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2010年03月08日

日本婚姻史1~その5:弥生時代前期の婚姻制度【持ち込まれた私婚制】

日本の交叉婚の特殊性において、縄文人は、総偶婚という婚姻様式により、男・女の性的欠乏を解消し、集団内・外の争いの基となる自我を完全に封印してきた様子を見てきました。
総偶婚の本質とは、ひとことで言えば、どのような相手であれ仲間として受け入れる「肯定性」にあるといえるのではないでしょうか。
一方、現在の一対を前提とした婚姻制(私有婚)は、窮屈なだけでなく排他的な色彩を附帯しています。
今回は、この婚姻様式の変化が、どのようにしてもたらされたのかを明らかにしたいと思います。
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  日本における私権時代への移行
 群婚の崩壊
 苗(ミャオ)族って?    《参照》
   【中国春秋・戦国時代の戦乱を逃れて江南人が渡来した。
    この渡来人=弥生人が、水稲稲作と私有意識→戦闘と妻問婚を持ち込んだ。

日本における私権時代への移行は、渡来人の価値観と制度がターニングポイントとなっていることが既に明らかになっている。この移行期における変化の推移を具体的に抑えていきたいと思う。学界では弥生時代を作ったのは北方民族であるという説が有力なようだが、実際は2段階であった可能性が高い。
まず2300年前後に日本に稲作を持ち込んだ部族は江南人と考えられる。
江南人とは中国の長江の下流及びその南部にいた人々を指す(当時の呉・越)。そして弥生時代を領導したのは彼らではないかと考えられる。当時の大陸(中国)は、群雄割拠の時代である。
2500年前に中国は斉・普・楚・呉・越の五国に分かれ相争っていた。
その後2400年前には楚が長江全域を制覇していく。
つまり当時既に呉越両国は押され気味であった可能性が高く、散発的に落ち武者が難を逃れて移住していた可能性が高い。
つまり最も早ければ2500年前から既に江南人は(少数)九州その他に漂着していた可能性がある。そして稲作の伝播ルートから考えて、南朝鮮を経由した可能性が高い。
更にその後2400年前に制圧された(滅亡した)江南人は新天地を求め、次々と日本に漂着したのではないか?(この漂着は最大2100年前まで約400年に亘った可能性がある)彼らはそれぞれ日本に少数の集団として定住する(一部は縄文集落に受け入れか?)。

彼らは戦乱の最中にあった部族である。かつ水稲農耕の技術と鉄器を持ち、租税制(階級支配)を既に経験している。当初は彼らは少数で、縄文人に対しての戦闘は行わなかったと考えられる。それどころか部分的には縄文集落に受け入れてもらい高い技術力をもって、世代を経て指導的立場に立ったことも考えられる。それは縄文人の受容れ体質から考えて充分にあり得る。加えて縄文末期は寒冷化の過程にあり、ピーク時に比して西日本では人口は1/4に激減。つまり食糧確保や生産力増強の必要があったのである。

紀元前2、3世紀の頃に移入された水田農耕の普及は、社会関係を複雑にし、孤立した氏族集落体から部族連合体への道がひらけはじめた。前2世紀の「漢書」には「楽浪海中有倭人、分為百余国」などとあり、部族(氏族の集まったもの)が百あまり、まだ部族連合も結成されずにばらばらに散在していた。3世紀ごろになると邪馬台国が出現し、30余国の部族連合がみられると「魏志」にいう。
このような段階でもなおクナド婚は威力を発揮し、部族連合の一つの動力となったが、その方式に特記すべき変革がおこった。

それは神前集団婚から神前婚約がはじまり、それによって男が女の部落へ通う妻問形態の個別婚を生み出したことであった。
1)神前婚約については、「常陸風土記」の筑波山の条に、「俗言にいう。筑波の峯の会に、ツマドヒノモノを得ざれば、児女とせず」とあり、これは筑波山のカガヒに、婚約の贈り物がもらえないような女は、女として値打ちがないという意味。
2)「武烈伝」には、影姫という女がツバイチの市場の歌垣で求婚して欲しいと男に言っている記事があるが、歌垣での婚約を正式としたことが分かろう。なお、この影姫の場合、求婚の男が二人いたので、闘歌によって解決したことがみえている。求婚者間の闘歌は当の女と会衆との面前で勝敗が決せられるが、それが同時に神の裁きの意味にもなったであろう。
3)遠江国榛原郡川根村とその国境の駿河国志太郡伊久身村では、毎年旧正月7日から8日の朝にかけて、若い男女が入会山にのぼってヒヨドリ踊りという歌垣式乱舞をするが、そのとき好きな相手があれば婚約が成立し、神聖な婚約とされて尊重された。両部落にとってはいわば神前婚約クラブであった。

   
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     歌垣って何?と思われた方のために補足しておきます。
     【歌垣】

男女が集会し相互に掛合歌をうたうことによって求愛し,あるいは恋愛遊戯をする習俗で,年中行事あるいは儀礼として行われることが多い。
分布は古代日本のほかに,現代では中国南部からインドシナ半島北部の諸民族において濃密であり,フィリピンやインドネシアにも類似の掛合歌が行われている。
中国貴州省南東部のミヤオ族の場合では,歌垣はミヤオ語で遊方といい漢語では揺馬郎という。 村には遊方を催す場所が,村はずれの山の背に決められており,2月2日の敬橋節のような祭日や農閑期に行われる。毎晩8時か9時ごろから,夜中の1時か2時ごろまでつづく。女は15~16歳,男は16~17歳になると参加できる。60~70組の恋人が集まり,互いに向かい合って手をつなぎ,軽やかに裏声で恋歌を対唱し,愛情を伝え合い,他の組の邪魔はしない。
ベトナム北部のバクニン省の農村では,旧暦3月5日から12日までの村の鎮守の祭りには,毎晩集会所での儀式が終わったあとで,若い人たちは村の門のそばの繁みの下で掛合歌をやった。対になって歌い,その内容は愛をテーマとしていた。それから恋人たちは隠れたところに行って交わったが,その際,少女の同意なしに連れて行くことはできなかった。こうして親密になった二人は,祭日後,結婚することができた。
このような歌垣は,元来は集団的な成年式だったと考えられている。歌垣で婚約し,その後,多くの場合は収穫後に結婚式を挙げるというのが古い形式であったろう。この歌垣を催す民族には焼畑耕作をやっているものと,水稲耕作を営むものとの両方が含まれているが,おそらく元来は山地の焼畑耕作文化の要素であったろう。
中国南部では,歌垣の習俗とほぼ重なって,結婚しても夫妻は別居し,しばらく一方が他方のところに通い,子どもが生まれてから同居する不落家の習俗が分布し,日本の妻問い婚を思わせる。

どうやら、日本の「妻問婚」の原形は、「歌垣」であると考えて良さそうです。
それでは、いよいよ、今回の記事で強調しておきたいポイントをあげたいと思います。

ここで、何よりも重要なことは、彼らが持ち込んだ最大のものは稲作などではなく、「私権意識と私権制度」であることである。あるいは母系制で縄文人がまだしも受容れやすい、妻問い婚という婚姻制度であるとはいえ、私婚制度を持ち込んだことである。そのようにして西日本では(とりわけ九州地方)私権化した弥生人が勢力を増大させ本格的侵攻を開始する。その結果各地に部族国家が乱立する。(おそらくその過程では残存する縄文部族は山間等僻地に後退したのだろう。)そのような時代が弥生時代(前期)なのではないだろうか?
その後弥生時代後記(1800~1700年前)に北方民族が本格的に襲来することで、広域の国家成立(大和)への道を辿っていたのではないか。

このように、妻問形態の個別婚が新しい時代の正式の婚姻制として表面化してきますが、大衆的には「夜這い」にみられる群婚原理も根強く持続していくことになります。
弥生時代前期の婚姻制は、縄文時代の婚姻制との融合的な色彩が強く、まだ排他性は薄いようですが、これを下敷きとして、後期には、北方民族のもたらした婚姻制を受け入れていくことになります。この北方民族のもたらした婚姻制が、現代の父系一対婚に繋がる本流ではないでしょうか?
次回は、そこを明らかにするために、弥生時代後期の婚姻制をみていきたいと思います。

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大島は「素人」のくせに一流の「歌手」「女優」みたいな態度だし

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