2007年07月05日
何で「夜這い婚」は衰退したの?①
このブログでもよくとりあげられている「夜這い婚」。共同体みんなが充足するための優れた婚姻システム であり、つい最近(昭和30年代頃)まで、残っていた村もあったほど それなのに、なぜ衰退してしまったのでしょう
すご~く疑問だったのですが、るいネットから、夜這いとその衰退について詳しい投稿を見つけました 😀 それを3回に分けてご紹介したいと思います
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それではさっそくご紹介します
短くまとめようかとも思ったのですが、もともとが赤松啓介の書籍からの引用でもあり、まとめることで本当に伝えたいことが伝わらないかも知れないなぁ と思ったので、元の投稿を、そのまま引用させていただきますね。
まずは、改めて「夜這い」とはどういうものだったかについての投稿です。
夜這いの解体と一夫一婦制の確立1
現代の結婚制度を客観視するために、現代の結婚制度の確立前の男女関係の様式である夜這い解体と一夫一婦制の確立について、触れておきます。
夜這いの解体と一夫一婦制の確立1~4は、「村落共同体と性的規範」赤松啓介 からの引用です(省略部分あり)。
明治政府などに対しては、厳しく書いてありました。
<江戸時代 性民俗は多重的>
夜這いというのは、ムラで一人前に育った男と女との性生活を、どうして維持したら最も矛盾が少なくできるだろうかという実践的方法論である。したがって、そのムラの創成の歴史、社会構造の基盤、住民の意識構造の違いによって、いろいろ変化するのが当然であった。厳密にいえば、一つとして同じものはないことになる。
すくなくとも、徳川後半の日本の全国のムラでは、夜這いは、ありきたりの、どこでもやっていた性民俗なのである。
だいたい夜這いは自村、ムラウチ限りが主体で、他のムラへ遠征するのは法度である。村内婚を主とした段階では、夜這いも一つの結婚形式というべきもので、排除されるような民俗ではない。私は夜這いが次第に固定されるようになったり、妊娠などの機会に同棲生活になったと思う。つまり結婚などという儀礼に固まったのは極めて新しい大正以後の習俗で、古くは夜這いの積み重ねによって自律的に夫婦と同棲関係に移ったのである。したがって徳川時代には三婚、五婚などという重婚も珍しくない。もとより三婚、五婚などというのは幕府の法意識による査定で、農民たちには無関係であった。要するに農民の男女の共同、共棲意識は極めて流動的なものであって、儒教的夫婦意識ではとても理解できなかったのである。彼、彼女たちの共同、共棲関係は、常に流動的、相互的であって、子供は母が養育したので、不特定多数の男たちの責任を追求する意識はなかった。そうした現実を直視しない限り、夜這いの実在を認識する方法も、手段もない。
もとの投稿はこちら リンク
「結婚(一対婚)」という観念が、後から押し付けられたものであることがよく分かります。夜這いといっても、好き勝手に交わるのではなく、ムラの状況に合わせた規範があり、夜這いは共同体を維持していくための、まさに「実践的方法論」だったんですね
ムラの実状に合わない制度を押し付けられただけなら、みんなが無視すれば関係ないじゃん とも思いますが、明治という時代に入ると、そうはいかなかったようです 😥
(つづきます )
- posted by mori-ma at : 2007年07月05日 | コメント (10件)| トラックバック (0)
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comments
確かに・・・・・・・・・・。
「恥ずかしくないのですか?」
問うても、
全く無邪気に
「何が??」
と問い返されると、問うた方の心に「邪心」があるという事実を、突き返されているみたい。
どちらが文化的に高貴なのか?
近代文明のボタンの掛け違いを、、示唆しているみたいですね。
>どちらが文化的に高貴なのか?
近代文明のボタンの掛け違いを、、示唆しているみたいですね。<
全く同感ですね。
後にお上が「混浴禁止令」というのを出したのも、外国からの圧力に屈したからのようですが、まるで今の日本と同じようで・・・・。
何時から日本人は性を隠すモノとするようになってしまったんですかね~。
現代の日本人は西洋人よりも性に対する嫌悪感は大きくなってしまっていますよね。例えばノーブラで歩いている女性は圧倒的に西洋人の方が多い・・・。
なんで日本人はこんなに極端に変わってしまったんでしょうか?
混浴は今もなお日本にたくさんあります。
最初はためらいましたが、おじさんやおばさんとの会話に花が咲いたのを思いだします。
まさに、裸の付き合いの原点となっているのが、この【混浴】という文化ではないでしょうか?
だから、今ものを残り続けている。いくら西洋の文化が浸透し、個人がどうのとか言っても必要なものは残り続けるものです。
面白い視点で、もっと調べたくなりますね。
江戸時代になり都市に銭湯ができたそうですが、銭湯も普通に混浴だったみたいですね。
江戸中期になって初めて、売春等ほかの目的に利用され始め、男湯、女湯に分けられたと聞いたことがあります。
以前、伊豆に仲間とバイクでツーリング行った時、海岸沿いに混浴の温泉がいっぱいあったのを思い出しました。その当時温泉ブームで若い男女が、結構いっぱい混浴していました。内心ドキドキしてしまいましたが、近代の文化に染まってしまってますね。(*/∇\*)
mrranさん、確かに現代は西洋の方が服装にしても、ヌーディストビーチ(?)にしても、今の日本人より平気で露出する部分はありますね。
ただ江戸時代の頃の日本における様子とは少々違いがあるようで、当時の日本では街中においても平然と上半身をあらわにして仕事をしていたようで、今の外国のそれとはちょっと違うのかもしれないですね。
河内のおやじさん、「裸の付き合い」の原点とはよく言ったものだと思います。そこには心も「裸」にしての付き合いがありましたね。
ダピリックさん、近年の温泉ブームの高まりは確かにありますね。
色眼鏡的な発想は置いて考えてみても、若い人達にも人気があるというのは、やはり心の底で、心も体も全てを脱ぎ捨ててみたいという欠乏は静かに高まっているのかもしれないですね。
西洋人もかつては混浴場があったんですよね。
ローマの「カラカラ浴場」の様子を描いたものには、大勢の男女の姿があります。
>後にお上が「混浴禁止令」というのを出した(koukeiさん)
西洋人は混浴でのトラブルを暗示しての圧力だったのでしょうかね?
共同体社会と人類婚姻史 | 日本人の「裸体と性」、江戸時代から幕末の西洋人の目にはどう映ったか?
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