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2017年10月12日

教育イノベーション事例~世界最難関・ミネルバ大学とは

創立4年目にしてハーバード大学を蹴ってまで行くというミネルバ大学とは?
キャンパスを持たずに世界7都市を渡り歩く大学とは?
100%アクティブ・ラーニングを提供する「未来の大学」とは?

話題のミネルバ大学について、この秋から初の日本人学生となった学生の記事から紹介。

 

「世界最難関・ミネルバ大学初の日本人学生として」 より

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はじめまして、日原翔です。この5月にカナダの高校を卒業して、9月よりミネルバ大学というアメリカの4年制大学へ進学します。この連載では、ミネルバ大での生活や仲間たちとの交流について共有していきたいと思っていますので、よろしくお願いします。

ミネルバ大学はキャンパスを持たず、授業はすべてオンラインですが、学生は4年間で世界の7都市を渡り歩いて寮で共同生活をします。創立4年目にして、多くの学生の人気を集め、いまやハーバード大学以上の難関ともいわれています。

ミネルバ大学では、私が初めての日本人学生になります。まだ日本語での情報があまりありませんので、このコラムで少しでも皆さんにミネルバ大学についてお伝えできればと考えています。

 

“知識”よりも”知恵”と”好奇心”
世の中は今、目まぐるしい速さで変化を遂げています。5年前の常識が、今日は通じない。今日の常識は、来年には通じていないでしょう。人工知能は次々と世界一のプロ棋士たちを破り、コンビニやファストフードなどでの会計も無人化されています。ポスト真実文化は急速に台頭し、世界中の政治に大きな波を起こしています。ネットショッピングの代名詞であったアマゾンも、高級食品スーパーのホールフーズを買収した今、リアル店舗での生鮮食品流通を制する日も遠くありません。

一方、変わり続ける社会の中で、教育というものはほとんど進化していません。学習効果の薄い講義型授業が未だに大部分を占め、生徒の考える力よりも詰め込んだ知識を大学は評価し続けています。皆さんも「日本の教育は遅れている」と一度は聞いたことあると思います。しかし、大学の講義風景(写真)を見ると、世界最高峰と言われているような大学とてこの例外ではないことが分かります。世界的に教育は社会の変化に取り残されてしまっています。

今日の常識は明日の常識ならず —- そんな世の中で大切なのは、上書きされ続ける一時的な”知識”以上に、”知恵”と、学び続ける”好奇心”ではないでしょうか。”Sapientia Critica(批判的知恵)”という校訓にもある通り、常に考え続ける力をミネルバ大学は重視しています。

 

才能が集まる仕組み
現在はどこの大学でも、世界中から才能と実力のある学生を集めたいと考えています。もちろん、ミネルバ大学も例外ではありません。しかし、ミネルバがこの点において既存の他大学と最も異なるのは、それを文字通り実行しているという点です。次回詳しく紹介いたしますが、ミネルバ大学への出願には人種や国籍以外にも、学生の多様性を確保するための仕組みが凝らされています。一般学生には無関係なスポーツチームや、無駄な施設などの費用をかけず、学費を抑えていることも学生の多様性に繋がっています。

 

世界中を旅するカリキュラム
ミネルバ大学のカリキュラムでなんといっても魅力的なのは、4年間かけて文字通り世界中を渡り歩くという点でしょう。学期が変わるごとに生活も変わり、学びも変わる。そんな刺激的な環境で成長することができます。常識に挑戦し、変化を先導せんとするミネルバ生にはもってこいのカリキュラムだと思います。

1年目 – サンフランシスコ (米国)
2年目 – ソウル (韓国)、ハイデラバード (インド)
3年目 – ベルリン (ドイツ)、 ブエノスアイレス (アルゼンチン)
4年目 – ロンドン (英国)、 台北 (台湾)

また、都市ごとに学びのテーマがあり、抽象論ではなく実際に各都市で学ぶ事柄は大きく変わります。これらの異文化を移り渡ることで実際に世の中の複雑さを学び、そこでどのように問題解決していくか、という力をミネルバ生は身につけていきます。

同級生たちとは寮生活を共にし、一緒に動き回る4年間を通して、大学ならではの絆や友情は十分育まれます。授業も知らない人と一方的な講義を受けるのではなく、互いによく知っている学生同士の少人数ゼミなので、効果的なディスカッションが行えるのです。

 

駆け足になってしまいましたが、ミネルバ大学の魅力、少しは伝わりましたでしょうか。多様な生徒達に囲まれ、世界中を旅しながら知恵を学ぶ。私はそこに惹かれました。卒業生もまだいない大学なので、ミネルバへの進学を”リスク”と捉える方も多いでしょう。むしろそれが多数で、普通だと思います。

しかし私には、これが”リスク”よりも”チャンス”に感じられました。何より、そんな”リスク”をとってしまうような人達と一緒に学んだらどんな刺激があるのか、今からワクワクしています。

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2017年09月28日

個人主義の果てに結婚・出産・育児(集団課題)が『個人の自由選択』へ

結婚・出産・育児の問題の根本には、子を産み育てることが「個人の自由選択」になっていることが挙げられる。
(このような論調の記事は見たことが無かったが、初めて見かけたので紹介したい。)

「個人の自由選択」の背景には、共同体集団の解体と、恋愛の自由、個人の自由を促進した近代思想がある。
明治政府による共同体破壊、近代思想の輸入から250年、高度経済成長による共同体崩壊からはたかが60年、
人類500万年の歴史は、集団適応の時代であった。
結婚・出産・育児などという生殖課題は、当たり前だが最も重要な集団課題であった。
個人が第一の時代など、たかだか数十年に過ぎず、その意味で人類史上異常な状態であるということ。
「種の存続」という生物にとっての根本課題が、「個人の自由」に脅かされているのが、近代思想に導かれた現代という時代である。

近代的な結婚観に基づく“目的論的な家族像”の衰退と個人の自由選択に任された“結婚・出産・育児”の問題

ある人にとっては出産育児の決断はそれほど悩むべき問題ではなく、むしろ自分が父親・母親となって子どもを持つことを『人生の主要な目的』だと考えています。ある人にとっては出産育児の決定は深刻な悩むべき問題となり、自分が父親・母親となって子どもを持つことを『人生の重要な選択』だと考えているかもしれません。
出産育児を『人生の主要な目的』と捉えるかそれとも『人生の重要な選択』と捉えるかは小さな違いに見えても、実際には非常に大きな心理的態度と性的アイデンティティの違いがあります。

高度経済成長期までの日本の標準的世帯では、性別役割分担(男は仕事・女は家庭)のある『近代的家族観』が生きており、結婚・出産・育児というのは誰もがいずれは経験すべき『人生の主要な目的』と位置づけられていました。男女平等の客観的な追求は『社会的性差と結びついた出産・育児による格差』をどう解釈すべきなのかという非常に困難な課題に直面しています。

自然界の生物の多くは『自己の遺伝子保存』を究極の目的としていますから、人間のように妊娠出産をするかしないかを主体的に選択することなどはあり得ませんが、経済生活と認識水準を向上させた人類は自意識の拡大や育児コストの増大によって、出産・育児を人生計画の一部に組み込むようになり行動選択の対象とするようになりました。ヒト以外の動物では異性を選ぶ性選択と生殖(繁殖戦略)は直結していますが、人間には『恋愛・性愛・結婚・父親と母親』という関係性の違いがあり、特定の異性を性的パートナーとして選択しても必ずしも子どもを作るわけではありません。

父親・母親・子から構成される近代的家族が社会の構成単位であった時代には、近代的家族を形成してそれを再生産することが目的化しているので、出産育児を決断することの迷いは殆ど無かったと考えられます。出産育児を『人生の主要な目的』と捕える考え方とは、今している勉強や仕事は最終的には結婚をして家族を作り子どもを育てるための手段であるとする考え方であり、『結婚・家族・出産育児・子どもの自立(=社会の再生産)』というのが人生の究極の課題となります。発達心理学の各種発達理論やライフサイクル論も、基本的にはこの近代的家族観を前提としており、『結婚・出産・育児』が社会的自立のための重要なライフイベントとして定義されていたこともありました。

地域共同体が衰退の危機にある現代社会では、社会の最小構成単位としての家族(世帯)は、最後の最後に残されたゲマインシャフト(情緒的人間集団)とも言えますから、近代家族を失うことは精神的安楽の場や自己アイデンティティの一部を喪失することを意味します。守るべき家族がいるからつらい仕事を頑張れるという人も少なくありませんから、資本主義社会における労働のモチベーションと家族(帰れる場所・情的な人間集団)というのはかなり密接な関係があります。シングルマザーが子どもを育てるという選択肢そのものは尊重すべきであり法的な不平等などは無くすべきですが、家族そのものが存在しないのがデフォルトと考えられるほどに、人間の精神は個人主義化していないというのが現実ですから、今後も少子化(高齢化)問題と合わせて近代家族の再生産と停滞の問題は繰り返し現れてくると考えられます。

他人に必要以上に干渉しない現代の自由主義社会は、結婚・労働・出産・育児を『個人の自由な選択の結果』と位置づけることにより、個人を結婚・家族形成にまつわる社会的圧力(世間の眼差し)から大きく解放しましたが、人々に共有される『家族の再生産の物語』を喪失しかかっているとも言えます。戦後に伝統的な“イエ制度”が解体されたことで、多くの個人は家(家系)を残すという束縛から逃れましたが、家系(血統)を残すという共有幻想としての目的を失ったことで、一定の年齢で結婚しなければならないという社会的義務が消滅したとも言えます。個人とイエ(家系)の分離が進んだ結果、結婚を必然的なものと見なす前提で作られた『お見合い結婚』の衰退が起こり、後は、個人の主観的な幸福や好きな異性の選択、経済的な生活設計の問題、育児しやすい環境の用意としての結婚(婚姻制度)が残ることになったわけです。

近代以前の社会(共同体)では、結婚して子どもを産み育てることが、人生の主要な目的であり共同体維持(防衛)のための社会的責務でもあったので『家族(子ども)の再生産の物語』に特別な意味づけや解釈は必要ありませんでした。しかし、近代以降の社会では『経済生活の発展・認識能力(情報環境)の拡張・人権と個人主義』により、結婚・出産・育児が『個人の自由な選択』の問題となり、個人個人が『自分の人生の物語』の中で家族や育児の価値を実感しなければならなくなりました。このことは、冒頭に書いた、出産育児を『人生の主要な目的』として全面的に受け容れることができるか、出産育児を『人生の重要な選択』として様々な人生設計を予測しながら思い悩むかの違いにもつながってきますが、『母親・父親としての役割を担う自分』をどのくらい肯定的に受容できるのかという自己アイデンティティとも関係しています。

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2017年09月22日

教育イノベーション事例~学校から飛び出し、生きた社会課題を担う!

これまで「学校教育」について多方面から扱ってきたが、
「学校教育」をめぐる問題、課題は山積み、教育改革は社会の最重要課題の位置にある。

では具体的にどうしていくか? どのように実現していくかが問われる。
最も急がれるのは小さな子ども達を強制教育の檻から解放し、自由な追求の場をつくることであるが、
まずは先端事例から探ってみたい。

◆学校から飛び出し、生きた社会課題を担う!

九州産業大学「KSUプロジェクト型教育」の事例:リンク
○学びの舞台は、実社会の「現場」。
学部学科の枠を超え、企業や行政、地域・団体などとのコラボレーションにより新たな価値を産み出す。
教室を出て、生きた社会に飛び出す。
そのなかで答えを見つけながら学んでいく。それが、「KSUプロジェクト型教育」。
他の学部の仲間や、社会で活躍するプロと連携して、プロジェクトを立ち上げる。
そこにある課題や目標と向き合い、自ら考え、行動していく。
そうした体験をとおして、将来、社会の第一線で活躍するための「実践力」「共創力」「統率力」を身につける。

~実践力・・・「実現力」
変化の連続で、予想がつかない。従来の手法では答えが出ない。
そうした時代を生き抜くために必要なのは、「現場での実体験」。
実社会の現場とは、何なのか。
そこでは、どういうことが語られているのか。どう動けばいいのか。
これを、身をもって実感すること。この現場こそ、KSUプロジェクト型教育の舞台。
「キク・シル・ウゴク。」を合い言葉に、現場の声を聞き、現場を知り、現場で動く。
この体験をとおして実践力を養成。

~共創力・・・「G追求」
組織の全員が同じ方向を向いて、競争に打ち勝つことだけに努力する。そんな時代は終わった。
今は、グローバリズムの時代。組織や地域や国を超えて、地球規模でモノや情報をやりとりする時代。
文化も考え方も違う人たちと向き合い、ともに考え、答えを求める。
そうしたプロセスをとおして、新しい価値を創り出していく力が求められる。
KSUプロジェクト型教育では、さまざまなコラボレーションをとおして、異なる価値観をもつ人々と出会う。
そのなかで、刺激しあい、互いの力を生かしあう共創力を身につける。

~統率力・・・「仲間をまとめる力」「共認形成力」
どんなに優秀でも、ひとりの力には限界がある。
そのため、あらゆる分野で、「チーム」が注目されている。
そこで重要となるのは、チームのメンバーを鼓舞し、そのパワーを活性化させ、ひとつにまとめていく力。
すなわち、リーダーシップです。
KSUプロジェクト型教育は、大学内外のさまざまなメンバーで構成する「プロジェクトチーム」が主体。
そのなかで、目標を明確に示し、仲間の力を結集して、成功に導いていく統率力が養われる。

 

◆KSUプロジェクト型教育事例
社会とつながる、学びのかたち。

嬉野温泉活性化プロジェクト
経営学部×嬉野市×嬉野温泉観光協会

大川家具工業会と連携した家具・雑貨開発・PR映像作品の制作
芸術学部×工学部×大川家具工業会(14社)× 大川市役所

学生ブランドによるマンションリノベーションⅨ ~日本に住む外国人の部屋~
工学部×㈱三好不動産×㈱サンコーライフサポート

柳川夜の川下り照明による空間演出
芸術学部×柳川市

 

◆「元来、教育は生産者を作り出すためにある。」

つまり、生産活動と切り離された教育では意味が無い、ということ。
「学校」のあり方、「学び方」を根本的に変えていかなくてはならない。
何の生産課題も無く、現実社会から切り離された無圧力空間たる学校教育を、
生産活動を軸とした教育機関に変えなければ、根本解決にはならない。

地域産業と教育の一体化。
そうすれば、教育改革も産業再生も地域活性化のもとに地域一体で取り組んでいける皆の課題となる。
行政と、生産者と、教育者と、子ども達(家庭)とがひとつになれば、何だって出来る気がする。

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2017年09月15日

【南北朝仮説】北朝とは百済勢力であり、南朝とは後発の新羅・高麗勢力では?

北朝・南朝とは何なのか?仮説を提起したい。

孝明天皇の皇子(睦仁)とスリカエられて明治天皇になった大室寅之祐は南朝と云われている。

大室家は山口県熊毛郡田布施町麻郷の小字である鞠府(麻里府)にある。この地は平安時代の中期頃から大内氏の拠点で、高麗からの渡来民たちの末裔が住民の多くを占めていた。大内氏の傭兵となった因島村上水軍も、漕ぎ手の大部分は半島からの渡来民の末裔だった。

百済発祥の多々良姓を称した大内氏は、大内氏を頼って渡来してきた半島系民族集団を配下に置く在日居留民団の団長として存在していた。

『奇兵隊天皇と長州卒族の明治維新』(落合莞爾著 成甲社刊)「第二章 大室天皇はなぜ田布施にいたのか」「第三章 卒族たちの憧れは奇兵隊天皇」から要約する。

山陽山陰地方は古来から朝鮮半島民の流入が絶えないが、周防国は、百済王族の琳聖太子の子孫を自称する大内氏の本拠であった。平安時代頃に渡来してきた大内氏は、周防・長門を中心に支配領域を広げ、百済の琳聖太子の末裔と称した。但し、琳聖太子は架空の人物とされている。

半島渡来人は当初は百済人だったが、やがて統一新羅人、さらには高麗人になる。平清盛も瀬戸内海の制海権を確保し、日宋貿易に本格的に進出したが、清盛は海上要員として、高麗人を多数移入した。

1363年に南朝から北朝に帰順した大内氏は、周防国大内村から山口に本拠を移す。この頃から琳聖太子の末裔を自称し始めた大内氏は、1399年に渡鮮して倭寇を討伐した功績に高麗王に対し百済の故地に領地の下賜を請願する。この請願そのものは、成就の寸前で高麗王臣の反対により不成功に終るが、このように、足利氏に仕えながら大内氏は高麗王にも秋波を送っていた。
このように大内氏は、中国地方と北九州の数カ国が大内氏を国王として分国・独立し、李氏朝鮮を宗主国に仰ぐこともあり得たのである。分国・独立の危機を感じた室町幕府にとっては、この地の高麗系住民をヤマト文化に同化させることが重要な課題だった。

実際、高麗では満州系女直族の李成桂が裏切りによって李氏朝鮮を建てていた。まず元を裏切り、双城総管府を陥落させた李成桂は、次には明の密命で、1392年に高麗を滅ぼして李氏朝鮮を建て朝鮮国王になる。大内氏が李氏朝鮮を通じる可能性もありえたのである。実際、15世紀には大内教弘は防長両国の他に筑前・豊前・肥前を合せて5カ国の守護を兼ねるが、少弐教頼と戦った時、対馬に逃げた少弐を討伐するため、対馬の部分割譲を李氏朝鮮に提案している。

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この説自体は事実であろう。
その上で、一つの仮説を提起する。
天皇家を頂点とする日本の支配階級の出自が朝鮮半島である。
まずは、百済勢が支配権に握る。支配の完成形が平安朝であり、その糸を引いていたのが秦氏である。彼ら平安貴族は専ら農民からの収奪に血道を上げる。

しかし、これで朝鮮半島からの流入は終わりではなく、その後も新羅勢や高麗勢が流入する。日本国内に領土を持たない彼らは、市場ネットワーク・芸能ネットワークを形成する。この市場・芸能ネットワークに依拠したのが南朝である。

ということは、北朝とは初期に流入して平安朝をつくった勢力(主力は百済勢)であり、南朝とはその後に流入してきた新羅勢・高麗勢ではないか。

※元々、南朝派であった大内氏は百済王族の末裔を自称しているものの、平安中期に登場したことや高麗出身者を抱えていたことから考えて、後発の高麗出自であった可能性が高い。

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2017年09月14日

現実社会を知らずして、教育をする資格はない

>大学の生き残る道は、とことん現実課題を追求する実学の場(生産機関への転換)しかない
少子化による大学経営危機に「大学=最高学府」は答を出せるのか?

 

先日、インターンの学生が話していたことが印象的だった。
「大学は研究ばかりで、現実と全く繋がっていないから面白くない、、、
 今(インターン生活)は色んな経験が出来るから、大学より全然楽しい、、、」

 

どうも、学ぶことが目的化してしまい、何のために学ぶのかの命題が全く抜け落ちている。
これでは、研究者の自己満足を学生に無理強いしていることに他ならない。
多かれ少なかれ、これが大学教育の実態なのだろう。
大学教員という特権身分が「選民意識」生み、現実とかけ離れた研究こそが学問なのだと正当化する。
そもそも現実社会を知らずに教員をしていること、教員になれること自体が問題であろう。

 

2014年の文科省の有識者会議でも、「日本の大学の大半を職業訓練校にするべきだ」という意見が出ている。
産業界からすれば真っ当な意見であろう。

 

東洋経済ONLINE

インターネット上で炎上した「G型・L型大学」の議論についてご存じだろうか。
発端は文部科学省が2014年10月に開いた有識者会議。
委員を務める経営共創基盤の冨山和彦CEOが、「日本の大学の大半を職業訓練校にするべきだ」と提言したのだ。

提言では大学をG(グローバル)型とL(ローカル)型に二分。
G型はごく一部のトップ大学・学部に限定し、グローバルに通用する極めて高度な人材輩出を目的とする。
そのほか大多数の大学・学部は、地域経済の生産性向上に資する職業訓練を行う――としている。

アカデミズム一辺倒で事実上、偏差値でしか差別化できていない日本の大学に、新たに「実学」というラインを作るべきだという主張だ。
当然ながら、大学教員からは激しい反発があった。
一方で、「社会に出て役立つ実学の方が求められている」という肯定意見も少なくない。今なぜ実学なのか。

 

・反論の中で一番多かったのは、「教員に実学を教えさせるのは、アカデミズムに対する冒涜だ」という大学教員の意見。
でも逆にこの意見こそが、実学の世界で生きていく市井の人たちに対する冒涜。

・そもそもの問題は、日本の大学教育が平均的な学歴で社会に出て行く大多数の人たちにとって役に立たないという現実。
中小企業で働く人の現実と、大学が教える内容はまったく合っていない。

・教養・教育は大学の独占物ではない
大学の授業そのものが、ネット上で無償で公開されている時代。
一般教養は大学に閉じ込めるのではなく、むしろ万人に開かれるべきです。

・教員が知識の独占者でいたいのでしょう。コアにあるのは、大学教員のものすごい選民意識。
大学人は職業訓練なんか二流、三流のものだと思っている。

 

 

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2017年09月07日

日本列島で稲作はどのように伝播したか?

『民族学伝承ひろいあげ辞典』「遠賀川式土器の移動と早期水田伝播から見えるもの」から転載します。

「(北九州の)遠賀川式土器(おんががわしきどき)は、西日本に分布する弥生時代前期の土器の総称。九州から西日本に広く分布し、それが初期の水田稲作の西から東への伝播の指標とされ、西日本の弥生前期土器の総称としてつかわれるようになった。」
「分布は太平洋側では伊勢湾沿岸まで、日本海側では若狭湾沿岸までの西日本全域におよぶ。その後南西諸島や本州北端の青森県までおよんでいることが分かった。 伊藤信雄は、1970年代に炭化米・籾痕土器関連の遺跡を東北地方で23カ所掲げて、日本海沿いの稲作伝播の可能性を指摘している。1980年代に入って青森県三戸群南郷村の松石橋遺跡で完形壺がみつかり、遠賀川式土器であることが分かり、是川遺跡から出土した土器片が遠賀川式であることが確認された。それ以来東北地方各地で遠賀川式土器的などが見つかっている。これらは遠賀川系土器と呼ばれ、東北地方各地の遠賀川系土器の詳しい観察結果や図・写真が公開されている。」

列島の稲作は土器の出土編年から、まず日本海ルートで出雲・越(新潟)へと早期に動く。この流れが青森砂沢へと向かったようである。日本海側が早い理由として学者は対馬暖流の流れと温暖さ、さらに夏季の雨量の多さをあげている。疑問点もあるが記紀などの史書が出雲に早期のクニがあったと言うこととは合致することになる。太平洋ルートでは遠賀川から瀬戸内に入り吉備~近畿へと向かうルートと、豊後水道から外海へ出て土佐、紀伊、伊勢、濃尾平野へと向かうコースがある。

東北の三陸側へは太平洋ルートではなく、もしや日本海で青森周りで南下して到着した可能性がある。関東地方の水田が最も遅くなっているからである。

いずれにせよこれらすべてのコースは安曇族や久米族の海上交流コースの早期存在を示唆することになるだろう。

●遠賀川式土器の移動と水田の広がり
史学界では遠賀川式土器を作る人々が水田稲作を東北にまで広めたことはすでに定説化している。しかし、最初、菜畑のような北部九州の西側で始まった水耕稲作が、なにゆえに北東部の遠賀川流域の人々によって広められたについては、いまだ納得できるアイデアにお目にかかっていない。そもそも九州北西部には長江中流域に多い甕棺墓が広まったが、博多の北東部から豊前には例えば板付遺跡でさえも菜畑から500年も遅れてしまうのである。

しかしほかによい付随遺物がないので、ここでは学界の説に準じて話を進めておく。
東北で遠賀川式を模倣して作られた類似土器が多数出る。後進地帯と言われてきた東北だがこれによってすでに地域によっては九州と交流していた先進地帯があったことがわかった。稲作ばかりではなく、農具つまり実用鉄器の移動、あるいは九州的な装飾品も同時に届いており、あるいは琉球の南海にしかいなはずの貝の模倣品土器すら縄文後期・晩期に出ている。
つまり九州~日本海~東北(南北海道までも)のコースは稲作以前からすでにあったということになる。さらに付け加えるならば、世界の交易は遠隔地から始まるという世界史の定説もあり、このような長旅を小舟でやれた人々ならば、当然東シナ海すらも渡って長江河口部や山東半島にまで往復できたと考えてもおかしくないだろう。

さて、この遠賀川式土器の日本で最も早い移動の痕跡は、つまり倭人の船旅の列島内で最古のものであり、それが「おがのみなと」のちの「岡の港」(おがとは遠賀の古い発音)からはじまったことに日本古代史最大の謎を解く大きなヒントがあるわけである。

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http://www.ranhaku.com/web04/c3/2_01map.html

●遠賀川式土器の分布と発見された弥生時代の水田分布図をもう一度じっくりと眺めていただきたい。

瀬戸内海で近畿へ向かう航路では岡山に土器が集中している。そして播磨から淀川流域(摂津)である。南下して河内方面へも広がる。しかしこの瀬戸内ルートはここで一旦伝播の波がやみ、淀川を北上した波も琵琶湖南部で止まっている。

紀伊半島・三重県から尾張へは太平洋ルートで伝播したのである。そしてこの流れはここで一応終結したと思われるのは、濃尾平野から北へは伝播時期が非常にはなれてしまい、最後になったのである。

ちなみに、不思議なのは吉備と出雲の間と、播磨と出石の間に横たわっている中国山地である。吉備と出雲は古墳文化が大きく異なるが、考古学的には出雲の西谷古墳(四隅突出型)からは吉備系の円筒埴輪などが出てきており、双方に交流があったことは明白なのだが、播磨と出石には水田・鉄器・土器の交流がないのである。なぜおかしいかというと、実はここの間の山地は、日本で最も低くなだらかな丘陵だからである。分水嶺が日本最低の海抜10メートルというからこれは山地とは言えず、ひょいっと越えられる丘なのだ。なのに交流が少ない?尾張から福井若狭へ抜ける部分が日本でも最長最高の日本アルプスでさえぎられていたにも関わらず文化交流や人の流れがあったにも関わらず、なぜ兵庫県の日本海側と瀬と内側には古くからの交流がなかったか?筆者には疑問である。

参考文献 木下正史 『よくわかる古代日本の全体像 知識ゼロから学ぶ日本史の原点』新人物往来社2011

※遠賀川式土器が水田と鉄器その他の装飾品などと移動していった道こそは、実はツヌガアラシトやアメノヒボコらの通り抜けていった道、神武天皇東征ルート、そして海人族と隼人たちの海の道なのである。

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日本列島における稲作の伝播ルートの指標として、遠賀川式土器が使われている。これが正しいと言えるかどうか疑問はあるが、定説では、稲作の伝播ルートは、北九州東部の遠賀川を基点として次のようになっているようだ。

【1】日本海ルートで出雲・越(新潟)から青森砂沢へ伝播したルート。

【2】瀬戸内に入り吉備~近畿へと向かったルート(岡山に集中。淀川~河内・琵琶湖南部で止まる?)。

【3】豊後水道から外海へ出て土佐、紀伊、伊勢、濃尾平野へと向ったルート。

【4】関東地方の水田が最も遅くなっている。日本海で青森周りで南下して東北の三陸側へ→関東地方という可能性も。

【5】北部九州の西側で始まった水耕稲作が、なぜ、北東部の遠賀川流域の人々によって広められたかは不明。

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2017年09月07日

少子化による大学経営危機に「大学=最高学府」は答を出せるのか?

少子化による大学経営危機がいよいよ本格化する、いわゆる2018年問題。

ただでさえ大学の存在意義が問われているのに、誰でも入れる状況になれば、ますます大学に行く意味が問われる。

教育の危機的状況に対し、大学側の動きがよく見えない。文科省は文系学部を減らそうとしているようだ。

大学の生き残る道は、とことん現実課題を追求する実学の場(生産機関への転換)しかないが、

これは教育改革の最大のチャンスであろう。何もしなければ潰れるのを待つしかない。

差し迫る現実課題に答えを出せないとすれば、それこそ大学は不要であることが証明されるだけだ。

 

 

◆2018年問題

現在ある程度の均衡を保っている18歳の人口が2018年を境に大きく減り始め、大学進学者が減少することを関係者の間で「2018年問題」と呼ぶそうです

2012年度から2018年度にかけては118万人から123万人を推移する18歳人口も、2019年から2022年度にかけ毎年1万人の規模で減少し、2023年度から2024年度では4万人減少し105万に達する

2018年問題で地方国立大学倒産の危機 大学乱立で、問われる大学経営

 

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◆大学経営難

2014年の時点で約4割の私立大学が定員割れを起こしています。さらに、代々木ゼミナールの校舎が7割減に象徴されるように子供の数自体が減っているので避けようのない事実

現在は「大学全入時代」で、大学を選ばなければ、誰もがどこかには入れる時代になりました。そのため、「入学して価値のある大学」と「入学しても価値がない大学」の二極化が生まれています

今現在でも就職活動において「どこの大学か?」「大学で何をしてきたのか?」は、重要な要素として見られ、その合否に大きな影響を与えています。これは、ある意味、当然のこと

「2018年問題」が大学受験にもたらす変化 ~1000人規模の大学が170校も潰れる

 

◆少子化

大学の経営が厳しい理由は、大きく2つある。1つは少子化による18歳人口の減少だ。1992年に205万人いた18歳は、12年に119万人へ約40%減少している

わが国の若者人口(18~24歳人口)は平成に入って以降、ピーク時の約1,400万人から1,000万人を割り込むまで、約3分の2に減少している

私立大「財務力ランキング」ベスト30 ~半数近くの私立大が“赤字経営

 

◆大学数の増加

大学設置基準の緩和による大学数の増加だ。92年には523校しかなかった大学が、12年には783校へ1.5倍に増えている

参入規制の緩和により大学の新設が大幅に認められ、大学数は5割増となった。その結果、一種の逆転現象が起こり約600ある私立大学のうち半数近くが定員割れを起こす事態

厳しさを増す大学の経営環境

 

◆地方大学は、、

都市圏の有名大学は相変わらずの人気を集めており、そのシワ寄せが地方圏の私立大学にきており、学生が集まらず定員割れをおこしているところが続出

実質的には無試験(AO入試など)で入学できるため、たとえば「勉強をする気はあまりないが、とりあえず大卒の肩書きだけは欲しい」という学生のたまり場のようになっていることも多い

大都市圏への流出(特に若い女性)は、地域の人口減少に拍車をかける。地方の受け皿となってきた国公立大学の今後は、その地域にとっても死活問題

地方大学の活性化

18歳人口が2018年あたりから激減 地方国公立大学は死活問題

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2017年09月07日

日本列島への稲作渡来ルート諸説

『民族学伝承ひろいあげ辞典』「遠賀川式土器の移動と早期水田伝播から見えるもの」から転載しました。

●3水耕稲作の発祥地と渡来経路
遺伝子分析と考古遺物の炭素同位によってジャポニカ米の発生地は中国長江流域と確定している。
現在までに水耕稲作の日本列島への伝播ルートは4つの案が出されている。

1 北東アジア北回り遼東半島から朝鮮半島へ南下して北西九州へ→×寒冷乾燥地帯ゆえに痕跡なし。
2 山東半島から海を渡って朝鮮半島の温暖な南部へ入り、そこから対馬・壱岐を経て北西九州へ→○遺跡あり(※ただし・・・)
3 長江流域から台湾・琉球諸島を経て南九州へ(柳田國男説)→×沖縄の水田は11世紀以降しか出てこない
4 長江流域から直接東シナ海を横断して北西九州へ→?証拠になる遺物や渡海の痕跡は探しようがない

筆者はイネが南方系植物であることから半島南部と九州玄界灘への到着はほぼ同時だったと見る。なぜならばのちの伽耶など、半島海岸部の倭人と九州の倭人は同じ海人族で同族(はらから)だったからである。なんとなれば彼らが中国沿岸部の白水郎と同じ海の民である限り、彼ら自身がすでに縄文中期あたりから長江などとも交流していた可能性もあながち否定できず、弥生時代になれば彼ら自身がイネを持ち帰ることも可能である。北西九州の初期水田はすでに長江の最先端技術と鉄器農具とともに渡来していたわけなので、彼らの舟に長江人が同乗してやってきて指導したことも否定できないのである。

水耕稲作の北西九州への到来は推定紀元前5世紀だとされている。最古の水田遺跡は菜畑遺跡。

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http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_03suidenninasaku_no_jitunenndai.html

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2017年08月31日

葛城氏と秦氏

元々、市場や諜報のネットワーク、神社ネットワークを作り上げたのは葛城氏(賀茂氏)だが、その後、賀茂神社の実権を秦氏が握ったことに象徴されるように、ネットワークは秦氏に移行したと考えられる。

以下、「泰澄大師 と 日本文化 」の一部要約です。

●京都の愛宕山の寺院には、「大和葛城・鴨氏の役小角」と「越前秦氏の泰澄」の起源に関わる、奈良時代の伝承がある。銅鐸・鉄器をもたらした人々は、出雲など日本海側から渡来し、丹後・亀岡などに拠点、大和に至り、三輪山山麓を本拠とした。彼らは、水・鉄をもたらす山を崇めたが、その中の一集団が、奈良盆地 南西に暮らした葛城鴨氏である。 今日の奈良「高鴨神社」一帯に暮らし、やがて新しい勢力の流入を受け北上し、山代に至る。 その後、奈良時代、同じく葛城から山代へ北上したのが山岳修験の「役小角」である。

天智天皇は、大津京守護のために、奈良の大神神社から、今の日吉大社へ出雲の神である「大己貴神」を勧請した。天武天皇は、出雲の一族である鴨氏奉祭の上鴨神社社殿を整えた。桓武天皇も平安京の護りとしたのは、賀茂社の地である。

古墳時代、秦氏は主に北九州~河内・山代に至るが、一方、日本海側、越前から淡海(滋賀)を経て山代に南下した秦氏もある。その一人が泰澄。泰澄(越前秦氏)は、奈良時代の修験道の僧。越前国白山を開山した。泰澄の父は、秦氏の 秦角於だとする説がある。

秦氏の拠点拡大や、その二つの渡来ルートの合流は、松尾大社の祭神「大山咋神」と「市杵島姫命」に伺える。大山咋神は、日吉大社の奥宮磐座に残る古代の神山信仰で、山城の松尾大社から保津川を昇り、亀岡に伝わる。市杵島姫命は、元来、北九州の宗像大社の祭神である。また、越前から南下した泰澄の白山信仰は、日吉大社など滋賀に多く伝わり、山城に至る。
以上、出雲からは亀岡、大和~山代、 一方では、越前からの淡海~山代。 出雲から伝来した磐座信仰、大国主信仰は、亀岡の出雲大神宮や愛宕神社、そして山代の山頂に至り、今日の愛宕山社寺に伝わる。最澄は、奈良の三輪山より大物主の分霊を日枝山(比叡山)に勧請して、大比叡とした。

『秦氏の研究 -日本の文化と信仰に深く関与した渡来集団の研究-』(大和岩雄 著/大和書房)は、泰澄の生まれた足羽郡に秦氏がいたことを指摘し、また、秦氏の山岳信仰の山である愛宕山の開基が泰澄であり、愛宕山を「白山」ということをあげて泰澄が秦氏の出であることを主張している。泰澄は 702年、文武天皇から鎮護国家の法師に任じられ、717年、越前国の白山にのぼり妙理大菩薩を感得した。 各地にて仏教の布教活動を行い、元正天皇の病気平癒を祈願し、その功により神融禅師(じんゆうぜんじ)の号を賜る。737年に流行した疱瘡を収束させた功により泰澄の戒名と大和尚位を賜ったと伝えられる。

この時期600年代後半~700年代、愛宕山麓、嵯峨野周辺では秦氏の活動が活発となる。

●松尾大社 縁起(ホームページ)より
[磐座祭祀] 当社の御祭神「大山咋神」は、当社社殿建立の飛鳥時代の頃に、始めてこの場所に祀られたものではなく、それ以前の太古の昔よりこの地方一帯に住んでいた住民が、松尾山の山霊を頂上に近い大杉谷の上部の磐座(いわくら)に祀って、生活の守護神として尊崇。
[秦氏来住] 五・六世紀の頃、近年の歴史研究では朝鮮新羅の豪族とされている 秦氏の大集団が、朝廷の招きによってこの地方に来住、その首長は松尾山の神を同族の総氏神として仰ぎ開拓。
[秦氏の開拓] [大堰と用水路][酒造神]
[平安京誘引] 時代と共に経済力と工業力を掌握した秦氏は、大和時代以後朝廷の財務官吏として活躍し、奈良時代の政治が行き詰まると、長岡京へ、次に平安京へ遷都を誘引したのも秦氏の膨大な勢力によるものであったことが定説。
〔神殿の造営〕 701年に秦忌寸都理(はたのいみきとり)が勅命を奉じて、山麓の現在地に神殿を営み、山上の磐座の神霊をこの社殿に移し、その女の知満留女(ちまるめ)を斎女として奉仕し、この子孫が明治初年まで当社の幹部神職を勤めた秦氏(松尾・東・南とも称した)。

●修験道の開祖に仮託された役小角も山岳修行者の一人だった。平安時代になると最澄が比叡山、空海が高野山を開くなど山岳仏教が隆盛し、密教の験者たちがその験力を得るために山岳修行を行なった。また安倍晴明などの陰陽師で山岳修行をしたものも少なくなかった。こうした験力をおさめた密教の験者たちが修験道を作りあげてゆく。中世期に修験道が全盛期をむかえ、熊野を本拠として、本山派や当山派などの中央の修験をはじめ、羽黒山・彦山・白山・立山など地方の諸山の修験が活発な活動をするようになった(本山は三井寺を後ろ盾としてまとまり、当山派は吉野を拠点とした大和の諸大寺の修験から成る)。白山山麓の永平寺を修行道場とした曹洞宗、身延山の七面山を道場とした日蓮宗、一遍が熊野で啓示を得て開教した時宗など、鎌倉新仏教も山岳信仰や修験道と密接な関係を持っている。

近世期には山岳を拠点として諸国を遊行した修験者や聖たちは村や町に定着して、氏神や小祠小堂の祭や芸能にたずさわったり、加持祈祷などの活動に従事した。その影響は強く、現在でも奥三河の花祭などのように、山村には彼らが残した祭
や芸能が伝えられている。また近世中期以降になると在俗の庶民たちが講をつくって羽黒・富士・白山・立山・木曾御岳・大峯・石鎚・彦山などの山岳にのぼるようになっていった。

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2017年08月31日

試験制度の功罪~あらゆる制度は自己目的化し、腐敗する

先週の「実現塾」では、市場拡大における先進国の差、違い、構造について学んだ。

日本は先進国の中でもいち早く豊かさを実現したが、一方隣国の中国ははるか四大文明の頃から市場の歴史があるが、未だに豊かさが実現したとは言えない。その理由は中国の科挙制度にあり、科挙制度により官僚機構が腐敗、それどころか国家が腐敗していることにあると。
日本の官僚登用制度も科挙を参考にしており、現在の官僚(試験エリート)の無能さ、暴走を見るに付け、試験制度が社会を腐敗に導くことは誰しも納得のいく事実だろう。

 

今回は「科挙」がどのようなものかを参考に紹介。

「科挙の功罪――あらゆる制度は自己目的化し、腐敗する」より

 

科挙は6世紀の隋の時代に始祖の文帝によって初めて導入され、1904年の清朝末期に廃止されるまで、1300年以上続いた制度です。優秀な人間を選抜するとともに、皇帝の権力を強化するのが目的でした。

家柄や出自に関係なく、ペーパーテストの成績さえよければ高級官僚として登用するというのは、世界的に見ても画期的なことでした。事実、18世紀くらいまでのヨーロッパでは、高官は貴族の世襲が当たり前でしたから、中国の科挙は非常に優れた制度として紹介されていたようです。

この科挙ですが、最も効果的に機能したのは宋(960年-1279年)の時代だったというのが一般的な評価です。宋に先立つ隋や唐の時代はまだまだ貴族階級の力が強かったのですが、宋代にもなると、彼らの力は衰えます。宋の時代には、科挙の試験に合格することが、高級官僚へのほぼ唯一の道筋となりました。

中国における高級官僚の地位は、現代の日本のキャリア官僚などに比べると比較にならないくらい強大なものでした。古代の中国では伝統的に公金と私財の区別はありません。賄賂も当然のものでした。官僚は、税や付け届けで集めたお金や供物の中から一定額(一説には、集めたお金のたかだか1%以下と言われています)さえ皇帝に上納すれば、あとは私財とすることが可能でした。

時代にもよりますが、今の日本の金銭価値にすると、兆円から数十兆円単位の蓄財をした官僚も数多くいました。百億円程度の蓄財しかしなかった高級官僚が「清廉な人物」とされていたというのですから、あとは推して知るべしでしょう。出自を問わず、ペーパーテストに合格すればこの地位を得られるのですから、優秀な人間が科挙合格を狙ったのも当然と言えます。

とは言え科挙は、宋代までは、実際に優秀な実務者を選ぶ機能を果たしました。科挙の首席合格者が有能な宰相になったという例も少なくありません。南宋の三忠臣の1人とされる文天祥などがその例です。その理由には諸説ありますが、宋の頃まではペーパーテストとはいえ出題範囲も広く、また「志」を育むような文章も勉強しなくてはならなかったという説が有力です。

趣が変わったのは明(1368年-1644年)の時代です。この頃になると朱子学の影響が強くなり、出題範囲は四書五行(論語、孟子、大学、中庸、易経、詩経、書経、礼記、春秋)に限定されます。ひたすらこれを暗記したものが科挙に合格するようになったのです。

では、どのような人間が科挙に合格するかというと、記憶力が良く、親がお金持ちで、子どものころからひたすら科挙合格に時間を使った人間です。時代によって制度も変わるのですが、科挙にはいくつかのステップがあり、概ね30代後半で最終試験に合格するというのが、合格者の一般的なパターンでした。子供のころからカウントすると、30年以上ひたすら科挙合格に向けて頑張った人間が合格するわけです。合格できない人間は、60歳、70歳まで試験を受け続けたとも言われます。一族からの期待があまりに高かったため、期待に応えられずに発狂したり自死を選んだりした人間も多かったと言います。

しかし、ひたすら儒学関連の古典を記憶した人間が実務者として優秀かと言えばそんなことはないのは容易に想像がつきます。実際、明代では、科挙に合格したからといって、実務者としては必ずしも優秀ではない人間が数多くいたようです。

それでも明の政治がそれなりに回った背景としては、そうした官僚の限界を補う一群の存在がありました。それは宦官です。宦官は男性器を切除された皇帝の世話役、補佐役です。日本人の感覚からはなかなか理解しにくい存在であり、中国からさまざまな文化を吸収した日本でも、宦官という制度を取り入れようとしたという話は、筆者は寡聞にして知りません。

宦官は、学(といっても四書五経に限定されたものですが)こそありませんでしたが、世間知に長け、また、科挙合格者にはない度胸や才を持ち合わせていました。中国史に残るトラブルを解決したのが宦官だったという話も多々あります。

宦官と科挙合格の官僚が絶妙のバランスで牽制しあい、難局においては協力したことが、中国の政治を支えたのです。

しかし、科挙の制度は時代を下るにしたがって、どんどん自己目的化し、優秀な人材の輩出という機能を失っていきます。清代になると、古典を知っていることが最高のことであり、実際の政治は俗事として下に見なすようになったとも言われています。しかし、科挙の運営が科挙合格者によって運営されているのですから(名目上は皇帝直轄の試験ではありましたが)、その制度は容易には変わりません。

それでも中国一国で物事が完結しているうちはよかったのですが、19世紀になると、西洋の列強が科学技術なども武器にして中国に攻め入ってくるようになります。1840年のアヘン戦争がそのさきがけです。これには当時の科挙合格者は全く対応できず、宦官も役には立ちませんでした。その結果、19世紀後半、清は欧米列強の軍門に下ることになってしまったのです。

科挙が廃止されたのは、日清戦争に敗れて約10年後の20世紀初頭です。清朝末期の権力者、西太后の決定によるものでした。西太后は歴史上、必ずしも称賛される存在ではありませんが、この意思決定については、評価は高いようです。科挙の廃止を西太后に提案した康有為は、「科挙のない日本にも優秀な人は多い」と言ったとされています。

こうして科挙は1300年超の歴史に幕を下ろしたのです。しかし、その影響は、いまでも日本の大学入試や公務員試験に残っていることは皆さんご存知の通りです。それがいつどのように変わるのかは興味深いところです。

今回の学びは以下のようになるでしょう。

・どんなに効果的な制度であっても、長く続くとそれが自己目的化し、本来の役割を果たせなくなる可能性が高い。その制度で恩恵を受けた人間がそれを監督すれば、その傾向はますます高まる
・権力が集中化するのは危険。パワーバランスをとる何かしらの仕組みやガバナンスが必要
・物事を変えるきっかけとして外圧は有効。しかし本来は、時代遅れのものは、外圧によらず、自発的に変える仕組みが内在化していることが望ましい

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