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2008年08月21日

首都圏は「弥生系」7割 日本人ルーツの研究に新手法、ミトコンドリアDNAから構成比

母親から子供に受け継がれるミトコンドリアDNAの型の分布から、「縄文系」「弥生系」の構成比を求める計算式を住斉筑波大名誉教授が考案した。2008年08月04日 産経新聞ニュースより紹介します。
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母親から子供にそのまま受け継がれる遺伝子「ミトコンドリア(mt)DNA」の型の分布から、母方のルーツが「縄文系」の人と「弥生(渡来)系」の人の構成比を求める計算式を、住斉(すみ・ひとし)・筑波大名誉教授(生物物理学)が考案した。7地域、約3000人を対象にしたデータによると、首都圏では弥生系が約7割と多数派で、東北や南九州など縄文社会が発達した地域では縄文系が7~6割と多かった。11月の日本人類学会大会で発表する。日本人の成り立ちを探る新たな方法として注目されそうだ。
「日本人」は、大陸から北部九州を窓口に渡来した弥生人が、先住縄文人の子孫と混血しながら全国に拡散、形成されたと考えられている。顔つきなど遺伝的特徴の地域差は、拡散や混血の度合いの違いによるとされ、その解明は人類学の大きなテーマだ。
各地域集団の計算結果は表の通り。日本人の平均的集団と考えられる首都圏の弥生人の比率(71%)で、別の調査の歯の形態から割り出された現代関東人での弥生系の比率(75%)とほぼ同じだった。
逆に、縄文系の比率が高かったのが東北や南九州で、三内丸山(青森県)や上野原(鹿児島県)などの大規模遺跡に象徴される縄文社会の発達を改めて裏付けた。のちの時代、大和王権(朝廷)に抵抗した東北と南九州も縄文的な容姿や文化を色濃く持っていたとされているが、今回の調査でその遺伝子が現代まで濃厚に残っていることが裏付けられた。現代人にも縄文系の特徴が色濃く残るとされる沖縄は、遺伝子解析でも縄文系の割合が最高だった。
縄文系が約半数だった北九州は、弥生人流入の中心地の一つだけに意外な数字だが、母方のルーツでみた数字であり、「渡来した弥生人は男性中心で、先住の縄文人女性との間に子孫を残した」と考える説と矛盾しない。
mtDNAによる日本人のルーツ研究では、現代人に加えて縄文、弥生人骨からの抽出・分析も行われているが、双方に共通する型が多く、縄文系と弥生系の構成比は不明だった。
計算式は、mtDNAの型のうち、縄文系と弥生系それぞれが独自に持つとみられる2つの型に着目、構成比を求める。「弥生系集団は全国で均質」など未検証の前提がつくが、住名誉教授は「遺伝子による日本人のルーツ研究の成果は複雑で、分かりやすく提示する仮説として考えた。都市部を除けば、住民の移動もまだ少なく、データはかなり正確だ。学会などで検証してもらい、計算式の精度を上げたい」としている。
中橋孝博・九州大大学院教授(人類学)の話「縄文人や弥生人の骨から抽出したmtDNAはデータが少なく、地域的な偏りもあって確実なことは言いにくい。ただ計算された構成比の全体的傾向は、さまざまな研究で知られるところと矛盾はしていない。今後データが増えれば、計算式についての議論も進むだろう」
◆ミトコンドリアDNA 父親から息子にのみ伝わる男系のY染色体DNAとともに、人類や民族集団の起源探究の有力なツール。現生人類の母方のルーツをアフリカの1人の女性(ミトコンドリア・イブ)と導き出し、人類「アフリカ単一起源説」の支持を高めた。日本人全体の祖先は2人の女性だが、人類の拡散途中に各地で生まれた多様な型を持っていること、南方説が有力だった縄文人のルーツは弥生人同様、大陸方面が優勢と考えられることなどを明らかにしている。
―――――――――――(以上、記事より)――――――――――――
宝来聰氏の研究でも、弥生時代以降に渡来人によってもたらされたミトコンドリアDNAの割合は65%とされており(倭国と日本国の関係史 日本人誕生の意味より)、日本人の形成に、渡来人が重要な役割を果たしたことは確かなようです。
どの程度の渡来人がやってくれば、現代のような割合になるのか、今後追求したいと思います。

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「日本婚姻史5 妻問婚~大和時代~」
http://bbs.jinruisi.net/blog/2007/05/000177.html
も読ませて頂きました。
仲間と話をしている中で、「妻問婚は、氏族共同体に照応して群婚と併存しながら成長してきた個別婚的婚姻制~(中略)~夫婦関係はいわば恋愛関係である。」
というところが引っ掛かりました。
当時の先住民(縄文人)の意識に同化して、どうやって集団意識(集団婚)から私有意識(個別婚)へと移行していったのかがイメージ出来なかったのです。
そこで、仮説として立てたのが、
『大陸の戦乱(同類闘争)を受けて日本に逃げる(=渡来人)→敗戦したゆえ侵略の危機感は常に残存(不安・警戒心)→同類圧力に対応すべく稲作によって先住民(縄文人)を統一→租税制をつくり国を統一(婚姻制の制定)』
という流れです。
その後、るいネットで調べてみると、同様の内容の投稿がありました。
それを読んでみて、さらに納得した次第です。
>この時代を背景にして戦難を逃れてたどり着いた先が北九州だったのです。春秋時代の移民と戦国時代の移民では同類圧力の掛かり方や戦争圧力からの避難の度合いは大きく異なるのではないでしょうか?縄文晩期から弥生時代が前期が比較的緩やかな、言わば移民の融合という形だったのに対して、わずか200年(弥生中期には)で大規模な環濠集落へ移行した背景には中国の戦争圧力の急激な高まりが影響しています。
>移民達はいずれ追ってくる秦国の圧力に対応すべく、国つくり(=私権統合)を急いだのかもしれません。弥生ー古墳ー大和時代はまさに中国の侵略圧力に対応するために国家統一が進んだある意味日本が国家を超えて同類圧力に触れた最初の時代だったのではないでしょうか。
侵略圧力に対して国家としての統合の必要に迫られ、私権性をどんどん高めていく統合様式はその後の日本での戦国時代、明治維新、昭和の大戦と歴史はその都度繰り返されてきたのではないかと思います。
http://www.kodai-bunmei.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=90830

  • mine
  • 2008年12月3日 15:54

mineさん、コメントありがとうございます。
“何故群婚が崩壊し個別婚である妻問婚に移行したのか”は難問で、これだけで一つの記事にしたいくらいです。mineさんのコメントも是非記事にしてください。
同様な解釈ですが、
妻問婚は弥生人=江南人が持ち込んだので、彼らの背景を押さえる必要を感じます。北鮮の高句麗も妻問婚です。
両者で共通するのは、遊牧民発の掠奪闘争に晒されており、母系制から父系制への移行期にあることと、部族単独では太刀打ちできないので連合(→さらには国家統合)を組む必要があったこと。ここから力の強い者から率先して、あちこちに妻問い→連合に組み込む、に至ったように思われます。
ただこれだけでは片手落ちで、「いわば恋愛関係である」については、好き嫌いの感情や性幻想の発現を暗示しているので、女側からの適応がどうであったかも追求する必要がありそうです。継続しましょう。

  • 2008年12月4日 20:32

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