2017年09月14日
現実社会を知らずして、教育をする資格はない
>大学の生き残る道は、とことん現実課題を追求する実学の場(生産機関への転換)しかない
(少子化による大学経営危機に「大学=最高学府」は答を出せるのか?)
先日、インターンの学生が話していたことが印象的だった。
「大学は研究ばかりで、現実と全く繋がっていないから面白くない、、、
今(インターン生活)は色んな経験が出来るから、大学より全然楽しい、、、」
どうも、学ぶことが目的化してしまい、何のために学ぶのかの命題が全く抜け落ちている。
これでは、研究者の自己満足を学生に無理強いしていることに他ならない。
多かれ少なかれ、これが大学教育の実態なのだろう。
大学教員という特権身分が「選民意識」生み、現実とかけ離れた研究こそが学問なのだと正当化する。
そもそも現実社会を知らずに教員をしていること、教員になれること自体が問題であろう。
2014年の文科省の有識者会議でも、「日本の大学の大半を職業訓練校にするべきだ」という意見が出ている。
産業界からすれば真っ当な意見であろう。
インターネット上で炎上した「G型・L型大学」の議論についてご存じだろうか。
発端は文部科学省が2014年10月に開いた有識者会議。
委員を務める経営共創基盤の冨山和彦CEOが、「日本の大学の大半を職業訓練校にするべきだ」と提言したのだ。
提言では大学をG(グローバル)型とL(ローカル)型に二分。
G型はごく一部のトップ大学・学部に限定し、グローバルに通用する極めて高度な人材輩出を目的とする。
そのほか大多数の大学・学部は、地域経済の生産性向上に資する職業訓練を行う――としている。
アカデミズム一辺倒で事実上、偏差値でしか差別化できていない日本の大学に、新たに「実学」というラインを作るべきだという主張だ。
当然ながら、大学教員からは激しい反発があった。
一方で、「社会に出て役立つ実学の方が求められている」という肯定意見も少なくない。今なぜ実学なのか。
・反論の中で一番多かったのは、「教員に実学を教えさせるのは、アカデミズムに対する冒涜だ」という大学教員の意見。
でも逆にこの意見こそが、実学の世界で生きていく市井の人たちに対する冒涜。
・そもそもの問題は、日本の大学教育が平均的な学歴で社会に出て行く大多数の人たちにとって役に立たないという現実。
中小企業で働く人の現実と、大学が教える内容はまったく合っていない。
・教養・教育は大学の独占物ではない
大学の授業そのものが、ネット上で無償で公開されている時代。
一般教養は大学に閉じ込めるのではなく、むしろ万人に開かれるべきです。
・教員が知識の独占者でいたいのでしょう。コアにあるのは、大学教員のものすごい選民意識。
大学人は職業訓練なんか二流、三流のものだと思っている。
- posted by TOKIO at : 2017年09月14日 | コメント (1件)| トラックバック (0)
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>インターネット上で炎上した「G型・L型大学」の議論についてご存じだろうか。> 発端は文部科学省が2014年10月に開いた有識者会議。> 委員を務める経営共創基盤の冨山和彦CEOが、「日本の大学の大半を職業訓練校にするべきだ」と提言したのだ。
専門学校のことですね。戦前は、医師も専門学校で作っていましたね。
>提言では大学をG(グローバル)型とL(ローカル)型に二分。>G型はごく一部のトップ大学・学部に限定し、グローバルに通用する極めて高度な人材輩出を目的とする。>そのほか大多数の大学・学部は、地域経済の生産性向上に資する職業訓練を行う――としている。
グローバルに通用する極めて高度な人材の輩出は我が国では無理でしょうね。地方経済の生産性向上に資する職業訓練の方は、可能性がありますね。
>アカデミズム一辺倒で事実上、偏差値でしか差別化できていない日本の大学に、新たに「実学」というラインを作るべきだという主張だ。> 当然ながら、大学教員からは激しい反発があった。> 一方で、「社会に出て役立つ実学の方が求められている」という肯定意見も少なくない。>今なぜ実学なのか。
我が国は、技術立国ですからね。実学 (技術) の方には、当然関心が集まりますね。
教養教育の方は、無哲学・能天気の国民である我々には実質的な価値が有りませんから、批判があって当然ですね。大学で4年間遊んでいながら、施設が存続するのですから問題ですね。
大学存続の原因は、人間の序列化の道具立てとなっているからです。偏差値を使った人間の差別化に日本人がこだわっているからです。無意味な教育費を費やす隠れた意味がここに存在します。
この隠れた意味が国内にだけ通用するものなので、日本の大学はグローバルにはなりません。
現実の世界は、ただ一つです。見ることのできる世界です。実学の成り立つ世界です。
非現実の世界は、三つあります。過去・現在・未来の三世界です。その内容は、個人個人で違っています。それらの内容は時制 (tense) のある文章となって表現されます。だが、これらは見ることのできない世界です。個性的です。
非現実に関する考えの体系は、哲学になります。英文法には時制がありますが、日本語文法にはありません。だから、日本人は、無哲学・能天気です。哲学は、英米人には誰もが口にする言葉ですが、日本人には難解で敬遠されがちです。日本語で、教養教育をやっても無駄なのです。にもかかわらず、我々は序列メンタリティに押されてこの制度を支えている。この点が問題です。
>・反論の中で一番多かったのは、「教員に実学を教えさせるのは、アカデミズムに対する冒涜だ」という大学教員の意見。
‘冒涜’ とは、’下とみられた’ ということですね。我が民族の強迫観念にとらわれてはいけませんね。実学 (技術) と哲学を分けて教えると良いですね。我が国には、人手不足はあっても、頭脳不足の話はない。
>でも逆にこの意見こそが、実学の世界で生きていく市井の人たちに対する冒涜。
実学と哲学に関して、‘上とみるか、下とみるか’ の判断に囚われないほうが良いですね。両者は学習の目的が違いますからね。哲学を勉強してから実学を学べば、高度な職業人を育てることが可能になります。アメリカの大学院は、このやり方をとっています。つまり、学士を大学院に入学させて、実学を教えます。
>・そもそもの問題は、日本の大学教育が平均的な学歴で社会に出て行く大多数の人たちにとって役に立たないという現実。
我が国のような無哲学・能天気な社会においては、日本の大学教育の学歴は役に立たないでしょうね。そもそも、哲学に社会的な要求が無い。英米の大学に留学しても日本語脳の持ち主には挫折の可能性が大でしょうね。
> 中小企業で働く人の現実と、大学が教える内容はまったく合っていない。
大学は、実学を教えるところではないですからね。技術に特化した学校が必要です。
>・教養・教育は大学の独占物ではない
それはそうですね。教養 (哲学) はどこで学んでも良いですね。我々は ‘考える人’ にならなくてはなりません。それぞれの個人にそれぞれの哲学が必要です。
>大学の授業そのものが、ネット上で無償で公開されている時代。>一般教養は大学に閉じ込めるのではなく、むしろ万人に開かれるべきです。
一般教養もネット上で無償公開するとよいですね。でも、英米流の教養 (哲学) には社会的要求が我が国に無いところが問題ですね。
>・教員が知識の独占者でいたいのでしょう。コアにあるのは、大学教員のものすごい選民意識。
‘上とみるか、下とみるか’ の判断ですね。日本語には、階称 (言葉遣い) というのがあって、この使い方を習得しないと日本語も自由に話せません。
日本人の礼儀作法も序列作法になっていて、世俗の上下を知らないと、礼儀正しい日本人にはなれません。それで、’人を見損なってはいけない’ ということになります。序列なきところに、礼儀なし。
かくして、序列判断は日本人の脳裏において強迫観念の域に達しています。大学の設立にもこのような目的が置かれているために、我が国の大学の教育成果は国際水準に達することが出来ません。
> 大学人は職業訓練なんか二流、三流のものだと思っている。
職業には貴賤はないが、個人の生活態度には貴賤がありますね。だから、人間には教養が必要であるということになります。
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