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2010年10月21日

共同体の原基構造-5~極限時代の死生観

『共同体の原基構造』に迫るシリーズの5回目です。前回は、集団を統合する為に欠かせない規範について考えました。私たちは、私権時代の奴隷の思考方法で規範をマイナスに捉えてしまっています。私権時代から共認時代に移行しつつある現在それに即した充足規範に塗り替えて行く事が重要である事を浮かび上がらせました。
それを受けて今回は、極限時代の人類が共同性の意識を持って、「集団や仲間」その中での「死」や「生」をどの様に捉えていたのか探っていきます。
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①極限状況の中で始原人類は本能⇒共認⇒観念(精霊)を命綱にして生きてきた。

極限状況の中で、人類は直面する現実対象=自分たちを遥かに超えた超越存在たる自然を畏れ敬い、現実対象=自然に対して自分たちの生存(=危機からの脱出)への期待を込め、自然が応望してくれる事を切実に願った。つまり、人類は直面する過酷な現実対象=自然を凝視し続ける中で、元来は同類を対象とする共認機能を自然に対して作動させ、自然との期待・応望=共認を試みたのである。そして遂に、感覚に映る自然(ex. 一本一本の木)の奥に、応望すべき相手=期待に応えてくれる相手=精霊を措定する(=見る)。

(実現論ヘ010602)

人類は、生存課題の全てを本能⇒共認⇒観念(精霊信仰)へと先端収束させる事によって、観念機能(→二〇〇万年前の言語機能を含む)を発達させ、その事実認識の蓄積によって生存様式(生産様式)を進化させていった。

(実現論ヘ010603)
この極限状態の中で、人類はその外圧に適応する為に精霊信仰に収束して、自然は基より集団や仲間に対して期待・応望=共認を第一の命綱として生きてきました。従って、その極限状態ゆえに生存や死に直面し、その死生に関する認識も期待・応望=共認を基軸に考えていたものと推察できます。
では始原人類は、その「生」や「死」に対して具体的にどの様に捉えていたのか?追求していきます。
kumanokodou.jpg
こちらからお借りしました。
極限時代の死生観

想像を絶するような過酷な自然圧力・外敵圧力にさらされた極限時代の人類も非常措置として仲間を食糧として生き延びてきたことは間違いないと思います。共認を命綱として生き延びてきた以上、死んだ後食べられてしまう本人たちにも、そのことは共認されていたものと考えられます。人に食べられて(集団の役に立って)死ぬことは「良い死」であり、再生が保証されているという死生観は、極限人類に普遍的なものではないでしょうか。彼らにとって、生きる事とは仲間や集団が適応して役に立つことであり、又、死ぬ事とは一つの生の終りであると同時に、新たな生の始まりだったのではないかと思います。

始原人類の死生観は、集団・仲間第一の認識に収束している所が注目される部分です。
ここで云われている「死ぬこととは一つの生の終りであると同時に、新たな生の始まりだったのではないかと思います。」は、人類の本性で有る本源的な共同性は個体が亡くなっても集団や仲間に引き継がれ新たな生に成る事だと考えられます。
従って、個人より集団、個人の事より仲間の役に立つ認識が有ったからこそ、極限状況の時代を生存できたのだと推察できます。

しかし、私たち現在人は私権収束した故に自分第一の価値観からでしか何事も考えられずに、「死」や「生」に付いても自分本位の思考からの死生観に成っていて、恐怖や迷いの中に自分を閉じ込め苦悩してしまうのです。
引き続き、日本人の原点と考えられる縄文人の死生観をみておきたいと思います。 
精霊信仰の民(縄文人)のもつ死生観

現代人は確かに「死」を恐れていると思います。
古くは時の権力者達が死んで権力を手放すことを恐れ不老長寿の薬を追い求めたり、現代であれば庶民も老後の不安を抱えていたり・・・と。
そもそも人間とは元々死を恐れ、嫌うのは当たり前なのでしょうか。
古代の精霊信仰の民族は本当に死を恐れていなかったのでしょうか。
精霊信仰の民と言えども、火は恐れ、外敵からは逃げ身を守る。一見死を恐れているように見えます。私はこれは危機逃避という本能次元の行動であり、「死を恐れる」という事とは違うのではないかと思います。
精霊信仰の民の死生観とは、両者一体、さらには現世の万物の精霊も、全て人間と対等に並び立ってお互いが支えあって成立していると考えられています。
ですからそもそも現代人のような「死」という概念が存在せず、形を変えるだけで相変わらず世界と自分とは繋がっているわけです。

imagesmatu.jpg
こちらからお借りしました。
現代人は、私権時代(自我統合時代)の中で自我に染脳されて来ました。それ故、個人の死=全てを失うことに成ってしまう為に不安や恐怖を抱いてしまうのです。
一方、始原人類は共認統合されていた為に、現在人の考える「死」という概念そのものが無く、他の生物や先立った仲間達と同じ様に「精霊」と同じ様なものに姿を変え永遠にみなの共認対象に成るという安心感が有ったのではないでしょうか。
次回は、「自分らしさ」の観点から人類の共同性に迫る追求になります。ご期待ください。

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comments

勉強になります。

  • 名無し
  • 2011年4月16日 21:05

コメントを入力してください
マンモスハンターは存在しません。
シベリヤにマンモスは棲息できないからです。
冷凍マンモスが東シベリヤに存在するのは、
オホーツク海で、隕石落下による大洪水の遺物です。
「五千年前の大洪水と先史文明ゼミ」で公開して
おります。 よろしくお願い申し上げます。

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マンモスハンターは存在しません。
シベリヤにマンモスは棲息できないからです。
冷凍マンモスが東シベリヤに存在するのは、
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共同体社会と人類婚姻史 | マンモスハンターは事実ではない!

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