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2008年02月05日

中世ヨーロッパの支配形態~「古典荘園制」と「裁判領主制」について

日本の農村の自治形態である『惣村』と対比する上で、中世ヨーロッパの支配形態である「古典荘園制」と、古典荘園制の後に中世ヨーロッパを代表する支配制度となった「裁判領主制」について紹介してみたいと思います。
紗瑠々の資料室【中世ヨーロッパ情報館】より引用します。
最初に<古典荘園制>について
▼「古典荘園制」 画像をクリックすると大きく表示されます。

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中世初期、フランク王国時代に始まった、領主による農民への支配制度を古典荘園制といいます。古典荘園は、領主私有の直営地と、農民保有地で構成されていました。農民保有地は、農民一世帯の家の敷地、野菜畑、耕地などのことで、これらは世帯ごとに独立して保有・経営されていました。この制度は、メロヴィング朝期のように、王権がいまだ確立していなかった不安定な時代、中小自営農民が庇護を求めて有力者に自らの土地をいったん譲渡し、貢租の支払い義務を付加され再授与されるようになったことに端を発します。この支配制度が、カロリング朝に入ってから強化され、古典荘園制となったのです。
領主の支配下に入らず、自営農民として生活することも可能で、そうすれば貢租を納める必要はありませんでしたが、乱世の世で、一人で生きていかなければなりませんでした。領主の庇護下に入った農民は、強力な権力に守ってもらい、まさかの時の危機に備えようとしたのです。領主の支配下に入ったものは、前記のように自営農民から発したものと、元は領主個人の耕地で働いていた奴隷に、土地が付与されたものがありました。
古典荘園は、農民の生活集団を単位につくられたものではありませんでした。というより、フランク王国時代初期には、村落共同体と呼べるようなものはなかったのです。後期になってできた共同体も、いくつかの家屋が散らばって建てられているような小規模なものでした。村は農民個人の経営の集合体でしかなかったのです。領主は、こうした村の中の、一部の農民を支配下に置いただけなのでした。そのような部分的支配を複数の村で集めたものが、古典荘園の実態でした。逆に言えば、ひとつの村に何人もの領主の支配が及ぶということもあったということです。この時代の領主は、村全体に対しての支配権は、もっていなかったです。このような支配制度は、土地を基本とした「土地領主制」に対し人格的支配ということで「体僕領主制」とも呼ばれます。
領民は、領主に対して大きく分けてふたつの義務を持っていました。ひとつは貢租で、これは保有地での生産物の一部を納めることでした。もうひとつの義務は、週に2~3日間ほどの賦役労働でした。賦役労働は、領主の直営地を、農民が無償で耕作するのが主な仕事でした。まだ農業生産率も低かったため、貴重な労働力を奪われる賦役は、農民にとっては大きな負担でした。これには、生産した作物の運搬なども含まれることもありました。領主側はこれらの義務に対し、権力をもって、危機に瀕した農民を救済するというものでした。

(~後略)

このころの村の形態は、領主と農民と個的な関係が単に寄せ集められた状態であり、とても共同体と呼べるようなものではなかったようですね。
続いて<裁判領主制> について紹介します。
▼「裁判領主制」 画像をクリックすると大きく表示されます。  

裁判領主制、別名「バン領主制」とは、その名の通り領主が裁判権を有する領主制のことです。10世紀頃から、領主たちは城を築き、そこを拠点として地域の住民を領域的に支配するようになりました。裁判領主制では、従来の古典領主制での支配と異なり、城を中心とした領域に住む、農民全体に対して支配権が行使されました。村の一部に対する支配の集合体でしかなかった領主の支配権が、これでいっきに拡張したと言えます。領主は、自分の城の周囲に、数個から十数個ほどの村落共同体を抱え込み、彼らの貢租を基本に生計を立てていました。
領主は、貢租の他にも慣習的貢租も受け取り、地域の治安維持や軍事的保護の責任者として裁判権や警察権を行使したのです。慣習的貢租とは、農民個人では所有できないような高級施設であり、かつ当時の農民の生活には欠かせなかったパン焼き窯・粉引き所・葡萄圧搾機などの使用を領民に強制した際の使用料のことです。これらの農村の主要施設は領主の所有物だったのです。また、支配領域の裁判権を持つ者として、共同体内での暴力を独占しました。裁判領主制の浸透度も、古典荘園制と同じく地域差があり、王や皇帝、上級貴族の力が強い地域ではあまり発達しませんでした。
この城を中心にした支配形態ができることには、ノルマン人の侵攻が大きく影響しました。フランク時代の比較的平穏な時代を過ぎた農民たちに、突如として襲い掛かった嵐がヴァイキングの進出だったのです。当時の中央権力は、フランク王国が分裂して間もなくであったため、力が弱まっていました。そこで、地方の貴族たちが台頭し始めたのです。彼らは、ノルマン人と対等に戦える唯一の存在でした。貴族たちは、領民の保護と引き換えに、農民からの貢租や服従を約束させたのでした。
裁判領主制発達の他の理由には、集村化があげられます。フランク王国時代には、確固とした村落共同体は少なく、あったとしての、農民の耕地は独立して経営されていました。集村化は、たんに農民の家屋が密集したということだけではなく、耕地の共同保有・運用という側面もありました。要するに、古典荘園制を構成していた、個人の農民保有地が消滅してしまったのです。これにより、農村は、以前より効率的に耕地を運用し、城主は、その権力を拡大させていったのでした。農村の発展については、またの機会に詳しく紹介していきます。
(~後略)

10世紀頃から、領主と農民の支配関係がより明確になり、領主による支配領域と権力が一気に拡大していった様子をうかがい知ることができますが、疑問なのは、共同体のような形態をとっていながら農民同士の横の繋がりが余り見えてこないことです。
共同体というよりも領主との契約関係が重視される中での共同体の在り様がどのようなものだったのかもう少し明らかにしていく必要がありそうです。
また宗教的な権限は領主ではなく、カトリック教会が握っていたわけであり、教会と領主、教会と農民がどのような関係だったのかについても調査してみたいところです。

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良く考えると「寝殿造り」と言う、ネーミングは私的な『ベットルーム』を建物の中心に置いてその建築様式のメインテーマにしていると言う意味に置いて、とても不思議な名前ですね。
他の本によると、
「寝」は漢字に訳される前は「やすむ」であり、「やすみどの」⇒「寝殿」であったらしい。
「やすむ」の語源には、「神聖な夜に、神が来臨する」と言う意味があるらしい。
さらに、「寝殿」は、神が天より舞降りて、歓待する女と「やすむ」と言う、神事、祭りの一段階としての結婚が行われる場所であるらしい。
「大安殿」は、天皇と皇后が休まれる御殿。
天皇皇后のご生活に置いての神聖な結婚行為は神事であった。
つまり、私生活の性行為でなくて、神事としても神聖な行為がなされる場所として、位置付けされていた様である。
ところが、時代の妻問い婚に対応する為に、
『寝殿造りは、平安前・中期の母系制を考慮した平面』
に、変形させていったようである。
ベットルームという「性生活の場」を中心にすえたり、実態は妻問い婚に対応するように変形させると言う、日本人の先祖は、随分と柔軟的な考えの主だったようである。

  • 猪飼野
  • 2008年4月30日 13:56

hermes taiwan website 共同体社会と人類婚姻史 | 寝殿造りは、平安前・中期の母系制を考慮した平面だった。

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