2008年02月21日
中世ヨーロッパの農村:支配権力による「作られた共同体」~農業システム「三圃制」と農村運営「共同体規制」について~
(フランドルの暦6月)
東洋と西洋。
今回は、前回(中世ヨーロッパの支配形態~「古典荘園制」と「裁判領主制」について)に引き続き、中世ヨーロッパの農村に迫ってみたいと思います。
☆中世ヨーロッパの村落共同体とは?
「共同体というよりも領主との契約関係が重視される中での共同体の在り様がどのようなものだったのか?(前回疑問)」
そして、「裁判領主制という支配体制の下で、農村(農民)はどの様にまとまっていた(統合されていた)のか?」
について、探っていきたいと思います。
↓いつものをヨロシクお願いします。
まず、中世ヨーロッパの(裁判領主制の下での)農業システム
(以下、「旅研」より引用。)
●三圃制度 さんぽせいど
中世ヨーロッパの農村における開放耕地において行われていた家畜の放牧と農業とを組み合わせた耕作制度。
【耕地の経営】
村落の耕地を,その所領関係を無視して三つの耕圃に分け,一つの耕圃を11月に小麦などを播種する冬蒔地,もう一つの耕圃を3月に大麦,オート麦や豆類などを播種する春蒔地とし,残ったもう一つの耕圃は土地生産力を回復させるために休閑地とする。一つの耕圃だけについていえば,冬(秋)蒔地,春蒔地,休閑地の順を繰り返し,村落共同体として耕作経営した。
それぞれの耕圃は耕区に分かれ,耕区はさらに,1エーカー程度の領主直営地地条や農民保有地地条に分かれており,領主直営地地条と農民保有地地条は耕圃・耕区のなかでたがいに混淆,分散して存在していた。
そして休閑地となっている耕圃,および冬(秋)蒔地,春蒔地の耕圃についても,8月に収穫された後,次に播種されるまでの休耕中の耕圃は,すべて村落共同体の共同の放牧地とし,農民がそれぞれの土地保有量に応じて家畜を放牧し,休閑中,休耕中の耕圃は放牧される家畜によって施肥され,土地生産力を回復するように配慮されていた。
休閑中はもちろんのこと,冬(秋)蒔地から春蒔地に移るあいだにも8月の収穫以後,翌年3月の播種時まで約半年間の休耕期間があり,休閑地となる場合は,8月の収穫から1年以上を経過した翌年の11月に,冬(秋)蒔穀物の播種がなされるまで約15~16カ月間の休閑期間があり,休耕・休閑期間の方が栽培されている期間よりも長く,家畜の放牧に重点の置かれている耕作法であったことが注目される。
したがって休耕・休閑中の耕圃は共同の放牧地として用益されるために,各自が保有する地条には囲い込みがなされず,家畜が自由に移動できる小さな畦で区別されているだけであったので,景観としては日本の農村と同様に囲い込みや塀がなく,開放耕地と呼ばれていた。
「三圃制(三圃式)」とは、ヨーロッパの雨が少なく地味に乏しい土地条件に適応するために考え出された農業システムのようです。ポイントは、3年に1年は土地を休ませ放牧を行う牧畜とセットのローテーション農業であること、農地・放牧地の村落での共有化が始まったという点でしょう。
では、「三圃制」において、村落はどの様に運営されていたのでしょうか?
【共同体規制】
三圃制耕作法以前は二圃制耕作法が行われており,村落共同体の耕地を二つの耕圃に分けて,一つを穀物播種地として冬(秋)蒔地と春蒔地にわけ,もう一つの耕圃を体閑地としていたが,西ヨーロッパでは7,8世紀から11,12世紀にかけて,3圃制耕作法が普及するようになり,毎年の穀物播種面積が2分の1から3分の2に増大して当時の農業生産の発展に寄与することとなった。
しかしいずれの耕作法にしても,それを運営してゆくためには,耕圃の交互の休閑・家畜の共同放牧,さらに数頭の牛や馬に曳かせる犂隊の編成と,それによる犂耕などに共同作業が多く,一定の村落共同体規制が必要であり,村落共同体を構成する農民たちは,所領関係を越えた村落共同体としての規制に拘束されており,自由で独立的な保有地経営は許されなかった。
(以上、「旅研」より引用。)
自分の土地だけを耕す場合と違って、村(集団)の土地を農民(構成員)みんなで耕すためには自分勝手は許されない。農民の共同作業により成り立つ農業システムであるため、共同作業を滞りなく遂行するための集団規範(規制)が必要だった。それが「共同体規制」というルールだったのでしょう。
それは農民たち自らが作り上げたルールではなく、領主から決められ与えられたルールだったようです。
そして、このルールを犯すものは、領主裁判によって罰せられました。(「領主裁判権」参照。)
また、この共同体規制の一つとして、「割り替え(換地)」という一寸変わった(興味深い?)システムもあったようです。
「割り替え」はたいてい次のような順序で行われた。まずはムラ全体の圃場の範囲を決め、そこで何を作るか決定する。
夏穀用の土地・冬穀用の土地・休閑地を分け、そこに何を作付けするかを決める。前述したとおり、農地で何を作るかは農家が勝手に決められない。というのもそういうことをすると、土地がすぐに地力を失い荒廃するからである。
だから強制的に何を作るかを村で決めた。これを「耕作強制」という。
そしてある区域で夏穀に春小麦を作ると決めたなら、今度はその土地を細長く短冊形に切り土地を分割した。
土地を細長く分割するのは「犁(スキ)」を使いやすくするためで、だいたい半日或いは一日で犁がかけられるような長さに土地の縦の長さを調整した。冬穀用の土地も休閑地も同じように分割し、そうして農民の数だけ土地を用意した。
そうしてこのような短冊形に区切った土地に順位をつけ、良い土地と悪い土地をバンドルした。
つまり肥沃な土地から一番・二番・三番、、と言った風に番号を振り、一番いい土地と一番悪い土地、二番目にいい土地と二番目に悪い土地というふうに、結果として収穫が均一になりそうな組み合わせを作り、それを「くじ引き」で各農家に割り当てた。
お陰で農家は南の二番の土地、北の五番の土地、西の七番の土地、東の十三番の土地と言ったように、全然別々の土地を「所有」し、その全てを耕さねばならなくなった。
土地がずっとその農家のモノならば、農地を一つにまとめてその真ん中に住めば農作業も楽であるはずなのに、なぜかそんな不合理な割り替えを行い、バラバラの土地を耕していた。
家畜も割り振られた土地で飼わねばならないから、牛や羊を放牧しに連れていって帰ってくるだけで一日仕事になったりした。
(以上、「ボクが大学で学んだ農業のこと、環境のこと(「割り替え」という不思議なならわし)」より引用。)
「割り替え(換地)」。何と手の込んだシステムなのかと感じます。こんなにも苦肉の策(?)を講じないと村はまとまらなかったのでしょうか?
バラバラの個人(農家)を強制的にまとめる「力による統合システム」。当時の農村とは、まさに権力(力の序列原理)によって統合された集団(現代に例えるならば私権企業体のような集団)だったことが伺えます。
☆つまり、中世ヨーロッパの村落共同体とは、支配権力による「作られた共同体」だった!と言えるようです。
このように徹底した権力支配の現実の中では、自ら現実を変えていこうという(日本の惣村の自治のような)意識は生じ得なかったのではないかと推測されます。
また、変えられない現実(現実否定)に対する代償充足として、宗教(キリスト教)が一役買っていたのではないかとも考えられます。
この辺りについても今後探っていきたいと思います。 🙂
(読んでくれてありがとう。)
- posted by echo at : 2008年02月21日 | コメント (4件)| トラックバック (0)
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comments
>共同体や「家」の解体とともに、「自分の生きた証し」や「自分の生きてきた意味」の基盤も失い、現在は一人一人が個人として、生と死の意味や「いのち」とは何かといことを考えざるを得ない状況に追い込まれているといえるのかも知れません。
若者の自殺(未遂)の理由として、
「自分なんかいてもいなくても変わらない」とか、「生まれ変わってやり直す」という話を聞いた事があります。
これらは、いづれも自己中的な意識や行動とも言えますが、仰る様に、生活の基盤を失ったがために、狂った行動を抑制する要素が何も無くなったと言えますね。
mineさん、こんにちは。
>これらは、いづれも自己中的な意識や行動とも言えますが、仰る様に、生活の基盤を失ったがために、狂った行動を抑制する要素が何も無くなったと言えますね。
そうですね。注目投稿の『人類の本性は共同性にある②』にあるように、「自我を全面封鎖した共同体の中で人類の本性=共同性は育まれてきた」のですから、
今、改めて共同性とはなにか?共同体社会とは何か?を考えていくことが必要なのでしょうね。
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