2008年08月02日
日本の婚姻制度は、どのように変遷してきたのか?(江戸~明治~大正~昭和~平成) 明治編
「ボアソナード」 画像はウィキペディアよりお借りしました。
http://bbs.jinruisi.net/blog/2008/07/000415.html#more
に続いて、明治政府が男女関係にもたらした変化についてお送りします。
列強においつけ
近代化を急ぐ明治政府は法律の制定を急ぎました。
明治政府は、お雇い外国人としてフランスよりボアソナードを招きました。
ボアソナードは日本に来る前はフランスのパリ大学の教授をしていました。
ところが、ボアソナード起草の民法に待ったをかけた「民法典論争」が起こったのです。
法典論争のこと1 「民法出でて忠孝亡ぶ」
法典論争のこと2 法学士会の意見より引用します。
「民法出でて忠孝亡ぶ」といったのは、諸兄諸姉ご存知のように、穂積八束(やつか)という人でした。
(中略)
ボアソナード原案は、二十年までには完成していたのですが、そのご元老院において審議が重ねられ、さらに初の帝国議会で審議され、いくたの修正、削除、加筆があって、やっと議会で可決成立を見たものでした。
この間政府は、条約改正交渉との兼ね合いもあって、早期成立を望んでおり、そのために草案は公表せず、議会審議もできるだけ簡略にしたいという態度をとっていました。
こういう政府の姿勢に対して、批判の声が上がったのはある意味で当然のことでした。二二年五月、法学士会(当時「法学士」の称号は、東京大学とその後身である帝国大学の法学部卒業生のみに与えられていた)は、「法典編纂に関する法学士会の意見」を発表して、法典成立を急ぐ政府を批判したのです。
その要旨は、法典編纂事業は諸外国に見るように困難なもので、拙速は避け、草案を公表し、慎重に完成をまつべきであるとして、「唯其成功発布を急にせざらんことを希望する」というものでした。
このように、法学士会の意見は、民法典はみんなの意見をよく聞いて慎重に編纂すべきであるというまことに穏当なものでありました。ただし、この正邪曲直を質す正論のたて糸には、こっそりと私利私欲のよこ糸も編み込まれていたのです。
すなわち、法学士会の論文には、法典編纂慎重主義と同時に、いかにりっぱな法典を作っても「民情風俗」に合わないものは不可であるとする慣習法主義と、民法原案は外国人(暗にボアソナードのことを指す)の手になっているのはいかがなものかとするナショナリズムが周到に編み込まれていたのです。
慣習法に力点を置くのは英法派、つまりは法学士会の育った東京大学=帝国大学のホームグラウンドです。また、民法典は外国人が作ったものという主張は、おりから官民を問わず、澎湃として起こったナショナリズムをいたく刺激するものでした。
ボアソナードの起草した民法(旧民法)は、個人主義が謳われており、親族法と相続法を一体として捉える思考はありませんでした。
一方論争の末にできた明治民法(新民法)では「第4編 親族」と「第5編 相続」及びこれらの附属法を合わせて家族法の部分ががドイツ民法の第4編と第5編にほぼ対応するようになっています。
しかし、ボアソナードの起草した民法における「個人主義」の思想はしっかりと法律の中に入ったまま!! 穂積八束が批判した中身はそのまま残されているのです。 何 故 か?近代化を目指す日本政府にとって、この文章を入れておかねば西洋列強から近代国家として認めてもらえない事情があったと思われます。
政府の目的=近代国家の仲間入り
でも個人主義は受け入れがたい。
でも近代国家扱いしてもらうには法律を制定そしてそこでは個人主義思想を入れておく必要あり・・・ジレンマですね?
論争自体は一体何のための論争だったの?という感じですが、要は近代国家と西洋から認められるような文言を入れる。でも、国内的には家を最小単位とした天皇中心主義の精神は保持したい。⇒世論的には愛国心をUPさせたい。 この二つの演出があると思われます。
家制度(=儒教思想)なら上流階級の武家はすでに家制度になっているから日本人にも一定親しみはあるし抵抗は少ないだろう・・・と、法律として一般民衆に押し付けることで、だれもが私権を獲得しなければ生きていけない社会に一段階足を踏み入れることになっていきました。
それまでおおらかだった男女の性関係が戸主の財産相続とむすびつき、良妻賢母・貞操観念などの観念教育の効果もあいまって、次第に窮屈なものへとなっていくきっかけとなりました。
そして、明治時代以降、女性の立場は次のように変容していったのです。
明治時代の女性について(1)
明治時代の女性について(2)
専業主婦と性
専業主婦化→女性の劣化
- posted by bunchan at : 2008年08月02日 | コメント (6件)| トラックバック (0)
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comments
流浪の民となって、牧草を探し歩いても見つからなければ…、飢え死にか掠奪しかないんでしょうね。。そうなることが分かっていても、集団から分かれて出て行かざるを得ないというのは、まさに「決死行」だったんでしょうね。
まりもさん、コメントありがとうございます。
「飢死」 か 「掠奪」 究極の選択ですね!?
この強烈な不全から、「掠奪」という『新しい生産様式』に可能性収束したのだと思います。
しかし、掠奪を被害者から恒常的に行うには宗教的な装いが必要だったという事ですか。
掠奪被害者の反撃を避ける為には様々な工夫が必要であり、
頭を使わないと掠奪し続けられない。
国家権力くらい強大な武力を持たなければ、掠奪被害者の
住民は必ず武力で反撃します。
で、宗教的装いを取るものとは別に金を借りて、
遠隔地との物流・仲介業をする者も出てきた。
何も売るものがないから荷物運搬でもするしかない。
強盗するか、さもなくば信用を得るかな訳です。
信用も付き合いの深さによって、短期から長期に代わってきます。銀行というのは長期信用な訳ですね。
セリーヌ ナノショッパー
mbt changa 共同体社会と人類婚姻史 | 遊牧という生産も逆境に挑む決死行?
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