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2007年10月03日

諸外国より進んでいた江戸の教育事情

江戸の暮らしを考察する上で、あまり話題に上ってこない「子ども」達の存在。
色々と調べていく上で密接に関わってくる「寺子屋」の存在があります。
皆さんご存じの通りですが、町ぐるみでその運営がされていた事に加え、その存在がもたらした日本の教育の水準(識字率)は、諸外国を抜きん出たものだった様です。
今日はその寺子屋をはじめ、江戸における教育事情を紹介してみたいと思います。
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まずは、江戸時代の「学校」について紹介します。
私が思っていたよりも、様々な教育機関があることに驚きました。
その機関とは身分によって4つに分けられていた様です。
以下引用抜粋です。

第一に、幕府の官立教育機関たる「昌平坂学問所(昌平黌)」。これは、江戸幕府が幕臣の子弟を教育するために設置した、儒学教育を中心とする幕府直轄学校・・・。
第二に、諸藩に設立された「藩学(藩校)」。18世紀以降、多くの藩において藩士子弟の教育のために設立され、朱子学を主とする儒学の講義や武術を授けるものが大半・・・。
第三に、「私塾」。武士・学者・町人によって開かれ、儒学や国学・洋学などが講義された。全国で一時期は約1500ヶ所・・・。
第四に、庶民の初等教育機関たる「寺子屋」(別名「手習所」)。村役人・神職・僧侶・裕福な町人などによって経営され、読み・書き・そろばんなどの日常生活に役立つ教育を行い、道徳を教えたとされる。江戸末期には全国で15,000以上も存在した・・・。

(「松下政経塾」http://www.mskj.or.jp/getsurei/yanaka0405.html より引用)
一~三はその教育目的を、おおよそ子弟育成のために設立されたものであることが良く分かります。一方四の「寺子屋」は?というと、

・・・『一部には慈善の動機によるものもあったが、大多数は経済的要請から発展した』ものであるとされる。すなわち、親が子に家業を継がせるため、それに必要な訓練を施さなければならなかったが、親は自らの家業に手一杯で、子の教育に十分な時間を割くことが困難であった。そこで、そのような訓練を職業的教師に委託するという形が生まれた。・・・

と経済的要請が主な背景とされていますが、興味深いのは「慈善の動機・・・」という背景も見られるという事です。
実際、寺子屋で先生をしていたのは、僧侶や医者、あるいは裕福な農民や村の役人などで、比較的金銭には不自由のない人達であったというのです。
また、その教師の得た収入は寸志程度(場合によっては米や野菜)であり、これはまさしく慈善の想いでしか運営できなかったのでは無いでしょうか。
この慈善の心は共同体社会である町人文化が基礎となり、周りからの感謝の念によって互いを支え合っていたのだと思います。

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