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2010年06月23日

日本人の可能性①~日本人の基点「勤勉」は、充足発の女原理

 これまで、日本婚姻史2シリーズとして、主に夜這いの風習とその解体過程について調べてきました。日本から「夜這い」の風習は消えてしまいましたが、赤松啓介の調査によれば、昭和39年代頃までは残っていたらしいです。(リンク
「夜這い」は単に性の充足を満たすものではなく、共同体社会のシステムの一つとして機能していました。これは日本が、早い時期にバラバラの個人に解体されてしまった西欧諸国とは違い、つい最近まで共同体社会が保たれていたということになります。そんな中で、日本人に残存する共同体社会ゆえの本源性には大きな可能性があるのではないかと感じるようになりました。
今回から始まる新たなシリーズでは、日本人の持つ可能性について調べていきたいと思います。
 第一弾は「日本人の基点「勤勉」は、充足発の女原理」です。

画像は(リンク)よりお借りしました。

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【日本人の基点「勤勉」は、充足発の女原理 ①】リンク

 最近、婚姻史や共同体社会のことを調べています。→リンク その中で思うのは、女性は「勤勉」だということです。
事例としては、自然豊かな(=自然外圧が低い)東南アジアでは多分にもれず女性がよく働きます。一方、男性はのんびり・ブラブラしている。
これがあらわしているのは、
闘争存在である男性は、闘争課題があるとがんばるものの、闘争圧力がなくなると途端に「怠ける」ということ。外圧依存型の闘争性や勤勉性はもっているものの、何もない時には怠けがちなのがオスという生物なのでしょう。
一方、女性は外圧が高い場合は当然のこと、外圧が低い状態でも勤勉さを失わない。東南アジアの事例は、男性の怠け者ぶりが顕著であるため、女性の働き者ぶりが相対的に際立っているだけとみなせます。メスは基本的に勤勉な生物なのでしょう。


確かにバリ島などでは男は細密画を描いたり、ケチャと呼ばれる民族音楽を演奏したりと全く働いていないようなイメージがありますが、日本でも縄文時代は似たような感じだったらしいです。
「るいネット:縄文の男達」リンク

この時代の男ですが、植物採取社会では、狩猟による動物性蛋白の占める量はわずかなものなのですが、それでも男は原則として植物採集にはタッチしていません。植物採取にウエートがかかればかかるほど、擬似的な狩猟や踊りの練習に熱中しました。さらに、植物食には固形塩が必要となり、海浜部落への物々交換の交易を行なってました。これに対して女はそれ以外の全てを担います。植物採集、昆虫捕獲、育児、土器作り、炉の火の番人等。
女性中心の文明原理といわれる所以はその実態を見れば明らかなのです。縄文土器の模様が極細かく、年季が長いと感じるのは縄文の女の気質と意識の表れなのです。

【日本人の基点「勤勉」は、充足発の女原理 ②】リンク

 では、なぜ女性が勤勉なのか?
それは、充足・安定存在ゆえであると考えます。
子育て、炊事、掃除、縫い物・・・身近な周りの充足のために日夜勤勉に働くのが女性=お母さんの姿だったりします。どんな家でも女性=お母さんの勤勉さがなければ、日常的な充足・安定は維持できません。
これを逆に見れば、女性は身近な皆の充足・安定のために働いてくれているということです。自分の勤勉さが、皆の充足・安定につながるとわかるうえ、主体的に動いていけば、皆の充足・安定を高める課題(期待)は無数にかつ常に存在します。したがって、永続的に勤勉さが持続するということでしょう。


ではどうして同じアジア人でも他の東南アジア諸国と違い、日本人では男も働くようになったのでしょうか。これには日本の農業 稲作が大きく関係しているようです。これには日本の農業の特性が大きく関係しているという説があります。
『日本人が勤勉なのは日本流の稲作があったから』玄洋日誌(リンク

(中略)
日本の川は流れが速く(幕末に西洋人が拝見したところ「鉄砲水」と言ったそうです)その川から水を流しいれてはためて水田を作り、稲を育ててきたのですよね。川の流れを変えるというより、川の力を借りる形で水田を作り、稲作業を行ってきたそうですね。
一方、紹介された書物によりますと、他のアジアの国では米を作るには大河をそのまま利用しているのだそうです。大河は流れが遅く、なかには馬鹿でかい水溜りのようなところもあるので、そこを稲作場として利用するのだそうです。日本と違い、貯水、注水などの工夫をせずに全てそのような場所などに稲を植えつけるなり、種をまくなりしてあとは大河の流れに任せているそうです。よって、米の収穫はすべて大河の流れに任せるという運任せの稲作業を行っているということです。このためか、米の収穫量も質も思うようにあがらず、その結果米は今でも高級品なのだそうです。
これに比べると日本の場合は、川の流れが速い上に川が自然と水田に適した場所を作ってくれないのか直接これを利用せずに、外部から流れる水を取り入れて水量を調節し、人選的に水田を作る形となりました。この結果、水量や面積などは人々が直接調節せねばならず、稲に適した環境を作り上げるために思考誤差を繰り返し、収穫量をあげて米の質を上げていったわけです。大河を直接利用する東南アジアの国々では、大河の流れが遅く、流れを調節するのが難しいのか、日本のような水田を作っても頻繁に急変する天候とそれ従って急変する大河の流れとその水量によって破壊されてしまうとのことでした。日本でも洪水はおこりますが、海の潮流のような激しい変化が川では起りません。しかし、大河になるとこれが頻繁に起こるということです。
よって東南アジア稲作が運任せであるのに対し、日本の稲作は努力しだいで良質にもなり、豊作にもなるという違いがあり、このけっか、日本は稲作を基盤として、他の分野に対しても勤勉で努力をする民族として育ったのでしょうな。働くことに美徳を感じるようになったのもわかります。東南アジアと日本の稲作の違いを見れば、「稲作がなくなれば日本人は勤勉でなくなる」というのもそういう意味ではあたっているわけなのです。

 確かに昔から日本ではお米には八十八の手間がかかっているから無駄にしてはいけないといわれていました。米は他の作物に比べて特に手間のかかる作物というイメージがあります。
【日本人の基点「勤勉」は、充足発の女原理 ③】リンク

 このように考えると、「勤勉」は女原理なのだと思います。
特に、我々日本人が考える勤勉さは、この女原理発の勤勉さに根ざしているでしょう。
充足・安定を尊ぶ縄文体質とは、すなわち女原理。女原理で動いてきた我々日本人にとって、女性の勤勉さは肯定・感謝の対象であり同化対象です。そこを基点に、男性にとっての労働=闘争も認識して価値を見出していったのが日本人なのだと思います。(労働=闘争を男原理と直結させて理解する欧米人にとって、ここは理解しにくいでしょう)
今後、充足発の実現方針を出していくのは、男原理の闘争過程ですが、たゆまぬ努力の源泉である勤勉さは、女原理の勤勉さであると思います。
この勤勉さが、充足発の闘争を実現する日本人的基点になると思えてきました。

 
充足発の勤勉性というのは、共同体社会がつい最近まで色濃く残っていた日本人ならではの特徴なのではないかと思います。
私が考えるに、実はこの他にも男原理の勤勉性というのもあるのではないでしょうか、これはおそらく規範意識からの勤勉性で、外圧の厳しい国々(ドイツなど)で見られる気質です。西洋と東洋で共に勤勉とよばれる日本とドイツの根っこは180度違っているのかも知れません。次回からはそうした西洋と東洋の違いについても検証していきます。

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