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2008年09月02日

藤原道長の結婚~前婿取婚の事例~

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以前、2007年06月19日の岡さんのシリーズ記事で「日本婚姻史7 前婿取婚~飛鳥奈良平安(初)~」があります。

今日は、その具体的な事例として、ブログ「壺齋閑話」さんの記事を引用させていただきます。
同ブログ内「古代人の結婚式:婿取り婚の儀式」より。

ここに平安時代中期の婚礼の一例として、藤原道真(道長)と源雅信女倫子との結婚を取り上げてみよう。

道長は言うまでもなく藤原氏の栄華を極めた人物である。しかし若い頃は摂関家の子ではあっても三男(五男)であり、まだ将来が定まっていたわけではない。道長は倫子の父雅信に取り入ってようやく承諾を得ると結婚に向けての準備を始めた。

まず夜半に婿行列を組んで女方の家に赴き、そこで初夜を過ごす。翌朝自分の家に戻ると女に対して「後朝使」(きぬぎぬのつかひ)といわれるラブレターを送る。これを三日三晩繰り返した後、妻方の家から婿に対して「三日夜餅」というものが振舞われる。

これで結婚の証が立ったということになり、いよいよ婚礼の儀が行われる。婚礼を主催するのは女方であり、道真(道長)の親はそこには出ていない。伝統的にあった、女が男を迎えるという構造がここにも貫徹されているのである。

婚礼がすむと、道真(道長)は源雅信の屋敷に同居する。妻方居住婚である。やがて倫子は子を生むが、その子は父親たる藤原の姓を名乗る。このように妻方に婿入りしても、子が父の姓を名乗る風習は古くから根強く伝わるものだったらしい。

この婚礼について源雅信は、はじめひどく迷惑がっていたらしい。それといのも、女方が何から何まで負担するというやり方を苦々しく思ったからだともいわれている。当時はようやく家の制度が確立し、家長たる男を中心にしたあり方が支配的となりつつあった時代なので、男の親が表面に出ず、女方ですべてを仕切るやり方が、時代遅れに感じられたのだろう。

藤原道真と源雅信女倫子との婚礼の形式は、古い母系社会的なあり方と、新しい男性中心の家のあり方との、接点に起こった過渡的現象だったのだろう。やがて結婚は女を男の家に迎え入れる嫁取り婚へと変化していくのである。


※( )は、私が追記したものです。「藤原道真」という人物は、一般には存在しないと思われます。また、道長の妻が源倫子といわれていることから、藤原道長の誤りと判断しました。


岡さんは、飛鳥奈良平安(初)の婚姻様式として「前婿取婚」を出されていますが、壺齋閑話さんの記事によると、平安中期の藤原道長も前婿取婚だったようですね。「トコロアラハシ=三日餅」をやり取りしている点や、生まれた子供が父方の姓を名乗る点で共通しています。
また、「律令法が父系を貫徹した中国家族法を母法としたのに対して、実態は未熟な過渡的父系制の段階にあったので、両者は衝突した。」とされている点も、壺齋閑話さんの記事のニュアンスから感じるところです。
ただし、道長が妻方(倫子)の父に承諾を得ている点は、後の「純婿取婚」っぽい(父:雅信が求婚したかどうかは不明)。・・・・・・混在していたということでしょうか。

岡さんは、「三日餅のムコトリ儀式は、奈良ごろに農民の間から生まれ、それが平安貴族によって豪華な虚飾的なものとなったろうことが考えられる。」仰ってます。

貴族の頂点だった藤原道長が「三日餅のムコトリ儀式」を行っていることから、「平安貴族によって豪華な虚飾的なものとなったろうことが考えられる。」という点が補強されたのではないでしょうか。

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この事例は藤原道長(966~1028年)の話でよいですが、藤原道真(845~903年)も実在し学問の神様として有名な人です。
また、飛鳥奈良平安(初)の「前婿取婚」の事例とするより、時代どおり平安(中)の「純婿取婚」
http://bbs.jinruisi.net/blog/2007/07/000213.html
とする方がいいと思います。
「前」の風習を残していますが、「純」の一番大きな特徴は、史上初めて父親が出てくる点で、家父長婚へとつながる最先端の変化が重要かなと思います。

  • 2008年09月04日 23:52
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