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2019年02月12日

赤ん坊の言語習得過程から人類の言語の進化過程を探る2

言語交流研究所(ヒッポファミリークラブ)の創設者が始めた言語習得方法(赤ちゃんの方法)を紹介します。
赤ん坊の言語の習得過程は、人類の言語の進化過程をなぞっているはずで、言語の進化過程を解明するヒントがあるように思います。

榊原陽『ことばはボクらの音楽だ』(初版は1985年)の11章中2~3章の要約。

【2】ことばは美しい秩序系
5歳くらいで外国に移住した時でも、友達と仲良く遊べば、半年も立てば言葉を話せるようになる。
言葉を自然習得する過程には、文法用語は出てこない。覚えた表現をノートに整理して書くこともない。子供たちは楽しく遊びながら、無計画にランダムに英語のツマミ食いをしているだけである。それだけで5歳くらいの子供なら、新しい言葉が半年で完成する。
5歳の子供が半年間でランダムに拾う言葉の総量は限定されたものだが、発音訓練もなしに、アメリカ人そっくりに話すようになり、文法の一つも知らないのに、文の基本的な誤りは犯さない。
5~6歳の子供なら、自然の言葉の環境さえあれば、身につけることができるだろうが、大人はそうはいかないのだろうか?
一般的に10歳前後に言語習得能力に質的変化があるかの如く言われるが、それは事実なのだろうか?
多言語国家であるインドやウガンダの大人は、2~3週間くらいで片言の日本語が話せるようになる。
幼児が言葉ができるようなる振舞い、5歳児が新しい言語環境であっと言う間に新しい言葉が話せるようになる振舞い、多言語人間が易々と言葉を次から次へとマスターする振舞い。
そういう言語の振舞いを一貫した美しい秩序として記述することが言語研究の目標であろう。

【3】私自身(榊原氏)の体験から
私が言葉の教育を始めた動機は常識的なもので、これから地球が狭くなるので、これからの子供たちはヨーロッパ語一つ、アジア語一つくらいはできたほうがいいだろうというものだった。
全くの素人だったが故に事実に学ぶより他に方法がなかった。はじめは常識的に英語を教えることから出発し、外国語教育に成果を上げているプログラムを探した。しかし、始めてみると、言葉を教えることがどんなに難しいことか思い知らされた。

例えば、英語の代名詞”he””she”。「彼」とか「彼女」とかいう表現は輸入語で、日本語の日常にはないのである。これを4~5歳の子供に教えようとするだけで大変だった。子供たちもだんだん苦痛になってきて、10人→5人→3人と減ってゆく。
そこで、外国語教育で常識とされている方法を忘れ、言葉について身近に知っている事実を踏まえて、一から構築し直してみようと考えた。
私が3~4歳の頃、父親が英語の絵本を読んでくれた。「”Once upon a time”昔むかし、”a man had a donkey.”ある男がロバを飼っていたよ」
それが2年ほど続いた頃には、いちいち翻訳してやらなくても、わからない所は聞くようになっていたという(父親の後日談)。
子供たちに物語を一文、一文、日本語と英語で聞かせてやろう。同時に聞こえてくる英語にも自然に触れてゆく。
その蓄積で英語を無意識に自分で見つけてゆくことができるのではないかと考えて、物語の日本語・英語による読み聞かせを始めた。
物語の活動が始まって3~4ヶ月経った時、『グルンパ』という英語の物語を日本語と英語で聞いているうちに、幼稚園の年長の男の子が英語だけで10分くらいの物語を話せるようになった。

階梯を踏んでゆく教科では、先の課程まで進んでいるグループに最初から始めることも入れるわけにはいかないが、日本語と英語で語られている物語で遊んでいるのであれば、ずいぶん前に入った子も、一週間前に入った子も一緒に遊べる。共通の日本語で物語の話題を楽しむことができるからである。グループ編成が同年齢構成から縦軸年齢グループに変った。
これまでの教える教科から、遊びながら言葉を見つける活動への方向転換に加えて、グループの縦軸年齢構成も相まって、子供たちがなんとなく、柔らかくふっくらと育ってゆくように見えた。
∵同年齢グループは誰が誰よりできるorできないと問題になる競争的グループ構成だが、縦軸年齢では上の子が下の子の面倒を見るといった役割分担グループになるからである。

※子供たちが自然な環境で言葉を習得してゆく過程は、単語の一つ一つを理解して、それを組み合わせて文を作るのではない。文の理解が先行する。例えば、子供が寂しい時に「アイムソーローンリィ」と言ったとしてもが、Ⅰもamもsoもlonelyの意味も解っていない。

※子供たちは二つの言葉が完全に話せるのに、ある年齢に達しないと、通訳することを拒否する。10歳くらいになって初めて、突如として通訳してくるようになる。これは多くの人が体験として知っている事実だが、学校の英語教育の中で、いつも日本語との対比で言葉を学ぶ経験しかなかった大人たちにとって、自然な言語環境で新しい言葉をそのものとして見につけてゆく子供の姿が見えなかったであろう。

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2019年01月29日

江戸時代の銭湯は男女混浴。出会いの場所としての期待も大きかった☆

江戸時代の銭湯は、混浴だったという話はよく知られていますね。

その時代の庶民にとって、銭湯はただお湯につかりにいくだけでなかったようです。

休憩スペースで将棋や囲碁などを楽しんだり、男女の出会いの場としても期待されていて、女性たちも恥ずかしがることなくせっせと出かけていた様子が伺えます。

なんだか大らかな時代でしたね~☆

リンクより

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江戸など大都市圏において銭湯は、庶民のくらしになくてはならないものでした。銭湯が作られたのは、木造の建物が密集して建ちならぶ下町で、できるかぎり火元を管理し、火事が発生することをふせぐためでもありましたからね。

江戸で銭湯が最初に現れたのは、一説に1591年のこと(『そぞろ物語』)。もともと日本で入浴といえば、蒸し風呂(サウナ)に入ることだったのですね。でも江戸ではサウナ(風呂)よりも、大量のお湯で身体を洗う……つまり「洗湯(せんとう)」という新習慣のほうが定着。それがビジネスとして成立してく中で、「銭湯」の表記が生まれたのでした。

庶民文化がもっとも隆盛した19世紀はじめの頃、銭湯の営業時間は朝8時から夜8時。
その当時の入浴料は現代の貨幣価値で1回150~200円ほど。月決めフリーパスや回数券なども発行されており、1日に何度も銭湯に行くという光景すら普通のことだったんですね。
しかし(すくなくとも下町の)銭湯は男女混浴です。

何回も、幕府から混浴禁止令が出されましたが、けっきょく元に戻ってしまうのです。この背景にあるのは、銭湯が各種・出会いの場所として期待されていたということでしょうね。

江戸の下町の銭湯は男湯だけが2階建てで、その2階部分は男性客のみが使える、休憩スペースになっていました。ここで友人同士で話をしたり、将棋や囲碁などのゲームをしたり、あとは女湯を覗く……なんてことがおおっぴらに許されていたんですねぇ(笑)。

湯けむりがものすごく、具体的には見えなかったわけですし、女性もホントの意味で裸で、素の自分を選んでもらえる場所として、銭湯で見られることを逆に利用していたといえます。

江戸時代中期までは、「湯文字」とよばれる、基本は白色の女性用ふんどしを着用して庶民の女性も入浴していました。しかし……たとえば新年最初の入浴は「初湯」とされ、黄色など派手な色の「勝負湯文字」を付けて銭湯にいく女たちの姿がありました(既婚女性もふくむ)。

ただし、男性にカラダを見られる以上の行為へのガードは堅く、結婚前の若い娘さんには必ず母親やその姉妹が付き添っていたりで、チカン行為はふせごうとしていました。

さて、女性が銭湯でもっとも気をつけるべきなのは、カラダを洗う時でした。知らない人がたくさんいる場合など、銭湯の床でカラダを洗ったりする時には、片膝を立てた「立て膝」の姿勢で女性は座りました。立て膝の姿勢だと、もしマナーの悪い男に絡まれた時でも、すぐに立ち上がって逃げたり、攻撃することだって簡単でしたからね。

なお現代人が他人の目から隠したがるバストですが、江戸時代では基本的に見えしまっても大丈夫な身体のパーツで、とくにエッチとされる部分ではなかったのです。

銭湯では、現代人なら他人には秘密にしたいケアも公然と行われていました。それはアンダーヘアのお手入れです。その名も毛切石という石が銭湯には置いてあり、それをハサミがわりにして毛を短くカットした状態にしておくことが、男女ともに重要なオシャレだとされていたのです。しかし……銭湯という場所で無駄毛ケアまでおおっぴらに許されてしまうという感覚、現代人には非常に大胆に感じられますよね~。

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2019年01月29日

赤ん坊の言語習得過程から人類の言語の進化過程を探る1

言語交流研究所(ヒッポファミリークラブ)の創設者が始めた言語習得方法(赤ちゃんの方法)を紹介します。
赤ん坊の言語の習得過程は、人類の言語の進化過程をなぞっているはずで、言語の進化過程を解明するヒントがあるように思います。

榊原陽『ことばはボクらの音楽だ』(初版は1985年)の1章の要約。

●著者略歴
1930年生。両親は教育者で豊かな学びの機会を与えるという恵まれた家庭環境。ところが、旧制中学卒業後、通常の進学の道を拒否し、学ぶことに対する境界や制限にとらわれず、知の探求に対して、自らの本能に従って思索を進めていった。
特定の研究機関や学問分野にこだわる必要がなかった彼は、赤ちゃんや幼児が、母語を習得する過程に深い考察を繰り返し、自らの目と耳を頼りながら、ことばを自然に獲得する過程について独自の考えを生み出した。

【前書き】
本書は多言語活動の体験を具体的に、また、その理論的大枠をできるだけ平明に述べることを目的とする。言葉が身近であるために当たり前のこととして見過ごしている事実の中に、重要な情報が含まれている。だから、誰でも知っている当たり前の事実から、言葉とは何か読者と一緒に考えようと思う。

【1】赤ちゃんの方法
赤ちゃんは自然科学者だ。取りまく全てのものが珍しく、好奇心に充ちた眼差しでひたすら何かを追い求めている。赤ちゃんと同じ道筋で、人類は言葉を見つけ、人間の言語世界を創り出してきた。自然の存在そのものである人間によって、自然の論理にしたがって創り出されたものが人間の言語である。その言葉を創り出す自然の論理とは、方法とは、どのようなものか。

人間は誰でもその言葉が話されている環境さえあれば、その言葉を習得できる。日本では日本語、韓国なら韓国語だが、3~4つの言葉が飛び交うルクセンブルクでは、誰でも例外なく、4つの言葉を同時に自然に話せるようになる。
表層的には全く似ても似つかぬ言葉であっても、その深層の秩序は普遍的であり、すばらしく平明な秩序を持っている。だから、幼児は何語であれ、環境さえあればその言葉を習得する。赤ちゃんにとっても何語であっても、自然言語である限り同じ人間の言葉なのである。

赤ちゃんは生まれたばかりの時は見えない。というのはまだ真っ暗な闇の世界の中にいるということだろう。それが、日に日に少ずつ光を感じ始め、明るさに目覚めてゆく。やがてその明るさの背後にぼんやりとした影のようなものが見えてくる。赤ちゃんはまだ焦点を合わせるということを知らないが、その影を追い始め、焦点を合わせるという目の体操を始める。

膨大な光の波の足し合わせで作られる波形を、目は形として認識し記憶する。音声言語も膨大な数の波の振動の足し合わせの束であり、それを音声認識する。音声認識も目の形認識も、複雑な波形の型認識である。幼児でも満一歳にもならないうちに、母親の音声を聞き分ける。音声の複雑な波形のうちに母親の顔を見るのである。
赤ちゃんの音声認識の発達プロセスは、ぼんやりとした全体の認識から、徐々にくっきりとした細部の認識へとゆるやかに時間をかけて整然と進行する。

生まれたばかりの赤ちゃんには言語の複雑な個別音など全く聞こえない。煩雑な個別音を識別し、いちいち一つ一つに捉われていたら、言語の習得など不可能である。

幼児は、まず全ての人間言語に共通の普遍的な言葉らしさを認知する。いかなる言語音声といえども無秩序な音の列ではない。聞こえてくる人間の言語音声が苦痛を催すものであれば幼児は耳を覆う。
やがて言語一般の型認識から個別言語のらしさを見つけ、その型の中にぼんやりとした意味を見つけ、その用意された型の中に徐々に個別音を取り込み、少しずつはっきりとした言葉らしいものの姿が見えてくる。ここまで来ると、猛スピードで一気に言葉の山を駆け上がる。用意された型で言葉を一挙に取り込むとも言えるし、ぼんやりとした型として取り込まれていたものがクッキリしてくるとも言える。
「チュメタイ(冷たい)、チャムイ(寒い)」といった幼児語は、その型認識の段階を示す目安である。やがて「さむい」「つめたい」と言えるようになるための健康な過程であり「チュメタイ、チャムイ」と言っているのを発音矯正する親もいない。型認識の順調な成長を喜ぶ。3~4歳までは子供は天才であり、ここまでは親たちも楽天的な加点法主義である。
以上が、幼児が言語習得する過程で、その内側で行っていると想像される営みである。

従来の言語学の方法は、これと対立する。個々の言語を完成されたものとして外側から捉える。それぞれの言語を部品の全体と考え、まず部品(発音・単語・単語の並べ方・・・)の整理、分類から始める。このような言語観の上に、これまでの言語教育のほとんどがある。発音練習、単語の暗記、文法の練習などを、分類の用語ともども勉強しなければならない。そして、何一つ間違ってはいけない。これは厳しい減点法の世界である。この人工的な方法の強制の中で、大半の人が外国語嫌いになり、自分は言語無能力者だという確信を植えつけられる。

赤ちゃんは天才だ。しかし、大人になったら、もうダメなのか。もう一度赤ちゃんに帰ってやってみよう。3~4つの言葉が飛び交う地域では、誰もがいつのまにか複数の言葉が話せるようになる。言葉が混じることはない。こうしてヒッポファミリークラブの多言語活動が始まった。

ヒッポのメンバーの家では絶えず7つの言葉のテープがバックグランドミュージックのように鳴っている。それを耳を澄まして聴くことが重要ではない。いつも言葉ができるだけ聞こえてくる場を作ることだけで十分。3~4ヶ月もすれば、「これは何語だ」ということは誰でも解る。それぞれの言語の波形の大きな特徴を捉えることができるようになったということであり、人間の型認識の技である。半年~1年もすれば、だいぶ細かい所まで波の形が捉えられるようになり、早く聞こえたスペイン語もゆっくりと聞こえる。そのことにはスペイン語を口ずさみ始める(間違ってはいけないなどと思いもしない)。すると、その言葉を受け止めてくれる仲間が欲しくなる。

何歳になっても人間の中には赤ちゃんが生き続けている。外側からいくら観察しても、赤ちゃんの内側で起きていることを知るには限界がある。自分の中に生き続けている赤ちゃんと出会った時はじめて、赤ちゃんの内側の自然の神秘的な営みが、なだらかな当たり前の事実として見えてくる。

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2019年01月22日

言語機能を司る脳の構造(小脳発達/左脳が右脳を抑制制御)

『脳の方程式 ぷらす・あるふぁ』(中田力著 紀伊国屋書店)に、鳥類の歌う機能と対比しながら人類の言語機能を司る脳の仕組みを論じた一節がある。

その論点は、
【1】鳥類には知性(観念機能や共認機能)はないが、言語機能(聞いて真似て発声する機能)は持っている。このことは言語機能は観念機能とは独立して存在し得るものであることを示唆している。

【2】人類も鳥類も、運動機能を司る小脳の進化によって、言語機能を進化させた。

【3】人類も鳥類も言語機能に優位半球がある(左脳優位になる)。

【4】言語(発声)機能に使われる筋肉(球筋)は、もともと呼吸や食物摂取をはじめとする基本的な生命維持に必要な筋肉である。一般の筋肉は右側の筋肉は左脳、左側の筋肉は右脳に支配されているが、この球筋は左右両脳の支配を受ける。これは、片側の脳に障害が起こっても、生命維持に不可欠な球筋が麻痺しないためである。


【5】ところが、言語機能の場合だけ、右脳の支配を抑制制御する仕組みを脳は作り上げた。これが言語機能における優位半球(左脳優位)である。

以下、その引用。
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脳科学の立場から興味深いことは、カナリヤが歌を歌うために用いる脳に優位があり、その内容が学習によることである。カナリヤは人間の言語同様に、片側の脳を優位に使って歌を歌い、父親から最初の歌を習う。

ここに、ヒトの言語が生まれてきた秘密を解く鍵が隠されている。
脳の機能画像で確認されたことの一つが、言語と音楽とは、少なくともヒトの脳にとっては、ほとんど同一の機能であること。
ここから、言語機能の発生にとって、高い知能が必須でなかったことがわかる。
オウムも九官鳥もカラスも、人間の真似をしているだけではあるが、言葉を話す。ヒトの言語が鳥の「オウム返し」の言語と違うところは、高度の知性にもとづいていることである。鳥は言語機能を獲得したものの、高い知性を獲得しなかったために、あまり知性の高くない言語しか持っていない。

ヒトも鳥も小脳の機能を顕著に進化させることで、運動機能の飛躍的進化を果たした。事実、ヒトの脳が相対量として最も増加させた脳は小脳であり(絶対量としては前頭葉である)、鳥の脳でその中心を占める脳もまた、小脳である。
言語機能は運動系の進化から、それも、小脳の進化から生まれてきたと考えられる。
音による意志伝達の方法論を既に獲得していた哺乳類であるヒトの祖先は、高度化した声を出す運動機能を用いて、音による意志伝達のための機能をも精密化することに成功する。ここに言語が生まれることとなった。
言語機能にとって小脳が重要な役割を果たすことは、自閉症の研究によって知られていた。言葉を発しない子供たちに共通の因子は、小脳の未成熟度であった。
鳥類は小脳の進化による運動機能の精密化を飛行という形で成し遂げた。中には、その能力を発声の運動機能に応用する種が生まれ、音楽機能を獲得したのである。しかし、鳥類では、高度な知能を保証する脳はなく、その結果、歌を歌う能力と、オウム返しの言語能力しか獲得できなかった。

歌を歌う鳥はその音楽機能に片側の脳を優位に使う。ヒトが言語機能に優位半球を持つこととまったく同じである。
ヒトの脳が持つ左脳と右脳との機能乖離はヒトの脳が持つ最大の特徴とされるが、歌を歌う鳥は同じような機能乖離を獲得している。人類と鳥類というかけ離れた進化の道を歩んだ種が、音楽機能と言語機能という基本的に同一の脳機能を誕生させるに至って、優位半球という極端に特殊な機能形態をも共有することになったのである。
これは、言語機能の基本構造が調音器官の精度の高い運動機能として登場する時に、優位半球を持つことが必須であったことを意味する。

その必須条件とは何だったのか?何故、両側の脳を使っていてはいけなかったのか?
発声に使われる筋肉は、元々、呼吸とか食物の摂取とか、生きてゆくための基本的な動作に必要な筋肉である。神経学的には球筋と呼ぶ。これは、これらの筋肉を直接支配する神経が出発する部分(延髄)が、球根のような形をしていることから生まれた名前である。
球筋に独特の特徴は、左右両方の脳から支配を受けることである。ここに優位半球登場の秘密を解く鍵が隠れている。
全身の筋肉は左右対称に存在する。一部の例外を除いて、身体の右側にある筋肉は左の脳、左側にある筋肉は右の脳に支配されている。
従って、一方の脳に障害が起こると、反対側の身体半分が利かなくなる。
ところが、球筋は左右両方の脳の支配を同時に受けている。これは、球筋が身体の中央に位置することと、生命に直接関係した筋肉であることから出来上がった仕組みと考えられている。
両側の脳からの支配を受けていれば、たとえ、片側の脳に障害が起こったとしても球筋の麻痺は起こらない。呼吸や食物の摂取など、直接的に生命の維持を左右する筋肉は麻痺しない。

左右の脳から二重の支配を受けることは、片方が壊れたときの保険としては良い構造である。しかし、両方の脳が健全な時には、ちょっと働き難い。左右両方の脳の正確な同期を要求するからである。
これは職場に同じ決定権を持っている上司が二人いる場合と同じである。片方がいなくなっても仕事はできるが、普段の仕事では常に二人の合意を取っていなければならない。それでは、あまり効率の良い仕事はできない。
それでも仕事の効率に問題を起こさないためには、普段から行う仕事の内容を一定にして、あまり複雑なことをやらせないようにしておくことである。実際のところ、球筋の主な仕事である呼吸とか食物の摂取などは、ほとんど一定の作業として決められている。随意に動かす場合でも、それほど自由な動きをさせることはできない。

ヒトは調音器官に高度の運動機能を獲得することで、言語機能を獲得した。その調音器官の中心的な運動は球筋によってなされる。ところが、球筋は、元々左右の脳の両方から支配を受け、単純作業をやるものと決められていた筋肉である。言語機能という繊細な運動機能には向いていない。
そこで、脳は言語機能の場合だけ、球筋に指令を出す脳のランク付けをすることにした。
言語機能に関する運動においてのみ、球筋への命令を与える権利を片側の脳に優先的に与えることにしたのである。

とはいっても、いざというときの保険を残したまま、つまりは、基本的な球筋の運動の両側支配は残したまま、言語運動のときだけ片方の脳に支配させる機構を作ることは、それほど容易ではない。
そこで、脳が選んだ方法が、(意識して故意に行う)随意運動でのコントロールである。言語運動は随意運動である。従って、球筋の随意運動に左右の脳にランクをつける機構を開発したのである。
脳は、随意運動を開始する信号を受けて、自動的に片方の脳の支配を押さえ込んでしまう制御装置を作ることにした。随意運動の開始が自動的に片側の脳の支配力を低下させ、その結果、片側の脳が球筋の運動支配に優先権を持つようにしたのである。優位半球の登場である。
神経学的には、このような機構を抑制制御という。

抑制制御の装置を加味することで、もともと存在した両側支配の構造を変えずに、片側支配を作り出すことができる。言語機能という随意運動の場合のみ、球筋への支配は優位半球からの信号が優先されることになる。

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2019年01月15日

シャーマンとは何か18~世界のシャーマンの性別分布

シャーマンのうち、忘我的な精神状態(トランス)の中で、魂が身体から抜けだして,神霊界を遍歴するのを脱魂型と呼び、その人の身体に別の神霊が憑依侵入するのを憑霊型と呼ぶ。
狩猟採集部族では脱魂型シャーマンであるのに対して、農耕部族では憑依型シャーマンに代わる。
「シャーマンとは何か17~狩猟採集社会の脱魂型シャーマンから農耕社会の憑依型シャーマンへ」

今回は、男シャーマンと女シャーマンという分類軸。

世界各地のシャーマン性別分布

シャーマン分布

【傾向1】北方系は、男性シャーマン
永久凍土地帯のサハ共和国をはじめ、シベリア地域は、ほぼ男性シャーマン。ネパールのマガル族やミャンマーのカチン族の居住地も、北方ではないが山間部。
気候条件が厳しく外圧が高い地域は、男性の持つ闘争能力への期待が大きいということだろう。

【傾向2】スンダランド系は、女性シャーマン
日本やインドネシアなど、島国や海岸沿いの地域は女性シャーマンが多い。
自然からの恵みが比較的豊かなこれらの国々では、女性の持つ同化能力への期待が大きいということか。
大らかな民族性も、ここから来ているのかもしれない。

【傾向3】民族移動の起点に、男性シャーマン女性シャーマンが混在
ロシアとモンゴルの境界あたり(バイカル湖周辺)の地域は、男性シャーマンと女性シャーマンが混在している。
地域的にそもそも混在していたのか、民族が入り乱れるうちに混生するようになったのか?

※参考図書『シャーマニズムの世界(ミハーイ・ホッパール著)』『東アジアのシャーマニズムと民俗(宮池準/鈴木正宗著)』等

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2019年01月15日

食事の準備から夜の世話まで、江戸時代には主婦が行う期間限定のレンタル妻があった!

江戸時代には性にまつわる女性の職業が多くあったようです。
中でも主婦がパート感覚で行う「わたぼうし」と呼ばれる期間限定のレンタル妻は、食事の準備や給仕、洗濯、夜のお世話をふくめ、身の回りの世話をするというユニークなものだったようです。

リンクより紹介します。

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江戸時代の娼婦も美女であればあるほど、人気が集まったのですが、「美」以外のセールスポイントで稼げた女性たちもたくさんおりました。地域での顔の広さ……つまり「主婦力」とか、「おばちゃん力」とでもいうべきコミュニケーション能力を売りにした娼婦もいたのですね。たとえば、それは京都の「わたぼうし」と呼ばれる女性たちで、仕事内容は期間限定のレンタル妻です。

都会には出稼ぎでやってくる商人などがいたのですが、「わたぼうし」は彼らから重宝されていました。もともと京都の色街のひとつである先斗町にあった綿帽子屋が、提供しはじめたサービスだったので、その手の期間限定妻の仕事を全般的に「わたぼうし」などと呼ばれるようになったとの説が、滝沢馬琴の『羇旅漫録(きりょまんろく)』には記されています。しかもこの京都・先斗町の「わたぼうし」にかぎらず、この手の主婦のおこなうパートジョブは、しばしば夫公認の仕事でした。

彼女たちは客の食事の準備や給仕、洗濯、夜のお世話をふくめ、身の回りの世話をします。さらには土地勘がない商人に、地元民としてアドバイスをしたり、三味線まで弾いて聞かせて気分転換に協力したりと、非常に頼りになる存在だったのです。

不思議な娼婦といえば、水辺でしか営業しないエリア限定の娼婦もいました。江戸では「船饅頭」などが一般的な名称です。彼女たちは岸に小舟を停泊させ、近寄ってくる男性に声をかけます。商談が成立すると、そのまま客を乗せ、彼女たちがオールを巧みにさばいて舟を漕ぎます。川の中程まで舟を進め、誰かからのぞかれたりすることもなく、プライヴァシー確保も万全な環境で、愛し合えるのですよ……というサービスでした。
……が、彼女たちには病気で(梅毒も含む)、足腰が立たなくなった女性たちも含まれた、とか。『寛天見聞記』という資料によると、値段は激安で32文程度でした。私見ですが、今なら1000円前後です。ちょっと豪華なトッピングのラーメン一杯分くらいの値段。

激安といえば、さらに最低ランクの娼婦がいました。「夜鷹」などと呼ばれ、商売道具はゴザ一枚、それをひっさげて厚化粧をし、白手ぬぐいで顔を隠し、夜闇に紛れて16文程度でも身体を売りました。16文というのは、当時、もっとも質素な外食メニューのひとつだった、かけそば一杯分(具や、トッピングはなし)でした。

『婦美車紫鹿子(ふみぐるまむらさきかのこ)』という資料には「(夜鷹の)玉代は二十四文であったが、五十文、百文を与へる者も多かったといふ」とあるので、うらびれた熟女が好きな男性に人気があったのではないでしょうか。ある意味で、フェチな人用ですね。江戸でいう「夜鷹」を、京都では「辻君(つじぎみ)」大坂では「惣嫁(そうか)」と呼びました。

小学館の「完訳日本の古典シリーズ」、『好色五人女・好色一代女』の巻末には「女職尽三十二種」という史料が添付されています。一見、江戸時代の女性の代表的な職業総覧といった趣です。しかし、実はこの大半が売色業で、表向きは販売員などでもチップ狙いの特別サービスとして売色もしているのでした。当時の喫茶店にあたる水茶屋にも通い詰めれば、ホールスタッフの少女に裏メニューが期待できる……という感じ。
江戸時代は遊女などではなくても、女性が社会に出て働くということのなかに、セックスするという条件が含まれがちだったということは、現代人には衝撃ですよね。

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2019年01月08日

シャーマンとは何か17~狩猟採集社会の脱魂型シャーマンから農耕社会の憑依型シャーマンへ

脱魂型シャーマンと憑依型シャーマンはどう違うのか?

忘我的な精神状態(トランス)の中で、魂が身体から抜けだして,神霊界を遍歴するのを脱魂型と呼び、その人の身体に別の神霊が憑依侵入するのを憑霊型と呼ぶ。
より根源的なのは脱魂型であり、超自然的存在と直接的に接触し、交流できるとのこと。これは自然との同化の究極の姿である。それが脱魂型シャーマンなのだろう。

脱魂型のシャーマン
シャーマンとは、自ら変性意識に入って聖なる源にコンタクトする者をいう。そして、この変性意識は、「脱魂型」と「憑依型」とにわけられる。

狩猟採集文化においては、体外離脱体験によって、自我への執着を瓦解させる「脱魂型」が中心である。脱魂型のシャーマニズムには、魂の解放そのものをもたらす深さがあり、北米で発達した脱魂型のシャーマニズムは、旧大陸でキリスト教や仏教が果たしていた世界観を与える役割も果たしていた。

脱魂型の変性意識に入る為には、聖なる植物を摂取したり、一定のリズムで太鼓を連打したり、自然の中で一人断食をする等、様々なやり方がある。太鼓の音の連打が変性意識をもたらすことは、日本の仏教での木魚を見ても明らかである。空也の踊躍念仏もシャーマン的な行為と言える。

「なぜ華北黄河流域で天の信仰が、華南長江流域で太陽の信仰が誕生したのか」
農耕民は食糧を生む大地を信じ、そこに神々の存在を感得するのにたいし、狩猟民や牧畜民は大地をはなれたところ=天に神の存在を信じる。

農耕民の信じる大地の多様な神々のなかでの最高神が農作物の豊凶を支配する太陽神であった。

狩猟民は獲物の獣を追う。その獲物は身体の内部に神の分身を宿している。狩猟民はその神をつねに追うことになる。幾世代にもわたって神を「追う」生活が脱魂型のシャーマンを誕生させた。彼らの多くは神の分身の獣を守護霊としている。

農耕民は大地をたがやして収穫を待つ。収穫物は農耕民にとっての神の分身である。幾世代にもわたって神を「待つ」生活をくりかえした農耕民のなかのえらばれたシャーマンが、自己の肉体を依代としてそこに神を待ちうける憑霊型を生みだした。

仮面も神をよりつかせる依代である。憑霊型のシャーマニズムの分布地帯と仮面の分布地帯がほとんどかさなるのはそのためである。

狩猟採集社会の脱魂型シャーマンから農業祭司社会の憑依型シャーマン
狩猟採集の部族社会では、シャーマンたちが「聖なるもの」と直接交流し、その豊穣な世界を話し言葉でコミュニティの構成員とわかちあうことで、誰もが密接なつながりを感じることができた。各個人が「聖なるもの」に直接的にコンタクトすることも認められていた。こうした狩猟採集民の社会におけるシャーマンの権力は、個人的な能力に依存していた。

戦闘集団の長である男性が部族長となる。戦争の果てに古代初期に王国が誕生すれば、その武装勢力を率いてきた部族長が王となっていく。こうして、元々は祭祀長が部族長であったのが、戦闘隊長が部族長へと昇格し、その下や横並びに祭祀長(シャーマン)が控えるという形に逆転した。すなわち、より社会の分業化が進むにつれ、政治を行なう首長、公的儀礼を司る祭司、占いや病気治療等の私的領域をサポートする憑霊型シャーマンへと役割が分化する。

アフリカ狩猟採集民のシャーマニズム
シャーマニズムの定義のもっとも重要な点は,「超自然的存在との直接接触または直接交流」にあるという。

彼らは,超自然的存在と感応する回路を開いている。さらに,夢に代表されるような潜在意識にまで想像力を広げている。感覚を鋭敏にし,意識的な呼吸をおこなうことで,身体と意識を拡張させる。彼らは,このようにして神と出会い,神と対決し,災難や不幸を乗り越えてきたのである。

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2019年01月04日

意外と知られていない吉原の実態 ~性欲を満たすために行く場所ではなかった!?~

吉原というと「お金を払って性欲を満たす場所」「遊女は“格下”」的なイメージがありますが、実態は私たちが思っているものとは大きく異なっていたようです。
リンクより紹介します。

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吉原とは非日常性がウリの「愛と性のテーマパーク」

吉原という街が江戸幕府の公認を得て、江戸に生まれたのは1617年のこと。徳川家康が幕府を江戸に置くまで、関東一円は小さな村が点々とあるだけの田舎でした。江戸を政治の中心地にふさわしい街にするため、街では土木工事がつねに行われつづけたのです。全国から職人男性に大量に流入したため、男女比率が7:3に近かった時代もあるのが江戸の街でした。しかし、相手の女性が見つからない「非モテ」男性のための場所として、吉原が出来たのではないのです。

実は、最初期の吉原はおそろしく格式が高かったのですね。庶民の男性など、お店に入れすらしません。吉原のシステムでは、お客は目当ての遊女と男女の仲になるためには最低3度は通わねばなりませんでした。しかも一度、指名したら別の遊女に鞍替えは御法度。現在のホストクラブと同じく、永久指名制なわけですよ。もし遊郭に「浮気」がばれたら、手ひどいお仕置きがまっていました。もちろん、お客に、です(笑)。 面会の一度目、2度目は本当に遊女の顔を見るだけです。しかも、遊女が上座。ほとんどしゃべりもしません。それでも正規のお花代を遊郭に支払わねばならなかったのですね。さらに、遊郭が用意した芸者や盛り上げ役の太鼓持ちとよばれる男性芸人などにもご祝儀という名のギャラを払わねばなりませんでした。

つまり、吉原とは性欲を満たすために行く場所ではなかったのです。

吉原とは、「恋」とはなにかを経験するために行く場所だったのですね。

吉原の遊女の話とは厳密には違うのですが「東の吉原、西の島原」とうたわれた、京都の島原の人気遊女・野秋(のあき)のすばらしさとその理由を、井原西鶴は次のように書いています。

ホントは不感症の遊女のほうが多かったともいわれていますね。当時は女性がセックスでエクスタシーに達すると即・妊娠すると考えられ、それは遊女にとって最大の恥だと考えられていたことも、不感症とは無縁ではないでしょう。

江戸初期は関西の文化水準は関東の比ではないくらいに高く、美女は関西に在り、とまでいわれていたのですが、吉原の遊女には、東北地方の貧しい農民の娘が売られてくることが多かったせいで、丸顔の女性が多かったとか。当時の丸顔というのは、硬い玄米や食物を幼児の頃から頬張っていたため、顎の筋肉が発達したイメージです。また、「~でありんす」などの、吉原の遊女言葉は、彼女たちの御国訛りを消すための工夫でした。 ちなみに江戸初期、吉原の遊女と「床入り(男女の仲になること)」するためにかかる経費は、現代の価値で安くて数百万円か、ヘタすればその倍ほどかかりました。要するに金も暇もあれば、女のワガママが好物だと言い張れるほど、オトナの男の器がタメされる場所が吉原だったのでございます!

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2018年12月29日

好戦的なチンパンジーと、平和的なボノボの違いはどこから生じたのか?

「ボノボ」という類人猿をご存じでしょうか。
チンパンジー属に分類され、アフリカ中央部の赤道付近に広がるコンゴ盆地に住んでいます。ボノボとチンパンジーは外見こそそっくりですが、まったく異なる性質をもっています。ボノボの特徴を一言で言えば「平和的」ということです。チンパンジーは発情したメスを巡ってオスが争います。オスによる子殺しや共食い、集団内での殺し合い、集団間の殺し合いがよく見られますが、ボノボにはそういう争いがほとんどありません。

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平和的なボノボ集団の特徴をまとめると、以下のようになります。
(1)メスがオスと同等以上の高い社会的地位についていること
(2)メスが対等というだけでなく、社会関係ではメスがイニシアティブを握っていること(一番強いメスの息子が第一位のボスになる)
(3)メスたちが非常にコンパクトな集団をつくること
これら3つの特徴はいずれもメスがらみです。なぜこのような社会が出来上がったのか?「るいネット」の記事から探ります。

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2018年12月29日

シャーマンとは何か16~脱魂型シャーマン(男性)と憑霊型シャーマン(女性)

同じシャーマンでも、脱魂型と憑霊型があり、脱魂型シャーマンは主に男性で、憑霊型シャーマンは主に女性らしい。

『宗教と宗教的職能者』より引用

シャーマンは、自分が超自然界に「行く」タイプの脱魂型シャーマン、または狭義のシャーマンと、超自然的存在が向こうから「来る」タイプの憑霊型(憑依型)シャーマン、または霊媒に分類される。脱魂型シャーマンだけを「シャーマン」と呼び、憑霊型シャーマンは「霊媒」と呼んでシャーマンには含めない場合もある。(→呪術・宗教的職能者の分類)

ところで、これらのさまざまなタイプの職能者や宗教的実践がひとつの社会の中に全種類存在しているということはない。

アメリカの人類学者M.ウィンケルマンは、全世界からランダムサンプリングされた47の民族の社会に存在する115の呪術・宗教的職能者を、その生理的・心理的・社会的特徴によってクラスター分析し、それらが、おおよそ、シャーマン、霊媒 、祭司、呪医の四種類に分類できることを明らかにした。
ここで霊媒というのは、日本のイタコやユタのような、神や霊を自分に憑依させることで占いや病気治療などを行なうタイプの職能者で、意識の状態を変容させ、超自然的存在と直接交流しているという点で、やはりシャーマンの一種であるともいえる。
いっぽうの祭司は、キリスト教の神父や神道の神主などのことで、神に祈ることはあっても、自分が神になったり、神の世界にまで飛んでいったりはしないという点で、シャーマンとは区別される。
最後の呪医は、呪術師ともいわれるカテゴリーの人たちで、シャーマンと祭司の中間的な性格をもっている。呪術を使って病気を治したり、時には敵を攻撃したりもするが、やはり深い変性意識状態に入ることはない。

ウィンケルマンの分析(表)によれば、47のサンプル社会のうち、宗教的な職能者が存在しない社会は中部アフリカのムブティ・ピグミーと、ボリビア・アマゾンのシリオノの二社会だけで、シリオノの社会にもじっさいにはシャーマン的な人物がいることを考えると、なんらかの形での宗教的な実践というのは人間社会にほとんど普遍的な現象だといえる。また霊媒も含めた広い意味でのシャーマンは全体の約三分の二の社会に存在し、さらに呪医の一部も含め、なんらかの形で変性意識状態に入る職能者は全体の9割にあたる43社会に存在するから、意識の状態を変容させ、超自然的世界とコンタクトする文化というのは人間社会にほとんど普遍的にみられる現象だといっていい。

全世界の呪術・宗教的職能者の分布を統計的に通文化比較したウィンケルマンの分析に戻ると、全体の8割の社会に脱魂型または憑霊型のシャーマンが存在したわけだが、さらに、脱魂型と憑霊型のシャーマンが同じ社会に共存することはほとんどない。だから、脱魂型のシャーマニズムと憑霊型のシャーマニズムは、同じ現象の異なる社会的表現だとみることができる。ウィンケルマンのサンプルにあらわれた17社会の憑霊型シャーマンはすべて南北アメリカ以外の農耕・牧畜社会に存在し、しかもほとんどの場合、祭司とセットで存在している。またウィンケルマンのサンプルをジェンダーと社会的地位の立場から分析した蛭川は、脱魂型シャーマンと祭司の多くが男性であるのに対し、憑霊型シャーマンの多くは女性であること(表)、祭司の社会的地位が高いのに対し憑霊型シャーマンの社会的地位が低いこと(表)を明らかにしている。

いままでの議論は以下のようにまとめることができる。

・シャーマニズムは、人間社会にほとんど普遍的な現象である

・人間社会の原型である狩猟・採集社会では、狭義のシャーマニズム(脱魂型シャーマニズム)が社会で中心的な役割を果たしている、

・アメリカ大陸以外の農耕・牧畜社会では、脱魂型シャーマン(男性)→祭司(男性・地位高)/憑霊型シャーマン(女性・地位低)という分化が進んできたと考えられる。

・アメリカ大陸の先住民社会ではこのような分化は起こらなかった
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