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2008年05月28日

日本の共同体性を維持し続けた「用水組合」という仕組み

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『水利が育む日本の共同体性』では稲作という常に「水」を必要とする日本の生活様式が農村の共同体性を育み続けたという話を紹介しました。
このような共同体性を語る上で欠かせない仕組みが「用水組合」です。この用水組合により、「水」を介して村内の人々の共同体性が維持されていただけではなく、村同士の繋がりにも大きく寄与していました。

今回は「日本農業の近代化過程における水利の役割 著者:玉城哲」より引用しながら、その辺りの話をしていきたいと思います。 

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古来より「水を制するものは天下を制する」と言われてきましたが、それはナイル川や黄河など莫大な流域面を持つ大河は、強大な専制国家でなければ制御することが出来なかったからです。日本は相対的に小河川が多かったため、そのような水の権力的統制を専制的行うシステムは確立せず。幕藩体制による地方分割性を基礎としたシステムが出来上がっていきました。

 日本の社会における「水」の統制による社会全体への支配への意欲はきわめて旺盛であり,「専制社会」の潜在的可能性を,いつも秘めていたとみられる.だが,日本の社会においては,その反面で,地域における分権的な、自治的秩序をつくりだそうとする民衆の意欲も,きわめて旺盛であった.
そこで,現実的には,水利秩序はたんに権力的統制によって形成されただけではなく,むしろ,農村社会そのものから生みだされた自治的性格をもっていたのである.

 いちおう、権力者側に統制しようという意識はあったようなのですが、そこにはある矛盾を孕んでいました。

 水資源の配分秩序の混乱にたいして,幕藩権力は,あまり有効な手段を講じたようにみえない.その理由は明白である.旱魃によって米の生産が減少することは,個々の村々や農民にとって死活にかかわることであるが,幕府や大名にとって,どちらが正当であるかを判断する根拠を欠いていたのである.たとえば,河川の上流における優先的取水権を承認してしまったならば,その下流部における農民の生活と,自分自身の現物地代収入(年貢)を否定することになってしまう.
結果として,徳川幕藩体制は,強力な権力的統制政策をとらなかったようである.直接的な統制政策にかえて,間接的な制御政策をとらざるをえなかったようにみられるのである.それを実際的にいえば,村々を基礎とした用水組合の形成であり,これらによる緻密な慣習法的秩序の成立であった.

 こうして、権力者の統制に依らない当事者同士による「用水組合」が組織され、自らが秩序を生み出していきました。

 幕府や藩権力が用水の組織的統制に意欲をもっていたことについては,すでに述べた.だが,この権力的統制はあまり有効でなかったようである.そこで,結果としては,用水組合による自主的統制の秩序に期待したのである.そして,この期待は,おおむね成功することになった.日本の水利組織は,見事に形成され,新しい水配分秩序をつくりだすことになったのである.

 水利秩序を形成する組織的主体は,用水組合であった.用水組合は,地方によっていろいろな名称をつけられたが,基本的には灌漑システムを管理し,水の配分統制を行う自治的な団体であった.そして,その組織的特徴は,「村々組合」だったという点にある.それは,村落をメンバーとして構成される組織体であり,個人(あるいは個々の家族)をメンバーとするものでなかったのである.だから,それは,一種の村落連合体であった.ただし,連合体といっても,村落が相互に完全に対等な立場にたっていたわけではなかった.とくに,大きな灌漑システムについて成立した用水組合の場合,利害の対立を複雑に内包しており,むしろ村落相互の緊張関係を基礎にしていたがゆえに成立したとさえいえるほどである.

 
こうして成立した「用水組合」は、村同士の関係性の中で闘争を回避するための様々な決まり事を取り交わし、固く守ってきました。徳川幕藩期に定められたこのような慣行が,現在においてもかたく守られている例は,それほど稀なことではないそうです。
そして、重要なことは用水組合のメンバーが村落であり,個人ではなかったということです。

 用水組合のメンバーが村落であり,個人ではなかったという理由について,水田利用の分散錯圃制を指摘することができる.分散錯圃とは,村落における水田土地利用の方式であって,個々の農民の土地は一団地化されておらず,たがいに入りまじった小圃場を耕作するという形態である.これは,ヨーロッパの中世村落における「オープン・フィールド・システム」と似ている点をもっていたとはいえ,つぎの点で決定的に違っていた.それは,水田の灌漑用水を利用するうえで,各圃場は宿命的に結びつけられていたということである.農地は分割されているにもかかわらず,水について,分割的占有権をたがいに主張することができなかった.このような村落社会における宿命的統合が,用水組合に「村々組合」的性格を与えた,基本的な理由であった.
このような用水組合の形成自体が,水の管理と配分にさいしての社会的秩序を制度化するものであった.闘争はできるだけ回避され,ルールをつくることが求められたのである.

 闘争を回避するためとはいえ、このように長い間取り決めが守られてきた秘密は、個人の抜けがけが許されない「水田」のシステムと、それゆえに成立した村と村の繋がりによる「用水組合」にあったといえるでしょう。

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>高句麗人が日本の支配者になっても、婚姻制は先住の渡来系弥生人の母系妻問婚(高句麗の婿入りではなく通い)に同化してゆく素地があったことが分ります。
世界中の支配者は自らの出自を誇ることはあっても隠しません。
高句麗なら高句麗だと誇ればいいだけ。
ネットで変なデマ流すのはやめましょう。

  • オマエアホか。
  • 2012年7月23日 17:40

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