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2010年04月24日

日本婚姻史2~その3:夜這(オコモリ)は女性から若衆への期待

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画像はここからお借りしました。
前回の日本婚姻史2~その2:地域の教育組織「若衆」「若者組」「娘組」
ではオコモリと言う行事は村落共同体の男、女として一人前になる為のもので、「若者組」や「娘組」と言う教育組織に組み込まれていた、という内容です。
若者組は村落内の各種の労働、消防、夜警、警察、葬式などの役割を分担し、さらに入り会い林野や地先漁場の管理統制、氏神祭典行事の下請け、盆踊りなどを通じて、村落内における伝統的な行動様式の総体としての文化を受け継ぐという重要な役割を担っていました。ここでの主役は「男」です。
村落が「男」に対する期待は並々ならぬものだったことが分ります。
では「女」に対する期待や役割は何だったのでしょうか?
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画像はここからお借りしました。
初期人類の女の役割についてるいネットの『実現論』前史『人類の雌雄分化と人類の弱点』から引用します。

人類はつい一万年前まで、まともに地上を歩くことが出来ず洞窟に隠れ棲むしかない様な、凄まじい外圧に晒されていた。
従って、人類のメスはサル以上に極度に依存収束を強め、首雄収束⇒応望収束回路を発達させていった。
しかも人類のメスは(首雄でも防ぎ切れない)飢えや怯えに晒され、サル以来はじめて自らの不全感を直撃されたメスは専ら解脱収束を強め、強力な解脱収束⇒性機能収束回路(エンドルフィンとドーパミンの快感回路)を形成していった。
だから、人類の女は徹頭徹尾、応望存在であり、自らの役割欠損を専ら性機能に収束させてゆく性的存在である。
もちろん、それら全ては首雄の期待に応えて役割充足を得る為であり、従って男たちはそんな女たちを、純粋にかつ積極的に肯定視してきた。
それどころか、樹上機能を失い、絶望的な状況下に置かれたカタワのサル=人類が、その極限時代五〇〇万年間を生き延びることが出来たのは、性と踊りをはじめとする強力な解脱充足回路を形成し得たからであり、もしそれがなければ、人類は生きる希望を失って早々に絶滅していたであろう。
この様なサル→人類を貫くメスの応望存在化⇒性的存在化が、生物進化を貫く雌雄差別化のベクトルに合致した、その一つの極限的な実現形態であることは言うまでもない。


人類が凄まじい外圧に晒されていた極限時代5〇〇万年間を生き延びることが出来たのは、女の充足性が集団を存続させる活力となっていたからでしょう。もしそれがなければ、人類は生きる希望を失って早々に絶滅していたであろう。
女の応望性、充足性は極限時代を乗り越えた後でも集団に活力を与え、苦難を乗り越えてきたのだと思います。その事例として、るいネットの(夜這い「オコモリ3」 と「オコモリ4」)を紹介します。

前回紹介した内容が「オコモリ」の概略になりますが、注目すべき点がいくつかあると思います。
一点目は、1対1で教えるのではなく、「女たち」が「若者たち」を指導する、という形をとっていること。つまり私事ではなく、ムラの公式行事=公事であったことです。性は個人的な事柄でも秘め事でもなんでもないんですね。(実は平安時代の貴族社会にも「ソイブシ」と呼ばれる年上女性による性のてほどきの風習があったのですが、こちらは私事で、「オコモリ」とは全く違うを考えたほうがよい)
また単なるセックスのてほどきではなく、女たちが若衆に話して聞かせた内容などから察するに、立派な「性教育」といえる非常に内容の濃いものであったといえます。
二点目は、女たち(後家)にとってもこの行事は、とても重要であっただろう、ということです。ムラの最前線の課題をこれから担っていく若者を性的に一人前にしてやることは、彼女らにとって楽しみでもあっただろうが、それ以上に責任ある役割であり、誇りをもってこの任務にあたったと想像されます。
最後に何故後家なのか、ということですが、おそらくこの時代は少なくとも表向きは一夫一婦制であったからだろうと思います。主婦の場合、日常的に性の役割(旦那の相手)がありますが、後家の性生活は宙に浮いてしまいます。それ故に「後家」と「娘」はムラの男の共有とみなし、夜這いの対象とすることもありますが、年をとってくるとなかなか出番がなくなってくるのが実情ではなかったかと思います。
つまり、性的には最も熟練しているものの、次第に性の出番の少なくなってきた年増の後家さんにとっては、「オコモリ」は年に一度の晴れの舞台であったと言えます。
それぞれの能力に見合った役割が与えられ、それをまっとうすることで皆が充足できる集団、それが村落共同体の姿であり、「オコモリ」はその一端を示していると言えるのではないかと思います。


この引用文を理解するにあたって素晴らしい投稿がるいネットにありますので引用します。
オコモリ ~女性から若衆への深い期待~  

紹介されたオコモリ(1169)は、女性から男性への「期待」だと推察します。
当時、村落共同体の生活は決して豊かではなかったでしょう。そんななか、村の若衆が一人の落ちこぼれもなく「一人前」になることは、大変重要なことだったに違いありません。一人前の若衆が育たなければ、村の存続が危ぶまれる。これは大げさな話ではなかったと推察します。
若衆が「一人前」になる道筋には、男性同士の関係で学ぶ闘争的な側面も多分にあります。しかし、村の存続という意味では女性との充足関係=性も重要です。そこで採用されたのが、性的に成熟した年配女性の性の手ほどき=筆おろし。女性の特徴を自覚し、性教育に足る正しい知識と経験を身をもって伝授するのは、若い女性ではどうしても役不足です。
これにくわえて、オコモリに年配女性が適役とされる重要な視点があると思います。それは、年配女性ゆえに可能である、若衆への深い期待です。
オコモリというと、どうしても性的な側面が(性的な興味を伴って)強調されますが、それだけでは多分うまくいかない。必要なのは「この子に立派な大人(一人前)になってほしい」という気持ち。いうなれば、母性であり、慈愛。そこから生まれる深い期待です。
年配女性は、日常的に一人前の男たちに助けられ、また、自分も助けながら期待応望の充足を積み重ねてきた人たちです。したがって、男に対する感謝も深い。感謝が積み重なった分、次代の村を担う若衆に対しても深い慈愛=期待をもって接することができるのだと思います。
おそらくオコモリに臨む女性は、「この子を一人前にする」という使命感、「わが子のように可愛い」という肯定視(母性)、「いてくれてありがとう」という感謝など等、「充足存在」と呼ぶにふさわしい心持であったのだと察します。
若衆にとっても、そのような充足にあふれた女性は、年齢など関係なく大変魅力的に映ったことでしょう。
かつての村落共同体は、女性の充足性が集団を存続させる活力となっている一つのモデルといえるのではないでしょうか。


女の「充足性」は人類が極限時代5〇〇万年間を生き延びる活力となっただけでなく、それ以降の各時代にあっても集団を存続させる活力となっていたのです。

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