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2010年10月20日

本格追求シリーズ3 共同体社会に学ぶ子育て」16 ヤノマミの「森の摂理」としての「子殺し」(前編)

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引き続き、今回はヤノマミの「森の摂理」としての「子殺し」について紹介します。
ヤノマミは「子殺し」を行う民族です。彼らは天に送る、天に返すというように表現しますが、彼らのこの行為はヤノマミの「死生観」、「人間観」等に同化しなければ理解できない行為であろうと思いますので、具体的な行為に触れる前にヤノマミの思想について扱います。

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まず、ヤノマミは、(恐らくは「文明人」の入植でアマゾンの奥深くの一部に追いやられたことによって同類闘争圧力が急激に高まり、)始原人類以来の「精霊信仰」から、「オマム」と呼ぶヤノマミの創造主を崇拝する「守護神(祖霊)信仰」的なものへと移り変わっている段階と考えられます。しかし、まだ多分に「精霊信仰」的な色彩も残しています。
ヤノマミには各氏族にシャーマンがおり、彼らの祈祷を「シャボリ」と呼びます。シャーマンは集団のリーダーでもあり、尊敬の対象となっています。シャーマンによるシャボリはほぼ毎日行われるようですが、そのシャボリで語られる言葉、シャーマンの発する言葉に端的に彼らの思想が表れているので、いくつか紹介します。(以下は必ずしもシャボリで語られたものではありません。)
以下、「ワトリキ(風の地)」と呼ばれる集落に暮らすヤノマミを取材して書かれた「ヤノマミ」(NHK出版 国分拓著)より引用させていただきます。
最初に、彼らの死生観の一端を感じる言葉の引用です。

「地上の死は死ではない。
私たちも死ねば精霊となり、天で生きる。
だが、精霊にも寿命がある。
男は最後に蟻や蠅となって地上に戻る。
女は最後にノミやダニになり地上に戻る。
地上で生き、天で精霊として生き、最後に虫となって消える。
それが、定めなのだ。」
(中略)
ヤノマミにとって精霊とはひれ伏すような存在ではない。会話をし、意図を探り、時に命のやり取りをする存在だった。

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引き続き、引用です。

シャボリ・バタ(引用者注:集落のリーダーのシャーマン)から聞いた言葉の中で最も印象に残ったものが、<ホトカラ>だった。シャボリ・バタは何度もその言葉を口にしたのだ。
ホトカラとは、死語に精霊となった人間が「第二の人生」を送る場所だという。訳してしまえば、「天空」とか「宇宙」という意味なのだろう。だが、偉大なシャーマンである老人の口から発せられると、とてもその一言では収まりきらない、豊かで遥かな空間が広がっているように感じられた。
ホトカラ、と口にするのはシャーマンだけではなかった。子どもを埋葬していた母は、何度かホトカラ、と言った。子どもは死んだのではない。精霊となってホトカラに行っただけなのだ。自分も死ねば精霊となってホトカラに行く。ホトカラに行けば精霊となった子どもとまた会える。女はそう信じていた。
(中略)
少年と見晴らしのいい山に登り、どの森に猿がいるか聞いた時も、ホトカラという言葉を聞いた。少年は猿がいる森を指さし、自分が仕留めた猿を自慢した後、僕たちが「今、その猿はどこにいるのか」と聞くと、<ホトカラ!>と言って天を指差したのだ。そして、自分も死ねば同じ場所に行くのだといった。殺した者と殺された動物が同じ場所で再開するのだ。少年は旧友と久しぶりに会うことを楽しみにしているかのような表情を浮かべ、何度か、ホトカラ、と言った。

ホトカラとは、ヤノマミの人々の宇宙観や死生観を貫く言葉だった。
ホトカラとはどういうところなのか。ぼくたちの問いかけにシャボリ・バタはこう言った。
「ホトカラは精霊の家だ。
ジャガー、金剛インコ、陸ガメ、猿、バク、風の精霊に雷の精霊、
死んだシャーマン、死んだ子ども、昔のヤノマミ。みんなホトカラにいる。
彼らはホトカラから私たちのことを見ていて、いつも話しかけてくる。
だから、いつも私は耳を澄ませている。
ホトカラは精霊たちが作る、どこまでも続く層だ。
層はとても高いところにあり、何層にも連なっている。
私はその層を昇っていくことができるし、ホトカラの精霊たちと話すこともできる。
精霊は私たちにいろいろなことを伝えてくれる」
シャボリ・バタの中では、人間と精霊、天と地、生と死が繋がっているようだった。ヤノマミの世界では、人も動物も、人間も精霊も、生も死も、全てが一つの大きな空間の中で一体となっているのだ。優劣とか善悪とか主従ではなく、ただ在るものとして繋がっているのだ。

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最後に、長くなりますが、生と死を殊更に区分して考えない、彼らの死生観を象徴する「死者の祭り」の紹介です。「死者の祭り」はヤノマミにとって非常に重要なもので、「撮影すれば命の保障はできない」とまで言われるほどのもののようです。よって、撮影等の取材はなされていないようです。

ワトリキでは年に一度、死者を掘り起こして、その骨をバナナと一緒に煮込んで食べる祭りがある。死者の祭りと呼ばれるものだった。これは囲炉裏の下に埋められた遺灰に黙祷を捧げる使者を弔う祭りとは別の祭りで、通常、ラシャの祭りが終わった後に始まる。
(中略)
ヤノマミには墓がない。遺骸は焼いて、埋めて、掘り起こして食べるだけだ。彼らにとって死とは、いたずらに悲しみ、悼み、神格化し、儀式化するものではない。僕たちには見えない大きな空間の中で、生とともに、ただそこに在るものなのだ。
死者の祭りでは多くのヤノマミが幻覚剤の<エクワナ>を使ってトランス状態になるという。そして、死者の骨を食べることで死者と同化する。死者がホトカラで精霊として存在するとすれば、それはホトカラと一体となることも意味する。
おそらく、その日、シャボノは生と死が一体になる。誰もが死を想い、ホトカラを想い、翻って生を自覚する。シャボリ・バタが言っていた巨大な空間がシャボノの中に現れる。人間も精霊も、生も死も、シャボノの中で一つになる。
彼らにとって、それは自分たちだけの大切な儀式なのだ。ヤノマミが<ヤノマミ(人間)>であることを自覚する、大切な一日なのだ。
シャボリ・バタが言った。
「ホトカラは、一人一人のヤノマミのようなものだ。
祖先たちの命はホトカラに昇った。
動物の命もホトカラに昇った。
風の精霊も、雷の精霊も一度は死んでホトカラに昇った。
彼らは天で私たちを支えている。
私たちが森を守ってきたように、彼らは天が落ちないように支えている。
だから、ヤノマミの家は丸い。
ホトカラは天にあり、天は丸いから、私たちの家も丸い。
ヤノマミはここからホトカラを見ているし
ホトカラの精霊もヤノマミを見ている。
私が泣いている時、ホトカラの精霊はなぜ泣いたのかと聞いてくる。
精霊が泣く時、今度は私が聞きに行く。
風が止まない時、私はホトカラまで昇っていき
なぜ風は止まないのかと聞きに行く。
ホトカラとはそのようなものなのだ。
たくさんのヤノマミがいてシャボノがあるように
ホトカラもたくさんの精霊がいるからホトカラなのだ。
精霊はホトカラを支えるたくさんの足だ。
その足は、いつも、地上と繋がっている。
地上とホトカラは繋がっている。
生と死も繋がっている」
(中略)
もし、ヤノマミに規範と言うべきものがあるとするならば、シャボリ・バタの言う「定め」を、誰もが知っているということなのではないか。そして、森の摂理とも言うべき大きな理の中で、彼らはその「定め」を受け入れ、肯定しているのではないか。

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以上が引用による紹介です。
以上のように、ヤノマミの世界では、人も動物も、人間も精霊も、生も死も、全てが一つの大きな空間の中で一体となっており、私たちとは人間観も、死生観もまったく別物です。人間と動物を同列として捉えるだけでなく、生と死をも大きな空間の中で一体的に存在するものとして捉える、というのは相当に大きな感覚の違いを生み出すことは想像に難くありません。
よって、これを前提に次回は表題の「子殺し」について見ていきます。

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