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2008年02月25日

桃の節句にはどんな意味があるのか

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(晃月人形HP「桃の節句は五節句のひとつ」より)
もうすぐ3月になりますね。3月3日には、女の子のいるご家庭ではお雛さまを飾って雛祭りをしますね。 😀 今日は雛祭り桃の節句についてその由来を調べてみました。
桃の節句は端午の節句などと並んで5節句のひとつです。
もともとこれらは季節の変わり目で、奇数の重なる日(=奇数(陽)が重なると陰になるとしてそれを避けるための避邪の行事を行った)を取り出して、季節の旬の植物から生命力を貰い邪気を払う目的の為だったようです。つまりは女の子の為の祭りでも、男の子為の祭りでもなかったわけです。それがなぜ、3月3日は女の子の為の祭りになったのでしょうか。
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■上巳の節句→桃の節句→雛祭りとなった~

古代中国には、三月の初めの巳の日(上巳・じょうし)を悪日として、川辺に出て不浄を除くため水で祓(はらい)を行うという風習がありました。
上巳の日を忌むべき日とされた始まりは、 漢の時代のエピソ-ドからとされています。
その時代の「徐肇」という人に女の三つ子が生まれましたが、三日後に三人とも死亡してしまいました。。人々はこれはきっと何かのたたりだと、水浴をして忌み汚れを流し禊(みそぎ)をおこないました。この日がちょうど初の巳の日であったのだそうです。
これが上巳の祓(はらい)の行事が生まれた始まりと言われています。
日本にも古来より、人形(ひとがた)に不浄を託して川や海に流して、災厄を祓うという風習がありましたので、この二つが合体して「上巳の節句」となりました。
桃の節供と呼ばれるのは、その季節のものというのも理由のひとつでしょうが、桃には邪気を払うという魔除けの信仰があったからだそうです。

晃月人形HP「桃の節句は五節句のひとつ」より)
~もともとの意味には、水で身を清め不浄を除くのが目的だったようですね。これがやがて日本では自分の穢れを人形に移し、身代わりに川に流す風習に変って行ったようです。。
■”雛祭り”への変化は貴族の人形をかざる遊びの風習から

奈良~平安時代に日本の貴族階級に取り入れられたのが、日本での桃の節供のスタート。
ところがどうしたことか、河での禊ぎはあまり一般化しなかったようで、この日に形代(かたしろ・人形)で体をなで、これに穢れを移して川や海へ流すと言う日本独特の行事が生まれた。今でもこの「流し雛」の行事が残る地域が有ります。(中略)
その一方で公家の子女が「雛遊び」として人形や小型の調度品を並べて遊ぶままごとがあり、この両者が融合して「雛人形」への道を歩むことになりました。雛人形を河に流すことなく家に飾ることが主となったのは室町時代頃といわれます。

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(以下、写真とも「こよみのページ」より)
この頃より、もともとの意味合いからその行為を人形に託し、かつその人形を川に流さず飾る(奉る)様になっていますね。
■日本の農村に伝わる磯遊びの風習

さて、貴族階級に属していなかっただろう我が先祖にも桃の節句の習慣が浸透し始めたのは江戸時代。一般庶民(ことに農民)にとっては桃の節供を過ぎると秋の収穫期まで続く農作業の季節。楽しみの少ないこの時代、これから始まる辛い労働に備えて十分に休養をとり、また楽しく遊ぶという意味で「磯遊び」や「浜下り」という磯や砂浜で潮干狩りのような遊びをしたといわれます。おそらく「浜で遊ぶ」ということは、元々の「水に入って禊ぎする」という本来の行事が姿を変えたものだと思われます。

一般庶民の間では、農繁期前の禊の意味で、この時期に身を清める風習があったようです。この風習と貴族における雛祭りが一体になって行ったのでしょうか。
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■桃の花は女性の象徴

さて最後になってしまいましたが、桃の節供の「桃」については旧暦当時の三月を代表する花であるということ、桃は「女性」を思い起こさせる花であると言うことから女の子の節供には「桃の花」となったのでしょう。桃の花が女性を象徴すると言う考え方は中国の影響か。周の時代に成立したといわれる詩経に王が佳い嫁を探す歌が有りますが、その中に既に「桃の花のような女性」と謡われています。こういった古典に親しんでいた平安貴族にとって女性の節供の花は桜でも梅でもなく「桃」だったのでしょうね。

以上見ていただいたように、そもそも魔よけの儀式的な意味合いだったものが、その行為を人形に託したことと、魔よけの効用があるといわれてる桃の花には女性の象徴としてのイメージがあることから、いつしか女の子の成長を祝うお祭り行事へと意味が変ってきました。
しかし古来の人々は何かにつけ自然の力を借りて自分たちの災いを避けようと工夫していたのですね。

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comments

「祭りは女性が主人公だった」だったんですね。
巫女が、神の接待係(嫁)だということや、神に同化(神がのり移って)して神の代弁者となると言う文化からしても、女が主人公と言うのは、良く分かります。
でも、何故男が取り上げてしまったのかが気になります。やはり、政治に利用したからですかね。

  • 猪飼野
  • 2008年5月22日 22:57

猪飼野さん、こんにちは。コメントありがとうございます。女性を神様への「人身御供」にするという風習も、そののち天皇への嫁入りや、来客者への一夜妻というカタチで実生活にもとり入れられていったようですが、いずれにしてもそういう風習がなくなっていったのは政治(?)とか、何かの意図的な社会観念によって換えられていったのでしょうね。

  • saah
  • 2008年5月26日 10:33

女が男に入れ替わる理由は、まず儒教の導入であるといあわれている。ゆえにその始まりは武家が台頭した中世以降の流れであると私は言いたかったのです。
「民族学伝承ひろいあげ辞典」運営者

  • かわ
  • 2008年8月22日 21:49

かわ様、当ブログの管理人、岡と申します。
引用させていただいた上、貴重な意見をありがとうございました。記事作成者に代わりお礼申し上げます。
巫女の役を男が演じるようになったのは、儒教の影響とのこと、ありそうだと思いました。
このようなことは全国的にそうだったのかどうか、ご存知でしたらお教えください。
ところで儒教は、6世紀百済からもたらされたのが最初で、次に鎌倉時代の終わり(14世紀はじめ)に朱子学(当時は宋学とよばれた)が伝えられ、室町~戦国~江戸期につながると思います。従って鎌倉~室町の頃ということになりますね。
もう一つ別の視点ですが、出雲大社の巫女出身といわれた出雲阿国を起源とする女歌舞伎が、風俗を乱すという理由で江戸幕府によって1629年に禁止されますが、その影響は考えられないでしょうか。
素人の思いつきでした。
貴ブログにもコメントさせていただきました。
ありがとうございました。

  • 管理人
  • 2008年8月29日 22:34

いつも博識に敬服しております。拙文投書にご返信感謝申し上げます。さらに拙文をお取り上げいただいたことに感謝いたしております。
儒教の導入は6世紀でしたが、本格的な庶民への浸透は、やはり武家の台頭が大きいと感じますのは、貴族とは違って、武士は民とともにいたからではなかろうかと感じます。影響力が違うだろうなと思うのです。
江戸期の出雲の阿国というご指摘は慧眼だと思います。私も江戸期は特に「動物供犠」から辟崇代用品のバラエティに富み始めるのが顕著だと感じます。安定政権の徳川幕府の儒教への傾倒は、形骸的ではあってもやはり否定できませんね。
貴重なご意見を感謝いたします。
よければこれからも親しくお越し下さいませ。

丁寧なご返事ありがとうございます。
当時は貴族階級から武士階級への権力交代の時期なので、母系的なものを残存させていた貴族文化から父系的な文化への転換と見るのが正解だと賛同します。力を背景にねじ伏せたのでしょうね。時期も室町以後で徳川幕府で完成だと思います。
貴ブログも拝見させていただき、日本人の起源など興味深く読ませていただきました。これからも参考にさせていただきます。
重ね重ね、ありがとうございました。

  • 2008年8月31日 20:44

共同体社会と人類婚姻史 | 人身御供としての女性を捧げた『一時上臈』

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