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2008年09月22日

DNAでたどる日本人の成り立ち3 アイヌ民族

DNAでたどる日本人の成り立ち2 人口構成比の試算に続いて、アイヌ民族の成り立ちを見ます。崎谷満著『DNAでたどる日本人10万年の旅』より。
かつてアイヌ人=縄文人=沖縄人と言われていたが、Y染色体DNA分析ではまったく異なる系統であることが分ります。アイヌは 1にあるように(十分なデータが得られていないので正確なこと不明だが)、シベリア系のC3系統が12.5%と多く残り、縄文文化の担い手D2系統が87.5%で二系統のみ。江南系のO2bや漢人系O3がない。さらにアイヌ文化は2300年前以降の江別文化を母胎にして13世紀に成立した非常に新しい文化でもあります。
北海道の考古学的時代区分
Ⅰ.後期旧石器時代:約2万年前から約1万3000年前まで
Ⅱ.新石器時代:約1万3000年前から約2300年前まで
Ⅲ.続新石器時代:約2300年前から紀元後7世紀ごろまで
Ⅳ.オホーツク文化・擦文(サツモン)文化並立時代:紀元後7世紀から13世紀まで
Ⅴ.アイヌ文化時代:13世紀から現在まで
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304px-AinuGroup.jpg(図はウィキペディアより)
Ⅰ.後期旧石器時代:約2万年前から約1万3000年前まで
約2万年前にシベリアで確立された細石刃石器が北海道でおびただしく発掘される。〔C3系統〕
九州・四国・本州では新石器時代草創期に移行する1万5000年~1万2000年前になっても、北海道では後期旧石器時代以来の有舌尖頭器や細石刃に特徴づけられる文化が存続した。土器の発掘も見られるようになったが由来は不明。
Ⅱ.新石器時代:約1万3000年前から約2300年前まで
道南では9000年前ほど前から押型文土器や貝殻文沈線文土器などが見られ、縄文文化の北上が想定される。〔D2系統〕
しかし道北、道東、オホーツク海沿岸、道央にかけては、縄文文化とは異なるシベリア起源の石刃鏃文化が栄えており、シベリア東部・極東の文化との類似性、特に土器についてはアムール川中下流域のアムール編目文土器との類似性が指摘されていて、北海道への植民が推定されている。〔C3系統〕
Ⅲ.続新石器時代:約2300年前から紀元後7世紀ごろまで
九州・四国・本州が金属器時代(弥生時代)に入っていく紀元前3世紀になっても、北海道まで弥生文化は達することはなく、それ以前の文化の多様性に起因する、多様な続新石器時代へと移行していく。シベリア東部・アムール川流域・沿海州・極東からの文化の流入や交流が北海道北部や東部に独自性をもたらす〔C3系統〕一方で、北海道南西部では東北北部の縄文文化と類似の文化を発達させた〔D2系統〕。
続新石器時代の初期には4つの文化圏が存在した。道南・渡島半島の恵山(エサン)文化、道央・石狩低地帯の江別(エベツ)文化、道東・太平洋側の興津(オコツ)・下田ノ沢文化、道北からオホーツク海岸にかけての宇津内(ウツナイ)文化の4つである。
その後、道南の恵山文化が衰え、道央の江別文化が勢力を拡大する。北方のサハリン南部やクリル諸島南部まで達し、さらに南方の本州北部の東北地方から上越地方までその勢力を拡大していった。これらの地域ではアイヌ語地名が残っていることから、アイヌ民族の母胎はこの江別文化にあることがうかがわれる。この江別文化の南下は、律令国家との衝突を招き、これがいわゆる東北のエミシと律令国家との戦争である。
Ⅳ.オホーツク文化・擦文(サツモン)文化並立時代:紀元後7世紀から13世紀まで
江別文化は律令国家の勢力拡大に遭遇し、東北北部だけではなく北海道においてもその圧力下で消滅し、6世紀末ごろから擦文文化へと移っていく。擦文文化は本州の平安文化の影響を東北北部を通して受け入れ、それまでとは異なった要素が強くなってくる。金属器(鉄器)についても、北海道内で本格的な製作が始まる。〔D2系統〕 しかし、擦文文化とアイヌ文化との文化的要素にはかなりの断絶が指摘されている。
道北からオホーツク海沿岸においては、江別→擦文文化の系統とは異なるオホーツク文化が、紀元後5世紀ごろから10世紀ごろまで存在した。サハリン南部で興った文化が南下したもので、アイヌ民族とは異なる北方系民族と推定されているが、はっきりしていない。〔C3系統〕 しかし、道央から道東へと勢力を広げていった擦文文化人によって吸収され、オホーツク文化のアイデンティティを喪失してしまった。
※クマ崇拝(クマ送り・イオマンテ)の伝統はアイヌ文化固有のものではなく、オホーツク文化に由来する可能性が示されている。
さらに、オホーツク文化と擦文文化とが融合したトビニタイ文化が、9世紀ごろから13世紀にかけての道東で確認されている。オホーツク文化およびその影響下にあるトビニタイ文化が、近世のアイヌ文化成立に何らかの役割を果たしている可能性が考えられる。
Ⅴ.アイヌ文化時代:13世紀から現在まで
アイヌ文化の成立。アイヌ民族は近世において、北海道全域とサハリン南部およびクリル諸島全域とカムチャッカ半島南端に広がった。
アイヌ民族のDNAは多様で、複数の流れを汲む混血集団、それも近世の和人との混血ではなく、ホームランドが遠く離れた集団間の混血であることが明らかとなってきている。
アイヌ民族の成立をまとめると以下のようになる。
・後期旧石器時代(2万年前)、シベリアの細石刃文化C3系統ヒト集団が母胎になり
・新石器時代(9000年前~)に縄文文化の担い手D2系統ヒト集団が北上し出会う
・そして続新石器時代(2300年前~)に道央を基盤とする江別文化がプロト・アイヌ文化となり、北方・南方へ拡大
・その後江別文化は衰退し、本州北部を通しての日本文化の影響が強い擦文文化へと変化
・オホーツク文化の影響を直接受けることによる北方的要素の強い増強を経て
・13世紀ごろから再度北方シベリア系の要素が強いアイヌ文化の成立を見ることになった。(注:13世紀の日本は鎌倉時代前期、大陸ではチンギスハーンが大帝国を建設した。)

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comments

世界恐慌(?)の下、結婚産業が頑張っているのは小子化の状況対策上も好ましいことです。
>「市場原理をこれ以上追い求めるのではなく、血縁や同僚など人同士の繋がり、安心できる関係作りを重要視し始め、「脱市場」の潮流が大きく動き始めたのでは、と感じます。」
共同体的な仲間重視の意識が改めて湧き出してきていると言うのは、なるほどその通りだと思います。
今時の若者は、結婚式に私権制度の名残である「血縁」や「仕事同僚」を超えた友達関係の仲間を重視しているように感じます。如何なんでしょうか?

  • 文無し
  • 2009年1月3日 17:00

文無しさんも↑でいわれていますが、
>今時の若者は、結婚式に私権制度の名残である「血縁」や「仕事同僚」を超えた友達関係の仲間を重視しているように感じます。<
これはあたってるかな~と思います。
私も恥ずかしながら春に式を挙げるのですが、この機会にいろいろ調べたところ、神社で式を挙げたりするのもだいぶ増えてるみたいですよ。以前のように、専門の結婚式場でハデに、という感じではないみたい。
親戚、とかに縛られず、今までお世話になった人にお礼をする会だというコンセプトになってきてるみたいですね。

  • yukie
  • 2009年1月4日 12:09

はじめまして。突然のコメント。失礼しました。

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