し、主力は南進し、二手に分かれた一派がテルグ語そのほかからなるグループとしてデカンに広がり、タミル語・カンナダ語ほかからなるもう一派がその南方に居住するようになりました。この二手への分化が起こった時期を紀元前1100年頃、タミル語・カンナダ語グループのなかでタミル語とその他が分化した時期を紀元前6世紀頃と推定されています。
ドラヴィダ諸語は、いくつかのグループに分かれながら、全体で20を超える個別言語の存在が知られます。北インドにも、ブラーフーイ語、マルト語、クルフ語が残りますが、他は南インドに分布し、文字と文学をもついわゆる大言語は、アーンドラ・プラデーシュ州の「テルグ語」、カルナータカ州の「カンナダ語」、タミル・ナードウ州の「タミル語」、ケーララ州の「マラヤーラム語」の4つ。タミル語から分かれてマラヤーラム語が成立したのは大変に新しく紀元後10世紀頃のこととされています。
それらドラヴィダ系4言語の1991年の話者人口は、テルグ語が6600万人を超え、共和国人口の8%近くを占め、タミル語は5300万人で6%強、カンナダ語は3300万人弱で4%近く、マラヤーラム語は3000万人で3.6%、全体のパーセンテージは約21%となり、彼らがインド共和国内部の一大勢力を形成しています。
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南インドへ移動したドラヴィダ人は、完全にはアーリア人武力支配下に置かれることはありませんでした。それに代わり北インドで成立したヒンドゥー教的社会秩序による観念支配と呼べるようなアーリア人の支配体制が成立したようです。
その状況下で南インドに「ドラヴィダ文化」と呼べるような文化が根付いていきます。ただし、「北インド・アーリア文化」「南インド・ドラヴィダ文化」はそれぞれが独立したものではなく、長い時間をかけて相互に影響を与えつつそれが塗り重ねられて形成されたもののようです。それ故に「ヒンドゥー父系社会の中のナーヤル母系社会」という、一見不思議な社会も成立したのだと思われます。
参考資料
「古代インド」(中村元 講談社学術文庫)
「世界歴史の旅 南インド」(辛島昇・坂田貞二編 山川出版社)
「世界歴史体系 南アジア史3 南インド」(辛島昇・坂田貞二編 山川出版社)
長々読んでもらってありがとう 😀  次回に続きます・・・(@さいこう)

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