2008年04月08日
南インド ドラヴィド人:ナーヤルの母系社会~南インドの巨石文化
『インド南西部ドラヴィド人:ナーヤルの母系社会~ドラヴィド人とは?』から時間がたってしまいましたが続きをお送りします。いよいよドラヴィド人:ナーヤルの母系社会の紹介・・・に行く前に、ちょっと寄り道して、南インドの先史時代を見てみます。
南インドの歴史はまだ不明な点が多いのですが、文献などの歴史資料以前の南インドを知るための手がかりとなるのが<巨石文化>です。今回も「ナーヤルの母系社会」自体は登場しませんが、ドラヴィダ人の置かれた外圧状況を見ていきたいと思います。
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●南インドの<巨石文化>
南インド<巨石文化>は、現在の南インドの範囲のみならず、北はデカン高原北部のマハーラーシュトラ州ナーグプル周辺から、南は半島先端近くまで、さらには、スリランカ北部・中部にまで広がっています。年代的には、紀元前1000年頃に始まり、紀元後1世紀まで続いたと考えられています。
<南インドの巨石文化遺跡分布図>クリックで拡大します。
この文化の顕著な特徴の一つが、巨大な石材を用いて建造された埋葬関連の構築物です。
【ドルメン】地表面上に建てられた石室構造で、特に山岳部に多く見られる。
【シスト(箱式石棺状墓)】板石を組み合わせて、地下、または半地下式に石室構造を構築する。舷窓(ポートホール)と呼ばれる開口部が、側石の一枚に開けられたものがあることが特徴的である。舷窓は、ヨーロッパや、コーカサス地方、中近東の巨石文化にも見られる特徴であり、注目される。
【土壙墓】埋葬主体には巨石は用いられないが、ストーンサークル(環状列石)、天井石、積み石などの形で石材が付加される。
【甕棺墓】埋葬用の甕形・壷形土器を用いる。環状列石などを伴うことが多い。
【陶棺墓】バスタブ形の胴体に足のついた土製の棺。直葬の場合や、石室墓に納められる場合などがある。
【メンヒル】単独のものは、埋葬とは直接関係しないが、環状列石の一部などとして、埋葬施設に付加されることもある。
鉄器の使用も<巨石文化>を特徴づける重要な要素です。墓の副葬品や遺物として、剣・槍・短剣など、鎌た鋤・鑿など、鐙やはみなどの馬具など、多種多様な鉄器が出土しています。また、黒色赤色土器の使用も、もう一つの特徴です。
●南インドの<巨石文化>の担い手はドラヴィダ人?
馬具の出土などから騎馬遊牧民族によってもたらされたという説もありますが、土器に記された人名の特徴や、続く初期歴史時代との連続性を考えると、この文化の主な担い手は、ドラヴィダ人でだとするのが、もっとも妥当だと考えられています。
ドラヴィダ人が南下を始め、デカン高原に入ったのが紀元前1300年ころ、そこで分かれたグループがカルナータカ、インド半島最南端に到着したのが紀元前800~500年ころだと考えられるので、<巨石文化>の時代と重なります。
また、黒縁赤色土器をもつインド中西部の金石併用諸文化がアーリヤ系集団にかかわるものである可能性があることから、アーリヤ系集団をも含めた、多様な民族集団がかかわった複合的な社会のなかで形成されてきた可能性も考えられています。
●<巨石文化>の担い手の生業
巨石墓群に隣接する集落跡の発見例も増え、この文化に属する人々のかなりの部分が定住生活を送っていたと考えられています。米をはじめ、各種の穀物なども栽培がおこなわれていました。
農業に加えて、手工業の著しい進展も、この文化の重要な要素で、鉄器の生産には専門的な技術が用いられ、また、カーネリアン(紅玉髄)や水晶などの貴石製ビーズの製作も非常に盛んだったようです。さらに、前2世紀以降には、ローマ世界との交易もこの地域に重要な影響をおよぼすようになっています。
●<巨石文化>期の社会
巨石墓の存在は、社会の中に優越した地位を持つものがいた可能性はあるのですが、集落や墓地全体の様相からは、集中した権力者がいたいた訳ではないようです。多種多様な形態の石室墓があり、個々の形態が比較小地域ごとにまとまって分布することを合わせて考えると、当時の状況は、小地域ごとに分かれた部族集団であったようです。
そして、<巨石文化>は、後1世紀頃には、ほぼ終りを告げることとなります。その後、アショーカ王碑文やサンガム文学などによると、前3世紀には南インドにいくつかの王国が成立する時代へと移っていきます。
この時期は、安定した食糧栽培がおこなわれるようになるにつれて、集団規模の拡大→分化が繰り返され、お互いの縄張りが接するようになり、次第に同類闘争の潜在的な緊張圧力が働き始めた時期だと思われます。その同類圧力が農業生産や手工業の進展をもたらしたのかも知れません。
ただし、各母系集団は互いに贈物(ビーズがそれ?)etc.を通じて友好関係の構築に努め闘争を回避していので、集団の規模は小規模な部族連合に留まり、地域全体を統合するような集団はまだなかったのではないでしょうか?
権力者がいなかったとすれば、巨大な石材を用いて建造された構築物は、集団を統合するための信仰上の象徴のようなものだったのかも知れません。
長々読んでもらってありがとう 😀 また、次回に続きます・・・
いよいよ「ドラヴィド人:ナーヤルの母系社会」の紹介?(@さいこう)
参考資料
「世界歴史の旅 南インド」(辛島昇・坂田貞二編 山川出版社)
「世界歴史体系 南アジア史3 南インド」(辛島昇・坂田貞二編 山川出版社)
「インドの巨石文化とストーンサークル」(深尾淳一 縄文ジャーナル第6号)※写真はここからお借りしました
- posted by sachiare at : 2008年04月08日 | コメント (7件)| トラックバック (0)
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comments
>リカオンはライオンなどの外敵闘争圧力、チンパンジーは同種他集団との縄張り闘争圧力に晒されています。それらの高い外圧に適応するため、群れの戦闘力を高めることが出来る息子残留という様式を採ったのだと考えられます。
>一方、初期人類が極度の自然外圧や外敵圧力という【逆境】に晒された弱者だとすれば、大多数の哺乳類のように母系的な集団であったように思います。
論理の飛躍というより、矛盾を感じます。
素直に読むと、それだけ、外圧が高かったのなら、人類も《父系》で適応するしかないと思ってしまいます。
●リカオンはライオンなどの外敵闘争圧力に晒されている⇒○本能で適応
●チンパンジーは同種他集団との縄張り闘争圧力に晒されている⇒●本能では適応できない⇒どうする?
●人類は、それすらかなわない過酷な存在
これらの視点を踏まえる必要があるのではないでしょうか?
ご指摘ありがとうございます。
>論理の飛躍というより、矛盾を感じます。
>素直に読むと、それだけ、外圧が高かったのなら、人類も《父系》で適応するしかないと思ってしまいます。
確かに、父系的なリカオン、チンパンジーの集団の事例から、初期人類の母系的集団への展開には無理があるようです。
ご意見を参考に、「逆境⇒どうする?」から考えてみたいと思います。
人間以外のほとんどは母系寄りとは思います。
ただ、カマキリの様に母親の、敷いては子供の栄養となり
家族を支える父親の… なんか書いてて泣けてきました。
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