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2006年10月31日

日本は森を崇め,欧州人は森を忌み嫌った?!

人類は、農耕はじめ都市を作り、燃料としての木材の伐採などで、森林破壊をして来た。
が、その後は、日本人と欧米人の森への意識は全く違っているらしい。欧州人の潜在意識には、森林を忌み嫌い伐採してしまうと言う歴史的な文化が刷り込まれているという。
さらに、キリスト文化までもが............

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その一役を担っているらしい。グリム童話では,森が恐ろしい危険な場所として設定されている事からも分かるとしている。
森と人の地球史  に詳しい。
<抜粋>
12世紀に、この地で行われた奇妙な動物裁判は、アニミズム信仰のドルイドに代わって新しく登場したキリスト教が、逆に人が自然や動物の上位に位置するという新しい秩序を持ち込んだ
<抜粋> ヨーロッパにおいては一般的に、森の中の教会という概念は存在しない。教会のあるところは、全部森を伐りはらった広場であり、森は駆逐されるべきものであって、森の中で祈るという気持ちはなくなってしまったわけである。 このような「刷込み」を持ってしまった民族にとって、森の木々を伐り倒すことは喜びになっても、それを守ろうという気持ちがなかなか起きなかったのは当たり前のことであろう。 <抜粋>
この重輪犂の発明と三圃農法という新農法の普及は、結果として森の破壊に大きく貢献するのだが、加えて修道士の活動が預かって力があった。彼らが伐り開いた森の跡には修道院が建てられ、その領土としての耕地が拡がり、次第に人が集まって町が作られていった。
<抜粋>
かつてのドイツの深い森は、ブナ(撫)やナラ(楢)という落葉広葉樹林であった。グリム童話は、日本と違って尾根や沢のない、いったん迷うと出てこられない恐ろしい平野林を舞台に繰り広げられる。こうした欝蒼と茂るドイツの森には当然森の守護神がいた。キリスト教の伝道者は、そうした異神に惑わされぬよう、伐採しても祟りがないことを証明するために、必要以上に森を破壊していった。
一方で,日本も開墾と都市化で,森が駆逐されて行くが
<抜粋>
日本の森が辛うじて破滅を免れ、その生存を保持出来た理由として、あまりに遠くて峻険な山岳地帯が多いこと、それに聖域としての鎮守の杜、寺社の所有林の存在が挙げられるが、なによりも増して有効だったのが、江戸幕府による世界でも珍しい積極的森林保護策としての「植林事業」であった。
<抜粋>
当時数多く出版された造林手引書の存在と、十七世紀にはすでに政治的指導者や政府の顧問などが、森林の安定性・生産性の維持を主張していたさま、たとえば1650年ころ桑名藩主、松平定綱は伐採事業者に対して「一本伐ったら千本植えよ」と指令している。
<抜粋>
山鹿素行も、適切な時期に伐採すること、過剰に伐採 しないこと、収穫したところには植林するよう忠告している。一八世紀になると、こうした勧告は より具体的になってくる。小大名の助言者である貝原篤信が1709年に述べたところによると、 もし伐採事業者が「山の森林を数十の区画に分け、一年に一区画ずつ伐採すれば、全森林は青々と 維持され、材木は増える」といっている。
<抜粋>
日本では神社があるところ、かならず鎮守の森がある。というより、山があり、森はあるような ところには、かならず神社があるというのが、日本古来からの風景であった。(中略)
この状態が2000年の長きにわたって、一度も絶えることなく続いた結果、森を見ればそこに 神聖さを感じるという「第二の天性」とも呼ぶべきものが、日本人の心の中に定着した。すなわち、「森に囲まれた神社」というイメージが、日本人の自然観を決定づけた。
さらに私は,「日本人の協調性」の能力,具体的には,自然に同化して自然の気持ちを想う事ができる能力を発展維持し続けたのだと思う。それが,朝陽を拝み、月見をし、虫の音を聞いて自然と一体となれる日本人の特異な能力である。(現代では他人を思うことができる能力が低下してしまっているが....。)

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「奴隷」などの“身分”の起源はいつなのか?(教科書は間違ってる?)

>学校で習った歴史では、“農耕が始まって作物が貯蔵されるようになったがゆえに貧富の差が生まれた”とか、“農耕が始まって大規模な灌漑設備を作る必要があったか…

>「ドラヴィダ人が母系制の集団」とされているまではその通りとしても、都市の形成過程でその母系制は無くなったと考えるのが普通だと思います。
⇒母系制のままでも、生殖過程は女ボスが、社会過程は男ボスが主導するので、「母系制で無くする」必然性は特にないのでは。
>ドラヴィダ人の母系制は、都市の肥大と共に変化したがどの様に変化したのか?
⇒北から遊牧民アーリア人が侵入、支配されることで変化します。
引用の『インド古代史』も、ドラヴィダの母系制を基層に、遊牧民アーリア人の父系制を上層に持った融合文化という捉え方だと思われます。

  • 2006年11月5日 01:02
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