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2010年06月06日

日本婚姻史2~その8:赤松啓介と言う人

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今まで「夜這い婚」の成立から「オコモリ(夜這い)」という行事、そして「夜這いの解体・・・」と見てきました。
このような日本人の庶民文化、特に『性』に関する書物は赤松啓介以外では殆んど
見受けられません。
今回はその『赤松啓介』にスポットを当て、どういう人だったのかを調べてみました。
その前にブログランキングUPにご協力ください。
           

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           (赤松啓介)                 (柳田邦夫
     …画像をお借りしたサイトはお名前をクリックしてください。
赤松啓介について分かりやすい投稿がるいネットにありますので紹介します。
(ちょっと長くなりますが・・・)
赤松啓介 とはどんな人だったのか (1)(2)です。

るいネットでは非常に有名人の赤松啓介。彼は、果たしてどんな人だったのか。ブログ「おもひつき かはつるみ(*´Д`)」リンク様より引用させていただきます。
_______________________________
【赤松啓介(『AERA』 1989.7.11 現代の肖像)より】
1909年、兵庫県加西郡(現加西市)に生まれた。生家は酒造業を営んでいたが、後に没落。母子家庭で小学校高等科を卒業。神戸、大阪で証券会社給仕を振り出しに、果物屋や廉売市場の丁稚小僧、露店や香具師仲間の下働き、超零細工場工員などを転々とした。
高等科を出て、どうせ中学ヘ行けないならと神戸市の大倉山図書館で歴史物や立川文庫の『真田十勇士』などを読み、好きな勉強で気ままにやろうと思ったという。
17歳ごろ肺尖カタルにかかり郷土で静養することになった。おとなしく寝ていたのは1カ月ほど。そのうち自転車で近辺を走り回るようになった。古墳や廃寺址などを調べ、民俗習慣、方言、昔話の採集も始めている。父母がかつて小学校の教師をしていたので知り合いが多く、どこでも親切に教えてくれ、人を紹介してくれた。
●弾圧の対象となるが非転向貫く
3年ほどにわたるこの時の調査を赤松は「第1次調査」という。3歳ぐらい若く見られた。これは大変に得なことだったと後にわかる。大人相手には口をつぐんでしまう人たちが気を許して<れたからである。
この教訓からか、子供集団の民俗を調べる時には、絶対にムラの有力者とかモノ知りとか小学校の校長などにたずねてはならない、というのが赤松の心構えだった。
整理されたきれいごとしか聞き出せないし、そういう「権威」を通じて子供に接しても、子供の心を開かせることができないのは、今も同じだ。
ではどうするか。子供が集まって遊んでいる場所で、開き出すことだ。赤松が差し出すグリコのおまけは人気があって、子供たちはすぐ打ち解けたものだ。
香具師稼業も、資料を集める絶好の場だった。まず香具師が観察の対象として面白かった。神戸の新開地や大阪の天満などで、棒にくくりつけた石くれを、地面にいわくありげに立てて口上をのべるだけで大勢の見物人を2時間もくぎづけにした仲間がいたという。切り傷の薬を売るのだが、大変な技量だと驚いた。
22歳で大阪中央郵便局吏員に採用される。日本逓信労組大阪支部委員長など労働運動に入るとともに日本戦闘的無神論者同盟員として反宗教闘争に。共産党入党。
このころ一方で、大阪府と奈良県の境にある生駒山麓で民間信仰の調査をする。労働運動、唯物論研究、反宗教闘争、日本共産党入党などの一面と民間信仰調査の同居するところが赤松らしい。
行者、オコモリなど、当局が「淫詞邪教(いんしじやきょう)」として摘発するものが主な対象になった。「聞き取り」などという生易しい調査で実態がつかめるものではない。信者にまじり、性と一体化した信仰を体験し、祈祷師の代理までやって調べたものだ。栗山一夫の本名で書いた『民俗学の基礎的諸問題に就いて』は、仲間2人とつくった「ハリマ(播磨)・フォークロア・グループ」で日本の民俗学について討論するための叩き台だった。時代は1936年の2・26事件前後である。議論は結局、「柳田国男をどうとらえるか」だった。
柳田も播磨の神崎郡出身で、赤松の郷里の加西郡とは隣り合う。赤松にとっていわば郷土の大先達だったが親近感は持てなかった。柳田は民衆を平民、常民と言ったが、本当に民衆を愛していたか。
赤松は言う。
「柳田は『郷土生活研究採集手帖』をつくって山村調査の1O0カ条を掲げた。その中に、調査対象に出稼ぎはあるが、小作、地主がない。そういう分類さえしていない。柳田は農政官僚の経験があるから、農村の階級制を知っているはずなのに避けている。柳田民俗学派には、"左翼くずれ"もいて、連中だって当然わかっているのに、黙っている」。『手帖』にいう尊敬される村人となるために日ごろどんな教養を積んだかを調べ、「日本人のみが持つ美質」を明らかにしても、地主による小作米の過酷な取り立ては変わらない、というのだ。
『民俗学の基礎的諸問題に就いて』は、柳田民俗学を批判した初めてのものとされている。これを土台にして『民俗学』が1938年5月に三笠書房の1冊として誕生した。
柳田民俗学を「プチブル民俗学」として批判し、マルクス主義民俗学の立場を鮮明にした名著--と、研究者の問には伝承されていたが、今度の復亥まで、読んだ人はまれだったはず、と福田アジオは「解説」に書く。
赤松の思想と行動は当然、弾圧の対象になった。1933年、郵便局勤めの時期の組合活動で大阪の警察に検挙されたのを手始めに、唯物論研究会の会員として39年に、神戸の警察に逮捕され、非転向を貫いて戦争末期にようやく釈放されている。
ブタ箱も、赤松にとっては民俗採集の場になった。三食付きで作業もしないで座っているのだから、1日中ムダ話をするほかない。いろんな犯罪でほうり込まれた連中相手だが、シャバのインテリどもよりよほど信用してよい、という感想をもった。
体験した各種の拷問も詳細に記録した。牢名主を頂点とする人間関係、大小の犯罪の実態、そして男色。男が「女」に変えられてゆくさまを、赤松は恐怖感をこめて描写している。
赤松民俗学についてはこれまでの3冊の刊行で、その実相をうかがえるようになった。さらに『戦国乱世の民俗誌』『非常民の生活領域』『天皇帝|起源神話の研究(復刻)』が秋までには出る予定だ。
多くの民俗が急速に失われた結果、戦後の民俗学の衰退は目を覆うばかりである。
例えば、「水口祭(みなくちまつり)」というものが各地にあった。田植え前に苗代で行う神事である。だが、ご存じの減反政策に加えて、稲作農家でさえ、自分の所で苗代をつくらなくなった。四角にかためられた苗を供給されて、田植え機で植える時代だ。神事の成り立ちようがない。
赤松の試みた民俗学は、古い民俗とその解体過程を見つめ、変革への糸口をつかもうとする志に支えられていた。
敗戦による上からの農村共同体の解体、高度経済成長と軌を一にする離村・出稼ぎ、過疎化。昔のような民俗学は、もう不可能になっている。
それだけにストーリー・テラーとしての赤松とその著作は、若い人たちをますます引きつけてやまないだろう。
~中略~
シンポジウムから神戸に戻った赤松は早速、Γ山家(やまが)の猿、花のお江戸のお芝居」の手記を認めた。「大学教育が古い学問的な権威で売れた時代は終わった。どう宣伝し演出し商品として売るかという時代になった。私をかついだ連中も商品価値ありと見たのだろうが、まだ読みが浅い」
「アンチ柳田に若い人たちはすぐ跳びついて都市民俗学なんて言いよるが、柳田の深さを知っとるんかいな」--柳田を"永遠に輝ける星"と見、なればこそ天皇制護持と結びついた柳田を同じ土俵の上で批判するために、地を這って民俗収集をしたという自負が、赤松にはある。
「われわれ年寄りをダシにせんでも、反乱起こすなら現代の情勢を見て自分たちでやらんかいな」笑顔でこんなきついことを言う。
_______________________________
赤松は、共産主義者といわれますが、非常民の現実に切り込む視点・追求力・同化力は単なる反のイデオロギーに支えられたものではないでしょう。あくまで事実に基づくところからしか変えていけない、という確信を感じます。

また、赤松啓介と言う投稿でも

赤松啓介という人は相当な人ですね。とても今の学者には無い現実を対象化した人物だと感じます。日本人の庶民文化、特に性に関しては彼の業績以上の物がほとんど見受けられない感じです。日本の歴史における庶民文化の重要性を理解する人が増えて、もっといろんな事実が出てくることを大いに期待したいところです。
幾つかの投稿はほとんどが赤松啓介の本がベースになっていると思いますので、私も読んでみたいと思っています。ネットの中にも、赤松啓介に共感(おどろきといった方が近いかも)し、日本人の性に関してパラダイム転換を図るきっかけになっているようですので、紹介しておきます。
以下、裏・日本の歴史リンクから引用。
著者・赤松啓介は昭和10年代に反戦活動と郷土研究をやっていたという曲者。
特高の目を逃れるために行商人となって各村落をまわりフィールド・ワークを行ったワイルド・ガイでございます。彼の目を通した村人たちの姿は非常に生々しく瑞々しい。
(省略)
著者の実体験も交えた微にいり細にわたる描写は都合により割愛させていただきますわ。
こういう事実が歴史の闇に葬られた背景には、明治維新以降の国の政策があります。
もともと神道には性器崇拝の色が濃いらしいのですが(みうらじゅんの好きな「とんまつり」とか、各地の秘宝館の収蔵物件になごりが)、対外政策としてそういうのは「なかったこと」にされたという。この辺は他の本で読んだんですが。
(省略)
著者は「柳田國男が悪い」と名指しで批判。「姫路出身の彼は夜這いの風習を見て育ったはずなのに、官僚だったためにそれらを一切無視した」とのこと。日本一有名な民俗学者の思想の影響が今日まで続いてるというのですね。教科書どおりの純潔教育が、一律に根付いていたかのように錯覚させられていると。

と書かれている。
明治以降の日本は富国強兵と殖産興業にあけくれ、それまで豊かだった村落社会は急激に崩壊し、貧富の差は拡大。敗戦による上からの農村共同体の解体、高度経済成長と軌を一にする離村・出稼ぎ、過疎化。
このような庶民生活の実態を調査し、留めようとしているのが「赤松啓介の民俗学」なのであろう。
>「聞き取り」などという生易しい調査で実態がつかめるものではない。
>信者にまじり性と一体化した信仰を体験し祈祷師の代理までやって調べたものだ。
と言っているように 事実を発掘する為、その地の人になり切り当事者として書き留めている。
このエネルギーはどこから湧いてくるのだろうか?
長くなってしまいました。この続きは次回、ということでお楽しみに。

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