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2017年03月23日

教育改革による地方再生~成功のカギは「志」の育成

島根県隠岐諸島・中之島に位置する海士町はかつて高齢化・過疎化で存続の危機に陥っていたが、島民一体で産業創出
や都市交流、教育改革に取り組んだ結果、今では都会から300人のIターン者が集まる活気あふれる街になっている。
一過性の町おこしに終わらず、恒久的に街が発展していける仕組みをつくった海士町は今や「離島の星」として、全国から脚
光を浴びている。(リンク

今や日本中どこでも地方再生に取り組んでいるが、教育改革で活気あふれる町になった事例は珍しい。
一体どのような改革を行なったのか。

ポイントは、地域の課題を高校生自らが取組んでいることにある。
教科書を学ぶだけでは何も解決しない現実課題であること。
それは、「人や社会の役に立ちたい」という若者の最大欠乏と合致していること。
加えて、地域課題に取り組むことで、地域に貢献したい、故郷に恩返ししたい、という「志」をもった人間が生まれていくこと。
「志」教育、今もっとも求められる人材育成がここで行なわれている。だから、全国から注目が集まっている。

 

 

“志の育成”、全国からの“島留学”。魅力溢れる離島の教育改革 (リンク
島根県に海士町(あまちょう)という島がある。
以前は若い人たちを中心に人口流出が止まらず、島の高校は廃校寸前だったが、教育改革により島はⅤ字回復した。
「教育が地方を救う」21日の教育のキモでは、このサクセスストーリーを作ったプロジェクトメンバーの一人、株式会社Prima Pinguino(プリマ・ペンギーノ)代表取締役社長、教育政策アドバイザーの藤岡慎二さんにお話を伺った。

◆ 離島での教育改革
藤岡さんは11年前にPrima Pinguinoを創業。
当初は高校生向けにキャリア教育の教材作成などを展開していたが、海士町の知人からある連絡が入ったのをきっかけに、
藤岡さんの第2のキャリアが始まった。

藤岡さん「海士町から公営塾の講師を紹介してほしいという依頼だったのですが、離島での教育改革という聞いたことがない
プロジェクトに、私自身がやってみたくなりました。島というと最初は閉鎖的なイメージでしたが、島の人が前向きで何とかし
てみようと。」

当時の海士町は、超少子高齢化で人口流出が止まらず、行政は財政難と課題だらけの離島だった。このため、島にある隠
岐島前高校は、入学者数が減り存続の危機に直面していた。
「高校がなくなれば高校生だけでなく、子育て世代が家族ごと都市部に引っ越し、これから地域を担う世代がいなくなる。」と
危機感を持った行政、住民が立ち上がり、まずは高校からと「高校魅力化プロジェクト」をスタートした。

 

◆ 高校魅力化プロジェクト
藤岡さん「地方出身の若者は『仕事がないからふるさとに帰れない』とよく言います。
しかし人口減少・流出にあえぐ地域としては、『仕事をつくりに帰りたい』という気概を持った人材が必要です。
高校ではそのような意識を育む学びをみんなで考えました。」
高校魅力化プロジェクトの柱は3つ。「その地域・高校ならではの学び改革」、「公立塾」、そして「教育寮」だ。

 

◆ 高校生が地域の課題を探し出し、解決に向けて大人と一緒に取り組む
「海士町は、課題先進国日本の中でも、さらに20年、30年先を行く課題先進地域。まさに世界最先端です。
高校生が地域の課題を探し出し、解決策を大人にプレゼンし、解決に向けて一緒に取り組む。課題先進地域だからこそでき
る学びです。」
課題山積の離島だからできる。まさに「逆転の発想」、「ピンチはチャンス」だ。

 

◆ 学力だけでなく、志を育成
さらに「公営塾」では、「学力だけでなく、志を育成する」(藤岡さん)という。

藤岡さん「塾はふつう学力だけですが、ここでは自分たちの夢を発表し、ディベートをし、進学や就職の目的意識を学力ととも
に育てていきます。そんな学び舎は都会にはあまりないと思います。」

 

◆ 日本全国、世界各国から募集する“島留学”制度
そして「教育寮」。

海士町では、これらの教育内容に興味がある生徒を、地元からだけでなく、日本全国、世界各国から募集する“島留学”制度
を実施している。
「いまや高校生の半分は、島外出身者。ドバイの日本人学校にいた生徒や、東京、大阪など都市部からも生徒が集まり
ます。」
プロジェクトを始めて以来、地元に貢献したい、ふるさとに恩返ししたいという生徒が増えたという。

藤岡さん「ふるさとに戻り、地域の課題に挑戦することで地域を元気にして恩返ししたいという生徒が増えました。さらに、
偏差値だけで進学先を選ぶのではなく、目標を持ち、大学で学ぶ目的を明確に持って進学するようになりました。

 

◆ 挑戦は全国に…
そして、こうした挑戦は、全国にも広がっている。

「長野県白馬村は人口9千人ですが、200万人の観光客が訪れ、外国人も多いです。県立白馬高校では、国際観光課を作っ
て全国から高校生を募集しています。また、広島県立大崎海星高校も離島にありますが、この島は瀬戸内海の海賊の一派の
末裔が住む島です。
これを活かして、社会の“潮目を読む”「潮目学」、自分を読む「羅針盤学」などを教えています(笑)。」

しかし、高校魅力化プロジェクトにもまだ課題はあると藤岡さんはいう。
「いまは生徒の数が多くなることがいいことだと言います。しかし、実は生徒の奪い合いになっているのです。これからは生徒
が少なくてもいい学校を目指さなければいけません。限られた人数でもICTをフル活用し、地域と連携することで最高の教育
効果を得られるような学校づくりを全国で展開したいと思います。」

疲弊する地域を救う高校魅力化プロジェクト。藤岡さんの挑戦は続く。

 

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2017年03月09日

実現の時代~「社会認識」が古い制度を駆逐し、現実を塗り替える

以前の記事で、教育改革に取り組んでいる世田谷区長について紹介した。

「教えない学校」~自治体首長も教育革命に取り組んでいる

彼のブログを読んで感じたこと。
「制度」はどのように変化し、実現していくのだろうか。

現在の学校教育制度は、明治時代の西欧列強の外圧に対峙すべく、軍隊式を取り入れ、国家の手足となる人材をつくる目的であった。
現在の外圧はどうだうか?
政治、経済、環境、医療、教育、子育て、高齢者、、あらゆるところで問題は山積み、もはや国家統合が機能不全を起こしている。
だからこそ統合者は不正選挙までして、法制を強化し、制度収束を強め、強制力を強め統治するしかない状況に追い詰められている。
しかし、古い強制制度は「制度疲労」を起こし自滅する

このように社会が閉塞状況に陥っているということは、
これまで社会を導いてきた思想、観念、法律、制度などが間違っていたということ。
とりわけ、その中心にあった近代思想(個人、自由、平等、、)の罪は大きい。
その近代思想を、純粋無垢な子供たちに強制的に植えつけてきたのが、「学校教育」である。

現実の社会問題に危機を感じ、新しいあり方を模索して、古い制度から脱し、動き出した先人はたくさんいる。
すでに、多くの成功例も報告されている。
現実の場で変革し、新しい可能性を実現していくことが、人々を説得する確かな力となる。
そして、現実の断片的な問題群を歴史構造的に認識することが、極めて重要だ。
社会認識と、外圧適応の変革、その両輪が現実を変えていく。
もはや古い制度では適応できない、負けていくばかり。
新しい認識が、古い制度・認識を駆逐し、新しい社会へと塗り替えていく。まさに「実現の時代」。

 

■■2014年8月26日
「代ゼミ20校閉鎖」で見えた競争の変化

60年代の高度経済成長期から親子2代にわたって続いた安定期は、90年代半ばに終わりました。社会に出ていく若者たちの前にはもう、安心して身を委ねることができる「太いレール」はありません。この間に平均賃金は下がり続け、職場における競争は激化し、スピードと効率、さらには正確な処理も求められ、長時間労働も常態化しました。

時代の変化は、少子化だけではありません。97年の金融危機を引き金とした長期不況の中で、企業にはリストラの嵐が吹き荒れました。全人格を会社に委ねていたような人々は、非情な肩たたきにおびえました。「終身雇用」は名実ともに崩れ始めています。

いま、盤石に見える企業も10年後には解体・再編の渦中にあるかもしれません。「いい会社に入れば生涯安泰」どころか、会社に入っても競争は続き、「いつ何があるかわからない」状態に転じているのです。

もはや、20年前のように、「いい学校を出て、いい会社に入るのが人生の幸せです」と言われても、にわかに肯(うなづ)くことのできない現実があります。ステレオタイプの受験競争や偏差値信仰はようやく過去のものとなりつつあります。

 

■■2015年2月17日
「不自由な生活」から「自由な発想」生まれるか

高度経済成長モデルが崩壊し、90年代後半から日本社会はデフレ不況と収縮型の社会へと変化しました。「学歴」や「偏差値」を絶対化する神話も崩壊し、「学びとは何か」「人が生きる上で必要な知力とは何か」という本質が問われる時代に入ってきました。

これまで、受験を前に行われてきた「詰め込み勉強」は、暗記力と早く迅速な情報処理力に重点が置かれていたのに対して、今後は「課題発見能力」「複合的な課題を結合する編集力」「目に見えない変化を見通す想像力」などが重視される方向へ舵は切られつつあります。

大学入試に詳しい「リクルート進学総研」の小林浩所長は「暗記した知識を再生するだけの入試を受けて大学に入ることがゴールだった時代は終わり、知識を活用する力を身につけて入学後も能力を高めることが求められ、偏差値だけで学校選びができない時代が来る。少子化で予備校や塾の再編も進んでおり生き残りをかけてカリキュラムを変えていく動きは広がるだろうし、多面的な力をどのように育成していくか、予備校だけでなく学校教育全体が変化を求められることになる」と話しています。(NHKニュース)

教育内容が単なる「暗記力」「情報処理力」であれば教えることも、評価することも安定した経験則が存在しています。一方で、学科を超えた学びや、自由な想像力、議論を通して認識を共有し高めていく力などを教えることが果たして制度化できるのだろうかという疑問があります。

制度設計をしていくのは誰でしょうか。それは、きっと文部科学省の官僚です。かれら自身が、これまでの教育制度にどっぷりつかって子ども時代を過ごし、成績や受験での「成功体験」を刻んできた存在のように思えます。「常識的な発想」「定番の処理」に手慣れた官僚が、新たな価値軸を提示していく制度設計をするためには、まず自らが変わる必要があります。

これから、文科省が取り組む大学入試改革を前に、「自由に発想する技術」、「創造性を高める教室」などが流行するかもしれません。しかし、「自由な発想」を「不自由な生活」からめざせというのは無理な話です。

親として心がけたいのは、制度の転変に右往左往しないことです。子どもは、自ら内側に育つ力を持っています。遊びの中から生まれる濃密な時間、全身をつらぬく感動、そして興奮と鎮静。子どもが子どもとして過ごせる環境を守るのが親の役割だと思います。

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2017年03月02日

教育革命~地域産業と教育の一体化に可能性

>学校教育:男女共学か別学か~生産活動に根ざした教育機関であることが先(リンク

「元来、教育は生産者を作り出すためにある。」

つまり、生産活動と切り離された教育では意味が無い、ということ。
「学校」のあり方、「学び方」を根本的に変えていかなくてはならない。
現状の学校(制度)は、無目的で現実と繋がらない勉強圧力ばかりで、子供たちの活力を下げるだけの害悪であり、そればか
りか思考停止人間を作り出す張本人である。だから、何の生産課題も無く、現実社会から切り離された無圧力空間たる学校教
育を、生産活動を軸とした教育機関に変えなければ、根本解決にはならない。

地域産業と教育の一体化が出来ないか、
そうすれば、教育改革も産業再生も地域活性化のもとに地域一体で取り組んでいける皆の課題となる。
行政と、生産者と、教育者と、子ども達(保護者)とがひとつになれば、何だって出来る気がする。

単に学校授業に職場体験を組み込んだだけでは、大きくは変わらないだろう。
単に学校で生産者が出張授業をしたところで、施設建設や単発のイベントを仕組んだところで、大きくは変わらないだろう。

地域産業には、その地域固有の歴史文脈があり、代々受け継がれてきた使命とともに歴史がある。
地域を守り、育てていくためには、歴史や人々の想いを時間をかけじっくりと教え、学び、血肉に染み込ませる必要がある。
地域のDNAを未来に脈々と受け継いでいくのは簡単ではないが、「ものづくり」とはそういうものだ。

新潟県燕三条の取組みを紹介する。

「ものづくりニッポン」という言葉をよく耳にする。
しかし、私たちは「ものづくり」の楽しさや大変さを、次の世代にどれだけ伝えられているのだろう。
そもそも、私たち自身は「ものづくり」をどれくらい知っているのだろうか。

例えば、毎日の食事で使われている包丁。
この包丁ひとつとっても、切れ味を出すためにどのような工程を経ているのかは、製造現場を見ないとわからない。
高度成長期以降、「燕三条」の大人ですらそうだった。
しかし、この地域では、約十年前から伝統継承の教育が始まった。
今、三条市内のすべての小中学校では、授業の中で和釘づくりや包丁研ぎなどを体験するまでになっている。

燕三条では、「ものづくり」を地域の文化と誇りとして子どもたちに伝承しようと、産業界とともに教育の仕組みづくりの努力を
続けてきた。燕三条が面白いのは、伝統継承についての問題意識をもつ大人たちが、「子どもが憧れる、ものづくりの現場」
を目指して改革に取り組んでいることだ。生きたキャリア教育を実現するためでもあり、職場そのものに魅力や将来性を感じ
てもらうためでもある。燕三条の産業とキャリア教育が一体になって起きたシフトには、日本の他地域がいかにして伝統文化
を継承していけばよいのか、そのヒントが隠されている。

燕市でも高度成長期以降は職人を目指す人が減り、後継者不足で廃業する工場も増えていった。
同時に宅地化が進み、工場は人々の視界に入らない工業団地などにどんどん移転していく。
そんな中、ものづくりのDNAを絶やさぬように、十年ほど前から小さな変化が始まった。
燕三条の学校教育に、地元の特色である「ものづくり」の現場を知ってもらう体験授業が組み込まれたのだ。

三条市では、子ども向けだけでなく、教員向けの教育プログラムにも力を入れている。
「三条学」講座と呼ばれ、三条市の教職員を対象に、彼らが三条の良さを子どもたちに伝えられるように、三条のヒトやモノ、
自然を知ってもらう内容になっている。「三条の子どもに教えるためには教師自身が三条のことを知らなくてはいけません。」
日本全国で見直されている「特色をもつ地域づくり」のヒントがここにあるのではないかと感じている。
大事なのは、自分たちの特色を発信することだ。地域の企業が行政と一体になり、自分たちの取り組みをオープン化して発信
することは、人に見てもらうために自らに磨きをかけて成長することにもつながる。そういう企業が集まると、産業全体もオープ
ン化して情報を発信することになるので、産業そのものが活気づく。

さらに、地域の特色を発信する相手を大人だけでなく、教育現場にも広げることで、子どもたちは自分たちのルーツに誇りを
もてるようになる。そうすることが、地域の未来には不可欠になってきているのだ。

参照:リンク

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2017年02月23日

古い強制制度は「制度疲労」を起こし自滅する

1970年、豊かさ実現により、社会構造(パラダイム)が大きく変わった。
人々は「飢え」を前提に、力のあるものに従わざるを得ないという、力の原理=本能的条件が無効となったこと。
その結果、力の原理=序列原理で成立している国家権力が、ますます強制圧力(制度・法律)を強めている。
しかし、強制圧力を強めるほどに、現実社会と乖離し、単なる制度圧力として人々を苦しめているのが現在の姿。

あちこちで「制度疲労」が起こっている。
力の原理はもはや働かない以上、国家機構の暴走の果てに、強制制度は自滅するしかない。
主に結婚制度について、ネットから人々の声を拾ってみた。

◆結婚制度について思うこと〜世界から取り残される日本〜(リンク
 厚労省の調査で比較されるこの20年間の各国の変化を見ても、経済大国第3位の我が国の「結婚制度」は、
 明らかに「制度疲労」を起こしている。

◆結婚に代わる未来の制度(リンク
 結婚制度は確かに古くて制度疲労が起きている。
 旧来の感情的な価値観にささえられている結婚制度から感情を抜いたとき、そこに残るのは個別および全体最適のための仕組みである。

◆「年収600万円以上あるのに結婚したがらない男の本音」について考える(リンク
 結婚制度が現代という時代にそぐわず、制度疲労を起こしているのではないかと思います。
 結婚制度も、時代に合わせて変えればよいと思います。

◆そろそろ結婚制度自体を見直したら?(リンク
 世界的に見ても、結婚という制度自体が、もはや明らかに制度疲労を起こしつつある。
 少子化が進む中、子育てにかかるコストの多くの部分は社会全体で負担していくべきものだという考え方が定着すれば、
 子育てのために婚姻関係を継続しなければならない理由は徐々に希薄なものとなっていく。

◆『事実婚 新しい愛の形』(リンク
 なぜ若い男性が結婚したがらないか。
 その最大の理由は、彼らにとって今の日本の婚姻制度が『重すぎる』からである。
 ここまで結婚しない若者が増えてきたということは、従来の結婚制度を見直す時期が来ているのかもしれません。
 日本における結婚制度が制度疲労を起こしているという見方もできるでしょう。

◆ニッポンの働き方と家庭のあり方は問題だらけ(リンク
 男性にとっても、女性にとっても問題の多い働き方と家庭のあり方。
 今、女性が家庭の中で使っている時間をただ就労に回せばよいとうことではなく、日本社会の制度疲労の問題だと思うんです。

◆日本の学校システムはすでに崩壊している。(リンク
 現代の教育システムが、子供たちが社会に出たときに働くその職場環境に果たして合致しているのでしょうか。
 というか、親の世代からして、その親が働く職場環境は、もう日本の学校システムが想定するものとは大きく違ってきてしまっています。
 日本の学校は明治期以来の一方通行型の一斉授業からほとんど変わっていないからです。

 

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2017年02月16日

「脱○○」で思考が自由になる!

・「脱学校」の潮流が始まった!(リンク
・結婚制度は崩壊寸前!?~個人の自由と集団再生の綱引き(リンク

脱学校、脱結婚、脱市場、、、
近代社会が作りあげてきた強制的な制度が崩壊しようとしている。
かつての「反」でも「非」でもなく、「脱」という動きで、人々は動き始めた。

「反」は単に否定して終わり、何も生み出さない。
対して「脱」は、強制からの解放、新たな道を探ること、可能性に向かうこと、、、

面白いブログ記事があったので紹介しよう。

 

「脱◯◯」でブログネタ量産!自由になれる思考ツール♪
脱なんとか、って脱サラが始まりなんでしょうか?誰が言い出したのか知らないけど、最近増えてる気がする。
これ、いい表現だな〜。 コピーライターだけのものにしておくのはもったいない。

「反対」(反)でも「否定」(非)でもじゃないところがいい。
その土俵ごと、古いですよ、ってニュアンスがあって。
同じ土俵で賛成も反対もしませんよ。もうそこからは脱出しますからね。っていう。

 

もーやだーって何かに嫌気がさしたときにおすすめ
とりあえず「それ」に「脱」つければいいですね。
それだけで、とりあえずその嫌なものの根本からちゃぶ台ひっくり返せる土壌ができます。

脱会議・・・会議なんてそもそもいらない!?
脱恋愛・・・恋愛ってしないといけないもの?
脱営業・・・(その)営業じゃない方法もあるかも?
脱ダイエット・・ダイエットってなんのためにしてるの?
脱健康・・・あれ?健康ってなんだっけ?
脱育児・・・育児こうあるべき、があるから辛いのかも?
脱学校・・・学校に行かずとも・・・?
などなど。

 

ブロガーにおすすめ
ちょっと考えるといくらでも作れて楽しいです。
脱、って思考を自由にする便利ワードなんだなあ。
ブロガー的には、困ったら脱つけてみようっていうワザはありかもね。笑
脱というからには、じゃあなんなんだ?っていう、明確に新しい提案が必須になっていい頭の体操になります。

脱残業
脱モテ(非モテではない)
脱正規(非正規ではない)
脱就活
脱起業
脱結婚
脱成長
・・・まだまだ普通かも。

脱ブログ
脱コミュニティ
脱食事
脱性別
脱不倫
脱女
・・・この辺になるとちょっとひっくり返りレベルが高くなる感覚。

 

たとえば、最近思うこと。
反戦じゃなくて脱戦争がいいなあ。
フランス人がテロでたくさん亡くなって、テロは許せないという。
あるいは、フランス人だけじゃなくて全世界のテロや紛争などで亡くなった人へ思いを馳せようという。
犠牲になったフランス人だけに追悼するのでも、全世界の犠牲者に思いを馳せるのでも、戦争やテロに思いを馳せるのと変わらない。
「Pray for France!」
「戦争反対!」
そう思うとき、テロや戦争のことをイメージする。そのイメージに囚われちゃう。
全世界でテロ、紛争は絶えないんだな、怖いことだな、悲しいことだな、もう起きてほしくないけど、いまも戦っている人はいるんだ・・・
そんなことを考えちゃう。

戦争なんていらない
戦争でお金を使うなんてバカみたい
経済のために戦争するなんてもういやだ
そんな戦争で殺し合わされるなんてくだらない

そう思うなら、祈ってる場合ではなく、
そのすべての文脈、イメージから脱出するのがいいのかもしれない。

就活なんていやだ!と思ったときに、脱就活の考え方で、
いわゆる「就職活動」とまったく違うことをしているうちに就職活動の必要性とか重要性は消えているように、

戦争なんていやだ!と思ったときは、脱戦争の考え方で、「戦争」のすべての文脈から脱出する。
祈ったり戦争反対デモをしたり意思表明をしたりするのではなく、
まったく逆のことをやっていれば、戦争の存在感が薄れていくのかもしれない。

抜け出したい「現実」とやらに「脱」をつけてみれば、
新しい自分仕様の世界が開けるぞー!

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2017年02月09日

勉強も部活も「強制」、どこに「自主」が存在するのか?

今や学校は、勉強だけでなく、部活も「強制」、ブラック部活であるという。
どこに「自主」が存在するのだろうか?
我慢も限界を超え、学校から離脱する流れが加速するのも無理はない。
どんな状況なのか、記事を拾ってみた。

 

なぜ中高の「部活動」は”強制”になったのか?リンク
子どもたちも先生も疲弊している!
本来は「やりたい人がやるもの」なのに、なぜか「やらなければならない」ことになっている中学・高校の部活動。
“強制”化してしまうのは、一体なぜなのか?

当初は志をもった先生たちの自主的な取り組みとして設計されていたんですが、学校週5日制導入に向けて1989年に
学習指導要領が改訂されたとき、“クラブ活動の代替”という位置づけになったんです。
それによって事実上カリキュラム内に入り、“必修”に近い形になってしまいました。
あともうひとつ背景があって、1980年代に「子どもをペーパーテストだけで評価していいのか?」という問いから
「もっと多様な能力で評価しよう」という流れが出てきました。それで入試のとき、
「勉強だけではない」基準として、スポーツや芸術活動を行う“部活動”が評価されるようになった。
つまり、部活動が“成績”として受験に響くものになった、、、

 

子どもに理不尽強いる「ブラック部活」の実情リンク
丸刈りや白飯2杯ノルマも当たり前
性論で健康を害するほどの練習を強いられ、絶対権力者の顧問に意見もできない。
そんなブラック部活慣れした子どもたちが、将来ブラック企業に狙われる?

 

中学の部活動は「素人指導」のままでいいのかリンク
この時代の出会いが”スポーツ人生”を変える

 

少年スポーツを「成果主義」で測る”異様”リンク
「勝つか、辞めるか」を子に迫る大人たち
都内で小学生の女子サッカーチームでコーチを務める男性は耳を疑った。
「今日ね。試合で5回ボールをさわらなかったら、サッカーやめなさいってママに言われたの」

 

学校は、なぜ「治外法権」になってしまうのかリンク
巨大組体操、PTAの背景に潜む問題
たとえば、部活動は今、成績評価につながってしまっているんです。
聞いた話では、大学入試の面接で「あなたのいいところは?」って質問されると、多くの生徒が「部活動」のことを言う。
「勉強で1番をとった」とか言う子はいない。
1980年代に学力の多様化ということが言われて、
部活動というものが子ども全体を見るときの大きな軸になってしまったんです。
そのため、たとえ周囲が「部活動はやらなくていいよ」と言っても「でも進学に関係があるし」ということで、
やらざるをえない作用が働いてしまう。

 

箱根を制した青山学院・原監督の「仕事語録」リンク
「僕は陸上の人というより、ビジネスマン」
「ビジネスマンとしても通用する人間を育てたい」
「自分自身で目標を決めて、その具体的な事例を自分の言葉で書き込む。
そうすることが『自立』につながっていきます。
今できることの半歩先を見つめながら、少しずつ向上していくだけでも、4年間でものすごい成長があるはずなのです」

 

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2017年02月02日

義務教育からの脱出

学校に行かない人のための情報サイト「義務教育からの脱出」(リンク

こんなサイトがあったことに驚き!
しかもしっかりとした総合サイトとして作られている。
「子どもは大事、これからの社会を担っていってもらわないと、、、」
よく聞く言葉であるが、本当にそう思っているならば、まずは学校教育の大改革は必須!
義務教育からの脱出は早いほうが良い。

サイトからポイントを紹介する。

 
 

■■義務教育の歴史

□ 日本の義務教育は1872年に始まった
義務教育の歴史というのは実は浅く、日本では1872年(明治5年)の学制という制度から事実上の義務教育が始まりました。
2015年から数えたとしても143年の短い歴史に過ぎません。
それまでは政府の作った学校に人々が通うという慣習自体が殆ど存在しませんでした。

□ 学制以前の教育は寺子屋が主流
公式に記録されているだけでも全国で1万数千もの寺子屋が存在したと言われています。
実際には記録漏れが数多く存在したようで、全盛期にはその数倍以上の寺子屋が日本全国に存在していたのです。

□ 義務教育は産業革命から始まった
産業革命により近代工業化が進むと庶民の教育はどのように変化することになったのでしょうか?
都合のいい労働者を作れる仕組みが必要になったのです。
・命令に従順な人間
・工場の現場監督に逆らわない人間

□ 義務教育はヨーロッパから輸入したもの
産業革命に乗り遅れた日本
戦争に勝つための体制作りとして、フランスやドイツなどのヨーロッパの義務教育制度を参考にして、
日本でも同じような近代工業化・富国強兵の政策を進めるべきだと判断し、1872年に義務教育となる「学制」を開始したのです。

□ 日本はドイツの義務教育の影響が強い
国民を政府にとって都合の良い存在に仕立てる為の国家主義的な色合いが強い義務教育こそがドイツの基本方針だったと言う事です。

□ 反対派が圧倒的に多かった
国民が必要だと思わなかった制度
学校の授業内容などに多くの国民は学ぶ意味というものを見出す事ができなかったのです。

□ 立身出世主義の布教
学校で勉学に励んでいれば将来出世できるという思想を国民に植え付けない限りは、
殆どの家庭が子供を学校に通わせるような事は有り得なかったと言えるでしょう。

□ 戦前の学校教育
日本の戦前の教育方針は主に富国強兵・道徳重視の教育に集約されていたと言えるでしょう。

□ 戦時下の学校教育
全てが戦争の為に使われた
大東亜戦争の渦中にあってはもはや個人の立身出世というのは殆ど置き去りにされて、
国家の存続の為の国民形成こそが唯一の目標とされました。

□ 戦後日本の学校教育
日本を解体したアメリカ
日本の義務教育の原点である学制は個人の立身出世主義を市民に植え付けることで就学率を上げてきましたが、
戦時下ではそれが排除されて国家主義になり、敗戦後は完全に国家主義が排除されて元に戻ったということです。

 

■■義務教育の本質と真の目的

□ 義務教育は奴隷の生産工場
日本に限らず、教育というのは殆どの例外なく教育を施す側の利益を最優先として実施されるのが歴史の常です。
個人の自由意志・自我というものを破壊し、
命令された事だけを忠実にこなす奴隷体質の人間を作るための制度こそが義務教育の真の目的だからです。

□ 資本主義社会の仕組みと誕生
全ては資本家が利益を出す為であり、資本家の莫大な富は労働者の犠牲の上に成り立っていたのです。
産業革命以降から、現代の集団授業・学校教育と呼ばれるものが本格的に開始されたわけですが、
それは被支配者(奴隷)となる人々を作り出すための制度だったのです。

□ 増え続けるワーキングプア
義務教育というのはそもそもとして「国家の発展に必要な労働力を育成する」ということを本来の目的として作られましたが、
現在の日本では低賃金・単純労働者の育成の場でしかないのが現状だと断言できます。

□ 低賃金でも喜んで働く労働者を作ること
今の学校教育では
「我慢するのは当たり前」
「先生や大人の言う事を聞く子が優等生」
「周りの人と同じことをしないのは悪い事」
・・・という洗脳を施された、何も考えずに上の人間の命令に従うロボット人間が作られ大事にされるものです。

□ 退屈な場所で良い消費者ができる
突き詰めてみると結局殆どの若い人たちの間に共通して言える事は政府の作った学校という場所に心底退屈していると言う事なのです。
学校自体が本当に価値を感じられるものであり、子供たちの探究心や知的好奇心などに良い影響を与えることができるものであるなら
ば、死んだ魚の目をしたような若い人は必ず減ると思います。

□ 無気力な人間が出るのは必然
学校に「ただ通うこと」が目的化されているから
学校という狭い箱の中に閉じ込められ、
教師や教育委員会・文部科学省の決めた方針に従うことだけを求められるような生活が殆ど毎日続く中で、
将来のことなんてわかるはずがないのです。

□ 学校は金儲けに使われている
教育業界には数多くのお金儲けが目的の企業・団体の介入が存在し、子供達を餌にビジネスをしているというのが真実です。

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2017年01月19日

学校教育:男女共学か別学か~生産活動に根ざした教育機関であることが先

「学校教育:男女共学か別学か~」において、江戸時代の状況と明治以降の状況について見てきた。

 

江戸時代は、
農業であれ商業であれ、生産を中心とした共同体集団の存在が基本となっている。
子供たちも生産活動を担いながら、共同体における役割として「若者組」にて年長者から学び、生産の必要な実学を
「寺子屋」で学ぶ。
若者組では男女別々に、寺子屋では男女一緒だが学ぶ内容が役割に応じて男女で異なっている。
男子は生産を中心に担う存在として実務に関する内容を主に学び、女子は共同体を内から支える存在として日常生活の
知識や教養を学ぶ。
つまり、共同体の一員としての役割が明確にあり、その役割を担うべく「若者組」では年長者が教育し、「寺子屋」で
は自主的に学ぶ。そこには当然、男女の役割の違いもあり、男として女としての学びに加え、性関係をも取込んだ教育
システムとして存在していた。

 

そして明治以降では、
戦前は、江戸時代の若者宿、娘宿に象徴される男女の関係をめぐる農民文化の破壊と旧武士風の規範の導入、さらには
性欲に対する罪悪感や禁欲主義があり、こうした人々の性道徳、性意識の変化とも密接に関係しながら男女共学禁止、
別学推進が強化されていった。
戦後は、アメリカ支配により男女平等観念が導入され、男女の教育機会・内容平等が謳われ、男女共学化が加速している。

 

江戸時代は、共同体集団における現実の生産課題に対し性も含めた教育が行なわれていたが、明治以降は現実に立脚する
ことなく観念的であることに気づく。

 

そもそも「元来、教育は生産者を作り出すためにある。」(リンク
つまり、生産活動と切り離された教育では意味が無い、ということ。

 

農業高校や工業高校などは生産活動を積極的に行なっており、それ自体が現実と直結する学びの場となっている。
男女共学か別学かを議論する前に、何の生産課題も無く、現実社会から切り離された無圧力空間たる学校教育を生産活動
を軸とした教育機関に変えなければ、共学だろうと別学だろうと根本解決にはならないということだろう。

「学校」のあり方、「学び方」を根本的に変えていかなくてはならない。
少なくとも、現状の学校(制度)は、無目的で現実と繋がらない勉強圧力ばかりで、子供たちの活力を下げるだけの害悪
であり、そればかりか思考停止人間を作り出す張本人=日本社会にとっての「敵」だということを認識する必要がある。

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2017年01月12日

学校教育:男女共学か別学か~明治以降

前回の投稿(学校教育:男女共学か別学か・・・江戸時代の場合)では、江戸時代の寺子屋や若者組の様子を勉強しました。
今回は、明治以降の近代教育の流れを見てみます。

 

江戸時代の寺子屋は庶民の子弟を対象としており、女子も教育を受けていた。
しかし、「男子と同一の教育内容を、同一の師に共に学ぶという文字通りの男女共学の例はきわめて珍しいことであった。
藩校は士族階級の男子の教育機関であり、幕末に始まる庶民州の門戸開放政策の際にも、女子を含めて検討した藩は
全体の3%でしかなかった。

 

◆戦前の男女共学・別学・・・戦前は男女別学
○1872年 太政官布告
学制とともに発せられた太政官布告では 「幼童の子弟は男女の別なく小学に従事」しなければならないとされた。
「そこには将来の母という女性という限界はあるが、男女ともに教育の対象とみる、新たな視点があった。

○1879年 教育令
教育令では「凡学校ニ於テハ男女教場ヲ同クスルコトヲ得ス、但小学校ニ於テハ男女教場ヲ同クスルモ妨ケナシ」として、
学制下で認められた男女共学を否定し、男女別学と性差に基づく教科の設定を原則として掲げた。

○1900年 小学校令施行規則
小学校1・2 年以外は原則として男女別学であることが明記された。

○1903年 専門学校令
専門学校にあっては 1903年の専門学校令による入学規定は単なる法令上の形式的規定に過ぎず、実際には各学校が
それぞれ定めることとなっており、 音楽学校を特例とするほかに共学は存在しなかった。

○1946年 国民学校令改正
大学については法規として明記されなかったので、1913年に東北帝国犬学総長沢柳政太郎は英断を以って女子の入学を
許しているが、それは例外的事例であった。
男女共学禁止の原則は1946年10月9日の国民学校令施行規則の一部改正 まで続いた。その間、国民学校初等科の男女
共学は原則として認められず、中学校・高校における男女共学が実施されるのは戦後の新学制発足と同時である。

 

◆戦後の男女共学・別学
○1945年 女子教育刷新要綱
戦後の新制高校における男女共学はアメリカ教育使節団報告書や女子教育刷新要綱、CIE(民間教育情報局)などの意向
を踏まえて発足した。
1945年12月4日に閣議了解された女子教育刷新要綱では男女の教育機会・内容平等について方針が明らかにされている。
すなわち、女子に対する高等教育機関の開放と男女共学の採用を明記し、女子中等学校の教育内容を男子中等学校と
同程度とすることが記載されたのである。 しかし、 中等教育段階の男女共学の実施については記述されていない。

○1947年 教育基本法
当時の文部省は、教育基本法の公布・施行に先立ち、高校では必ずしも男女共学でなくてもよいという方針を明らかにした。
中学校についてはすみやかに男女共学の実施を求めたが、高校についてはただちにこれを強行することを求めなかった。
このように男女共学に消極的であったのは、「教育刷新委員会での議論を見る限りでは、それは男女の風紀問題の発生への
危惧と男女の特性の相違ゆえ」であるといわれている。
男女共学よりも「教育機会と教育水準の男並み化が優先課題だった結果、
これらが保証されるのであれば共学は是非とも実施すべきものとしてはとらえられていなかった」のである。

○1960年代
男女共学は1960年代には制度として定着し日常化していったが、当時の教育政策の影響を大きく受けた。
1960年代の高校教育はマンパワー・ボリシー(人的能力開発政策) や後期中等教育の多様化政策などによって課程別、
学科別、コース別に教育課程が編成されるようになり、普通高校のなかにも男女比が極端にアンバランスな学校や男女別
クラスの存在する学校が増加し、共学率は増大するものの「共学制を実質的に崩す方向」が見られるようになった。
「男女別学が高度成長期に強化されていくのは、前近代的な男尊女卑の教育観への『回帰』ではなく、資本主義社会が
要請する性別役割分業に基づいた男女特性教育へと『前進』していったからなのである。

○1970年代
1970年代になると、別学校を多く残した東北地方や中部地方でも、宮城県や長野県などのように共学校への移行や共学校
を新設する動きが見られた。こうした共学化の動向は、「第二次共学化の波ともいえるほど多くの公立の男女別学高校の数
を減少させ、男女共学高校を増大させるもの」であった。

○1980年代・・・男女差別撤廃条約
男女差別撤廃条約が批准された1980年代には家庭科の男女共修を求める声が大きくなり、1989年3月の学習指導要領改訂
により、高校では1994年度から男女共修となった。

○1990年代・・・男女共同参画社会基本法
こうした時代状況背景に、1990年代以降は公立・私立ともに男子のみの学校、女子のみの学校の学校数は減少している。
少数となった公立の別学校に対する共学化の議論が起こり、男女共同参画社会基本法が制定された1999年以降、男女共学
化が急速に進められた。

○現在の状況
現在では宮城県や福島県などで全面的共学化が実現している。公立の別学校が比較的多く設置されている埼玉県、群馬
県、栃木県の3県では、宮城県や福島県同様、別学校の共学化が議論されたが、前述のように、各県教育委員会は別学校
を存続させている。
2014年5月1日現在、全国の公立高校3,628校中、男子のみの学校が9校、女子のみの学校が38校、あわせて57校と、
学校数ではわずか1.6%の存在となっている。

 

◆戦前の男女別学の理由
戦前の男女別学級編制の理由としては、男女によってその性質、風習、社会的な仕事が違うので教育の方法も違わざるを
得ないというものであった。
男女を分ける教育理念の背後には、『男女七歳にして席を同じうせず』といった儒教的思想の影もあったとされる。
当時の男女別学は教育空間の分離だけではなく、教育内容の差異を企図していた。
例えば、明治期の高等女学校では同年の中学校(男子)に比べ英・数・国の合計時間数は半分に満たず、裁縫、家事など
の科目に時間が割かれていた。女子の教育では家事、育児、内助といった「家庭役割」に適した科目に比重が置かれ、「男女
別学は文字通り内容上の別学にまで進んでいったのである。そのため、「同じ五年制の学校であっても、一般には、中学校
に比べて高等女学校は普通教育のレベルが一年分ほど低い」といわれていた。そのような教育を正当化したのが「良妻賢母」
思想である。女子については貞淑の美徳や婦徳の涵養が目的とされたのである。

こうした戦前の男女共学禁止、別学推進は、当時の政府のとった銭湯における男女における混浴、海水浴場における混泳
の禁止と同じ男女分離政策の一環であり、その背景には若者宿、娘宿に象徴される男女の関係をめぐる農民文化の破壊
旧武士風の規範の導入、さらにはキリスト教文明社会からもたらされた性欲に対する罪悪感や禁欲主義があり、こうした人々
の性道徳、性意識の変化とも密接に関係しながら強化されていったと考えられる。
当時、女子は男子に比べて生まれたときから遺伝的に能力が違い、学力が乏しいという認識は一般的であった。
ただ、戦前においても研究者や実践家の間では男女共学の意義と実施方法などについての検討はなされていた。
当時の男女共学否定論と賛成論の要点は次のようであった。
【否定論】風紀の乱れ恐れがあり、男女の美点長所を喪失させ、男女教育の特性が発揮できず、男子の学問的水準を低下させる。
【賛成論】男女共存は人間の生活形式であり、男女相互の理解と感化により円満な人格的発達が可能となり、男女の切磋琢磨に
より学力が増進し、経済的にも有利である。

 

◆戦後の男女共学の意義
新制高校における男女共学は全国一律に実施されたわけではなく、地域によっては別学校が存続した。
しかし、「人々の男女観、性別役割意識などに与えた影響という点からいえば男女共学制の採用は第二次世界大戦後の教育
改革のなかでも画期的な改革であった。 初期の共学校では共学そのものが「大きな生活学習」であった。
男女共学初期の男女生徒にとってはお互いが未知の世界との出会いであった。男女共学は、異性の実像を見きわめさせ、
いろいろな人間のいることを理解させるうえで大きな役割をはたしてきたのである。

 

参考:(リンク

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2017年01月05日

学校教育:男女共学か別学か・・・江戸時代の場合

前回投稿では、学校教育や男女関係の問題、現況について整理しました。(リンク
男女共学か別学を考えるにあたり、まずは明治から始まる近代教育の以前、江戸時代の教育がどうであったかを整理してみます。

◆藩校
江戸時代中期までは、武士の学問は、平和な時代の余技、教養といった程度に考えられていたが、中期以降は、現実の政治や経済の困難を
克服するために教育を重んずる方向に各藩が傾いた。
藩校は天明・享和期(1781〜1804)に最も多く設けられた。
それは、商品経済の発展によって武士階級全搬の財政難が深刻化し、綱紀粛正のためにも、現実の問題の解決のためにも、子弟の教育を重
視するという方針に転じた。
教育内容は、基本的には儒学中心である。
為政者階級としての道徳的人間を形成することが目的であったが、少しずつ、経済実用の学を重んずる傾向に変わっていった。

◆郷学
江戸時代中期以降になると、庶民教育のために「郷学」も設立した。
郷学は、もともと家臣の学問や武芸を向上させるために設立された。言い換えれば、藩校の分校のようなものである。
しかし、1745 年(享保の改革期)以降は庶民の教育へとその目的が広がった。
その中で、民間の有志や町村(あるいは町村組合)が設立する郷学も増加していき、その形態は多様化した。
このような藩校や郷学の多様な展開を支える基礎となっていたのが寺子屋である。

◆寺子屋
その歴史は室町時代後期までさかのぼり、寺院教育を母体として発生した。寺子屋の名の由来はここから生まれた。
明治政府(文部省)が1892年に編纂した『日本教育史資料』には、明治初期における全国約15,000の寺子屋と1,500の私塾が確認できる。
ただしこのデータは調査の不十分さが指摘されており、実際にはさらに多くの寺子屋が存在していたことが明らかになっている。
このように、士・農・工・商の身分制が確立していた江戸時代の教育は、武士と庶民の教育も大きく 2 つに区分されていたが、教育の近代
化によって2つの教育がしだいに融合化されていったのである。

普及したのは、藩校と同じく18世紀以降である。
商業が盛んになり、交通が盛んになり、交通が進み、生産や商取引に契約書、帳面類、書簡などの必要が著しく生じた。
幕府の側でも、さまざまな事柄を伝達するのに文字を用いて効果を上げようとした。
諸法度、御触書、御高札といった法令を広く領民に知らせるためにも、広く庶民が読み書きの能力を高める傾向を歓迎した。
そのため、最初は江戸、大阪といった大都市で設けられた寺小屋も幕末期には、天保年間(1830−1844年)頃からは、農村や漁村の隅々まで
開かれるようになった。
寺子屋で先生役を引き受けた師匠は、必ずしも特定の知識階級ではない。数の上では、庶民が最も多い。
町年寄や隠居と呼ばれた人、庄屋や組頭にような農漁村の支配層、次いで多いのは、武士。また僧侶や神官も寺子屋を開いた。
一番見逃すことが出来ないのは、寺子屋が庶民が自らの必要から生み出した自然発生体としての組織であって、幕府や藩の側の要請に基づくものではないことである。

◆寺子屋に見られる男女別学
江戸時代の寺子屋の普及によって、現在の学校の基礎が築かれた。では、その学習は男女に差が見られるのだろうか。
これを紐解く手がかりとして、江戸時代に使われた教材に「往来物」がある。
現代の教科書の役割を果たし、様々な手習に対応するため、江戸時代中期頃から出版が盛んになった。
その内容も様々であり、読者に合わせて編集され、その種類は数千種にのぼる。
往来物の代表的なものには、『消息往来』(1843年刊行)、『庭訓往来講釈』(1845年刊行)、『商売往来』(1830~1844年刊行)などがある。

そして、数ある往来物の中には女子用に編集されたものがある。例として、『女今川』、『女庭訓往来』などがある。
これらは、もともと男子用として広く使用されていた往来物を女子用に編集したものである。
女子用に掲載された往来物の内容には以下のようなものがあげられる。
「女今川・女庭訓往来・百人一首・女大学・婚礼の次第・年中行事・出産に関すること」などである。
これらの内容からわかるとおり、男子が学問や実用的な職に関する知識を学ぶのに比べ、女子は日常生活に必要な知識や、女子的教養が主な内容である。
つまり、家庭内の女子、妻としての教養が重視されていたことがわかる。

男女の学ぶ内容の違いは、寺子屋の男女の就学率にも大きく影響していた。
女子が教育を受ける目的が家庭内において必要な教養を身につけることに偏っていたため、女子の教育が家庭内で行なわれるケースが少なく
なかった。しかし、江戸時代後期になるにつれ、地域によって差はあるものの、女子教育の必要性が高まったことから、女子の寺子の数が増
加したと考えられている。特に江戸では女子の寺子数は男子の約9割と、極めて高い就学率だった。

ほとんどの寺子屋で、男女は同じ部屋で手習を行ない、まれであるが、女子限定の寺子屋も設立された。
現在、寺子屋で手習をしている絵が描かれている書籍や襖絵が数々残っている。
それらには、同じ部屋に男子と女子とに分かれて学習している様子や男女が分かれて遊びをしていたことなどが読み取れる。
男女共学が普通で、比率としては、全国平均では男100:女25、ただし、江戸では男100:女89。
神田、日本橋、浅草などの庶民が群居するにぎやかな町、卸問屋や株式組合が盛んに活躍している地域では、男女比はほとんど同じだった。

江戸時代の社会は、武家社会の主従関係が基礎となっていたが、これが庶民の家庭にも及んでいた。
親子関係、夫婦関係も主従関係と同様に見られていた。そのため男子と女子の教育は区別して考えられていたのであろう。
一方、私塾は藩校や寺子屋とちがい、身分上の差別が少なく、武士も庶民もともに学ぶ教育機関であった。
現在の私立学校の前身あるいは母体となっているものも多い。

◆若者組による教育
伝統的な地域社会において、一定の年齢に達した地域の青年を集め、地域の規律や生活上のルールを伝える土俗的な教育組織である。
若者衆、若者仲間、若者連中など、また集まる場所を青年宿、若衆宿,若者宿,若勢宿,寝宿,泊り宿,若宿など、地域によっても様々の名
称がある。類似の風習は日本のみならず、世界各地の伝統社会に存在する。
近世において、地域社会の構成員を教育する場として確立したと考えられ、地方では明治以降も多く引き継がれていたが、公教育の普及に伴い衰退・消滅していった。

若者組への加入・脱退の決まりは大きく2つに分けられる。
1つは、その村の男子全員が加入するというタイプで、多くの場合は結婚を機に脱退する。
もう1つは各戸から1人(長男)だけが加入するというタイプで、多くの場合結婚ではなく一定の年齢に達すると脱退するというものであった。
いずれの場合も、一定年齢(10代半ばくらい)に達すると加入する。
若者組を卒業したものは、地域社会で一人前のメンバーという事になる。

年長者がリーダーとなり、後輩たちに指導を行った。
若者宿、若衆宿などといわれる拠点があり、そこに集団で寝泊りする場合も多かった。
村内の警備や様々な作業を行ったり、共同で集まり親睦を図った。
特に祭礼では、若者組のメンバーが子供組を指導して中心的に運営を行う場合が多かった。
また交際上必要となる飲酒・喫煙の指導、さらに村内の恋愛、性、結婚を管理する側面を持ち、リーダーが各自に夜這い を指示して童貞を
捨てさせることも行われた。男性の若者宿に対して同じ年頃の女性が集まる娘宿の存在する地域もあり、この場合双方の交流によって結婚相手を探すという意味があった。

◆◆江戸時代の教育
基本となるのは農業であれ商業であれ、生産を中心とした共同体集団の存在である。
子供たちも生産活動を担いながら、共同体における役割として「若者組」にて年長者から学び、生産の必要な実学を「寺子屋」で学ぶ。
若者組では男女別々に、寺子屋では壇上一緒だが学ぶ内容が役割に応じて男女で異なっている。
男子は生産を中心に担う存在として実務に関する内容を主に学び、女子は共同体を内から支える存在として日常生活の知識や共用を学ぶ。
つまり、共同体の一員としての役割が明確にあり、その役割を担うべく「若者組」では年長者が教育し、「寺子屋」では自主的に学ぶ。
そこには当然、男女の役割の違いもあり、男として女としての学びに加え、性関係をも取込んだ教育システムとして存在していた。

鍵となるのは、前提としての集団の存在、中心にある生産課題・役割といった点だろう。
このような視点で、次の明治以降の近代教育を振り返ってみる。

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