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2010年05月29日

日本婚姻史2~その7:夜這いの解体と一夫一婦制の確立4

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「夜這い」追求シリーズも今回で第7回目となります。
前回は、明治時代にどのように夜這いが衰退していったのかをお送りしました。
今回は、昭和になってからどのように夜這いが終焉していったのかを見て行きたいと思います。
  
  
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先ずは基礎データから押えていきましょう。
昭和前後で農村の人口はどのように推移して行ったのでしょうか。
  
農業就業者比率の推移を見てみましょう。
「日本における農業とエネルギー」より引用。
  

板倉は江戸時代の人口の約 85%が「農民」であったと推定している。 また、 1903 年には、全世帯の 64% が農家で、そのうちの 69.6% が専業、 30.4%が兼業であった 。
  
 表 2.35 は、 1920 年から 1999 年までの日本における労働力の変化と、総人口および労働力人口に占める農業従事者の割合を示している。この表から、 1920 年には労働人口の半分、総人口の 4 分の 1 が農業に従事していたことがわかる。そして高度経済成長が始まった 1960 年には、労働人口の約 30% 、総人口の 15% に減った。さらに、 1990 年代の半ばになると、それぞれ 6% と 3%にまで下がってしまった 。

  
「日本の農業はここまで衰退している!」より引用。
 

日本農業にはかつて不変の3大基本数字といわれるものがあった。農地面積550万ha、農業就業人口1,400万人、農家戸数550万戸である。明治初期の1875年から1960年までじつに85年間、この3つの数値に大きな変化はなかった。
 
大きな変化が生じたのは皮肉にも農業の構造改革を掲げた農業基本法が作られた1961年以降である。それは農業にとって好転ではなく暗転であった。1960年から2005年までの50年の推移を見ると、GDPに占める農業生産は9.0%から1.0%へ、農業就業人口は1,196万人から252万人へ、総就業人口に占める農業就業人口の割合は26.6%から4%へ、農家戸数は606万戸から285万戸へ、いずれも減少している。

  
また、1953年(昭和28年)に制定された「農業機械化促進法」により、一気に農業機械化が普及し、工業生産の拡大と共に農家がバラバラになって行きます。
  
  
市場拡大、村落共同体の解体により夜這いは衰退、消滅していきます。
るいネットから、昭和の夜這い衰退について、紹介したいと思います。
「夜這いの解体と一夫一婦制の確立4 ( 矢野聡子さん)」
  

<昭和 農業用発動機の開発>
昭和になると、夜這いはほとんど姿を消し、家と家との見合い結婚へ急速に移行した。それには農業用発動機の開発で、臼摺り、脱穀などの調整作業が動力化され、少数の作業員を雇うだけで済むようになったことが、大きい影響を与えている。もはや若衆に協力してもらう必要はなくなったから、「夜遊び」の若衆たちを閉め出してしまった。
<戦後 農地改革、その後の経済構造の発展>
戦後の農地改革、その後の経済構造の発展で、昔の村落共同体は完全に解体され、夜這いその他の民俗も廃絶されるか、著しく変形して残るものもあったが、ほぼ夜這い民俗の伝統は終わったとみてよいだろう。
<これまでの民俗学の態度>
明治政府の「家父長」制的家族の創出は、古いムラ共同体の慣行を破壊し、全国的に婚姻様式を統一しようとするものであった。しかも、それは有産層、有識層の利益を保護するためのものであったから、その強行に対してムラの若衆仲間、娘仲間が反抗し、かれらの息子、娘たちに報復したのは必然であったといえる。問題は、そうした反抗運動を、ただ犯罪的現象であるからとして、結婚民俗から切離していた、これまでの民俗学の態度であろう。支配権力の都合がよい、それに迎合した婚姻習俗だけを、ムラの生活から切離して採取したところで、どうして生きている民俗を記録できるものか。
※抜粋、省略等により、著者の言うところが、正確に読み取れないところがあるかもしれません。ご了承下さい。

  
  
明治政府が導入した「家父長」制家族とはどのようなものだったのでしょうか。
わかり易いように、江戸時代と比較して引用します。
(論説「家父長制から見た明治民法体制―近代化過程における婚姻関係―」より引用
  

■江戸時代の「家」
~以下引用~
江戸時代の人々にとって、現実の生活は「家」という共同体を基盤として営まれていた。「家」とは、家業・家名・家産をもち、祖先や家風を共有し、当主が代表する生活のための組織であった。
~中略~
農民や商人層も、17世紀鋼板から18世紀にかけて「家」意識を持つようになり、「家」の永続をはかろうとするようになった。これらの層の後継に関しては多様な態様があり、必ずしも男性が家督をつぐとはならなかった。たとえば東日本の農家では「姉家督」という後継の方法が取られていたし、一般に庶民の「家」を女性当主が代表することについても、年貢・諸役を負担する「家」を絶やさないために認められていたという。
~中略~
「家」とはあくまでも生活の基盤としての実体をもっており、それぞれのメンバーが自分の役割を果たすことで成り立つものだったので、「家」を代表するとされていた当主の権力も、「家」の永続のためのみに行使されるべきだと考えられており、当主個人のために使用することはできなかった。また、その権力自体、法により保障されたわけではない。また、このような「家」の性質上、西洋のように夫婦関係が他の人間関係とはまったく異なる特別の関係だと考えられていたわけではなかった。それぞれの人間は基本的に生まれた「家」に帰属するものだと考えられており、女性は妻となっても完全に婚家に属することはなく、実家への帰属を失わないと考えられていた。
~引用以上~
■明治民法による家父長制家族構想
~以下引用~
近代国家としての制度の必要性から明治民法は制定された。それにより「婚姻は之を戸籍吏に届け」でることにより効力を生ずるものとされた。こうして江戸時代には共同体の承認により行われていた婚姻関係の正統化が、国家によって行われるようことになった。それにともなって男女関係はどのような影響を受けたのかが問題になる。国家が民法を制定するということは、西洋の近代国家にならって婚姻を国家が正統化するというだけでなく、家族関係を個人と個人の権利義務関係という形で法により規定することである。
~中略~
民法によって個人の権利義務の体系として家族における人間関係が規定されることで、それまで役割ごとに独立していた権限にもとづく関係が、個人と個人が直接関わる関係に変化した。すなわち、これまで役割にともなって「家」において相互に承認されていた権限が、国家の定める法的な権力として個人に認められた。特に「家」を代表する役割を担っていた当主が、戸主として「家」の統率者としての権力を持つように規定されたのである。また、家産が「家」という集合体ではなく戸主に属することとされたことも、戸主の法的権力を増大させた。江戸時代の当主の権力が法的な保障を持たなかったことに対して、これは大きな変化であった。
また、明治民法においては、江戸時代の「家」に関して存在した男性優位の考え方に加え、男性の系統、そして親や祖先のつながりが重視されているという方針があらわれている。たとえば、民法では戸主は男性が優先され、戸主が祖先の祭祀を継承することが規定された。
~中略~
民法において戸主という地位が私法上の権限を保障される形で規定されたことは、税制や選挙権など公法上の規定についての考え方にも影響を与えた。すなわち、国家はこれまで町や村を媒介させる形で国民を把握していたものを、戸主を介する形で把握しようとしたからである。これは、戸主という地位の国家による裏書を目指すものであったろう。
~引用以上~

  
江戸時代の農民家族は、根拠のない威厳(家父長)など関係ない実質的なまとまりとして存在していました。
厳格な家父長制家族は、明治政府によって、主として支配層を基点につくりだされたものです。
家父長制家族の導入は、家督継承の明確化=有産層・有識層の保護を目的としており、身分序列の形成によって強いものが弱いものを従える序列社会が根付いて行きます。
集団を離れ、個人に染まった強者をつくれば、積極的に村落共同体を破壊しなくても、いずれは破壊していくことになります。
  
また、明治政府の富国強兵、工業化政策により、資本家創出を目的に、有産層を優先した地租制度政策が取られたことにより、農村では富農と貧農の二極分化が進んでいきました。
富農としては財産を自分の子供に相続させたいと思い、子供の婚姻も蓄財を前提として相応の家系同士に絞られていきます
さらに、若衆が担ってきた村全体の役割は原動機など機械化に取って代わられ、村落における若衆の役割そのものも衰弱していってしまいます。
こうなると、もはや富農層にとっては、夜這いは相続を阻むものであり、必要不可欠なものでもなくなっていきます。
さらに個人主義、市場主義の浸透、そして戦後GHQによる農地改革により農業は自営農単位にバラバラにされ村落共同体は完全に解体されていき、夜這い婚は姿を消します
夜這いは性を身近で日常的なものとすることで、決して性は幻想化されることはなく、かつ集団における男女の役割と完全にリンクすることで、規制ではなく充足によって集団を統合するシステムになっていたのだと思います。

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