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2019年04月18日

人類のアフリカ起源説も覆されている

人類史の定説であったチンパンジー起源説だけではなく、アフリカ起源説も揺らいでいる。
以下、「今、ホモ・サピエンスのアフリカ起源説など 人類史の常識が次々と覆されている」の要約。この論考はデイヴィッド・ライク『交雑する人類 古代DNAが解き明かす新サピエンス史』(NHK出版)の知見を紹介したもの。

【1】全ゲノム解析によりホモ・サピエンス(現生人類)のアフリカ起源説が揺らいできた。
多地域進化説では、180万年ほど前にユーラシアに拡散したホモ・エレクトス(原人)が各地で進化し、アフリカ・ヨーロッパ・アジアの異なる地域で並行的に現生人類に進化したとする。それに対してアフリカ起源説では、現生人類の祖先はアフリカで誕生し、その後、ユーラシア大陸に広がっていったとする。

1980年代後半、ミトコンドリアDNA解析によるミトコンドリア・イブ説が登場。現生人類は約16万年(±4万年)アフリカにいた1人の女性から分岐したとされ、それ以降、アフリカ起源説が常識となっているが、だからと言って現生人類が10~20万年前のアフリカで誕生したとは言えない。
ライクによれば、この誤解はミトコンドリアのDNAしか解析できなかった技術的な制約によるもので、全ゲノム解析によると、ネアンデルタール人の系統とサピエンスの系統が分岐したのは約77万~55万年前へと遡る。サピエンスの起源は、従来の説より50万年も古くなった。

そうなると、アフリカ起源説では、77万年前~16万年前までの約60万年間、現生人類はずっとアフリカで暮らしていたということになるが、アフリカ起源説を揺るがす化石が北アフリカのモロッコで発見された。この現生人類の最古の化石は約33万~30万年前のものとされた。アフリカ起源説では、現生人類はサハラ以南のアフリカのサバンナで誕生し、約5万年前に東アフリカの大地溝帯から紅海を渡ってアフリカを出たとされていたが、30万年前に北アフリカに現生人類が棲息していたとなれば、アフリカ起源説は覆される。

【2】遺伝学的には、現生人類はアフリカ系統とユーラシア系統に分かれる。ユーラシア系統は5万年前にアフリカを出て世界中に広がり、アフリカ系統はそのままアフリカに残った。
ユーラシア系統はネアンデルタール人と交雑したためネアンデルタール人のDNAを保有しているが、ネアンデルタール人はユーラシアにしかいなかったのでアフリカ系統の現代人にネアンデルタール人のDNAの痕跡はない。
従来の説では、出アフリカ後に北に向かった現生人類がヨーロッパのネアンデルタール人と交雑したとされていたが、現代人のDNAを解析すると、非アフリカ系(ユーラシア系)はゲノムの1.5~2.1%ほどがネアンデルタール人に由来するが、東アジア系の割合はヨーロッパ系より若干高いことがわかった。

【3】その後も、単純な「出アフリカ説」では説明できない発見が相次いだ。
2008年、ロシアのデ二ソワ地方の洞窟で約4万年前の人類の骨が発見された(デニソワ人)。DNA解析でニューギニアやメラネシアでデニソワ人との交雑が行われていたことがわかった。ライクは、これをシベリア(北方)のデニソワ人とは別系統としてアウストラロ(南方)デニソワ人と呼んでいる。

さらに、アフリカ系と非アフリカ系のDNAを比較すると、ネアンデルタール人、デニソワ人とは別系統のDNAをもつ集団がいたと考えないと整合性がとれないこともわかった。ライクはこの幻の古代人を「超旧人類」と名づけ、サピエンス、ネアンデルタール人、デ二ソワ人の共通祖先(約77万~55万年前)よりもさらに古い140万~90万年前に分岐したと推定した。超旧人類はデニソワ人と交雑し、その後、絶滅したとされる。

約5万年前にサピエンスがアフリカを出た時、ユーラシアには少なくともネアンデルタール人とデニソワ人という人類がおり、サピエンスは彼らと各地で遭遇し、交雑した。しかし、交雑は極めて近い血統でなければ起こらない(性交によって子を作れなくなった時点で分類学上は別の種になったと見做される)。
ということは、サピエンス、ネアンデルタール人、デニソワ人は(あるいは超旧人類も)「同種」ということになる。ネアンデルタール人とデニソワ人は同じユーラシアに住み、47万~38万年前に分岐したとされるから「同種」なのもわかるが、それより前の77万~55万年前に分岐し、地理的に隔絶したアフリカ大陸で70万年も独自の進化をとげてきたはずのサピエンスが突然ユーラシアに現われ、彼らと交雑できるとは考えられない。

そこでライクは、現生人類もユーラシアで誕生したという説を唱えた。
従来の人類学では、人類はアフリカで誕生し、約180万年前にホモ・エレクトス(原人)がユーラシア大陸に進出した後も、ネアンデルタール人の祖先やサピエンスなど、さまざまな人類がアフリカで誕生しては繰り返し「出アフリカ」したことになっている。
だが、新しい人類はアフリカでしか生まれないのか。ユーラシア大陸にも180万年前から多くの人類が暮らしていたのだから、そこで進化したと考えることもできるはずである。

ライクは古代人のDNA解析にもとづいて、ユーラシアに進出したホモ・エレクトスから超旧人類が分岐し、さらに現生人類(サピエンス)、ネアンデルタール人、デニソワ人と分岐したと考える。
デニソワ人は東ユーラシアから南ユーラシアに広がり、ネアンデルタール人はヨーロッパを中心に西ユーラシアに分布した。
現生人類は脆弱でネアンデルタール人に圧迫され中東に押し込められていたが、その後、ネアンデルタール人が中東に進出したことで、約30万年前には北アフリカや東アフリカまで撤退した。だからモロッコで現生人類の化石が発見される。

ところが5万年前に、脆弱だった現生人類が北アフリカや東アフリカを出て、ユーラシア中に広がる。中東でネアンデルタール人と交雑した現生人類の一部は東に向かい、北ユーラシアでデニソワ人と、南ユーラシアでアウストラロ・デニソワ人と遭遇して交雑。こう考えると、アフリカ系にネアンデルタール人のDNAがなく、東アジア系がヨーロッパ系と同程度にネアンデルタール人と交雑していることが説明できる。
その後、彼らはベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸へ、海を越えてオーストラリア大陸へ、そして千島列島から北海道、本州へと渡り縄文人の先祖になった。

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2019年04月16日

「自我」はとても脆弱であり、単なる幻影に過ぎない

『大人のための図鑑 ~脳と心のしくみ~』から、脳学者・池谷裕二氏のインタビュー記事を紹介します。

無題

◆ヒトと動物を分ける自我
ヒトがほかの動物と大きく違うところは、自我、つまり自分が心を持つと自分で感じているところです。一方、ほかの動物は、意識を自分の周りの世界に向けています。目の前に現れた動物が自分の敵なのか、それともエサとなるものかなどを判断し、自分の行動を決めるためです。しかし、ヒトは意識のベクトルの先を、自分の外側だけでなく、内側にも向けています。そのため、ヒトは「私とは何か?」と考えるようなりました。

古代からヒトは自分について考えていましたが、特に現代人にとっては、「自分は何者か?」大きな問題になっています。でもそんな奇妙なことを考えているのはヒトだけです。どうして奇妙かといういうと、生命に必須な要素ではないからです。ほかの動物は「自分とは何者か?」と考えたりはしませんが、いきいきと暮らしています。自我は、その意味で無駄なものといえるでしょう。

ところが、人間は無駄なものとは思っていません。それどころか、ことあるごとに「自分探し」をやりたくなります。これは、自我を大切なものと考えていることの現れです。では、自我は本当に価値のあるものでしょうか? 脳研究をベースに考えていると、もしかしたら、自我は単なる幻影かもしれないのです。

私たちの成長過程を振り返ってみると、生まれたばかりの赤ちゃんは、「私って、何だろう?」と考える前に、お母さんやお父さんなど、周りのひとたちの存在に気がつきます。生命にとっては他人の存在に気づくほうが本質的ですし、なにより現実的です。それにもかかわらず、大人になると、自分の存在が最初にあって、その私がいま世界を眺めていると思ってしまいます。この「自分が先だ」という錯覚、そこが大勘違いだと、私は思います。

◆実態がよくわからない自我
それでは、なぜヒトは興味の対象を自分自身にも向けるようになったのでしょうか?
脳の構造において、ヒトとほかの動物との違いは、ヒトの大脳皮質が大きいことです。おそらく大脳皮質が発達したおかげで、ヒトは自分というものを考えるようになったのでしょう。

脳研究が進歩して、脳の機能はある程度わかってきました。しかし、自我を担当する場所はまだよくわかっていません。たとえば、自分の顔をと他人の顔を区別している領域や、記憶にに深くかかわっている領域などはわかてきていますが、だからといって、それらの場所が自我をつくっているとはいえません。強いていうなら、自我は脳のさまざま部分が連携してできるものです。つまり、自我は脳の広範囲に分散しており、その実態がまだよくつかめていないのです。

一方、私たちは自我を強固な存在だと思い込んでいるいますが、実は、とても脆弱なものであるという事実にも気づく必要があります。たとえば、寝いている間は、特に夢を見ていない時は、自我は消えています。また、麻酔にかかっている時も、私たちから意識が消失しています。そんなちょっとしたことで、なくなってしまう危うい存在。それが自我です。

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2019年04月16日

「江戸しぐさ」に学ぶ

江戸時代の人々の作法であるといわれる「江戸しぐさ」。
法律や規則で決まっているわけではないけど、粋で相手を思いやるこの仕草は、心に幸せを運んできます。
私たち現代人もぜひ真似をしていきたいものです。リンクより紹介します。

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「江戸しぐさ」は、今風に言えば江戸町民の「公衆マナー」であり、かつ「コミュニケーション・スキル」とでも言うべきものです。狭い江戸の町で「江戸っ子」といわれていた町民が使っていた世間との付き合い方や他人とのかかわり方などの所作全般を言います。この江戸しぐさの根底には、日本特有の「相手を思いやる心」を形にしたものといえます。

例えば江戸しぐさの一つに、「うかつあやまり」というのがあります。うかつ(迂闊)とは、うっかりしているさま、注意がたりないさまをいいます。例えば、往来などで足を踏まれたとき、踏んだほうが「ごめんなさい」と謝るのは当たり前の話ですが、この時、踏まれたほうも「いえいえ、私がうっかりしていたものですから」と、謝るのです。この場合、足を踏んだ側の人間は「とんでもないことをしてしまった、申し訳ない」と恐縮しているはずです。このような相手の過失を「どこに目を付けているんだ」と、せめるのでは無く、「私も注意が足りませんでした」と謝ることにより、踏んだ人間の心の負担は軽くなり、その場が和みます。このようにどの江戸しぐさも、「相手を思いやる心」に裏付けされています。これは、「お金や物よりも人間を大切にする」、「皆が仲良く平和に暮らせるためにはどうしたらよいか」、「差別なく皆が共生するためにはどうしたらよいか」という江戸時代の日本人特有の思想に裏づけされています。

ではつぎに、何故このような「江戸しぐさ」が生まれ発展していったのかを見てみましょう。徳川家康が江戸に幕府を開いてから、それまでの寒村だった江戸は、全国から、文化や習慣の違う人々が集まってきて、徳川幕府中期には百万人を超す世界最大級の文化都市に発展していったのです。しかも、江戸の町の特長は武家屋敷が大半を占め、町民や職人などの一般町民は限られた狭い地域(例えば、現在の神田や深川など)で生活をせざるを得ませんでした。そのため人間関係はたいへん難しいことになります。見かねた幕府はこの町の自治や治安などを「町衆」という大店の商人達に任せました。

町衆が最初に考えたのは、このような全国から集まったさまざまな人たちが仲良く平和に日常生活が送れるためにはどうしたらよいかということでした。そこで町衆たちは、それまでの自分達の経営哲学を具現化した、「商人しぐさ」(繁盛しぐさとも言う)、に着目しました。商人しぐさは、それまでの商人道、処世術、倫理観、道徳律、約束事などを包含し、高めたものです。この商人しぐさの背景には、仏教、神道、儒教などに影響を受けた日本人独自の哲学があります。(例えば「お天道様に申し訳ないことをしない」、「おかげさま」、「世間に対してはづかしいことはしない」、「因縁生起」などの考え方です。)
この商人しぐさを原型として一般の町民にも広げたものが[江戸しぐさ]といわれています。この「商人しぐさ」を江戸の町民全般に広げる役割を担ったのは「寺子屋」や「講」による初等教育でした。

寺子屋や講の教育の基本的考え方をあらわすこんな言葉があります。「三つ心、六つ躾、九つ言葉、十二文、十五理で末決まる」というものです。意味は、「三歳で素直な心を作り、六歳で節度ある振る舞いを覚えさせ、九歳で人様に聞かれても恥ずかしくないような正しい言葉を覚えさせ、十二歳できちんとした文章が書け、十五歳で道理(理屈)を理解することが人間教育の基本であり、これらのことを如何に理解し、実践出来るかによって、その子の将来は決定する」、というような意味です。読み、書き、算盤などの知育教育はもちろん、それ以上に人間教育に重点をおいていたわけです。今では死語になってしまった、躾教育とか修身教育とか道徳教育に重点をおいた教育をしていたわけです。

江戸しぐさは口伝(くでん)で行われていたためその文献はありません。しかも江戸しぐさという名称も、近年になって芝三光(しばみつあきら、本名は小林和雄)という人が命名したものといわれています。現在はその弟子とも言える越川禮子氏が江戸しぐさを全国に広める活動をしています。

この江戸しぐさは、公衆マナーですから法律のように「何々をしてはならない」というようなものでは有りませんし、罰則があるわけでもありません。
江戸しぐさは、一見自分に不利益な行為に見えるかも知れませんが、大局的、あるいは長期的に見れば、相手も自分も、そして世間全体も、人間関係がよくなるとか、共生するとか、平和になるなどメリットは多いのです。
ところで、江戸時代にこの江戸しぐさが出来ないと、「野暮」とか「田舎物」とバカにされるばかりか、すりや悪い人に狙われたりしたようです。逆に、この江戸しぐさができてかっこいい江戸っ子を「粋(いき)な人」といいみんなの憧れの的でした。
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2019年04月11日

人類がチンパンジーと分岐したとする定説は事実なのか?2~1980年代以降、分子系統でチンパンジー起源説に

●1980年代以降、分子系統学による霊長類分岐が全盛となる。
1981年、ヨーロッパ人の一個体でヒトのミトコンドリアDNA全塩基配列が報告される。
1987年、5地域147人のミトコンドリアDNAを調べて、ミトコンドリア・イブ仮説。
1995年、国立遺伝学研究所の宝来聡らが、類人猿4種(チンパンジー・ボノボ・ゴリラ・オランウータン)のミトコンドリアDNAの全塩基配列を解読。ヒトを合わせた5種のミトコンドリアDNAの塩基配列を比較して、チンパンジーがヒトと最も近縁であると結論づけた。

★宝来聡らの実験方法は次の通り。
5本のミトコンドリアDNAについて、一つの遺伝子を指定する配列の始まりと終わりを揃える。ミトコンドリアDNAの37種類の遺伝子のうち、タンパク質を指定する13種類の遺伝子では5本の配列は整列できたが、残りのtRNA遺伝子やrRNA遺伝子には、塩基に欠失や挿入により配列の長さが異なるので、調整した(どう調整したかは不明)。その上で、5本の配列間の塩基置換数(変異数)をコンピュータでカウント。

非同義変異数:RNA遺伝子変異数比が5種ともほぼ同じなので、分子変異速度は一定であるとして、非同義変異数とRNA遺伝子変異数を元に遺伝距離(相対距離)を計算している。オランウータンが分岐した絶対年代を1300万年前として、残り4種の分岐年代を推定。ゴリラ656±26万年前、ヒトとチンパンジーの分岐年代を487±23万年前とする系統樹を作成した。
※タンパク質を指定するDNAの塩基配列において、アミノ酸を変えない塩基置換(変異)を同義置換、アミノ酸を変化させる置換(変異)を非同義置換という。ヒト・類人猿5種では、圧倒的に同義置換が多いが、同義置換数ではオランウータンと他の4種との間で大差がない(あまり変異していない)。オランウータンの同義置換数を補正しても使えないので、分子変異速度一定に都合のよい非同義変異数RNA遺伝子変異数を使って、遺伝距離を推定している。

2001年、ヒトゲノムの配列発表。2005年、チンパンジーのゲノム配列発表。
(チンパンジー以外の類人猿の全ゲノムの解読は未了2009年段階)

2006年、ヒト・チンパンジー・ゴリラの252の遺伝子座(染色体やゲノムにおける遺伝子の位置)の比較では、ヒトとチンパンジーが近縁であることを示すのが110個(44%)、ヒトとゴリラが近縁であることを示すのが45個(18%)、チンパンジーとゴリラが近縁であることを示すのが38個(15%)、系統関係がはっきりしないのが59個(23%)で、ヒトとチンパンジー近縁を示すのは半分もない。ところが、このような事は、種分化が短期間に連続して生じ、かつ集団の個体数が大きい場合には一定の確率で生じることが理論的に示されているらしい。

※ヒトとチンパンジーのゲノム配列を比較すると1.23%の違いとされているが、この数値は相同なゲノム領域を比較した時の数値であって、一方の種には見つかる領域が他方にはないというように、構造の違いも指摘されている。

※ヒトはチンパンジーと分岐したというのが定説化したものの、その化石は発見されていない。
チンパンジーやゴリラ・ヒトの共通祖先の有力候補とされるのが、ヨーロッパで多数発見されているドリオピテクス(1200~900万年前)であるが、異論もあって未確定。実際、ドリオピテクスの化石にはヒトとオランウータンの特徴も入り混じっているらしい。また、現生人類とオランウータンの間で共通する形態的・生理的特徴が多いので、ヒトはチンパンジーやゴリラよりもオランウータンに近い主張する学者が未だに存在する。
また、分子系統学が前提とするのが分子時計の仮定「分子の変異速度が一定」であるが、種によって分子変異速度は異なっておりること、実際、分子時計による分岐年代と古生物学的な推定年代とが大幅に食い違っていることがいくつも報告されている。
「分子時計による分岐年代決定法の矛盾点」
「生物は外圧適応態であり、急激に外圧が変化すれば変異スピードは著しく早くなる。実際、カンブリア大爆発や哺乳類の適応放散をはじめとして、急速に進化する事例は生物史には無数にある。また、紫外線による破損やコピーミスをはじめとしてDNAの突然変異は日常的に起こっているが、それは修復酵素によって修復されている。その修復度合いも種によって異なっており、分子の変異速度が一定になるはずがないのである。」

【参考】
『新しい霊長類学』京都大学霊長類研究所 講談社ブルーバックス
『ヒトはどのようにしてつくられたか』山極寿一 岩波書店
『シリーズ進化学5 ヒトの進化』斎藤成也 岩波書店
『DNA人類進化学』宝来聡 岩波科学ライブラリー
『DNAに刻まれたヒトの歴史』長谷川正美 岩波書店
『アナザー人類興亡史』金子隆一 技術評論社

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2019年04月11日

人類がチンパンジーと分岐したとする定説は事実なのか?1~1960年以前は人類アジア起源説

人類は、500万年前、チンパンジーとの共通祖先から分岐したというのが定説になっているが、その定説はどのような根拠で成立したのか?
1960年以前は化石を元にしたアジア起源説だったのが、次第に、分子時計を前提とした分子系統学によってアフリカ起源説に塗り替わっていったらしい。
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●1932年、インドのシワリク高原でラマピテクスの上顎・下顎と歯の化石(1400~800万年前)。歯列や犬歯・臼歯の形や質が類人猿よりも人類に似ていたので、60年代にはラマピテクスが人類の直系祖先とされるようになった。人類はラマピテクス以前に分岐したとされ、当時の人類学の教科書では、類人猿とヒトの分岐は4000~3000万年前と書かれていた。

●1960年代に分子系統学による種間距離の測定が始まる。
グッドマンは、抗原抗体反応の大きさを使って霊長類種間の免疫学的距離を推定した。
ヒトの血清タンパク質をウサギに注射すると、ウサギはヒト血清タンパク質に対する抗体をつくる。その抗体を含むウサギの血清(抗ヒトタンパク質血清)をヒトやサルの血清と混ぜる。ヒトの血清とは強く抗原抗体反応を起こし沈殿物が多く出る。チンパンジーやゴリラの血清との反応よりも、オランウータンの血清との反応は明らかに弱かった。反応が強いほど、ヒトの血清タンパク質とアミノ酸配列が似ていると考えて、グッドマンはオランウータンよりもチンパンジー・ゴリラの方がヒトに近いと結論づけた。

1967年、サリッチとウィルソンは免疫抗体法で推定したヒトや類人猿の免疫学的距離に分子時計の考え方を導入して、分岐年代を推定した。
ヒト・チンパンジー・オナガザルの血清アルブミン抗体をつくり、ヒトや類人猿、オナガザルの血清と反応させ、ヒト・チンパンジー・ゴリラ・ウランウータン・テナガザルの免疫学的距離を推定、ヒトはオランウータンよりもチンパンジー・ゴリラに近縁であると結論づけた。
さらに、種間の免疫学的距離の常用対数が2種の分岐年代に比例すると仮定して相対的な分岐年代を推定。オナガザルと類人猿が分岐した絶対年代を化石記録から3000万年前と固定。そこから計算してチンパンジー・ゴリラとヒトが分岐したのを500万年前と推定した。

●分子生物学者と化石学者(1400万年前のラマピテクス説)との間で論争が始まるが、次第に分子系統学派が優勢になってゆく。
例えば、1970年代には、雑種DNA形成法による遺伝的距離の測定が始まる。
比較する動物の二本鎖DNAをほぐして一本鎖にし、混ぜ合わすと二種のDNAが組み合わさった雑種DNAができる。二種の動物のDNAでは塩基配列が少しずつ違うので、雑種DNAでは、元のDNAのような結合対は組めなくなり、熱的に不安定になる。熱安定性の低下の度合いを図ることで、DNA塩基が異なっている割合を推定する。これが雑種DNA形成法。
1977年、サリッチとクローニンは、免疫学的距離と雑種DNA形成法による遺伝的距離を測り、オランウータンが分かれたのが1100~900万年前、ヒト・チンパンジー・ゴリラが分かれたのが500~400万年と結論づけた。

1978年、パキスタンのポトワール高原でシヴァピテクスと呼ばれる類人猿の顔面と頭蓋片の化石が発見された。化石形状からシヴァピテクスがオランウータンの祖先とされると同時に、ラマピテクスもシヴァピテクスのメスであり、オランウータンの祖先と看做されるようになる。1980年代以降、人類のアジア起源説は廃れ、500万年前アフリカ起源説が学界の定説となった。
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【参考】
『新しい霊長類学』京都大学霊長類研究所 講談社ブルーバックス
『ヒトはどのようにしてつくられたか』山極寿一 岩波書店
『シリーズ進化学5 ヒトの進化』斎藤成也 岩波書店
『DNA人類進化学』宝来聡 岩波科学ライブラリー
『DNAに刻まれたヒトの歴史』長谷川正美 岩波書店
『アナザー人類興亡史』金子隆一 技術評論社

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2019年04月09日

霊長類の色覚は、顔色を見分けるために進化した

◆ヒトはなぜ「色」を識別できるのか
我々が認識しているところの色とは、物体に当たって跳ね返った光のパターンです。 光には赤・青・緑の三色の可視光線があり、この三光線が物体に当たってどのように跳ね返ったかで色が決まります。
「人間はもっと沢山の色を認識できる」と思うかもしれませんが、実は我々が認識している全ての色は赤・青・緑の三色の組み合わせでしかありません。 この三色があれば100万色を表現することが可能であり、絵具などでも赤・青・緑の三色さえあれば混ぜて色を作ることができます。

それではなぜ三種の光を色のある可視光線として人間の目が認識できるか。それは網膜にある「錐体(すいたい)」という細胞が、長波長の光を赤く・中波長の光を緑に・短波長の光を青く認識し、それらの組み合わせによって我々は色を認識しているのです。

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◆動物の進化と色覚
およそ5億4千万年前に三葉虫が生命で初めて「眼」を獲得しました。 それから生物は様々な進化を遂げ、それに伴って色を認識する能力も変わっていきました。全ての動物がまだ海中にいた頃、魚は進化の過程で色覚を得ました。 魚は視力はそれほどでもありませんが色覚はとても優れており、赤青緑の三色の他に紫外線を認識することも可能です。
魚は長い時間の中で進化を重ねて、中には陸上へと進出する動物も出てきました。 そこから派生した昆虫、爬虫類、両性類、鳥類も基本三色に加えて紫外線を認識できる四色色覚のものが多いです。

無題

しかし哺乳類は少し事情が変わって二色色覚のものが多いです。 これは哺乳類の共通の祖先が完全な夜行性となり、赤い光と紫外線を認識する必要がなくなったのが理由のようです。しかし哺乳類は進化するうちに、夜行性から昼行性へと行動様式を変える種が出てきました。 その中でも最初に昼行性へと適応したと考えられているのが我々の祖でもある霊長類です。

◆霊長類の色覚は、顔色を見分けるために進化した
ヒトを含む多くの霊長類は、前述の通り3色型色覚で世界を見ています。3色型色覚は、赤い果実や若葉を緑の葉の背景から見つけることに適しているため、祖先型である2色型色覚から進化したと考えられています。しかし、果実を見つけること以外でも3色型色覚が有効な場面が考えられ、その候補として顔色変化などの社会的シグナルの検出が挙げられていました。

九州大学大学院芸術工学研究院の平松千尋助教、カルガリー大学人類考古学部Amanda Melin助教、ニューヨーク大学人類学部James Higham助教らの共同研究グループは、霊長類の3色型色覚が、顔色変化の検出に有効であることを初めて実験的に証明しました。繁殖期に顔が赤くなるアカゲザルの写真を用い、様々な色覚の見え方を模擬して、ヒト参加者にメスの繁殖期と非繁殖期の顔を見分けてもらいました。その結果、霊長類が持っているL錐体とM錐体の波長感度が長波長域に偏った3色型の色覚は、3種類の錐体の波長感度が均等に分布した3色型や、2種類の錐体により色弁別を行う2色型よりも顔色の変化をよく検出できることが分かりました。

この結果は、社会的シグナルの検出が3色型色覚の適応的意義の一つであることを裏付けるものです。ヒトが顔色から感情を読みとり、健康状態を察知できるのも、霊長類が持つこのような色覚特性のおかげであると考えられます。今後、霊長類進化のどの段階において、顔色変化が社会的シグナルとして使われはじめたかなど、霊長類の色覚の適応進化の過程に迫ることが期待されます。

九州大学 研究成果

【参考】
・るいネット「動物が認識できる色(色覚)は?」(リンク
・キャノンサイエンスラボ・キッズ「光のなぞ」(リンク
・九州大学 研究成果「霊長類の色覚が、顔色を見分けるのに適していることを証明」(リンク

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2019年04月05日

男性が遊女に望んだ無理な理想

江戸時代の遊女は、「わっさり」した様子が望ましいとされていたようです。

「わっさり」とは、「ちいさな物事には、こだわらない様子」で、「おっとりしている」ということらいいのですが、この時代遊女に求められた理想像には窮屈なものもあったようです。https://woman.mynavi.jp/article/150211-19/より

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遊女が「まことの遊女」、つまりは一流とされるには、色々な基準をクリアすることが必要でした。中でも江戸時代の上方(関西)の文化をリードした作家・井原西鶴の言葉によると、「まことの遊女」とされる重要条件のひとつが「恋ならば、いかなる者にも情けをかけてこそなり」ということ。 つまり、一流の遊女ならば「あなたに恋するすべての男性を、平等に、丁寧に接客してこそ」と解かれているわけですが、つまりは「聖女になりなさい」といわれているようなものですよね。 さらに続くのが「見た目や性格が気に入らない相手はもちろん、どんな病気の人ですら嫌がらずに接してやれ」という部分で、そういうのは理想でしょうし、男性の夢でしょうが、ハッキリいって無理です。病気の話はまた今度するとして、どうやって遊女たちは男性の幻想に応えたか、というと、今も昔も同じでキャラを作ったのですね。

江戸時代には多くの遊女についてのエッセイが残されており、その中で「わっさり」した様子の遊女こそ望ましい……という論調が多いわけです。「わっさり」という字面は、現代語の「あっさり」と似ていますが、少しニュアンスが違います。「ちいさな物事には、こだわらない様子」で、「おっとりしている」ことなんですね。

遊女はいわば「会いに行けるアイドル」ではありましたが、この時代、もっともアイドル的な要素は「お姫様らしさ」なんですね。「高貴さ」という属性が、現代では考えられないくらいのフェロモン要素だったのです。そして、しょせんはイミテーションにせよ、高級な遊女にもお姫様のような、「わっさり」とした振る舞いが大事だったのです。ホントにバカっぽいのも論外なんですが、知的な部分が目立ちすぎると、これまたダメなのですよ。

それでは遊女たちが「わっさり」と自分を見せるために行った具体的な努力のひとつに、食欲をセーブすることが挙げられます。特別に心を許した男性の前以外では、遊女はお酒を口にする程度。どんなに豪華なご馳走が出されても、またどんなに空腹でも、パクパク食べてしまうのは慎んだのだそうです。 これは遊女だけでなく、当時の一般女性も同じです。家族や夫に相当するくらい、親しい間柄の男性の前でのみ、飲み食いしてもOKという、現代では考えにくいルールがあったわけですね。 遊郭によっては自分が抱えている遊女たちに、普段は満足にご飯も食べさせず、お客が付いた時に、どんどん高い料理を注文、ケータリングさせ、その時だけは(店にマージンが入るため)ガンガン食べてもいいよという風にしている、悪質な場合もありました。遊女は食べたくても食べにくいのですから、酷い話ですよねぇ。

とにかく食事関係、料理関係で遊女にはNG項目が多く、たとえば食材の名前やら調理法などを知り尽くしてることを明らかにするのもダメでした。現在でも家庭料理を作って振る舞いたがったり、会食や合コンの席で、テキパキと取り分けしたり、出しゃばる女性の男性ウケは(案外)悪いのと似ているかもしれません。当時も仕切り屋っぽい女性は、敬遠されがちだったのです。

しかーし、いくらおっとり振る舞っても、お布団の中に入ってからのプレイ時間が長いのはダメなんです。そんな遊女は二流の証。優秀とされる遊女ほど、実質的なプレイ時間は短く、男性はいわば瞬殺でした。「能ある鷹は爪を隠す」式に、おっとりした部分と、猛禽のように、獲物を一瞬で仕留める強さを併せ持つ遊女こそが一流だとされたのでした。 昼は聖女、夜は娼婦なキャラの女性が最高という表現がありますが……江戸時代のハイステイタスな遊女はそれ以上に、矛盾する要素をいくつも備えている必要があったのです。

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2019年04月02日

赤ん坊の言語習得過程から人類の言語の進化過程を探る5

『赤ちゃんの進化学』(西原克成著)によると、赤ん坊は一歳までは身体構造上、気管と食道が分かれている。これは、サルをはじめとする哺乳動物と同じであり、身体構造的に言葉を発することができないらしい。

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胎児では、受精後、単細胞から始まって、心臓が動き出し、受精後30日ぐらいから魚類になり、両生類になり、手が生まれ、爬虫類になり、哺乳類になり、やがて刻々と人間(ヒト)になっていく。

しかし、一歳までの赤ちゃんは、ホモ・サピエンスではなく、他の哺乳類と同様の特徴をそなえている。

一歳を過ぎた頃から、赤ちゃんは段々に人間になっていき、二歳半の頃になってようやく「ホモ・サピエンスの子供」になる。

赤ちゃんは、母親の乳首に吸いついて数分間、息継ぎもせずにお乳を飲む。これは、人間以前の哺乳類に出来るが、大人の人間にはできない。つまり、大人は食べ物や飲み物を飲み込むとき息を止めるが、赤ちゃんは息を止めないでも飲み込める。

大人は、食道と気管が交差しているが、赤ちゃんは、この食道と気管が分かれていて、食道と気管がそれぞれの働きを同時にに行うことができるからである。サルやイヌ、ネコなど他の哺乳動物は、赤ちゃんと同じように、息継ぎせずに、食べ物を食べ続けることができる。ということは、赤ちゃんの身体構造は、他の哺乳動物と同じ段階にある。

成長した人間だけが他の哺乳動物と異なる喉の構造になったのは、人間が言葉を話すようになったためである。
声を発するメカニズムは、肺にある空気を、鼻ではなく、口へ向かって吐き出すことで、哺乳動物は声を発する。このとき、気管から鼻へ向かうべき空気が、喉の交差点で、口へと向かう。動物が吠えるときは喉を激しく緊張させ、かつ運動させ、気管を強引に喉の方に近づけ、食べ物の道である口につなぎ、さらに声を発する(吠える・鳴く)。これは、かなり努力を要する特別な作業である。赤ちゃんが泣くときも、全身に力をこめるほどの大変な作業をすることで泣くのである。他の哺乳動物と同じように、気管を強引に喉につなげることで泣き声を発するからである。

これが成人になると、食道と気管が喉で交差し、つながってしまうので、私たちは苦しまずに、声を発することができるのである。赤ちゃんが言葉を話すのは、構造的に無理なのである。

気管と食道が交差してある程度、人間の構造を備えてくるのが、一歳ごろだといわれている。
二歳半といえば、言葉もだいぶ話せるようになった頃であり、自分のアンヨで立って歩くことも楽にできる頃である。したがってこの時期までは、「この子は今、必死で進化の過程を歩んでいるのだ」と考えることが大切である。そして、三~五歳ごろに脳細胞が急激に発達する。

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赤ん坊が1歳になる頃には、もう一つの顕著な変化がある。

生後数ヶ月の赤ちゃんはあらゆる言語の音を聞き分けられるらしい。それが、1歳を迎える前に大きな変化が起き、自国語に応じた脳構造に変化するらしい。

TEDスーパープレゼンテーション・パトリシア・クール 「赤ちゃんは語学の天才」

■赤ちゃんはあらゆる言語の音を聞き分けられる。
ところが、成長すると自分の言語の音は聞き分けられても、外国語の音は聞き分けられなくなる。
この言語習得の「臨界期」は1歳の誕生日=生後12ヶ月だと考えられる。

■1歳の誕生日を迎える前に大きな変化が起きる
東京の赤ちゃんと シアトルの赤ちゃんについて 「ra」と「la」を聞き分けるテストを行なった所、生後6~8ヶ月の赤ちゃんでは違いが見られなかった 。それが2ヶ月たつとアメリカの赤ちゃんは成績が良くなり 日本の赤ちゃんは悪くなる。
どちらの赤ちゃんも、自分が身につける言語を学ぶ準備をしている。この音の理解が発達する2ヶ月の間に、頭の中で何が起きているのか?

この2ヶ月に間で、赤ちゃんの頭の中で言語の統計処理が行なわれており、赤ちゃんは言語の統計を吸収し それが脳を変化させる。

一方、バイリンガルは2つの統計のセットを保持していて、誰と話しているのかに応じて 切り替えている。では、赤ちゃんは、新たな言語に対しても 統計処理ができるのか?

第2言語に接したことのないアメリカ人の赤ちゃんに、生後8~12ヶ月の言語習得の臨界期に初めて中国語に触れさせると、10ヶ月半ずっと中国語を聞いてきた台湾の赤ちゃんに劣らぬ、良い成績になった。赤ちゃんは、新たな言語に対して統計処理をしている。何語であろうと赤ちゃんは接した言語を統計処理する。

■赤ちゃんが統計処理をするためには本物の人間の存在が必要
別なグループの赤ちゃんに、同様の実験をテレビを通して行い、また別なグループにはクマのぬいぐるみの映像を見せながら、音声だけのセッションを行った。音声だけの場合もテレビの場合も、学習効果は全く現れなかった。
つまり、赤ちゃんが統計処理をするためには本物の人間の存在が必要ということ。

 

 

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2019年03月26日

生殖細胞(受精卵割)と中心小体4(竹内美継説)

以下は、 『中心小体論~「膜」の存在とその階層性について、意志は記憶のベクトルである。』(竹内美継共著 六方出版社 2000年刊)の一部要約。

始原生命体の進化は第一次生命体である細菌の段階で終わった。
中心小体類が第二次細胞膜を所持することによって、第二次進化が始まった。
真核生物の生殖細胞が独立性と連続性を所持することによって、第三次進化が始まった。
第三次生命体の始まりが受精卵。受精卵の卵割が生命体の形態を決める。
卵割には様々な様式があるが、中心小体が卵割の様式を決め、卵割の様式によって動物界の進化の方向が決定される。

以下※は動物の発生① 卵割より引用。
※卵黄は発生に必要な成分を含むが、卵割においては分裂を阻害する。つまり、卵黄の少ないところで卵割が進行するため、卵中に含まれる卵黄の量によって卵割の種類が異なる。また、卵黄の分布のしかたで、卵割の様式が異なる。
※人類やウニの卵は卵黄が均一に分布する等黄卵であるため、割球の大きさがほぼ均等である等割を行う。カエルなど両生類の卵は卵黄が多く、偏って分布する端黄卵であり、第三卵割(緯割)は卵黄が少ない側で起こる。その結果、割球は不等割となる。

③ 卵の種類と卵割の様式
【卵の型】 【卵割型】【卵割様式】 【代表的動物群】

少黄等黄卵  全卵割  放射卵割   棘皮動物(ウニ、ヒトデ)
少黄等黄卵  全卵割  ラセン卵割  軟体動物、環形動物
少黄等黄卵  全卵割  回転卵割   哺乳類
中黄卵    全卵割   放射卵割   両生類、ヤツメウナギ、肺魚類
端黄卵    部分卵割 盤状卵割   大部分の魚類、爬虫類、鳥類
心黄卵    部分卵割 表層卵割   昆虫類、節足動物

卵割には対称性がある。放射相称(←放射分割)、らせん状(←らせん全割)、左右対称(←左右対称全割)、回転対称(←回転卵割)。
これは全て中心小体の位置によって決まるが、自然外圧による淘汰の結果、現在の対称性だけが生き残った。初期卵割の方向性が対称性に大きく関与している。例えば、哺乳類~人類は90°回転卵割するが、これは中心小体が90°回転移動するため。

卵の形と卵黄の量、分布が進化の方向を決めた。進化の方向を決定した卵割を成すのも中心小体(第一次生命体)である。中心小体にとっての外部要因(卵の大きさと形、卵黄の量と質、卵黄の分布など)の変化が中心小体の位置を変化させ、その結果として卵割面の位置・角度に変化が生じ、進化の方向が変わる。

卵割様式の差異から生じる進化の方向性の違いにより、進化の方向(系統樹)の違いが生じる。しかし、現在の常識では形質・形態的な違いに基づく分類をしている。例えば、脊椎の有無だけで、脊椎動物の系統樹を作成しているが、それは誤りである。
卵の形、卵黄の量、卵割の型や様式によって進化の方向性に差異が生じるのであるから、系統樹は現在考えられているものよりも、多岐なものであると考えられる。
【仮説】脊椎動物の系統樹は、次の3つの系統樹の並行的進化により形成された。
A 少黄・等黄卵全卵割系 哺乳類・ウニ・ヒトデ (ウニと哺乳類~人類は共通の祖先を持つ)
B 中黄卵全卵割系    両生類・ヤツメウナギ・肺魚類
C 端黄卵部分卵割系   大部分の魚類・爬虫類・鳥類

つまり、「別々の系統樹から、脊椎という共通の仕組みができたということである。
別の系統樹であっても、よく似た自然条件の中で、自然淘汰された各々の系統の形質・形態が類似するのは当然のことである。だから単純に形質の類似だけで分類してはならない。

この仮説が正しければ、哺乳類~人類は、ウニ・ヒトデと共通の祖先(生命体)から分かれて進化した動物であり、現在の魚類→爬虫類→鳥類や両生類とは異なる系統樹であると考えられる。(両生類と爬虫類→鳥類は系統樹が異なる)
人類は少黄等黄卵の魚類→肺魚類→両生類→哺乳類→人類という進化をしたと推定される。
少黄等卵の全卵割する魚類が発見されれば、この仮説が間接的に証明されるはずである。

 

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2019年03月19日

生殖細胞(精子・卵子)と中心小体3(竹内美継説)

以下は、 『中心小体論~「膜」の存在とその階層性について、意志は記憶のベクトルである。』(竹内美継共著 六方出版社 2000年刊)の一部要約。原文の「記憶」は必要に応じて「機能」と読み替えている。

第一次生命体(中心小体)→第二次生命体(前期真核生物)が、多生命体で一つの生命体の方向に進化。細胞の分化とともに独立性を保持し、全能性の生殖細胞を生じた。この生殖細胞の機能である減数分裂の結果として精子と卵子がつくられた。
精子・卵子も中心小体によってつくられたn体の生命体である。

●精子の中に、独立性と連続性を保持した一対の中心小体が存在している。この中心小体のうち、前部中心小体だけが生き残る。また、精子由来の中心小体だけが生き残るといわれている。
精子の前部中心小体と卵子の中心小体の一体が一対になり、これに付随する形で雌性前核と雄性前核が一つになる。

●受精卵になる直前に、中心小体は注目すべき動きをする。
卵子の中に入った精子は、塩基性蛋白質によって凝集していた核を脱凝集させ、核膜をつくる。これが雄性前核であり、この前核を雄性中心小体が卵子の中央に引っ張ってゆく。同時に雄性中心小体は、雌性前核も中央に引っ張り、雄性前核と雌性前核を融合させる。これは雄性中心小体に接合体核(2n)を保持するという機能があるためと考えられる。

●卵子も、始原生殖細胞の分化によってつくられた卵母細胞の減数分裂によってつくられる。この始原生殖細胞は第二次生命体の完成形であり、第一次生命体によってつくられた原始真核生物の進化の結果として誕生した。

 【仮説19】
・精子の前部中心小体が雄性中心小体、後部中心小体が雌性中心小体。

・受精卵に残る中心小体が雌性中心小体。受精卵の極体に移動する中心小体が雄性中心小体と推定される。
但し、この仮説に適合する生命体は発見されていない。また、この仮説は真核生物の初期段階にしか適合しない可能性がある。

というのも、マウスの卵細胞では減数分裂~胚発生の初期の間、中心小体の存在が認められない。
その理由は、中心小体が記憶素子・単子が集合した統合体であり、中心小体が見えなくなるのは記憶素子・単子の状態に離散しているからだと推定される。

また、雌性中心小体は生き残ることができず、雄性中心小体だけが生き残る生命体がほとんどだといわれている。
これは、第一次生命体(中心小体)が第二次生命体(生殖細胞)に全権を委任→雌雄に分化、かつ核の独立状態が確立された後は、雌性中心小体の進化に関わる役割の相対的低下が起きたからだと推定される。精子由来の中心小体だけが生き残るという機能は多精受精が行われていた時に生じたものと思われる。

また、受精卵(第三次生命体)では接合体核を所持することが目的となり、相対的役割が低下した低下した雌性中心小体が生き残れないということも考えられる。

 

 

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