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2018年01月16日

私権社会から本源社会への革命的転換、その主役は子ども達

>かくして、生きる活力もない、自ら考える頭もない人間であふれ、社会は全面的に活力を失った。
このような閉塞状況が真っ先に顕在化するのが若者であり子供たちである。
このままでは社会は滅亡するしかない。
強制圧力にしか反応しない思考停止人間、無気力人間を生産する学校教育を直ちに変革しなければならない。
教育革命待ったなし!(前回の投稿

 

◆国家の権力基盤
このような危機的状況に対し、国家は何をしているのか?
例えば、働き方改革。時短や報酬、職場環境などのガワばかりを問題にし、肝心の働き手の活力など、主体意識などお構いなしだ。
国家は、活力のある未来の社会像など、全くもって示せていない。
彼らは自らが支配者として存在していたいだけ、地位を守りたいだけ、既得権益を温存したいだけ、
だからいくら国民の支持が得られなくとも不正選挙の暴挙をもってして必死にしがみつく。
国家権力の暴走も見せかけの民主主義によって封じ込められる。

こんな酷い状況であっても暴動が起きるわけでもなく日本人は大人しい。
それは、江戸時代以前より、お上が支配する世界とは別に、現実の共同体社会の中で生きてきたからだ。
元々日本人は、お上とは無関係に豊かな自治共同体社会を自分たちで築いていた。
その共同体、および共同性を否定し、国家に従順に従う下僕にせしめたのが近代学校教育である。
教師を絶対的な存在とし、教科書が絶対の答えであると、繰り返し刷り込んでいく。
当然のように教科書には国家にとって都合の良いことしか書かれていない。

国家権力の基盤は、資本でも法制でもなく勿論軍事力でもない、国家権力に従順な国民であり、
国家にとって都合の良い、余計なことを考えない思考停止人間を大量生産してきた学校教育にあることは間違いない。

 

◆脱学校が顕在化
そして今子供たちの間で脱学校という、新しい不登校が登場してきた。
全く意味のない勉強を延々とやり続ける違和感、不整合感、虚無感からくる活力衰弱がついに我慢の限界に達したということだ。
脱学校の潮流と同時に、教えない学校、教えない塾が人気を得、確実に成果を上げている。
従来の学校教育の枠組みを取り外し、子供たちの思考を解放してあげた途端に、追求活力が芽生えている。

元来、人間は生まれながらにして天才なのだ。
目も見えず、耳も聞こえず、なにも喋れない赤ん坊の成長スピードを見れば明らかだろう。
将棋の藤井四段も、芥川賞作家の又吉も、学校教育の枠組みから逃れた異端児の中から登場した。
人類の人類たるところは自由に組み替え可能な観念機能にあるが、その人類固有の機能を封鎖しているのが学校教育であり、国家権力の基盤である。

 

◆現実となった革命
私権社会から本源社会への革命的転換において、最も邪魔になるのが国家の存在である。
そして革命の主役となるのは巷の社会活動家ではない、我慢の限界に達した子ども達である。
つまり、国家権力の基盤である学校教育が、革命の主戦場となるということ。
教科書、教師、教室、学校の枠を外し自由に子供たちの興味関心にまかせれば見違えるように活き活きしてくる。

無能、思考停止から、天才、社会創造へ、180度の転換。
元々子供たちは天才なんだ、そこに気付き導くのが大人の役割、革命といってもただそれだけのこと。
従来のただ反対、否定するだけの暴力的革命とは全く異なる、可能性に溢れた革命だ。
その革命を支える基盤が、国家が否定し封鎖した元来日本人がもっている共同性、共同体の形成にあるのも間違いない。

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2018年01月11日

私権社会から本源社会への大転換、その本流は教育革命

◆「仕方なく生きている」子ども達
生きる意欲を失った若者たちが増えている、という話を聞いたのは2015年の暮れだったろうか。
勉強はもちろん、部活にも、仲間づきあいにも意欲が湧かず、何の為に生きているのか分からないまま「仕方なく生きている」子ども達。

かつて1970年代には三無主義の若者が登場した。
貧困の克服~私権獲得を活力源にしていたが、70年の豊かさ実現により根底の私権活力自体が衰弱、生きる課題を失ったからだ。
それまでの時代を牽引し、学生運動も後押ししていた(全てを否定する)近代思想も、豊かさ実現により否定対象を失い、思想自体が輝きを失い、意味を持たなくなった。

 

◆囲い込む母親
しかし、無気力・無関心・無責任の三無主義世代の若者も抗えなかったのは、その頃から急速に増してくる受験戦争による勉強圧力であった。豊かさ実現は、同時に村落共同体の消滅と核家族化への移行を意味する。核家族における家庭の課題はといえば旦那の出世と子どもの成長だけだ。とりわけ母親の生きがいは子どもが全て、子どもの出来不出来が母親の評価を決する。かくして母親の囲い込みから勉強圧力がのしかかり受験熱が過熱していく。この構造は今現在も続いている。

 

◆役に立たない勉強を強いる学校
当然のように学校もまた、試験の点数を取るためだけの勉強を強い、予備校化していく。
明けても暮れてもテスト、テスト、、受験の結果が学校の評価を決するからだ。
お題目の「生きる力」の獲得とは裏腹に、暗記することが勉強となり、思考力は衰弱するばかり。
かくして思考停止の若者が大量生産されていく。当然、実社会では使い物にならない。

 

◆悲鳴をあげる子ども達
豊かさを実現した70年に、すでに私権活力は衰弱に向かっている。

しかし、Q:「いい生活→いい大学」という目標が、子供の勉強意欲に繋がると思いますか?、Q:大学を出れば、安定した生活が送れると思いますか? という世論調査(リンク)に、当然のようにネット調査では9割以上が否定しているのに対し、聞き取り調査では一定数の賛同者がいるように、これは実社会の現実を知らない母親か、母親の刷り込みだろうか。

根底の私権活力は衰弱しているにも拘らず、勉強すればいい生活が待っているという幻想だけを刷り込まれ、やりたくもない勉強を仕方なく続けてきた子ども達。バブルもはじけた90年代には「自分探し」がブームとなり、00年代には「やりたいことが見つからない」若者が増え、とりあえずの安定志向~資格取得がブームになったが、ここにきてついに限界に達し、「仕方なく生きる」子供たちが登場した。
契機となったのは11年の福島原発事故、12年の不正選挙。
お上とエリートによる事実隠ぺい、不正工作は身分序列と学歴信仰に終止符を打つには充分な出来事だった。

 

◆社会の全面的な活力低下
「仕方なく生きている」のは何も子ども達ばかりではない。
さかのぼれば三無主義の世代(今で言う50代)まで、同じような状況かもしれない。
自ら主体的に考えること、追求することをせず、ただ教科書に書いていることを、教師に、親に言われるままに詰め込んできただけである。

かくして、生きる活力もない、自ら考える頭もない人間であふれ、社会は全面的に活力を失った。
このような閉塞状況が真っ先に顕在化するのが若者であり子供たちである。
このままでは社会は滅亡するしかない。
(試験の)強制圧力にしか反応しない思考停止人間、無気力人間を生産する張本人、学校教育を直ちに変革しなければならない。
教育革命待ったなし!

(つづく)

 

 

 

 

 

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2018年01月11日

秦氏は6世紀前半の日本の人口の約5%を占めていた氏族集団?

『遊心逍遙記』「『謎の渡来人 秦氏』水谷千秋 文春新書」を編集したもの。

●秦氏とは、山背国を本拠とする秦氏本宗家(族長)を中心に、単一の血族だけではなくゆるやかな氏族連合を形成した集団。そして秦氏は、秦人(朝鮮半島からの移住民)、秦人部・秦部(共に倭人の農民)を包含する。秦氏の本宗家は、中国を祖国とする秦の遺民と称する人々。秦氏については、秦の始皇帝の子孫、弓月の君の渡来説や、朝鮮半島慶尚北道蔚珍郡(海曲県の古名が波旦[ハタ])からの渡来説など諸説ある。

●著者の水谷氏は「中国の秦の遺民と称する人々を中心に、新羅・百済など朝鮮半島各地の人々も含まれていたもの」と推測し、6世紀前半頃の日本の人口の約5%を占めていたと推論。日本の古代において最も多くの人口と広い分布を誇る氏族が秦氏である。山背国を本拠地に、北は下野・上野国から南は豊前・筑後国にまたがる。加藤謙吉氏の調査によれば、34ヵ国89部に及ぶ。
その人口の多さが秦氏の経済力の源泉であり、農業、漁業、鉱業、土木などの技術面に秀で、殖産興業の民という生き方を貫いている集団。

●政治的な局面では秦河勝とその後の数人を除き、意識的に一線を画するという方針をとった。政治と距離を置くことで、当時の最大の氏族規模に増殖し、経済的な側面から隠然たる影響力を持った。秦河勝以外、特定の王族や豪族と密着した関係を築くことなく、中央の政治と距離を置き、経済的な基盤形成に徹した。秦氏は摂津、播磨、豊前、若狭へと増殖し展開してゆき、経済的・実利的にその存続基盤を拡大していった。

●秦氏は最初、大和朝津間・腋上(現在の御所市)に定着し、5世紀後半から末ころに本拠を置くようになる。山背への移住は葛城氏の衰退に伴うことと関係する。賀茂氏(鴨氏)も同様である。
秦氏には様々な系統がある。著者は『日本書紀』雄略天皇15年条にみえる秦酒公(秦造酒)を事実上の初代と推定する。太秦を本拠とした秦氏本宗家である。広隆寺を建てる秦河勝の本拠になる。葛野郡の嵯峨野一帯が重要な居地となる。
一方、山背国紀伊郡深草の地には深草秦氏が居て、秦大津父の伝承の地である。稲荷山を奉斎し、伏見稲荷神社の創立に繋がっていく。

●ここに秦氏が狩猟祭祀から農耕祭祀へと脱却を図った跡が垣間見られる。
系譜の異なる秦氏がそれぞれにその定着地の産土神や土着の信仰を採り入れ、秦氏の奉斎して行った。
上賀茂神社や下鴨神社に秦氏の影響が見られるのは、秦氏と鴨氏の融和を示す。松尾大社も秦氏の奉斎する神社である。

秦氏は地方に定着するにあたり、在来の神祇信仰に接近し、これと融和的な関係を築くことを重視。
秦氏は元からあった在来の神を祭る社と、新しく他の地域の神を勧請するというやり方を併用した。後者には、大陸から持ち伝えてきた神もいた。「韓神(からかみ)」である。
秦氏が関わる神社として取り上げられているのは、松尾大社、賀茂神社、葛野坐月読神社、蚕の社(木嶋坐天照御魂神社)、伏見稲荷、韓神、園韓神祭、平野神社。

●また、秦大津父は深草から伊勢へ商業活動をしていた。治水のプロ集団でもあり、葛野川の大堰の造成や桂川の大改修を行う。河内国茨田(まんだ)郡(現在の寝屋川市)にいた秦氏は馬を飼育。この地に太秦・秦という地名や太秦高塚古墳がある。上野加代子氏は「秦氏が水上交通の拠点としているところに妙見菩薩信仰が多く分布している」と推論している。

●秦氏は「長岡京・平安京建都の功労者」。長岡京の築かれた乙訓郡が秦物集氏という枝氏の根拠地だった。平安京の造宮職の長官を務めた藤原小黒麻呂が秦氏と姻戚関係にあった。平安京の大内裏(平安京)のあった場所が、もとは秦河勝の邸宅があったところ。桓武天皇が多くの渡来系豪族出身の女性を娶った(ただしそこに秦氏はいない)。桓武天皇の母高野新笠は渡来系豪族の娘であり、桓武朝においては、渡来系豪族が異例の抜擢・寵愛を受けた時代だった。

●室町時代には『風姿花伝』で、世阿弥が秦氏を名乗っている。

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2018年01月04日

そうだ、学校を作ろう。

新年おめでとうございます!
本年も当ブログ、よろしくお願い致します。

 

昨年は教育改革について多くの記事をあげました。
「仕方なく生きている」と言う子どもが増えている、との衝撃の報告を受けてからです。
このような活力を全面喪失した子供たちを生み出している張本人が「学校教育制度」というわけです。

今年はさらに活力喪失の実態が顕在化してくるとともに、一方で見え始めた脱学校の動きが加速するようにも思います。
具体的に目に見える形で変わってくれば、世の中の意識が見えてくれば、ようやく親の意識も変わってくるのでしょう。

教育改革待ったなし!
今年も様々な動きを追いかけていこうと思います。

 

記事をひとつ紹介します。
—————————————————————————————
そうだ、学校を作ろう。
志さえあれば、学校は、どこでもできる。同じ志を持つ者を捜せばいい。ただ、それだけだ。

学校というと、皆、授業料を払って、校舎へ行ってと思う。
そして、最後には、卒業証書をもらう。でもそれは、本当の学校の姿ではない。
学校というのは、学舎である。何かを学ぼうという意志が、学校を作っているのだ。

ならば、志さえあれば学校はできる。
授業料も校舎もいらぬ。卒業証書などさらさらいらぬ。
大体、卒業するかしないかを、他人に決められてたまるものか。学問というのは、自分が納得したときに卒業と決まっている。

同じ志を持つ者が集う場所、それが、校舎だ。
それこそ、喫茶店でも、インターネットの中でも、どこだって校舎になる。
決められた場所でなければ、勉強ができないというのは、志のない証拠だ。
場所なんてどうでも良い。
同じ志の仲間、同志がいさえすればそれで良いのだ。

師は、皆で捜そう。
師は、自分達で選ぶ。それが本当の学校の姿だ。
だから、先生がいなくとも学校はできる。友達どおし、教えあってもかまわない。

今の学校は、残念ながら、卒業をする事が、目的になってしまっている。
それでは、学校ではない。教習所だ。
同じ教習所でも自動車教習所は、免許が取れる。それだけましか。
本当の学校は、卒業証書をもらいに行くところではない。学びに行くところだ。
生きる為の術を身につけに行くところだ。

だったら、職場だってすぐに学校に変身する。板前の学校は、板場だ。
いつ卒業するかは、自分で決める。
所詮、人生に卒業はない。
ならば、本当の学校には、卒業なんてないはずだ。卒業なんて、通過点に過ぎないのだ。

だから、学校を作ろう。僕らの心の学校を・・・。

リンクより)

 

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2017年12月30日

秦氏の出自・歴史

『人文研究見聞録』「秦氏とは?(秦氏と日本)」を要約したもの。

●秦氏の出自

秦氏は、応神天皇の時代に朝鮮半島の百済国より大挙して渡来して帰化した氏族とされているが、渡来時期や先祖については諸説あり、未決着。以下、伝承や文献における秦氏の来朝履歴のまとめ。

・『徐福伝説』→ 『史記』によれば、徐福は秦始皇帝の命を受けて、東方に不老不死の霊薬を探しに行った。日本各地に残る「徐福伝説」によれば、徐福の後裔が秦氏となったとされる。

・『秦氏本系帳』(秦氏の系図)→ 第14代仲哀天皇の時代に渡来した功満王(こうまんおう)を祖とする。
・『古事記』→ 第15代応神天皇の時代に渡来したと記される。
・『日本書紀』→ 応神天皇14年(403年)に渡来した弓月君(ゆづきのきみ)を祖とする。
・『新撰姓氏録』(平安時代に編纂された古代氏族名鑑)→ 応神天皇14年(403年)に融通王(弓月君)が127県の民を率いて来朝したと記される⇒ 古代中国の秦始皇帝の末裔であるとも記載されている

●秦氏の歴史

・秦氏は、初めに豊前国(現・北九州)に入って拠点とし、後に中央政権へ進出していった。

古代中国の隋代(6世紀末~7世紀初頭)の歴史書の『隋書』には、倭国には「秦王国」とされる地域があったことが記されている。「翌年(608年)、文林郎裴清を倭国へ遣し、百済から竹嶋に到り、南に耽羅国と都斯麻国(対馬)を経て大海に出、東に一支国、竹斯国(筑紫)、また東で秦王国へと至る。その人々は華夏(中国人)と同じようで、なぜ夷州(野蛮な国)とするのか不明なり。」

要約すると、この時代に当時の中国と風習を同じくする民族が住んでいる地域があり、そこを「秦王国」と言ったということ。この記述からすると、百済国から来たとされる秦氏は、実はかつて大陸に居住していた民族であり、国々を転々としていた遊牧民族だったのではないかという仮説が浮かぶ。

その後、 大和国・山背国・河内国・摂津国などに入って土着し、土木や養蚕、機織などの技術を発揮して栄えた。

⇒ 山背国では、葛野郡(現・京都市右京区太秦)、同紀伊郡(現・京都市伏見区深草)→ 丹波国桑田郡(現・京都府亀岡市)にも進出し、湿地帯の開拓などを行った。

・雄略天皇の時代には秦酒公が秦氏の伴造として各地の秦部・秦人の統率者となり、公の姓を与えられた。 『日本書紀』によれば、秦酒公は「太秦」の姓を賜り、その名を土地の名とした。
・欽明天皇の時代には秦大津父(おおつち)が伴造となって、大蔵掾に任ぜられ、 本宗家は朝廷の財務官僚として活動。⇒ 『日本書紀』によれば、欽明天皇の夢の中で「秦大津父を大事にせよ」という神託が下ったことがキッカケ。

→ 現在の淀川の治水工事として、茨田堤を築堤する際に協力した。→ 山背国においては桂川中流域、鴨川下流域を支配下におき、⇒ 山背国愛宕郡(現・京都市左京区、北区)の鴨川上流域を本拠地とした賀茂氏と関係が深かったとされる。

・用明天皇~推古天皇の時代には秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子の側近となって活躍した。『聖徳太子伝暦』によれば「丁未の乱」の際に、物部軍の物部守屋の首を落としたのは秦河勝とされる
→ 荒陵に四天王寺を建立する際には、秦河勝が出資を担った。
→ 秦河勝は太秦に広隆寺を建立した。

・685年、天武天皇の八色の姓では忌寸の姓を賜与された。 忌寸のほかにも公・宿禰などを称する家系があった。

・飛鳥末期より、秦氏は多くの神社を建立した。松尾大社や伏見稲荷大社などを氏神として祀った。(伊勢神宮の建立にも関わり、財力や技術力を提供したという説もある)
→ 秦氏は、相模原にも上陸し、現在の秦野市の地域に入植。

・平安遷都に際して、葛野郡の秦氏の財力・技術力が重要だった。 平安時代には多くが惟宗氏を称するようになったが、秦氏を名乗る家系(楽家の東儀家など)も多く残った。 東家、南家などは松尾大社の社家に、西大路家、大西家などは伏見稲荷大社の社家となった。

●秦氏の関わった神社

・伊勢神宮(三重県)→現在の伊勢神宮建立(7世紀末)には、秦氏が財力や技術力を提供したとされる⇒「元伊勢」の創建にも関わったとも。

・香春神社(福岡県)→崇神天皇の時代に建立されたという古社。秦氏が古くは九州に上陸した際に建てたものとする説。

・宇佐八幡宮(福岡県)→八幡神社の総本社⇒「八幡」の「幡」は「ハタ」を指すことから秦氏の神社でする説がある。秦氏の支族である辛嶋氏の神社とも。

・松尾大社(京都府)→大山咋神(松尾大神)を祀る⇒大山咋神(おおやまくいのかみ)は秦氏の神とされる。

・伏見稲荷大社(京都府)→秦氏である秦伊侶具が創建した。

・愛宕神社(京都府)

・上賀茂神社(京都府)→賀茂氏と秦氏は関連性がある。
・下鴨神社(京都府)→賀茂氏と秦氏は関連性がある⇒下鴨神社にある糺(ただす)の池は、土用の丑の日に手足を洗う祭が行われる。かつて天皇家は、ここで禊(みそぎ)を行ったといわれる。

・木嶋坐天照御魂神社(京都府太秦)→蚕の社、木島神社とも。蚕養神社の存在から、養蚕を生業としていた秦氏との関連性が見られる。キリスト教ネストリウス派の三柱鳥居は、秦氏が持ち込んだとも

・大酒神社(京都府太秦)→広隆寺付近に鎮座する秦氏の氏神を祀る神社
・大避神社(兵庫県)→兵庫県赤穂市坂越にあり、秦河勝を祀る。対岸の生島には秦河勝の墓がある。かつては「大闢神社」と書いており、「大闢」とは中国語で「ダビデ」と読むことから「ダビデ神社」とも。

・出石神社(兵庫県豊岡市)
・子部神社(奈良県秦庄村)
・敢国神社(三重県)
・志呂志神社(滋賀県)
・兵主大社(滋賀県)
・日吉大社(滋賀県)→大山咋神(松尾大神)を祀る

・金刀比羅宮(香川県)→別名「旗宮(秦宮、はたのみや)」とも
・白山神社(本社は石川県)→白山信仰の聖地である白山を開いた「泰澄(たいちょう)」は本名を「秦泰澄」といった⇒事実、白山信仰のルーツは古代朝鮮にあるといわれる⇒一説には、白山の白とは、新羅の発音「シルラ」に由来するともいう。

・諏訪大社(長野県)
・鹿島神宮(茨城県)

●秦氏の関わった寺院

・四天王寺(大阪府)→四天王寺は、聖徳太子が創建の代表者であり、秦氏が財力や技術力を提供したとされる
・広隆寺(京都府)→秦河勝によって創建
・乙訓寺(京都府)
・宝菩観院(京都府)
・秦楽寺(奈良県)→秦楽寺(じんがくじ)の門は中国風の建築様式から、秦氏が中国系渡来人であると称していたこと。
・蟹満寺(京都府)→功満王(こうまんおう)の名に由来するといわれる蟹満寺(かにまん)。
・法輪寺(奈良県)
・安養寺(京都府)

 

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2017年12月29日

人体の器官の起源と進化(1)

ヒトは進化の産物であり、魚類、両生類、哺乳類へと進化を塗り重ねのうえに現れて。そのため、人体を構成する器官には進化の痕跡が残されていると考えられる。いったい私たちの体の器官はどうのように進化してきたののだろうか。その過程を探っていく。

◆最も起源が古い器官は腸
まずはじめに、腸の起源と進化を探っていく。
腸は体の中で最も起源が古い器官だと考えられている。そして、腸の最も原始的な姿はヒドラに見ることができる。ヒドラ(刺胞動物)は、5ミリメートルほどの筒のようが体の上端に口と触手をもつ単純な構造の水生の生物で、“全身が腸”といえる。
hydra

腸は食物が入ってくると適切な分解酵素を分泌して消化を行い、有害な物が入ってくると排出する。これは腸の“センサー細胞(基底果粒細胞)”のはたらきのかげだ。センサー細胞が上端についた毛のような突起で食物の成分を見分け、周囲に信号物質を分泌し、「この消化酵素を分解しろ!」といった指令を与える。

センサー細胞を中心とした腸のシステムは脊椎動物だけでなく、無脊椎動物の昆虫やイカ、タコ、ミミズ、更に多細胞動物として進化的に最も古いヒドラにも同じように見ることができる。

腸はその後、さまざまな消化系器官を生み出した。栄養分をたくわえる細胞が腸から分離して原始の肝臓をつくり、無顎類(ヤツメウナギなど)になると血中糖分を調節するホルモンを分泌する細胞が腸から分離し、のちに膵臓とあた。さらに魚類がアゴをもつようになったころ、植物を一時貯蔵する場として腸の前部がふくらみ、胃ができた。

また、ヒドラの腸にはセンサー細胞から情報を受け取り、周囲の組織に指令を伝える神経細胞がある。ヒドラのある種では、腸の入口、つまり口の周囲に神経細胞がハチマキのように密集している。このことから、一説では、腸の入口できた神経細胞の集合が、脊椎動物の脳の原始型だと考えられ、脳は腸から生まれたと考えられている。

◆口と肛門はもともと同じものだった
動物である限り、食べ物を取り込む“穴(孔)”は必須である。そう考えると「口」も腸と同じく非常に起源が古い器官だといるだろう。刺胞動物のヒドラやクラゲのような生物は、一つの孔が口肛門の役割をかねている。食べ物を取り入れるのも不要な物を排出するのも同じ孔で済ませている。私たちの遠い祖先も、口と肛門は同じ一つの孔だった。そして原始の腸が体の反対側にも孔をつくり、その後二つの孔が口と肛門という“分業体制”をとり、食物が一方向に流れるようになったと考えられている。

脊椎動物の発生過程にこの進化のヒントがかくされている。球状の胚(受精卵から成長した個体)はあるとき、表面の一部が内部にもぐりこむように陥入して、肛門の原型(原口)をつくる。陥入によって体内には空洞(原腸)ができ、さらにその空洞の反対側にも孔がつくられ、口の原型をつくる。これと同じようなことが、進化の過程でもおきたと考えられるのだ。

【参考:Newton別冊 ゲノム進化論】

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2017年12月28日

教育改革~日本の受験システムの不思議さ

教育改革~日本人の価値観を支配してきた受験制度

教育改革~自由な思考を封鎖するために共通一次試験が導入された

 

日本の資本主義は、労働力の信用によって基礎付けられ、
労働力の信用は、学校制度への忠誠と信用として根拠付けられてきた。
学校制度を支えたのは、学歴の価値に対する信仰であり、
学歴信仰を根拠付けたのが、受験制度である。
そして、受験制度が学生の価値を支配し、加えて日本人の価値観を深く支配してきた。

大学受験は落とすための試験である。
誰もが大学を目指すようになると、試験を難しくして振るい落とすしかなくなる。
大学受験を繰り返すごとに、入試問題は奇妙に難解さを増していく。
それに対応すべく、学校の勉強も、塾の補習も受験に照準を絞らざるを得なくなる。
そして、受験にしか役に立たない知識の習得が学校での役割となっていく。
かくして、家庭も学校も塾も大学受験に成功することが最大課題とばかりに収束していく。

その結果、大学ランキング、合格率の高い高校ランキングなど序列ができてくるが、
卒業することに全く意味の無い大学は、当然のように実社会からは全く相手にされない。

全ては、受験制度という一点において、大きく狂っている。
受験制度によって作り出される学歴信仰も、空虚な幻想に過ぎない。
空虚な受験制度に振り回される子ども達の悲鳴はとうに限界に達している。

 

 

受験の歴史」より引用

日本の受験システムの不思議さとは何だろうか。
まず要求されている知識の習得の仕方が、そこでしか役に立たないものであるということ。

 

◆大学進学率増大ともに入試問題が奇妙化していった
いつ頃から日本の大学受験の形式とは、奇妙さという意味で難解なものになっていったのだろうか。
明治の時代に、最初に大学入学試験が持たれた頃は、出題の形式も、論述を中心にして大枠の知識と本質的な理解を問うものであって、それは必ずしも歪な出題の形式は持たなかったはずである。

大学受験が繰り返され回数を増すごとに、そこでは受験志願者の数も急激に増えてくる。
大学進学を志す学生達の数は増大してくるのだ。
初期の入試形態において、入学資格の決定とは、必ずしも筆記試験の内容ではなく、むしろ下の学校の推薦状や、地域の名士の推薦や親のコネといったものが幅を利かせていたものであり、それは必ずしも平等に行われていたわけではない。しかし学校への選抜的な入試制度が一般化され、大衆化され開かれたものとなってくれば、そこでは必然的に、受験における平等の体制が求められるようになる。

明治期の受験制度、大正期の受験制度、そして昭和に入り戦前の受験の体制の段階では、受験というのは、まだまだアバウトな勘定で行われていた節は強い。受験の体制というのが、本格化し、大衆化し、そしてマスな現象を機械的に均等に裁くことによって回転するようになるのは、戦後の教育体制になってからのことである。

戦後でもまだ最初の頃は、出題形式において、わざと難しくするような、奇を衒っているような、入試の為の入試といった問題形式は、特に広まってはいない。入試の為の入試という形になって、入試問題の奇妙な形式的変化が現れるのは、団塊の世代として、ベビーブームの波によって日本で子供の数が急激に増えてきて、社会は高度成長の波に乗り、大学進学者数が増えてきた段階に生じてきたものである。

受験のための受験という形で、大量の進学希望者を捌くために、出題内容の奇妙な形式的難問化として進行した。
受験とは、極度に難しくなる、そこだけの、そこだけでしか通用しない近視眼的な知識の世界、その形式的世界を形成していった。
入試問題の形式とは、日本人が背負った奇妙な無意識的発明の形式となっていく。

 

◆欧米との違い
大学の入学試験は、受験志望者の増大によって難易度を高くしてきた。
日本の大学制度で特徴的なのは、入試の時点でその階級的なランクを殆ど決めてしまうということにある。
つまり大体18歳から20歳くらいと想定される大学入学の時点で、その後の、労働力商品としての価値を決めてしまう。

最初に価値の指数を決定してしまう。
こうして、日本の大学とは、入るのだけがやたら難しく、しかし入ったらもう勉強しなくても、学生の社会評価が特に落ちるということもなく、卒業後の労働市場に出て行くという現象が定着してしまった。

これは大学制度の近代的に発達していた欧米の大学制度とは異なるものであった。ヨーロッパの伝統的な、長い大学制度に起源をもつ欧米の大学とは、まず入学時点で、そんな難解な入試形式が課せられ、過度の、それだけのための知識競争が行われるというようなことはない。有り得ない事態である。

欧米の大学では、入学の時点では学生はアバウトに入ってくる。学生の真価として、学生の価値が決まってくるのは、大学に入ってから個人が如何に自分で勉強をしたかということであり、最終的な学生個人の価値とは、その後の本人の努力にかかっている。

故に、欧米の大学では、大学を途中で移動するということは頻繁に行われており、一流大学と呼ばれるような大学であっても、最初からそこの生徒であったということは別に意味を為さない。いろんな学校の経路でもって、下の段階から様々な通路で卒業資格を目指して、大学を渡ることによってキャリアを積み重ねるという在り方とは、普通のこととして通っている。日本のように、最初に入った大学でそのまま最終学歴を終える数が殆どだというのとは違う。

 

◆空虚な受験システム
入口のところでその後の価値も大体決めてしまうという、形式的排除の方法論において、このシステムは日本の特徴的な性質を決めてきたといえるのだ。日本の大学受験形式が、そこでは受験独特の受験の為の受験といった複雑怪奇な問題形式を、形式主義的に生み出し、しかもこの奇妙で非合理的な形式主義は、人間の形式的排除の方法として、入口だけがやたらに難関で、しかし中に入ったら中味はほぼ空虚という、キャリアの通過の方法を編み出したのだ。

最初の時点で、個人における大枠の価値付けを決めてしまう。この形式的難関だけがそこには口を開いているのであって、中に入っての出来事とは、ほぼ空虚である。やってもやらなくても卒業資格の価値においては殆ど関係ない、意味を為さないという、体制である。
しかしこの形式的空虚の体制を実現してきたという意味で、それはとても日本的に特徴的な、独特の社会システムとなり、機能していたのだ。

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2017年12月21日

教育改革~自由な思考を封鎖するために共通一次試験が導入された

共通一次試験導入の背景には学生運動を封鎖する目的があったという。
若者は深く考えなくていい、何?、何で?の意味を問わなくていい、素直に従順に働く存在であればいい、
そのために大学入学試験の負荷を課し、管理しやすい状況をつくったのだと。
現に学生運動の次の世代は、無気力・無関心・無責任の「三無主義世代」が登場した。

「国家」の考えそうなことである。
しかしその結果が、今もなお学歴信仰に捉われ、偏差値に縛られ、テストで点をとる勉強しか知らず、自ら主体的にモノを考え追求することの喜びをもぎ取られ、仕方なく生きるしかなく呻き苦しむ子供たちが大量に生まれているという現実である。
このままでは国の未来を担う人材は滅びてゆく、国を担う人材を育てるはずの学校教育が潰したのだ。
脱授業、脱学校、脱受験、脱進学、、、脱常識
いち早くこの狂った学校教育システムから脱し、現実圧力の中に身を置くことが求められる。

 

 

受験の歴史」より引用
1979年に時の文部省は共通一次試験を導入した。
大学入試に統一的な基準を導入するこの試みは、受験戦争の適正化と緩和化に役立つものなら意味のあるものとなっただろうが、結果的には共通一次が最初に導入されたとき、それは受験生の負担を多くの部分で圧迫するシステムとして機能した。

共通一次試験を導入した文部省サイドの意図とは、フランスのバカロレアのような統一的な試験基準を目指すものだったという。しかし最初の時期の共通一次というのは、それまでの国公立大学の一次試験の内容よりも広範囲に試験科目が広がり、学生にとってはより抑圧的な勉強量を強いられるものとなった。

 

◆共通一次導入の狙い
ここで、共通一次の真の狙いは、国側にとってどこにあったかということである。
統一テストの導入によってより受験の内容を平均化し分かりやすく計量可能なものとして交換できるものにしようという、試験制度の合理化の意味も一方であった。

しかしもう一方にある政策的な意図とは、1969年に起きた安田講堂の学生運動家による占拠事件のように、学生に自由を与えた過ぎたことによって収集のつかなくなった学生運動の存在があった。
学生運動自体はもう70年代では、既に自らの矛盾による破綻の段階に入っており、内ゲバで自滅的な壊滅状態に入っていたものだった。国の立場からは、これらの現象の教訓として、学生の自由について、内的にシステマチックに取り締まる必要があったのだ。

その為には、あらかじめ高校生の段階で、学生が思想に耽ることができるような自由を与えすぎない。入学試験の重荷を大きくすることによって、国公立大に入学する学生の質を制限するということ。そして高校生の段階で受験の負担が大きくなることによって、あらかじめ若い人間達の思想的な耽溺と遊戯の自由を圧迫し、管理しようという意図が、背景にあったのだろうと考えられている。

 

共通一次は最初の数年において試験科目が五教科七科目であり、今のセンター試験のような優柔さは許されていず、受験生は全科目の七科目について一律に受験が課せられた。結果的に、昔からの進学校のような進歩的高校では、学生が運動や左翼遊戯に耽るような暇は抑圧されてなくなった。一方では受験強化と管理主義があり、もう一方で自然発生的に生徒達が作り出した文化の中からは、イジメの文化が発明される時代になった。

高校生にとって、60年代から70年代の高校にあった価値観と、80年代から90年代の価値観では、多くの変化が生じた。共通一次試験の過度な重みはやがて緩和されてきて、共通一次試験は終了し、センター試験というコンセプトの制度にそれは進化的に移行した。それはより合理的で簡易化された統一的な入試制度になった。

 

◆人間の管理を可能にする受験制度
受験の制度が学生にとっての重荷として存在するということは、内的な次元での人間の管理を可能にする。受験システムの奇妙な難しさの存在、そこでだけしか通用しない近視眼的知識の網目が張り巡らされた世界の存在とは、若い人間に対する外的な管理というよりも、内的に、自動的に抑圧する管理の効果を生む。

高校生にとって難関な大学入試の制度が存在するということは、システムによる管理的な技術であるということであって、日本のシステムとは、こういった制度的コントロールの手管については、古い時代から巧妙なものを発明する無意識的な知恵を持っていたのだといえる。

日本人が使うこういった手腕というのも、大抵の場合は、中国から古くに輸入されてきた中国型の統治術を応用して発明し直していることが多い。日本の受験制度の場合も、その起源的なモデルとして見出されるのは、前近代中国の科挙制である。

例えば、江戸時代に徳川政権は鎖国という制度を実行することによって、200年以上に渡る長期政権を実現したものだったが、この鎖国というコンセプトも、元を考えれば、中国的な統治術の思考であり、やっぱりそれも儒教に起源を持っている物の考え方である。

若い人間は、思想とかそういうもので理論武装してもらったのでは、扱えなくなって困る。国家の管理の立場からすると困る。若い人間が、勤勉によく勉強し、優秀な労働力として育ちながら、それでいて反抗的でない、よく使える人材に育ってもらうために、そこには与えられる知識の意味については、深く考えなくなるような、労働について何故という意味を問わないような、従順なる擬似去勢が必要なのだ。これは管理主義的志向を持つ国家の、無意識で暗黙の要求である。

 

結果、そういう管理体制が内的に敷かれた国家による教育方針とは、徹底的に、知識にとってはその意味を問わない、問わせない、大量で機械的な情報の回転を、連続的にこなせる人材というのが、官庁でも会社でも使いやすい、よい人材であり、よき労働力だということになるのだ。

日本の受験システムとは、まさにこのような人材を育てるのに最適なシステムとして機能し、日本人にとって発明されてきたものだ。80年代に、共通一次試験のシンボリックな存在とともに、日本の管理主義教育とはピークを迎えた。

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2017年12月14日

教育改革~日本人の価値観を支配してきた受験制度

学校の勉強はテストで点をとる為、テストは進学=受験の為、受験は学歴信仰に支えられている。
教育改革の壁は学歴信仰、受験制度にあり、それに支配されている親の意識であろう。

 

日本の資本主義は、労働力の信用によって基礎付けられ、
労働力の信用は、学校制度への忠誠と信用として根拠付けられてきた。
学校制度を支えたのは、学歴の価値に対する信仰であり、
学歴信仰を根拠付けたのが、受験制度である。
そして、受験制度が学生の価値を支配し、加えて日本人の価値観を深く支配してきた。

 

 

受験の歴史」より引用
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日本の受験制度とはなんと奇妙なものだろうかとは、日本で生きている人々であっても皆がずうっと長い間、薄々感じている事態であるのだろうが。この奇妙な学習と選別の体制とは何故出来上がったのだろうかと。そしてそこを経験したことのある殆どの人が、この受験制度の下らなさと無意味さを認識してはいながらも、何故この制度とはそれ自体で今でもずっと存続しているのだろうか?
日本の発明した最も肝要で本質的な社会制度の在り方とは、恐らくこの受験システムを形成する奇妙さの中にあるといっても決して過言ではない。

 

◆学歴信仰を支える受験制度
日本の受験制度と学校制度の特殊性について考えてみよう。
日本の受験制度とは、日本人の無意識を形成している。
日本の受験制度とは、日本の特徴的な学歴システムの為に存在している。
学歴と労働力の生産、再生産の為に、この受験制度とは、日本の近現代史において、もう100年以上に渡って機能してきたのだ。
それは労働力の価値を学歴の値によって基礎付けてきた。
日本人の労働力としての勤勉さとは、これら学校制度への忠誠と信用として根拠付けられてきた。

日本に資本主義が明治の時代に勃興してからずっと、日本の資本主義を基礎付けてきた労働力の信用とは、根拠として学校制度に基礎をもっている。そして日本の学校制度をずっと支えてきた信仰とは、学歴の価値に対する信仰である。
学歴という価値を根拠付けるためには、日本では特殊に発達した受験という制度が、学生の価値を支配してきたのだ。
これは近代以降日本人の価値観というのを、無意識的な意味でも深く支配している。最も日本人を深く支配してきた独特の価値観といえるものだ。

 

◆受験制度の始まり
明治維新後、大学の前提として高等学校の制度があり、高等学校の前提として中等教育があり、その前提としての小学校の制度が全国に普及された。小中学校では、全国民に共通と見なされる、基礎教育の機関が持たれた。また小中学校に通わされることは、国民にとっての義務教育だとされて強制的なものとされたのだ。小中学校については義務教育であり強制的な機関とされるが、そこには受験に該当するような選抜制度はない。誰もが平等な資格で、小中学校の教育は無償で受けられるものとした。

受験という選抜のシステムをもったのは、上位の教育機関であり、しかしそこの教育を経て卒業が認定されれば、日本の社会の中で、官僚的な人材として承認され、就職することができるものとなり、重要な点は、この上位機関への選抜において、家柄、階級に関係なく、誰もが国民として平等に、試験を受けられる条件を所有することとなる。

すなわち、明治以降の官僚的人材制度とは、そこに難しい試験の選抜制度をもつことになったが、その代わり上位機関への登用が、身分制度や金銭的な格差から解放され、国民において平等に、上を目指せるチャンスを持てるものとなったことを意味する。身分においてチャンスの機会が平等であることになったと同時に、そこには複雑怪奇な受験制度というのが持たれるようになったのだ。
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学校制度、受験制度は国家による強制的な装置として始まったが、同時に、身分とは無関係に誰でも平等に学べる機会を与えられ、さらに上位の学問機関を選択する自由も得るという、平等、自由、権利といった近代思想を背景にしていることは言うまでもない。近代思想を背景に、個人的な価値観の形成が基礎付けられ、学歴の価値が信仰化し、受験制度に拍車がかかっていった。

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2017年12月08日

教育改革~教員が、教える、という常識から見直す必要

「自らの未知を自ら追求してその未知を知にする思考は、知識の詰め込みでは育たないことは明白である。」
~学校教育における「問題解決」する力の育成について、教員自身の現場での実践事例から明確に書かれている。

文科省が掲げる「学力」は、「自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、問題を解決する資質や能力、、」
といった求むべきものであるが、学校現場では相変わらずテストの点を取るための勉強に終始しているようだ。
これでは学校に意味を見出せない子供たちが増えていくのも当然だろう。

いったい、なぜそうなるのだろうか。
目先の進学実績を上げるために、詰め込み教育から逃れられないのだろうか。
テストの学力では生きる力など身につかないことは当たり前だが、何が邪魔しているのか。
学校の教員たち自身が、子ども達の未来について、教育について本気で追求していないのではないかと思われる。
そもそも、教員たち自身も教員試験というテストに合格しただけの人間に過ぎず、追求力が秀でているわけでもなんでもない。

教育改革は、教員が、教える、というスタイルからそもそも脱しないと成立しないのだろう。
教員にこそ改革が必要であるということに学校組織として気付けるかどうか、いち早く気付いたところから改革が始まる。
教育イノベーションコンサルに求められるのも、改革の具体的道筋を提示することだ。

学校教育における「問題解決」する力の育成
学校教育では、中核となる子どもたちの学力をどのように育てればよいのであろうか。

学力というと、まず、文部科学省が提唱する「確かな学力」を想起する。
それは、文部科学 省が提唱する新しい学力の考え方であり、具体的な学力の内実としては、「知識や技能に加え、学ぶ意欲や、自分で課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力など」と定義され、より具体的には、知識・技能、課題発見能力、問題解決能力、思考力、判断力、表現力、学ぶ意欲、そして学び方という八つの力を挙げている。

しかし、学校現場では、依然として、その多くが教師主導型で、知識・技能面に重点をおいた指導がなされ、機械的な練習・習熟に流れてしまう傾向がいっそう強まっている状況さえみら れる。また、ほとんどの学力低下論争の論者たちも、受験に耐えうる知識・理解の領域に限定した狭くて偏りのある学力論しか想定していないようである。

人間はだれもがよりよく生きていきたいという願いをもっている。
その願いを達成するためには、問題を乗り越え、解決していかなければならない。
また、乗り越え、解決した喜びは自信となり、次の活動への意欲へとつながっていく。
「問題解決」は、人間が「生きていく営みそのもの」ともとらえることができる。つまり、人間は、よりよく生きるために問題解決をし、成長していく存在であるといえる。

そして、その問題解決は、自分の目的をもち、その時点までに獲得した情報をもとに、最善と判断した手だてを選択し、目的達成へ向かう、という一連の営みである。
もちろん、その途中でうまくいかない場合は、その場で修正しながら目的達成に向かうこともあるが、人間は毎日、こうした問題解決という人間的なそして創造的な営みをしながら生きている。

人間の最上位の思考は創造的思考と呼ばれる。
つまり、「問題解決」は創造的思考と同義語ともいえるものであり、一言で言えば「未知を知にする思考」である。
一人ひとりの人間にとっての創造とは、その人間にとってできないこと(未知)ができるようになる(知)、わからないこと(未知)がわかるようになる(知)、まだ身に付いていないこと(未知)が身に付く(知)ことである。

自らの未知を自ら追求してその未知を知にする思考は、知識の詰め込みでは育たないことは明白である。
そうであるならば、問題解決の能力を育て高めるためには、為すことにより育つ活動を行うことが必要不可欠となる。
しかし、未知を知にする体験が一度だけでは、問題解決の能力が育つはずもない。
また、年に数回でも育つとはいえない。子ども自身が自らの未知を自ら知にする思考と行動を繰り返し体験することが必要不可欠である。
量が質を左右することも自明の理である。

学校教育の目的が人間の人間らしさをはぐくむ営みであるとすれば、人間の人間らしさを特徴づける最上位の思考である「創造的思考能力」すなわち「問題解決」ができる能力を育成することが学校教育の使命である。
また、よりよい「問題解決」をすることは、人間の創造的な生き方そのものであり、まさに教育本来の目的でもある。

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