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2017年12月08日

教育改革~教員が、教える、という常識から見直す必要

「自らの未知を自ら追求してその未知を知にする思考は、知識の詰め込みでは育たないことは明白である。」
~学校教育における「問題解決」する力の育成について、教員自身の現場での実践事例から明確に書かれている。

文科省が掲げる「学力」は、「自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、問題を解決する資質や能力、、」
といった求むべきものであるが、学校現場では相変わらずテストの点を取るための勉強に終始しているようだ。
これでは学校に意味を見出せない子供たちが増えていくのも当然だろう。

いったい、なぜそうなるのだろうか。
目先の進学実績を上げるために、詰め込み教育から逃れられないのだろうか。
テストの学力では生きる力など身につかないことは当たり前だが、何が邪魔しているのか。
学校の教員たち自身が、子ども達の未来について、教育について本気で追求していないのではないかと思われる。
そもそも、教員たち自身も教員試験というテストに合格しただけの人間に過ぎず、追求力が秀でているわけでもなんでもない。

教育改革は、教員が、教える、というスタイルからそもそも脱しないと成立しないのだろう。
教員にこそ改革が必要であるということに学校組織として気付けるかどうか、いち早く気付いたところから改革が始まる。
教育イノベーションコンサルに求められるのも、改革の具体的道筋を提示することだ。

学校教育における「問題解決」する力の育成
学校教育では、中核となる子どもたちの学力をどのように育てればよいのであろうか。

学力というと、まず、文部科学省が提唱する「確かな学力」を想起する。
それは、文部科学 省が提唱する新しい学力の考え方であり、具体的な学力の内実としては、「知識や技能に加え、学ぶ意欲や、自分で課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力など」と定義され、より具体的には、知識・技能、課題発見能力、問題解決能力、思考力、判断力、表現力、学ぶ意欲、そして学び方という八つの力を挙げている。

しかし、学校現場では、依然として、その多くが教師主導型で、知識・技能面に重点をおいた指導がなされ、機械的な練習・習熟に流れてしまう傾向がいっそう強まっている状況さえみら れる。また、ほとんどの学力低下論争の論者たちも、受験に耐えうる知識・理解の領域に限定した狭くて偏りのある学力論しか想定していないようである。

人間はだれもがよりよく生きていきたいという願いをもっている。
その願いを達成するためには、問題を乗り越え、解決していかなければならない。
また、乗り越え、解決した喜びは自信となり、次の活動への意欲へとつながっていく。
「問題解決」は、人間が「生きていく営みそのもの」ともとらえることができる。つまり、人間は、よりよく生きるために問題解決をし、成長していく存在であるといえる。

そして、その問題解決は、自分の目的をもち、その時点までに獲得した情報をもとに、最善と判断した手だてを選択し、目的達成へ向かう、という一連の営みである。
もちろん、その途中でうまくいかない場合は、その場で修正しながら目的達成に向かうこともあるが、人間は毎日、こうした問題解決という人間的なそして創造的な営みをしながら生きている。

人間の最上位の思考は創造的思考と呼ばれる。
つまり、「問題解決」は創造的思考と同義語ともいえるものであり、一言で言えば「未知を知にする思考」である。
一人ひとりの人間にとっての創造とは、その人間にとってできないこと(未知)ができるようになる(知)、わからないこと(未知)がわかるようになる(知)、まだ身に付いていないこと(未知)が身に付く(知)ことである。

自らの未知を自ら追求してその未知を知にする思考は、知識の詰め込みでは育たないことは明白である。
そうであるならば、問題解決の能力を育て高めるためには、為すことにより育つ活動を行うことが必要不可欠となる。
しかし、未知を知にする体験が一度だけでは、問題解決の能力が育つはずもない。
また、年に数回でも育つとはいえない。子ども自身が自らの未知を自ら知にする思考と行動を繰り返し体験することが必要不可欠である。
量が質を左右することも自明の理である。

学校教育の目的が人間の人間らしさをはぐくむ営みであるとすれば、人間の人間らしさを特徴づける最上位の思考である「創造的思考能力」すなわち「問題解決」ができる能力を育成することが学校教育の使命である。
また、よりよい「問題解決」をすることは、人間の創造的な生き方そのものであり、まさに教育本来の目的でもある。

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2017年11月30日

フィンランドの教育改革は、国家による強制教育からの解放にあった

近年,「世界で最も優れた教育をおこなっている国はどこか」と問われれば,間違いなくトップランクにかぞえられる国々があるだろう。それが,ノルウェー,スウェーデン,デンマーク,アイスランド,そしてフィンランドといった北欧の国々だ。
これらの国々は,OECD(経済協力開発機構)が実施するPISA 調査(国際学習到達度調査)において,優秀な結果を残している。
特にフィンランドは,これまでの調査(2000 年,2003 年,2006 年,2009 年)の全ての分野(数学的リテラシー,読解力,科学的リテラシー)で6 位以内を記録しているため,世界中から注目を集めている。今,各国の教育関係者がフィンランドを訪れ,その教育制度や教育活動の優れた点を研究しているのである。

なぜ北欧なのか?
その秘密を探るべく教育改革の歴史を調べてみた。

■1970 年代以前の教育
中世ヨーロッパ社会はキリスト教の力が強く,フィンランドも他のヨーロッパ諸国と同様に,教会が社会の中で大きな実権を握っていた。
18世紀イギリスで産業革命が起こると,19世紀にはその影響が,フィンランドを含む他の欧州諸国にも波及することになる。急激な産業化は,国力や生活水準向上を目的とした職業教育及び普通教育の需要を高め,より効率的で安定した学校制度を求めるようになった。

そこで誕生したのが国民学校だ。この国民学校の誕生は,それまで一部の子どもしか受けられなかった教育を,すべての子どもに対して,平等に施すためのきっかけになったと言えるだろう。また,国民の教育水準の底上げを図るため,「1869年には,教会に属さない国立の教育機関が設立され,同時に学校制度委員会も立ち上げられる」ことになる。これにより,教育行政は教会から完全に切り離された

フィンランドは,長くスウェーデンやロシアといった国々に統治された国家であったが,第一次世界大戦終盤の1917年に,ようやく独立することに成功する。しかし国内では,地域によって生まれた教育の格差問題が浮上していた。
1919年に制定されたフィンランド憲法では,すべての国民に対する無償の義務教育を提供する義務」を国家に課している。

1939年から1945年には第二次世界大戦が引き起こり,フィンランドも否応なしに戦乱に巻き込まれることになった。
フィンランドはソ連に対し,多額の戦争賠償金を支払わされることになるが,「国をあげて強制的に船・鉄道・工業機械製造などの重工業に力を入れたことで」北欧諸国の中でも最新の工業技術を得た。つまり,戦後のフィンランドは日本と同様,急激に農業国から工業国へと大変動を起こしたのである。こういった都市化や工業化が,1970年代の教育的転換期と深く関わっていくことになる。

■1970年代の教育的転換期
大戦前の多くのヨーロッパ諸国における教育の役割は,国の近代化・産業化や国家に適した国民形成であるとされていた。しかし大戦後になると,それまでの国家主義的教育に批判が集まり,教育の私事性(国のための教育ではなく,個人のための教育)が叫ばれるようになったのである。

しかし、総合制学校が設立された1970年代の教育は国家に裁量権があり,1970年の国家カリキュラム(日本で言うところの学習指導要領)が約700 ページもあることからわかるように,教育内容や授業で使用する教材・教科書は,国が細かく指定していたのである。教育にはテストの点数などの結果が求められ,「行動主義的または訓練的な教育」が主流であった。つまりフィンランドでも,日本がゆとり教育導入以前におこない,批判の的となっていた詰め込み教育をおこなっていたのである。

■1990年代の教育的転換期
このような教育主義の中で,1980年代から90年代の北欧諸国では,新たな教育主義が広まりつつあった。
それまでの詰め込み教育から,子ども自身が気付き学ぶために支援する教育へ。教育権限は中央から地方自治体へといった,市場原理主義を含んだ新自由主義である。この1985年あたりから,教育における裁量権が国家から地方自治体へ流れ始め,地方独自の教育がおこなわれるようになったと言えるだろう。

ところが,1991年末にソビエト連邦が崩壊すると,フィンランド国内は経済不況に陥ってしまう。深刻な経済社会を立て直すために,学校現場にもコスト削減が求められるようになり,国内では地方への分権化をより一層進めること,学校現場に競争と効率を促すことが推奨されるようになった。

フィンランド政府は1991年に視学制度を廃止し,1992年には教科書検定制度を廃止することを決定している。つまり,学校の自治は各学校に,授業で使用する教科書は各教師に委任したということである。いずれの政治的判断も,教育的裁量権が国家から地方へ移っていることから,教育の分権化を進め,脱中央集権化を見据えた政策の一部であると言えるだろう。

フィンランドはそれまでの中央集権的な教育制度を廃止し,とうとう国家カリキュラムにまで影響を及ぼすようになった。それが,世界的にも注目されている1994年の国家カリキュラムである。その特徴は何と言っても,カリキュラムが大綱化され,ガイドライン的な役割を担うようになったことだろう。ガイドライン的ということもあり,細かい教育方法や教育内容は,国家ではなく地方自治体や学校,教師が決めるようになったのである。
さて,教育的裁量権が完全に国家から教育現場に移されたことで,全国で統一された知識を教え込む授業はなくなったと言える。つまり,決まった知識を教える教育から子どもたち自身が知識を構成する力を育てる教育,構成主義的な教育をおこなうようになったのである。

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2017年11月23日

偏差値身分制、学歴身分制、、、学校は誰も幸せにしないシステムをつくりあげた

元東大教授の上野千鶴子氏が、東大の学生たちを通して学校化社会について語っている。
2013年、4年前の記事。
今や学歴信仰は企業サイドでは崩壊しつつあるが、家庭、特に母親においては根深いものがありそう。
偏差値評価といい、これまで作りあげてきた学校システムは罪深い。

 

■東大生、この空洞のエリートたち
私は勤務先である東大の学生にこう言います。
「やればできる、と思えている君たちのその能力は、君たちが自分で獲得したものではない。それはまわりが君たちに与えてくれた環境のおかげだ。やらせてくれ、できれば褒めてくれ、伸ばしてくれるという環境があってはじめて、やればできる、と思えてきたんだ」と。
三流、四流校の若者は「どうせ」「しょせん」の負け犬意識の持ち主です。
親からも教師からも「どうせおまえなんか」と小さいときから言われ続け、自分でもそう思い込んでいる。
18年かけて、自発性の芽という芽を摘まれ、叩き潰されてきたのです。

東大生はおそろしく素直です。
「東大生って偏差値高いだけのふつうの子や」というのが私のいつわらざる印象です。
どのレポートも、私が授業で言ったことの要約でした。新しいことも、オリジナルなところも、どこにもない。
東大生は権威主義を深く内面化した人たちだということが言えます。
権威主義とは、自分より強そうに思えるものには闘いを挑まないということです。
権威に従順な人が東大生だし、権威に従順だったから東大にもきたわけです。
もちろん、四流校の子どもたちが権威主義に毒されていないと理想化する気はありません。権威にもいろいろあります。
マスコミも権威ですから、電波媒体にはものすごくさらされています。
世の中というのは様々な権威のあいだにランクをつける。
電波媒体の権威より活字媒体の権威の方が上だということを、活字媒体の権威が、何の権利があってか、主張するわけです。

 

■権威主義をなまじ内面化してしまうと、どうなるか?
同輩集団の前でへたなことを言って恥をかいてはいけないというプレッシャーに支配される。優劣をつけられる、評価づけられることを恐れる雰囲気が重く立ちこめている。おたがいがおたがいを値踏みしあう関係で、失敗することを恐れ、学生どうしのサポーティブな雰囲気がありません。これでは伸びるわけがありません。
東大はたしかに人材を輩出していますが、それは教師がいいわけでもカリキュラムがいいわけでもない。学生の母集団のなかには多少いい素材もまじっていたからです。

 

■近代の制度としての学校
近代の学校は、国家が整えたひとつの制度です。学校に通うことが義務とされ、国定の教科書を使い、おなじようなセッティングで授業がおこなわれる。そして、そこを通過することで人間がある規格にはめられ標準化される
ーーーそれを「国民化」といいます。
同じような装置として軍隊とともに、従順な身体をつくる装置だということができます。全員が前を向いて一人の人の話をみじろぎもせず聞く身体を小学校1年生から叩き込み、日常ではありえない身体へ馴致し、集団の中のひとつの単位へと標準化してゆく学歴が人間のラベルになり、身分制秩序にかわる選別原理になった。
競争に参加するかしないかという選択肢など成り立たなくなって、みんな一斉に横並びの競争にはいっていきました。同時に、競争でがんばれば上まで行けるという幻想を、みんなが持たされるようになります。

 

■敗者に現実をどう納得させるか
自由・平等の民主主義の社会とは、じつはまったく平等な社会というわけではありません。人間の社会は実際にはそれぞれ異なる処遇と異なる権力を付与された人々から成り立っています。だから人はみな平等のタテマエにもかかわらず、他人が自分よりも優位な立場にあるということ、支配的な立場にあるということを、下位にいる人間にみずから合意してもらわなければなりません。みずから合意すれば、服従させるコストが安くてすみます。合意がなければ、脅し・暴力・締め付け…と、高いコストを支払わなければなりません。これは学校の教師がいつもやっていることです。校則などを「みんなでいっしょに決めたのだから守ろうね」と言いますが、そのじつ教師が勝手に作った規則へ生徒の服従を調達するやり口です。
競争に勝った方に問題はないのか。そんなことは決してありません。この競争では勝てたけれども、つぎの競争で勝ちつづけることができる保証はない。「勝者の不安」です。勝者であり続けることの恐ろしいプレッシャーと不安がのしかかってきます。両方共にきわめて強いストレス負荷をかけるシステムなのです。

 

■学校的価値におおわれた社会
学校的価値とは、明日のために今日のがまんをするという「未来志向」と「ガンバリズム」、そして「偏差値一元主義」です。だから学校はつまらないところです。いまを楽しむのではなく、つねに現在を未来のための手段とし、すべてを偏差値1本で評価することを学習するのが学校なのですから。その学校的価値が社会にも浸透していった。これを「学校化社会」といいます(もともとはイヴァン・イリイチの言葉、最近は別な文脈で流通)。結果、偏差値身分制とでもいうものが出現してきています。

 

■偏差値を自己評価にする若者たち
偏差値の低い子たちは二言目には「どうせオレらは」「しょせん私は」と言うのです。生まれたときから「どうせ」「しょせん」と言う赤ん坊はいません。「どうせ」と「しょせん」は、どこかで学習した結果です。大人に言われ続け、自己評価にかえる。序列意識を叩き込まれ、自分の相対的な劣位が自分の自己評価にとって代わっています。逆に東大生は偏差値が高いだけの普通の子です。生活経験は少ないし、幼児的だし、突飛なところもエキセントリックなところもユニークなところもオリジナルなところもなんにもない、普通の子。その普通の子が「へえ、すごい、偏差値そんなに高いんだ」などと言われて自分を特別な人間と勘違いしているだけです。これも他者の価値判断を取り込んでいるだけです。

 

■学校化世代が親となり子育てへ
こうした偏差値一元主義の学校的価値のなかで育った子どもたちが、親となっています。子どもを評価するものは偏差値しかありません。
できの悪い子どもは、「こんな子は私の子どもじゃない」という条件付きの愛し方をする。
自分と違うことを言う大人が子どもの周りに居てやったほうがいいとは、大人は思わなくなってきている。今流行の学校と家庭と地域の「連携」などということも、私にはそのように映ります。
学校的価値の一元化の元での優勝劣敗主義が、勝者の不安、敗者の不満というストレスをどちらにも生むのだとしたら、このシステムのなかでは誰もハッピーにはなっていません。学校化社会とは、誰も幸せにしないシステムだということになります。

リンク

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2017年11月16日

現在も進む、皇国日本への洗脳教育

国家における公教育の目的は、国家に都合のよい人材をつくりあげる事である。
その意味において、国家=安倍政権が最もやりたいことは憲法改正であり、
学校教育で染め上げ、憲法改正に向けた世論形成を行なっている。
すでに2006年、教育基本法が全面的に改正された。
このような動きを裏でささえているのが「日本会議」である。
肝心の子供たちの追求心や活力とは無関係に、教育の場が国家謀略の舞台に使われている。

 

リンクより
安倍政権の黒幕とされる日本会議
会員約4万人。国会議員290人。
地方議員1800人。地方支部250。
日本会議の誕生は1960年代、長崎大に安藤巌と椛島有三の2人の「成長の家」信者が入学してきたことから始まる。

2人は1960年代の左翼全盛時代、学園正常化運動に取り組む。
彼らは長崎大の自治会選挙に勝利し、「国立大初」とされる民族派の自治会が誕生した。
そして、民族派学生の全国的統一組織の結成へとのりだす。
1968年、九州学生自治体連絡協議会を結成。
1969年には、右派学生の連合体である全国学生自治体連絡協議会(全国学協)を結成。
1970年、民族派社会人組織「日本青年協議会」(日青協)が結成された。
この団体がのちに日本会議事務局へと発展する。

さらに、神社・仏教・新宗教・文化人ら結集して「日本を守る会」(1974年結成)を立ち上げた。
「日本を守る会」は1981年には「日本を守る国民会議」へと発展し、さらに「日本会議」が結成される。

国民会議がその次に取組んだのは「教育正常化運動」である。
1997年「新しい歴史教科書をつくる会」が発足した。
この「つくる会」がその後の「歴史戦」を主導してきた。
新しい歴史教科書をつくり、その採択運動を展開する。
(つくる会はその後、「つくる会」と「日本教育再生機構」に分裂し、2種類の歴史・公民などの教科書を作成している)。

2000年、首相の諮問機関である「教育国民会議」が設置されると、「新しい教育基本法を求める会」を結成。
「地方から中央へ」と元号法制化運動にならって教育基本法改正を求める運動を展開する。
2004年には教育基本法の「早期改正を求める意見書」が、33都県236市町村で採択された。
教育基本法は2006年12月に全面的に改正された。
18条からなる改正法には「伝統と文化の尊重」「道徳心」「家庭教育」などが盛り込まれ、日本会議関係者は運動の成果を喜んだ。
日本会議の教育正常化運動は憲法改正のためである。
新教育基本法で愛国心や伝統の尊重、公共の精神など国民を教育し直し、本当に日本の国にふさわしい憲法改正のための世論を形成していくというものだ。

前述したように1997年に日本会議は結成された。
結成の背景には1990年代初めの自民党一党支配の崩壊、1995年の「村山談話」、
そして公明党・創価学会の政権参加などがあったとされる。
日本会議の母体はかつての「成長の家」関係者である。
成長の家から日青協へ、そして国民会議を経て日本会議へ。
皇国日本、強い日本を標榜する戦前回帰の極右のトンデモ組織が、安倍政権の黒幕までのし上がってきた。

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2017年11月03日

草原に適応して人類が誕生したという草原説は、既に撤回されている

アフリカ大地溝帯によって、その東側が乾燥して草原となり、草原に適応して人類が登場したという草原説が、人類登場の現員としてほぼ定説化していた。ところが、1982年に提唱された、この有名な学説は、既に提唱者自身が撤回したとのことである。

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『個別指導塾「FORWARD」塾長のBlog』「直立二足歩行する人類の発祥、有名な仮説が崩れていた」

アフリカに「大地溝帯」またの名を「グレート・リフト・バレー」という地形があります。アフリカ東部を南北に縦断する長大な「谷」で、wikipediaによれば総延長(分岐を継ぎ足した長さ?)7,000キロ、幅は数十キロに及びます。アフリカ大陸の真下、地震の震源となるプレートなどよりもはるかに深い地球の深部、マントルの中に、高温の上昇流が存在し、それがアフリカ大陸を徐々に引き裂いた結果、生み出された地形です。

この「大地溝帯」実は人類の発祥と関係があるという仮説があり、説得力があるというので人気を博しておりました。曰く、アフリカ東部に生じた大地溝帯両側の山脈(火山活動なども活発になるので谷の両側は一般的にかなり隆起する)が大西洋からの湿った風を阻害するためアフリカ東部が乾燥し、森林が減退した。その結果、そこに住んでいた類人猿が木から木へうつるために大地を歩かざるを得なくなり、より長距離の歩行に適した直立二足歩行を身に付け、完全に空いた手は道具を扱うようになり、脳が発達して現在の人類が誕生した……と。これを有名な映画の「ウェストサイドストーリー」をもじって「イーストサイドストーリー」と言うんだそうです。wikipediaによれば「フランスの人類学者、イブ・コパンが1982年に提唱した」とのこと。

非常に有名な説で、小中学生向けの優しい科学本などにも(従って中学入試問題などにも)頻繁に引用され、ほぼ真実であるかのように、まことしやかに語られてきました。

が、近年この話の前提がことごとく崩れてしまい、コパン自身も撤回宣言を出したそうです。

wikipediaの「イーストサイドストーリー」の項目を参考に書き続けますが、ヒトが二足歩行を身に付けたのは600万年前頃と考えられており、大地溝帯の隆起が生じたのは800万年前……と、思いきや、800万年前に起きた隆起は小さなもので、本格的に隆起したのは400万年前くらいだと考えられるようになったそうです。
さらに、アフリカ東部の乾燥化は(当初想定されていた800万年前の話か、しっかり隆起した400万年前の話か、ちょっとよく分かりませんが……たぶん800-600万年前の話?)さほど進まず、森林は十分あったとのこと。
そして決定打は、そもそもアフリカ東部ではなくアフリカ西部から、二足歩行する上に、恐らく現生人類につながる祖先と思しき化石が見つかってしまった事です。「2002年にアフリカ西部であるチャドで600-700万年前と考えられるトューマイ猿人の化石が発見された」とのこと。このトューマイ猿人が生活していた環境は、「魚やワニの化石」が残っている事から推測して、湿潤な環境だったらしい。

つまり、人類が立ち上がった頃、山はそんなに隆起しなかったし、どこもそんなに乾燥していなかったし、そもそもその舞台はアフリカの東ですらなかった。コパンはトューマイ猿人発見の翌年には、潔く自説を撤回しています。長い間もてはやされた自説を即撤回したところは、学者として素晴らしい態度だと思います。そもそも、否定はされたものの、この仮説は地殻変動と環境変化と生物進化を結びつける壮大で野心的な仮説で、否定されたとは言え魅力的な仮説だったと私には思われます。コパン先生には、その魅力的な理論展開や、学者としての姿勢も含めて、改めて敬意を表したく思います。

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2017年10月27日

「何も変わらない」~低投票率が示す民主主義政治への諦め

先の衆議院選挙では自民党の圧勝に終わった。

◆選挙制度のおかしさ
朝日新聞ニュースによると、
小選挙区 自民党2672万票獲得 得票率は48%
比例区  自民党1854万票獲得 得票率は33%
全有権者に占める自民党の絶対得票率は、小選挙区で25%、比例区で17%に過ぎない。

17%の支持で3/4の議席を占有するのが、現在の議会制民主主義の姿である。

ちなみに2014年の衆議院選挙結果は以下のようなことになっている。

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◆大量の「選挙に行かない人」
今回の選挙の投票率は53.60%、戦後2番目の低い水準らしい。(リンク

低投票率になって久しい。
時代が好転しているわけではなく、むしろ閉塞状況は高まっている。
なのに、未来を託す国政選挙に対し、選挙が行なわれるたびに低くなっていることが注目に値する。
つまり、政治が国民から期待されていないということに尽きる。

ネットを検索しても、低投票率に対する意見が山のようにある。
投票率の低下傾向 「日本中に『非政治』が蔓延している。」
なぜ若者は投票にいかないのか?
「何も変わらない」――アンケートから浮かんだ  政治に興味失う若者の「無力感」
「若者の政治離れ」のウソ

 

この図は過去の国政選挙の年代別投票率推移である。リンク
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こと若者の政治離れを耳にするが、各年代共に投票率が下がっていることが分かる。

 

◆選挙に行かない=「何も変わらない」から
J-CASTニュースは、2012年12月11日から14日までの期間、全年齢の読者を対象に「1クリック投票」アンケートをおこない、若者が政治に関心が持てない理由をさぐった。
総投票数2698のうち、3番目に多かったのは、「若者に関係のある政治が提示されないから」で、割合は15.2%だった。2番目は、「不勉強だから」で17.6%。そして、圧倒的に多かったのは、「関心をもったところで何も変わらないから」の45.1%だった。リンク

若者が政治に関する関心が低いとも言われるが、そんなことは決していないだろう。
先が見えない時代に生まれた若者達こそ、未来へのこの国の行く先を最も不安をもって感じているはず。
その不安を解消、あるいは希望をもって未来を見据えるものとして、政治は全く応えられていないということ。

3/4もの議席を獲得して、国民の支持を得たなどと勘違いしてもらっては困る。
国民がどんな思いでいるかを汲み取ってもらいたい。それこそが民主主義の姿であろう。

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2017年10月20日

教育改革~るいネットの追求投稿の紹介

行き詰まりの現代社会、誰も、どこからも新しい答え、理論が生み出される気配もない状況。
この思考停止状態(脳)を突破すべく実現塾では能力論が追求され、
現在の学校教育における強制教育が子供たちの脳ばかりか活力までも封鎖している張本人であることが分かった。
教育改革は未来の社会をつくっていくために今成さねばならない最も急がれる重要課題。

この間、るいネットでは学校教育に関する数多くの投稿がされている。
お題にそって、約1年間分の秀作投稿を拾ってみた。
不足している追求ポイントは無いか見ていきたい。
とりあえず、秀作群を紹介。

 

■■■学校って、必要なの?
・子供たちの90%が学校に押しつぶされている。リンク
・学校は刑務所 ~子供たちが囚人になっている~ リンク
・子どもに宿題をさせると悪影響しかないことが明らかに リンク
・学校は軍隊をモデルに作られた。その強権体質が、今、子供を潰し始めた。リンク
・日本の学校に残る軍事訓練の風習 リンク
・何故こんな検定が?検定制度の何が問題か ~いらない!こんな教科書検定~・・・③ リンク
・何故こんな検定が?検定制度の何が問題か~いらない!こんな教科書検定~・・・① リンク
・教育によって日本の「無力化」を図った、GHQの日本人再教育とは? リンク
・今や大卒の有用性は殆ど無しとほぼ認知されているのに、高卒採用が広まらないわけ? リンク
・学歴が社会を壊す。 リンク
・「成績を上げろ」としか言えない教師 リンク
・学校教師に大量の宿題を出す権限が、果たしてあるのか? リンク
・教員も軍隊式の強制教育を受け養成された リンク
・教師の価値も低下して、学校は建て前中心の世界へ向かう リンク
・試験のための勉強は不要。社会の期待をつかむ、応えるための勉強が必要になってくる。リンク
・義務教育への違和感② リンク
・現在の教育では、子どもたちは現実から分離され、人格を破綻させる。 リンク
・サラリーマンに成る勉強だけで、“楽しい”ですか? リンク
・学校にいじめがあるのではなくて、学校という構造がそもそもいじめ。 リンク
・子どもの問題は大人が問題~大人の思考停止が子どもを追い詰めている。リンク
・史上最年少の14歳2ヶ月でプロ棋士、25連勝中の「天才」藤井四段はこう育った1 追求力を伸ばす子育てとは リンク
・教科を教えない塾が社会に根付く動きが・・。 リンク
・日本の学術が考える「教育改革」 リンク
・教育の核心は武力によらない「中央集権化」+江戸の寺子屋は明治の小学校と真逆であった。リンク
・フィンランド 世界で始めて全ての「科目」を廃止する リンク
・勉強とは、「①無理をすること」 ②「もともと無理があること」という意味です。リンク
・将棋を全ての子供に教えたら、この国は変わるかもしれない リンク
・学校制度の欠陥。子供を潰す為の制度でしかない。リンク
・体育指導より「外遊び」のほうが子どもの運動能力は高くなる リンク
・放課後が変わる~学校の外で広がる「新しい学びの場」リンク
・学校に通わなかったことで良かったことベスト10 リンク
・子供が不登校になって良かったことベスト10 リンク
・これからの社会をつくっていける人を育てる~義務教育に代わる新教育の可能性 リンク
・働く高校生の存在 リンク
・ここまで深刻化! 小学校高学年の学級崩壊の驚くべき実態とは? リンク
・学校時代の終焉~学校という既製の枠を越えなければ次代は築けない リンク
・脱学校原論 ② 学校の害毒 リンク
・進む大学の空洞化。入試問題も授業も受験産業にアウトソーシング。リンク
・過疎問題の本質は教育問題 リンク
・無理して学校へ行く必要はない リンク
・学校の部活動――消え失せた「自主性」と「教育の論理」リンク
・高校生就活、厳しすぎる制約 リンク
・義務教育は奴隷の生産工場 リンク
・学校は人生泥棒 リンク
・義務教育は国民をバカにするために存在する リンク
・小学1年生が、入学1週間で感じた違和感~「チャイムが私の邪魔をする」~ リンク
・義務教育制度は、フランス革命時代、近代科学の登用と国民皆兵制とセットで作られた。リンク
・「考える自由のない国―哲学対話を通して見える日本の課題」② リンク
・学校は軍隊をモデルに作られた。その強権体質が、今、子供を潰し始めた。リンク
・学校教育~労働体験に加え、能力評価軸を変える必要がある リンク
・学歴信仰の崩壊 ~大企業の1/3は出身大学名を問わなくなっている~ リンク
・学校の問題は、教え方が悪いとか、そういうことではない。何よりの問題は、「大切な時間を奪っている」ということ。リンク
・「脱学校」の潮流が始まった! リンク
・試験は当たり前?~思考力を剥奪してきた日本の試験制度 リンク
・「大卒に特別な価値はない。世界教育動向と進む学歴インフレ」リンク
・日本の学校は刑務所か軍隊のような場所だ リンク
・義務教育って必要なの? リンク
・小学校の教育に残る「軍事訓練」2/2 リンク
・小学校の教育に残る「軍事訓練」1/2 リンク
・日本で「学歴」は意味を持つか~「学歴は指標として役立たない」と企業が気づきつつある~ リンク
・なぜ勉強が嫌いになったのか?-高校生15人のメッセージ- 1年生編 リンク
・近代の学校教育制度の本質は強制教育、子どもに選択権は無い リンク
・学校教育が思考停止を作りだし、思考停止が社会を滅亡へと追いやる リンク
・入社5年目調査で判明! 大卒より評価が高い“高卒人材” リンク
・学校教育の社会的弊害(1)~日本人のほぼ全員が十数年の学校教育を受ける、その影響は計り知れない リンク
・強制的な勉強は、本来の思考を封鎖する リンク

 

■■■試験制度と暗記脳
・大学受験の合格率。1990年で55.5%、それに対して現在は93.3%。 リンク
・行き詰まる学習塾、予備校「もはやお金と時間の無駄遣い」②~詰め込み教育に変わる新しい教育とは?~ リンク
・行き詰まる学習塾、予備校「もはやお金と時間の無駄遣い」①~詰め込み教育に変わる新しい教育とは?~ リンク

 

■■■試験・身分制度の根深い害
・学校に行ってはいけない~学校が社会を壊す。リンク
・試験制度は非常に単純だが、国全体を腐らせる リンク
・中受が狂っているのは、成立基盤が「受験産業」の利益追及のみだから。リンク
・現実の問題からかけ離れた試験制度(1)リンク
・試験制度の功罪~あらゆる制度は自己目的化し、腐敗する リンク
・クラスの女子の半数がリストカット?!中高一貫の超難関校は精神病の子だらけ リンク
・いかーん、日本の若者は創造力を欲しとらん!!! リンク
・日本の教育制度と官僚組織の腐敗 リンク
・悪い教育内容のために人生を狂わされる人もいる リンク
・勉強の強制圧力が学級崩壊を引き起こす子供たちを作り上げている リンク
・なぜ教育熱心な親ほど子供を追いつめてしまうのか? リンク
・無圧力空間から脱し、半学校・半労働の教育制度にしたら? リンク
・学校教育による順応と洗脳が就活,社会不適応へと繋がっている① リンク
・「入試なし。猫も杓子も大学、の逆を行くドイツ式教育」リンク
・学歴・会社・資格に頼っている人は未来がないという現実 リンク
・日本の「教育」が行き詰まっている~日本人の野心を奪った『偏差値』と『大学教育』~①偏差値と教育 リンク
・「2020年教育改革」で潰れるのは、どんな塾か リンク
・心の成長を阻害する早期教育~「教える」のではなく「見守る」のが子育ての本質 リンク
・学歴信仰は終わった。答えを理解するだけの頭脳では、仕事に対応できない リンク
・いい学校を出て、いい会社に入って… 子どもを「成功」に追い詰めることの大きな弊害2 リンク
・いい学校を出て、いい会社に入って… 子どもを「成功」に追い詰めることの大きな弊害1 リンク

 

■■■学者とマスコミが人類を破滅に導く
・現代の学校教育~何で本当のことを教えないのか~ リンク

 

■■■私権原理から共認原理への大転換
・これからの世の中と子供の教育 リンク

 

■■■共同体社会の実現
・「凡人」の時代は終わる。これからは「天才」が社会をつくっていく時代。 リンク
・新しい教育法!?オランダで広まっているイエナプランとは? リンク

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2017年10月19日

アーリア人の守護神信仰~契約・盟友・友情の守護神ミトラ

西洋人の特有の「契約」観念の源流に、アーリア人のミトラ神という守護神信仰にあったようである。

『世界史の窓』「ミトラ教」によると、
古代イランのアーリア人は、ササン朝ペルシアでゾロアスター教が国教とされるまで、さまざまな神々を祀っていた。その一つがミトラ神で、友情・契約などをつかさどる太陽神であり、非常に人気が高かったらしい。

『ミトラ教ジャパン公式サイト』「ミトラ教の宗教史」 「ミトラ単一神教の神話」によると、
ミトラ教の起源は、紀元前1700年以前の中央アジアにまでさかのぼる。

●ヒッタイト・ミタンニ・カッシート時代の資料に、「ミトラはヤザタたちの長である」という記述(伝承)がある。ヤザタは、イラン系諸語で「神」を意味する。この伝承は「ミトラがヤザタたち、つまり神々の長」であったことを意味している。つまり、ミトラが西方に移住したイラン系民族の至高神であった。

●3700年前、イラン系民族(ヒッタイト、ミタンニ、カッシート)が、中央アジアから移動をはじめ、バビロニア~小アジア半島の根元の地域に移住。この時代のミトラ教を原始ミトラ教という。ミタンニ条約の碑文碑文には、「ミトラ、ヴァルナ、アリヤマン、インドラ、二柱のナーサティア神」に誓って条約を結ぶと記されている。
この碑文は、ミトラが筆頭に来ることを示している。
この碑文のミトラ神群は、ほぼ同時期のインドにおいて、アーディティヤ神群と呼ばれていた。古代インドの『リグ・ヴェーダ』によれば、アーディティヤ神群は、大女神アディティーから生まれた七柱の神々ことで、七柱の神々は、ミトラ、ヴァルナ、アリヤマン、バガ、ダクシャ、アムシャ、インドラとされている。ミトラが第一の神である。
ミタンニ・ヒッタイト・カッシートにおけるミトラ神群にも、大女神アーディディに相当する神がいたと考えられる。大女神アーディディの名前は、サンスクリット語で「無限」を意味することから、西方のミトラ神群の親神は「無限なるズルワーン」であったと推定される。

●復元された原始ミトラ教の原神話
①始めに巨大な霊鳥スィームルグがいた。スィームルグは、大女神ディヴ(=無限の女神アディティー=母ズルワーン=無極聖母)の化身である。霊鳥スィームルグが世界卵を抱き続けると、世界卵が熟した。まず島の上にあらゆる植物の起源となる聖樹(リーワス)とあらゆる動物の起源となる聖牛(ガウ)が生まれた。

②さらに世界卵が熟したとき、スィームルグの愛が世界卵の中に入った。愛は世界卵の中に入ると、少年神ミトラになった。ミトラは世界の主にして、火と太陽の神である。千の耳と万の目を持つミトラは孔雀の尾羽を広げたようなオーラに包まれて、静
かにたたずんでいた。
③ミトラは、島の中央に降り立つと、七名の神々(原アムシャスプンタ=アーディティヤ神群)が現れた。ミトラは彼らとの友情と世界の繁栄を願って、霊鳥スィームルグのために最初の供儀を執り行い、聖牛を献じ、聖樹を細かく砕いてしぼり樹液を取り出した。ミトラが供儀をおこなうと、島の上空に明るく燃える火、すなわち太陽が現れた。太陽が昇るにつれ世界卵も大きくなり、ついに三倍の大きさになった。天空の大きさが定まると、ミトラは無数の星をつくって天上に飾った。ミトラの執り行った供儀により、島と海も大きく広がり、三倍の大きさになった。ミトラは七名の神々の一人に太陽をあずけると、残りの六名に自分のまねをして真似をして、月、水星、金星、火星、木星、土星をつくるように言った。彼らがこれらの惑星をつくり終わると、ミトラは星々に合図を送った。すると、星々は運行を始めた。星々の回転にともなって、時間が生まれ、昼と夜、春夏秋冬が生まれた。

『日本を守るのに右も左もない』「アーリア人のミトラ信仰」
ミトラ神は、古代アーリア民族の信仰した7柱神の中の最高神。ミトラ信仰の起源は、6000年前の中央アジア(現在のカザフスタン)にまで遡るが、原始ミトラ教の形をとるのは、3700年前ころらしい。
ミトラ神とは、インド・アーリア人、イラン・アーリア人が分かれる以前の時代にまで遡る古い神格で、その名は本来「契約」を意味する。 また、契約によって結ばれた「盟友」をも意味し、友情・友愛の守護神とされるようになった。
ミトラ神は、ヴァルナ神とは表裏一体を成す。ミトラ神が契約を祝福し、ヴァルナ神が契約の履行を監視し、背いた者には罰を与えるという。
雨が降ると草木がいっせいに芽生え出る。古代インド人は、これを水の神ヴァルナの天地創造と呼んだ。ヴァルナ崇拝は、雨に代表される自然力をいわゆる共感魔術により分けてもらうことで、自然を支配する力を持とうという発想と結びついている。ヴァルナ崇拝のテーマは、自然に対する人間の優位性の確保である。ところが、人間がある程度自然を支配するようになると、人間は自然の上に安定的に君臨するようになった。この結果、自然克服魔術(呪術)の重要性は減り、人間同士の関係、すなわち社会契約(友情)の重要性が高まった。これにともない、ヴァルナの地位は下がり、ミトラが上位の神になった。

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2017年10月12日

教育イノベーション事例~世界最難関・ミネルバ大学とは

創立4年目にしてハーバード大学を蹴ってまで行くというミネルバ大学とは?
キャンパスを持たずに世界7都市を渡り歩く大学とは?
100%アクティブ・ラーニングを提供する「未来の大学」とは?

話題のミネルバ大学について、この秋から初の日本人学生となった学生の記事から紹介。

 

「世界最難関・ミネルバ大学初の日本人学生として」 より

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はじめまして、日原翔です。この5月にカナダの高校を卒業して、9月よりミネルバ大学というアメリカの4年制大学へ進学します。この連載では、ミネルバ大での生活や仲間たちとの交流について共有していきたいと思っていますので、よろしくお願いします。

ミネルバ大学はキャンパスを持たず、授業はすべてオンラインですが、学生は4年間で世界の7都市を渡り歩いて寮で共同生活をします。創立4年目にして、多くの学生の人気を集め、いまやハーバード大学以上の難関ともいわれています。

ミネルバ大学では、私が初めての日本人学生になります。まだ日本語での情報があまりありませんので、このコラムで少しでも皆さんにミネルバ大学についてお伝えできればと考えています。

 

“知識”よりも”知恵”と”好奇心”
世の中は今、目まぐるしい速さで変化を遂げています。5年前の常識が、今日は通じない。今日の常識は、来年には通じていないでしょう。人工知能は次々と世界一のプロ棋士たちを破り、コンビニやファストフードなどでの会計も無人化されています。ポスト真実文化は急速に台頭し、世界中の政治に大きな波を起こしています。ネットショッピングの代名詞であったアマゾンも、高級食品スーパーのホールフーズを買収した今、リアル店舗での生鮮食品流通を制する日も遠くありません。

一方、変わり続ける社会の中で、教育というものはほとんど進化していません。学習効果の薄い講義型授業が未だに大部分を占め、生徒の考える力よりも詰め込んだ知識を大学は評価し続けています。皆さんも「日本の教育は遅れている」と一度は聞いたことあると思います。しかし、大学の講義風景(写真)を見ると、世界最高峰と言われているような大学とてこの例外ではないことが分かります。世界的に教育は社会の変化に取り残されてしまっています。

今日の常識は明日の常識ならず —- そんな世の中で大切なのは、上書きされ続ける一時的な”知識”以上に、”知恵”と、学び続ける”好奇心”ではないでしょうか。”Sapientia Critica(批判的知恵)”という校訓にもある通り、常に考え続ける力をミネルバ大学は重視しています。

 

才能が集まる仕組み
現在はどこの大学でも、世界中から才能と実力のある学生を集めたいと考えています。もちろん、ミネルバ大学も例外ではありません。しかし、ミネルバがこの点において既存の他大学と最も異なるのは、それを文字通り実行しているという点です。次回詳しく紹介いたしますが、ミネルバ大学への出願には人種や国籍以外にも、学生の多様性を確保するための仕組みが凝らされています。一般学生には無関係なスポーツチームや、無駄な施設などの費用をかけず、学費を抑えていることも学生の多様性に繋がっています。

 

世界中を旅するカリキュラム
ミネルバ大学のカリキュラムでなんといっても魅力的なのは、4年間かけて文字通り世界中を渡り歩くという点でしょう。学期が変わるごとに生活も変わり、学びも変わる。そんな刺激的な環境で成長することができます。常識に挑戦し、変化を先導せんとするミネルバ生にはもってこいのカリキュラムだと思います。

1年目 – サンフランシスコ (米国)
2年目 – ソウル (韓国)、ハイデラバード (インド)
3年目 – ベルリン (ドイツ)、 ブエノスアイレス (アルゼンチン)
4年目 – ロンドン (英国)、 台北 (台湾)

また、都市ごとに学びのテーマがあり、抽象論ではなく実際に各都市で学ぶ事柄は大きく変わります。これらの異文化を移り渡ることで実際に世の中の複雑さを学び、そこでどのように問題解決していくか、という力をミネルバ生は身につけていきます。

同級生たちとは寮生活を共にし、一緒に動き回る4年間を通して、大学ならではの絆や友情は十分育まれます。授業も知らない人と一方的な講義を受けるのではなく、互いによく知っている学生同士の少人数ゼミなので、効果的なディスカッションが行えるのです。

 

駆け足になってしまいましたが、ミネルバ大学の魅力、少しは伝わりましたでしょうか。多様な生徒達に囲まれ、世界中を旅しながら知恵を学ぶ。私はそこに惹かれました。卒業生もまだいない大学なので、ミネルバへの進学を”リスク”と捉える方も多いでしょう。むしろそれが多数で、普通だと思います。

しかし私には、これが”リスク”よりも”チャンス”に感じられました。何より、そんな”リスク”をとってしまうような人達と一緒に学んだらどんな刺激があるのか、今からワクワクしています。

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2017年09月28日

個人主義の果てに結婚・出産・育児(集団課題)が『個人の自由選択』へ

結婚・出産・育児の問題の根本には、子を産み育てることが「個人の自由選択」になっていることが挙げられる。
(このような論調の記事は見たことが無かったが、初めて見かけたので紹介したい。)

「個人の自由選択」の背景には、共同体集団の解体と、恋愛の自由、個人の自由を促進した近代思想がある。
明治政府による共同体破壊、近代思想の輸入から250年、高度経済成長による共同体崩壊からはたかが60年、
人類500万年の歴史は、集団適応の時代であった。
結婚・出産・育児などという生殖課題は、当たり前だが最も重要な集団課題であった。
個人が第一の時代など、たかだか数十年に過ぎず、その意味で人類史上異常な状態であるということ。
「種の存続」という生物にとっての根本課題が、「個人の自由」に脅かされているのが、近代思想に導かれた現代という時代である。

近代的な結婚観に基づく“目的論的な家族像”の衰退と個人の自由選択に任された“結婚・出産・育児”の問題

ある人にとっては出産育児の決断はそれほど悩むべき問題ではなく、むしろ自分が父親・母親となって子どもを持つことを『人生の主要な目的』だと考えています。ある人にとっては出産育児の決定は深刻な悩むべき問題となり、自分が父親・母親となって子どもを持つことを『人生の重要な選択』だと考えているかもしれません。
出産育児を『人生の主要な目的』と捉えるかそれとも『人生の重要な選択』と捉えるかは小さな違いに見えても、実際には非常に大きな心理的態度と性的アイデンティティの違いがあります。

高度経済成長期までの日本の標準的世帯では、性別役割分担(男は仕事・女は家庭)のある『近代的家族観』が生きており、結婚・出産・育児というのは誰もがいずれは経験すべき『人生の主要な目的』と位置づけられていました。男女平等の客観的な追求は『社会的性差と結びついた出産・育児による格差』をどう解釈すべきなのかという非常に困難な課題に直面しています。

自然界の生物の多くは『自己の遺伝子保存』を究極の目的としていますから、人間のように妊娠出産をするかしないかを主体的に選択することなどはあり得ませんが、経済生活と認識水準を向上させた人類は自意識の拡大や育児コストの増大によって、出産・育児を人生計画の一部に組み込むようになり行動選択の対象とするようになりました。ヒト以外の動物では異性を選ぶ性選択と生殖(繁殖戦略)は直結していますが、人間には『恋愛・性愛・結婚・父親と母親』という関係性の違いがあり、特定の異性を性的パートナーとして選択しても必ずしも子どもを作るわけではありません。

父親・母親・子から構成される近代的家族が社会の構成単位であった時代には、近代的家族を形成してそれを再生産することが目的化しているので、出産育児を決断することの迷いは殆ど無かったと考えられます。出産育児を『人生の主要な目的』と捕える考え方とは、今している勉強や仕事は最終的には結婚をして家族を作り子どもを育てるための手段であるとする考え方であり、『結婚・家族・出産育児・子どもの自立(=社会の再生産)』というのが人生の究極の課題となります。発達心理学の各種発達理論やライフサイクル論も、基本的にはこの近代的家族観を前提としており、『結婚・出産・育児』が社会的自立のための重要なライフイベントとして定義されていたこともありました。

地域共同体が衰退の危機にある現代社会では、社会の最小構成単位としての家族(世帯)は、最後の最後に残されたゲマインシャフト(情緒的人間集団)とも言えますから、近代家族を失うことは精神的安楽の場や自己アイデンティティの一部を喪失することを意味します。守るべき家族がいるからつらい仕事を頑張れるという人も少なくありませんから、資本主義社会における労働のモチベーションと家族(帰れる場所・情的な人間集団)というのはかなり密接な関係があります。シングルマザーが子どもを育てるという選択肢そのものは尊重すべきであり法的な不平等などは無くすべきですが、家族そのものが存在しないのがデフォルトと考えられるほどに、人間の精神は個人主義化していないというのが現実ですから、今後も少子化(高齢化)問題と合わせて近代家族の再生産と停滞の問題は繰り返し現れてくると考えられます。

他人に必要以上に干渉しない現代の自由主義社会は、結婚・労働・出産・育児を『個人の自由な選択の結果』と位置づけることにより、個人を結婚・家族形成にまつわる社会的圧力(世間の眼差し)から大きく解放しましたが、人々に共有される『家族の再生産の物語』を喪失しかかっているとも言えます。戦後に伝統的な“イエ制度”が解体されたことで、多くの個人は家(家系)を残すという束縛から逃れましたが、家系(血統)を残すという共有幻想としての目的を失ったことで、一定の年齢で結婚しなければならないという社会的義務が消滅したとも言えます。個人とイエ(家系)の分離が進んだ結果、結婚を必然的なものと見なす前提で作られた『お見合い結婚』の衰退が起こり、後は、個人の主観的な幸福や好きな異性の選択、経済的な生活設計の問題、育児しやすい環境の用意としての結婚(婚姻制度)が残ることになったわけです。

近代以前の社会(共同体)では、結婚して子どもを産み育てることが、人生の主要な目的であり共同体維持(防衛)のための社会的責務でもあったので『家族(子ども)の再生産の物語』に特別な意味づけや解釈は必要ありませんでした。しかし、近代以降の社会では『経済生活の発展・認識能力(情報環境)の拡張・人権と個人主義』により、結婚・出産・育児が『個人の自由な選択』の問題となり、個人個人が『自分の人生の物語』の中で家族や育児の価値を実感しなければならなくなりました。このことは、冒頭に書いた、出産育児を『人生の主要な目的』として全面的に受け容れることができるか、出産育児を『人生の重要な選択』として様々な人生設計を予測しながら思い悩むかの違いにもつながってきますが、『母親・父親としての役割を担う自分』をどのくらい肯定的に受容できるのかという自己アイデンティティとも関係しています。

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