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2019年6月6日

2019年06月06日

西欧科学の成立年表補2 1560~1670年後期魔女狩りは金貸し支配国家の布石

宗教改革が始まると同時に前期魔女狩りが沈静化するが、その半世紀後の1560~1670年に今度はプロテスタントがより苛烈な魔女狩りを仕掛けることになる。後期魔女狩りである。
『化学史研究』「魔女狩りと近代ヨーロッパ」(鈴木晃仁)の要約。
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魔女狩りは近代初頭に特徴的な現象であり、魔女狩りのピークはフランス絶対主義、オランダ・イギリスの市民革命、ガリレオ・デカルトらの科学革命の時代と重なる。「中世の魔女狩り」という言葉は甚だしい時代錯誤である。
そして、イギリスでは議会制と政党政治が確立した時期に、魔女狩りは終焉した。
実際に、魔女を告発し法廷に連れてきたのはほとんどの場合民衆(魔女と顔見知りの村の隣人)であったが、魔女観念を作り上げ魔女狩りを扇動したのは、悪魔の存在を信じるエリート階級であった。
しかし、裁き手と同じ大学出のエリートである魔術師が悪魔との契約の罪状で裁かれたことはほとんどなかった。
魔女狩りの犠牲になったのは圧倒的多数が下層の人間。その80%が女性。かつ、その大半が老婆や未亡人・非婚女性である。

後期魔女狩りを主導したのはカトリックよりもプロテスタントであるが、彼らが立脚する旧約・新約聖書には、魔女の実在と厳しい処罰の主張に有利な記述を数多く含んでいる。彼らは、悪魔や魔女の実在を疑う者は聖書に書かれていることを疑う無神論者であると論陣を張った。

当時すでにエリザベス救貧法が徐々に施行されており、貧困は個人の責任であり、慈善は国家が正当なシステムに沿って正しい貧民にのみ行うことであり、個人が無差別に施しを与えることはむしろ貧民の怠惰を助長する悪習であるとの観念が広まりつつあった。
しかし、一方で施しを拒むことはキリスト教徒としての慈善の義務と共同体の相互に助け合う義務を履行しなかったことになる。施しを拒んだ相手を魔女だと告発し本当の悪人は彼女だと自分に言い聞かせることで、その罪の意識を拭い去ろうとする。
このように魔女の告発は古い共同体と慈善の理念にそむいた罪の意識を他人に転嫁するという機能を担っていた。
貧富の差が大きくなりつつあり、貧困と慈善に関する古い共同体的な理念が新しい個人主義的なものに変わりつつある「移行期」の社会において,魔女告発は心理的な代償の役割を果たした。
魔女の告発は、絶対主義国家のイデオロギーが村の日常生活のレヴェルヘと浸透していた時代に、風向きを敏感に察知して時流に乗り遅れまいとする行為であった。近代初頭のフランスは、絶対主義と反宗教改革の聖俗の両権力が中世には「閉じられていた」農村に浸透し、個々の農村を中央に対して「開かれた」ものにすること、つまり民衆がそれぞれ属している共同体に特有な文化的規範ではなく、普遍的に妥当する単一の観念や法制度に従うように仕向けた時代であった。

この規範化にとって重要なのは、民衆が各々の独自のルールでなく国家によって与えられる法を用いて行動すること、民衆同士の間で問題が起きたときに彼らの間でそれを解決するのではなく、その問題を法廷に訴えることである。魔女の告発者たちはこの新しい規範された問題解決法を採用した。
家畜が奇妙な死に方をした時に、個人的な復讐や保護用逆魔術の使用によってその問題に対処するのではなく、誰それが魔女術をかけたと法廷に訴え出ることが絶対主義のイデオロギーが要求した文化的な慣習であった。
民衆文化の改革が進み、フランスの農村が「開かれた」ものになっていく時期に魔女告発が起きたのは、一部の富裕な農民たちが新しい文化的規範を採用したからである。即ち、16世紀末から17世紀前半の魔女告発の増加は、フランスの権力がもくろんだ制度化と近代化が成功したことを語っている。
ミュシャンブレやクラークのモデルは、民衆からの魔女告発がエリートが持っていた悪魔学とは独立に行われつつも、絶対主義や宗教改革・反宗教改革などのエリートのイデオロギ-の産物であるという議論を立て、近代初頭のヨーロッパ社会がエリートの新しい価値観を受け入れていくプロセスの中に魔女狩りを定位している。
個人や個々の共同体が独自に解釈し維持する秩序の観念から国家が均―に与える法に基づいた秩序の観念へと移行した時代に、新しいエリートの文化を受容した民衆たちは魔女を告発しはじめる。

魔女狩りの衰退
17世紀後半から18世紀初頭にかけて、始まった時と同じよぅにヨーロッパ各国でほぼ足並みをそろえて魔女狩りは衰退し終焉する。この衰退を引き起こしたのは主としてエリートの側であるという点に関しては歴史家たちは合意している。
18世紀以来魔女狩りは機械論哲学や近代科学のおかげで消滅した、という意見は繰り返し表明されてきたが、その証拠はきわめて乏しい。
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以上のように、1560~1680年の後期魔女狩りによって国民一人一人を国家が直接管理する近代国家体制が確立された。実際、中央集権の絶対主義国家を確立した英エリザベスⅠ世や次のジェームズⅠ世は魔女狩り強化令を発布しており、フランスの絶対主義下でも魔女狩りの嵐が吹き荒れた。
ところが、17世紀後半、中央集権の絶対主義国家⇒民主革命(私有権の不可侵と議会制度)と中央銀行制度が確立すると同時に、つまり、近代国家体制が完成すると同時魔女狩りは終焉した。
つまり、後期魔女狩りは、金貸し支配国家の布石であったのではないだろうか。

また、この当時のエリート科学者たちが魔術師であったのも注目点。
上記論稿ではエリート魔術師が魔女狩りで裁かれていないと書かれているが、実際は、ガリレオは異端審問で有罪になっており、ケプラーの母親は魔女の嫌疑をかけられ逮捕されている。魔術師たちも脅されていたことを暗示している。

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2019年06月06日

西欧科学の成立年表補1 1480~1520年前期魔女狩りは宗教改革の布石

「魔女誕生」は、魔女狩りを前期1480~1520年/後期1580~1670年に分けている。
以下は、その要約。
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前期魔女狩り:宗教裁判所が先頭に立って行ない、犠牲者は限られていた。カトリックが主導
後期魔女狩り:世俗裁判所(領主・国王)が行ない、被害は大きかった。プロテスタントが主導
それ以前から異端審問はあったが、魔女狩り、つまり女をターゲットとした迫害が始まるのは、1480~1520年にかけての前記魔女狩り以降である。
魔女狩りは、魔女狩りの手引書『魔女の槌』が著わされた1480年代に始まり、その後一時停滞し、1580年代に再び、魔女についての新しい文献が出て再燃。

魔女狩り以前から、キリスト教とは異なる様々な呪術概念が存在していた。それら民衆の呪術に対する教会の見解は、「呪術を信じることは悪魔にだまされているからであり、それらは現実には起こり得ないことである」というものであった。そして、民衆の呪術概念を駆逐しキリスト教の教化が行われたが、その教化の具体的指導書が「贖罪規定書」である。その目的は民衆の悪しき誤りを正し、キリスト教信仰の定着を図ることであった。このため、魔女的な行為に対する罰は、さほど厳しいものではなく、まして火あぶりにされることはなかった。

また、1450年頃までの異端裁判では、女性に非難が集中したわけではなかった。実際、1438年ラ・トゥール・ドゥ・パンの裁判では被告はほとんど男であった。
キリスト教世界に害悪をもたらす女性という後世の魔女のイメージは、1486年に出た『魔女の槌』で初めて登場する。
女性を妖術と結びつけてその悪を論じた『魔女の槌』は魔女狩りの手引書となり、魔女=キリスト教世界に害悪をもたらす女性というイメージが確立された。

『魔女の槌』の著者は、インスティトリスとシュプレンガーという二人の異端審問官、つまり教会のエリートたちである。
そのターゲットとなったのは賢女である。実際の経験から直観と多くの呪文によって忠告や助言を与える術を心得ていた老婆や産婆を指すとみてよいだろう。彼女らは手をかざして病気を治したり、悪の魔術を防ぐお守りやその他の手段を講じ、そのうえ多くの者は、占いや愛の魔術も取り扱った。
これらの女性は、その不可思議な知識や能力を身につけているために怖れ敬われる存在であった。なぜなら、病気を治したりできるのなら、逆に病気や災いを引き起こしたりもできるだろうと考えられたからである。
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問題は、なぜ1480~1520年に前期魔女狩りが起こったか?どのような目的で教会のエリートたちは魔女狩りを始めたかである。
注目すべきは1517年宗教改革が始まると同時に、前期魔女狩りが沈静化している。
このことは、前期魔女狩りが宗教改革の布石であったことを暗示している。
実際、宗教改革派の攻撃の的になったのは、免罪符と異端審問(魔女狩り)である。魔女狩りの火をつけておいて、宗教改革派に攻撃させるというマッチポンプが前期魔女狩りだったのではないだろうか。

なぜ、宗教改革が起こったのか?については、「市場論・国家論8.宗教改革とイエズス会」
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・キリスト教は武力支配の時代に作られた宗教であり、欧州が次第に資力支配の時代に移行してゆくにつれて、その教義を修正する必要が出てくる。とりわけ、金貸しにとって、利息の禁止や蓄財の罪悪視は、金貸し支配の社会を構築してゆく上での大きな障碍となっており、何としてもその教義を変革する必要があった。それは、市場を拡大してゆく上で不可避な変革であったとも言える。
・その為には、バチカンを完全な支配下に置く必要がある。又、騎士団領主を実働部隊として大航海を遂行する上で、騎士団に対するバチカンのお墨付きは不可欠であり、そのためにもバチカンを支配下に置く必要があった。
・そこで、金貸しは、バチカンを支配下に置くために、
(1)まずは、金持ちたちに、教会に寄進するよりも金貸し(銀行)に預けた方が得だと宣伝して、バチカンを金欠状態に追い込み、
(2)金欠状態に陥ったバチカンに、免罪符の発行を唆(そそのか)し、
(3)バチカンが免罪符を発行するや否や、ルターとカルヴァンを使って教会批判の火の手を上げさせて、欧州各地で商工業者を中心に改革派の勢力拡大に奔走し、
(4)改革派が一定の勢力に達すると、今度は改革派に対抗してバチカンの勢力を拡大するためにという名目で、騎士団を中核とするイエズス会を設立し、バチカンに公認させた。
以降、現在まで、イエズス会がバチカンを乗っ取り、支配し続けている。
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