2008年02月23日
産婆さんの消えた日本
男と女の役割分担を極限にまで特化させることで生存してきた人類。
その中でも、女の人たちの「出産」は、長い間、命をかけたものでした。
そうした中、みなの期待を受けて産婆が登場します。
今回はお産の民族学を参照させていただきながら、「お産」に隠された市場原理の問題を考えてみたいと思います。
産婆というのは、赤ちゃんを取り上げる仕事と、祈りをする仕事のふたつがあった。お産は、あの世からこの世へ、魂が移行してくるとき。昔は、お産で命を落とす赤ちゃんや母親が今よりずっと多かったため、これを“もののけ(邪気のようなもの)”が命を奪いにくるためと、考えていた。そのために、“もののけ”に囚われないように、お祈りをしたのだ。
昔はこの“婆”という言葉には、尊敬の念が込められていたのではないかという説もある。先住民族などが俗に言う“長老”といった、目上の智恵のある人にたいする名称が“婆”だったというのだ。
現在は、助産師と呼ばれますが、「産婆」と「助産師」では求められる役割が決定的に異なってきているようです。
いったい、何が起こったのでしょうか?
日本は、第二次世界大戦に負けたおかげで、出産に関してアメリカの影響を戦後、もろに受けてきた歴史がある。戦後、GHQが入って憲法をつくったように、お産もまた、アメリカ方式を学ぶようにとされ、日本の伝統的産婆術は、戦後大きく変わってきた。
それまで、自宅で助産婦を呼んで出産してきた「日本のかつてのお産」は、一九六◯年に自宅と施設の割合が半々になり、その後、急激に医療施設へと移っていく。これはGHQによって「出産はすべて施設で行われるのが望ましい」というお達しが出されたのと、医学そのものが西洋、とくにアメリカの影響を大きく受けていたからだ。
西欧社会でも、ずっと古くはお産はみんな自宅で行われてきた。
西洋産科学の歴史は、男性医師たちがつくり上げた歴史である。
彼らがお産の部屋にまがまがしくも入るようになったのは、魔女狩りが終わりをつげたあたりからだ。
イギリスでは、十六世紀半ばに産婆の登録制度ができ、その百年後には男性助産夫と呼ばれる人々が裕福な層の難産の処置に当たるようになっていた。
“裕福な層”というのが、キーワードだ。ここで、出産介助にはっきりとした金が動いたのである。
中世ではヨーロッパ全土に魔女狩りが広まって、多くの産婆が拷問を受けたとはいえ、一般的には女性たちが出産を互いに援助していたのは変わりはなかった。
むしろ、それまで産室は、男子禁制だったのだ。産婆が登録制になっても、多くの産婆やヒーラーたちは、無許可でお産を介助していたにちがいない。
そこへ男性たちが登場したのは、「棺桶に片足をつっこむような行為」だったお産を少しでも科学的に援助したいというやさしい心づかいと、そこに経済的将来性を見い出したからなのだろう。
初めのうち、外科兼床屋(刃物をもって人を扱うという意味だろう)という肩書きで産室に入っていた男性助産夫は、産婆がお手上げ状態の難産に呼ばれ、外科としての事後処理班のような仕事をしていたが、そのうちもっと科学的、合理的にことを運べないものかと工夫をこらすようになる。
世の中、やはり熱心な人というのはいるものだ。
鳴り物入りで登場したのが、難産のときに使う道具である。
十七世紀後半に、ロンドンのチェンバレン一家が鉗子を考案したのだ。
字のごとくそれは、金属性のサラダサーバーのようなはさみである。
それを産道に入れて、胎児の頭をはさんで引き出した。
実際、この発明によってそれまで産道をどうしても出てこれなかった赤ちゃんは、助かるようになった。
一六六三年に、フランスでルイ十四世が愛人の出産に男性助産夫を呼んだ、という話が広まるや、しだいに貴族や金持ちの女性たちにとって男性助産夫を出産に呼ぶことがトレンドとなっていくのである。
十八世紀になると鉗子が広まって、それを使うために、いよいよ女性は仰向けの姿勢を強いられるようになる。
それまで伝統的に使われていた分娩椅子は姿を消し、「そんな古くさい椅子より、ベッドのほうがいいじゃないですか」とかなんとか言われて、女たちもついその気になってしまったのだ。
しかし、当時はまだ、ヨーロッパでも全体の一~一・五%の女性が出産で命を落としていた時代だから、鉗子という利器をもった男性は、裕福な女性たちには福音としてもてはやされていたのだろう。
十八世紀も終わりに近ずくと、男性助産夫たちはいよいよ解剖学や分娩の専門知識で理論武装して、助産婦たちからその職を奪いとろうとやっきになっていった。
「だれが、出産をとり仕切るのか?」
有史以前から、お産は女性たちの園だったのに、そこへ男性が踏み込んできたのだ。
彼らは医療機具を独占し 、医学知識やら、社会的地位などで、助産婦たちを圧倒しようとした。
これは、実に政治的な戦略だったのだ。
その後、お産の歴史は、男性による産科学の歴史に塗変えられていく。
一八四八年、アメリカではアメリカ医学協会が設立され、医師たちは全国的に組織されて、医学の専門職としてその地位を固めていった。
そんな時代に、画期的な発明が訪れる。一八四七年、イギリスでクロロホルムとエーテルが産科に使われたのである。
このふたつは麻酔剤として、その後長年に渡って使われていく。
助産婦たちは医学的知識がないということで、麻酔や器械を使うことを禁じられ、きらびやかに発展する産科学の世界から、だんだんと陰が薄くなってしまうのだ。
おもしろいことに、クロロホルムの導入にあたっては、いわく話がついてくる。麻酔剤の使用に抵抗したのは女性より、むしろ男性の医師だったというのだ。
「聖書では、イブの原罪によって女性は産みの苦しみから逃れられないとあるのに、そんな産痛を科学の力でとってしまっていいものでありましょうか?」
一方、もっと科学的に麻酔剤に対して危惧を抱いていた医師も存在した。
「自然な出産に薬を使う理由などありえない。効果は疑わしく、その作用はしばしば有害であります」
この百五十年ほど前に語られた意見は、今もそのまま使える。
いわく、女性が痛みに無感覚になり、陣痛が有効に働かない状態では鉗子やその他の医療処置を施す可能性が増え、女性のからだが傷つきやすくなるのだ。
しかし、そんな声とは裏腹に麻酔は人気のまととなっていく。
その理由は当の女性たちが望んだからという意見もあり、また、薬を使うと医師が儲かったという可能性もあるし、騒ぐ女性を相手にするより、男性の医師も扱いやすくて便利だったということも十分考えられる。
たぶん彼らは、金持ちの女性相手の、フェミニストの仮面をかぶった商魂たくましい科学者だったのだろう。
この当時、地域の病院での出産はだれの目から見ても、安全ではなかった。自宅出産より母子の死亡率が高かったのである。
病院では、たくさんの女性が産褥熱で死んでいた。医師や医学生たちの手から病原菌が感染したのだ。
だから、病院での出産はむしろ貧乏人のためのものと考えられていた。
驚くべき発明は次々続く。こんどは消毒液の登場だ。
そのおかげで医療者たちは、一八七◯年代にやっと、消毒液で手を洗うことが感染の予防に有効であることを知ったのだ。
消毒液と麻酔の発見は、帝王切開を可能にした。これは産科に外科的な技術を盛りこんだこととして、超画期的なことだった。
難産のとき、胎児はだめでも、とにかく母親の命だけでも助けようとやっきになっていた医師たちに、母親、胎児ともに救うことができる道を開けてくれたのである。
さあ、だんだん男性の医師たちは勢いづいてくる。ドイツでは、新しい麻酔剤、モルヒネとスコポラミンが導入され、イギリスでは陣痛促進剤の前進、子宮刺激剤が使われだす。
しかし、そうは言っても、どこの国でも田舎では助産婦たちが、相変わらず自宅で出産を介助していた。
難産のときには、医師が呼ばれ、鉗子はもちろん帝王切開も自宅で行っていたが、少なからず失敗していた。
一九二◯~三◯年代になると、病院と自宅の感染の危険性はほぼ同じと言われるようになり、いよいよドイツで「帝王切開ができるように、産婦は病院で出産することが望ましい」というお達しが出る。
アメリカでは、この頃から都市部では病院出産が一般化して、ルチーン処置がどんどん導入されるようになっていた。
医師たちからは、すでに「麻酔を使わないと商売、上がったりだ」という発言も登場。
産科医学は女性のからだを、パーツが合わさった機械も同然とみなしていた。
そこには、子宮、腸、胃、おっぱいという部品がただあるだけで、血は流れてはいるが、感情や心は存在することすら無視されていたのだ。
病院はあたかも車の生産工場ならぬ、赤ちゃん生産工場のようになっていった。
とき、あたかも大量生産、大量消費が始まっていたアメリカは、経済成長の真っただ中。
ちょうどチャップリンの『モダン・タイムス』の頃だから、「人間もロボットのように生産され、未来的でいいかも」とけっこう喜んでいた人もいたのかもしれない。
女性たちは、産後の感染の危険性も少なくなって、お産で死ぬという最悪の事態からはまぬがれるようになった。さらに産痛からも解放されていた。だからこそ、男性医師たちは、それが一番いい方法であることを疑いもしなかったし、女性たちもまた、科学的な出産は死と陣痛の恐怖をとり去ってくれるという神話に浸ってしまったのだ。
そして、一九五◯年頃までには、病院が唯一の出産の場であるかのように、人々は信じこまされていった。女性たちは病院で産科医によって管理され、自分のからだより医学を信じるようになってしまったのである。それによって、さらに自分のからだへの自信を失い、女性のもっていた互いに援助したり分けあうといった本来の知恵も失われてしまった。
騙しと甘言で、その気にさせ、最終的には「病院が唯一の出産の場」と信じ込ませる。
まさに、市場の拡大過程そのままではないでしょうか?
女の人たちが病院での出産に感じる潜在的な不安は、ここに原因があるような気がします。
みなの期待を受けた産婆さんの祈りにつつまれての出産と、感情や心のともなわない出産。
その後の生育過程に与える影響は、決して軽いものではないと思います。
- posted by naoto at : 2008年02月23日 | コメント (5件)| トラックバック (0)
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comments
確かに霊長類は父系が多いのかもしれませんが、未開民族はもっと異なる様々な婚姻形態ととっており、母系も多い気がします。
どうも、初期人類の婚姻形態については、霊長類の事例から短絡せず、文化人類学的アプローチも加味した上で仮説を出す必要があるような気がします。
しかし、グローバリズムによって先住民族の生活がことごとく破壊されてしまった現在、フィールドワーク研究そのものが危機に瀕しているわけで、かなり難しいアプローチになりそうですが…
霊長類学者たちの捉え方は、チンパンジーやゴリラが父系的な集団であるから、きっと初期人類も父系にちがいない、というもののようです。これだけでは、初期人類が父系であった根拠になりません。
集団が父系または母系にるにのは、置かれた外圧状況に適応するためです。ではチンパンジーやゴリラが父系となった外圧状況は?一方、初期人類の置かれた外圧状況は?それがチンパンジーやゴリラと同じなのか?など、それぞれ置かれた外圧状況を解明し、その外圧にどのように適応したのかを追求することが必要だと思います。
前提となる「初期人類をとりまく外圧状況下」なるものが、何の根拠も無い妄想に等しいものですから議論する価値も有りません。
ボノボやチンパンジーの系統と分岐して間もない頃の人類の祖先は今より遥かにボノボやチンパンジーに近い存在だったでしょう。
現に父系社会のボノボやチンパンジーの系統が生き残っているのですから人類の祖先が父系だったとして、それが生き残れないと考える理由などどこにもないでしょう。
moncler outlet lombardia 共同体社会と人類婚姻史 | 初期人類をとりまく外圧状況下で、父系的な家族は成立しないのでは?
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