2010年08月21日
「日本人はいつ物を考え出すのか?」(2) 学習観念が役に立たないのはなぜか?
「日本人はいつ物を考え出すのか」シリーズ第2回目です。
前回、時代は私権時代から共認時代へと移り変わっており、その共認時代における必要な能力とは「共認力(=共認形成力)」であることを紹介しました。
実際に活力のある伸び盛りの企業の多くは、共認充足を活力源とし、その上で現実の課題を突破して(評価を得て)います。
今日は、そのような共認充足を母体に、現実課題を突破、答えを出す為の観念力を鍛える為にはどうしたらよいのか、そこに迫ってみたいと思います。
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「日本人はいつ物を考え出すのか?」(2) 学習観念が役に立たないのはなぜか?
(以下「るいネット」からの引用です)
その先に必要となる認識力は、認識力の下部構造(土台)たる共認力と、上部構造たる観念力に分かれる。⇒観念力をどのように鍛えるのか?⇒そもそも観念力とは何か?
企業活動に代表されるように、外圧が働いている状況下で壁を突破するために必要となるのが観念力だが、そこで現実に使っている認識は、ほとんどが身近な体験認識である。
そこでは、小中高大で勉強した認識群はほとんど使っていない。これだけ長い時間をかけて勉強した学習観念が役に立たないのはなぜか?
①まず、記憶に定着していない認識は使えないという単純な事実がある。学校では次から次への新しい教科内容を詰め込まれ、せいぜい2~3回復習してお終い。共認回路と観念回路の間には大きな断層があり、その程度の復習では観念は定着しない。定着していない観念が使えるはずがない(本で読んだだけの知識も同様)⇒観念を記憶に定着するためには反復千回(暗誦千回)が不可欠。
例えば、ユダヤ人の『タルムード』、イスラムの『コーラン』、戦前の日本人の『四書五経』の反復がその事例だが、これら反復に値する書物は創始者一人で作ったものではない。数百年に亙って何十~何百人もの弟子たちによって洗練されてきた成果である。それに対して近代の書物は全て作者個人が書いたものにすぎない。これだけでもその中身に雲泥の差があるわけだが、今後作られる新しい認識の条件の一つがこれである。つまり、新しい認識も個人の創作物ではダメで、みんなの手によって改良を重ね、洗練させてゆく必要がある。
②次に、学校で教えられる観念が近代思想、つまり現実には存在しない架空観念であること。
人文科学は100%架空観念である。古代宗教においては神であり、神が個人(→自由・人権)に置き換えたのが近代思想である。古代宗教~近代思想に至る思想全体が、このような極めて幼稚な中身しか持っておらず、そのような架空観念が現実の役に立つはずがないのである。
それに対して、自然科学は全く役に立っていないわけではない。目先の効率→生産力の発展には寄与してきた。その違いは、人文科学が架空観念であるのに対して、自然科学は現実を直視して法則化した事実認識であることにある。
但し、近代の自然科学も個人主義のパラダイムに嵌っており、対象を分解し分析する要素還元主義に捉われており、自然世界全体を統合できない。その結果、効率化によって生産力は発展したが、一方で大量の歪みを生み出してきた(ex.原水爆~環境破壊)。この歪みの責任の少なくとも半分は近代自然科学にある。分解主義・要素還元主義ではダメであり、全体を統合した統合原理が求められている。
体内の様々な物質の複雑な相互関係がどうなっているかは未だ解明されていないにもかかわらず、ある一つの食品成分だけを取り出して、これは身体に良いor悪いと(いかにも科学的に装って)喧伝する現代の科学者の姿勢はペテンそのものである。今や自然科学も人文科学に負けず劣らず幼稚なレベルに成り下がったと言わざるをえない。
③また、資格も現実の役には立たない。
本来、周りの役に立つのが役に立つことだが、資格は自分のために役に立つに過ぎない。ということは資格とは利権に他ならない。この点では大学も同じであり、学歴という利権がほしいから大学に行くのであって、それでは現実の役に立つはずがないのである。
私権時代から共認時代への大転換期を迎えて、新しい認識が求められているのが現在である。旧思想が役に立つはずがない。にもかかわらず世界中の学者は過去の遺物(学問)の解釈に終始しており、自らは新しい認識を何もつくっていない。
では、新しい認識はどのようにして形成されるのか?
(以上転載終わり。以降は次回に続く)
現在の学習観念が役に立たないのは、ひとつはわずか数回の学習で次から次へと詰め込む為、記憶に定着しないこと。
さらに学校で習う観念の内容そのものが、多くの人の手によってかつ長い年月を掛けて洗練されたものではなく、作者個人が書いたものであり、あるいは現実には存在しない「架空観念」であったり、物事を分解し掘り下げて行く一方で、全体を統合する理論ではないことなどが上げられる。
人類の最先端機能たる観念機能による『事実の認識』も同様であって、完全なる認識など存在せず、人類史を通じてより高い適応を求めて無限に塗り重ねられ、進化してゆくことになる。
(「実現論第一部:前史」)
で語られているように、いつまでも役に立たない旧思想にしがみついているのではなく、時代が変わった今「より高い適応」を求めて、新しい認識を積み重ねてゆくことが求められているのである。かつそれは多くの人たちによって塗り重ねられたものである必要がある。
現在の「学習観念」とは、まさしく旧思想にしがみついたものであり、しかもそれさえ定着できないでいるのが現実なのではないだろうか
- posted by saah at : 2010年08月21日 | コメント (6件)| トラックバック (0)
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