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2009年01月30日

【逆境⇒進化】初期人類の逆境 vol.2<裸の起原>

数ある霊長類の中で、ヒトの体だけが毛皮によって覆われていません。
そうなんです 霊長類の中でも現代人だけが「裸」なんです
(体毛が短く皮膚が露出している=裸) 。
考えてみると、なんで という疑問が沸いてきますよね。
今日は、島泰三の著書『はだかの起原-不適者は生きのびる-』より、裸の起原に関する仮説を紹介したいと思います。
島さんは、ホモ・サピエンスまでの初期人類の体は、毛に覆われていたと考えられています。なぜホモ・サピエンスまで毛皮に覆われていたと考えられているのか
それでは、下のぽちっとして、30万年前の人類の世界へ出発してください。
では、いってらっしゃいませ。。  

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■裸の人類の誕生(ホモ・サピエンス)
島さんは、今から約20万年~30万年前に、東アフリカの高地で人類に裸の突然変異種が現れたと、考えておられます。裸の皮膚だけではなくて、かれらの身体には新しい形質がありました。それは食べる時には声を出せない不自由な喉の構造であり、大脳の前頭葉の巨大化であり、なによりも華奢な体つきでした。新人と言われるホモ・サピエンスの誕生です。
彼らは、アフリカの高地でしか裸の人間は成立しなかったと、島さんは考えておられます。
理由としては、アフリカの低地にはマラリアがあります。それは現代でも一つの村を全滅させます。だから裸の人類が低地で生まれても、生き残る確立は非常に少なかったはずです。
しかし、高地ではマラリア蚊は少ないのです。
20万年あるいは30万年前の現代人(ホモ・サピエンス)の始まりから、ヨーロッパへの進出までの長い時間について考えると、アフリカ高地からの進出がなんらかの理由で難しかったのだと考えないといけません。
同じ時期のアフリカに生きていたホモ・エレクトスの子孫たちやヨーロッパから近東にいたネアンデルタール達との生活圏を巡る争いは当時あったでしょうが、現代人の祖先は、その状況にかろうじて耐えることが出来たと推測できます。
だが、マラリア蚊などの昆虫が媒介する熱帯病のために、毛皮のない現代人がアフリカ低地へ、更にナイル川の低地帯をたどって中近東へ進出するのは、実質的に困難だったのでしょう。
もしも、彼らにとって大きな事件が起こらなかったら、まだしばらくアフリカ高地だけの、たとえばヒヒ類の分布域のなかに、エチオピア高原だけに分布するゲラダヒヒのように、現代人は孤立したままだったかもしれません。
しかし、7万年前に好機が訪れます。氷河期の到来です。ちょうどこの時に、【vol.1<着物の起原>】で紹介した衣類の起原があるのは、現代人(ホモ・サピエンス)のみが裸で誕生し、寒冷化し氷河期を向かえる中で、衣服を開発し、拡散できるようになった事を示していると考えられます。そして、つづく氷河期にはユーラシア大陸の寒帯にまで進出し、オーストラリアまで進出していきます。

初期人類は、【初期人類は骨を食べていた!】シリーズで紹介したように、劣悪な状況下(逆境)の中、骨食というニッチを開発することで、環境適応した野生動物でしたが、現代人(ホモ・サピエンス)は20~30万年前のアフリカの高地で、突然変異の裸の種(カタワの人類)として誕生し、氷河期に襲われるという人類史第2の逆境にさらされることになります。
しかし、逆説ですが、現代人は裸(不適者)だったからこそ、この氷と雪に閉ざされた世界に生き抜くため、衣服の開発など、観念機能の強化ができたのかもしれません。
引き続き詳細を調べてみようと思います。

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「雑魚寝」はこんなにも情緒があったんですね~。
西洋のキリスト教に侵せれた近代思想では、性を否定視して抑圧しています(子作り以外のsexは罪である)。一方で、個人同士が性(女)の略奪闘争を行うと言う、ひねくれた扱いを性に対して行っています。
近代文化に犯される前の、江戸時代の日本では、性は隠すものではなく、おおらかで、楽しくて、みんなの物と言う、肯定視だったようです。
どちらが進んだ文化なのか?
欧米文化の欠点は、性に対するスタンスに大きく現れていますよね~。

  • 猪飼野
  • 2009年4月24日 14:48

猪飼野さん、コメントありがとうございます☆
そうなんです!性充足が人間の活力源であるという事実を認めない欧米の性文化は、現実否定の文化とも言えると思います。その根本が歪んだままでは、制度も思想も真っ当なものにはなりませんね(それは現在の日本も一緒ですが。。)
本来の性のあり方をどんどん広めていくのも、このブログの役割ですね♪

  • まりも☆
  • 2009年4月28日 22:02

>元来、人目を守る関もなく、これがために嫉妬の心もなく、古くから色欲のために身命を失う者なしと言われている。
このくだりは、唸りました~♪愛が排他的且つ、略奪・独占的なのは、本来の性の姿とは異なるからなんですね。
誰も傷つかない、充足だけの男女関係って、あったんだ~!
現代人からすると、なんだかとてもうらやましいですね♪

  • パーマン
  • 2009年4月30日 20:13

パーマンさん、コメントありがとうございます☆
私も原文を読みながら、同じところで唸りました~♪その頃の男と女は、まさに「充たしあう」ためにいたんだなあと思います。そんな時代が日本ではかなり長く続いていたのですから、まだまだ日本人には可能性がありそうですね☆

  • まりも☆
  • 2009年5月3日 15:37

こちらでも神戸市湊部
と紹介されています、
神戸市長田区駒ヶ林にある、海泉寺の震災で倒壊した本殿は諸説有りますが、むかし近隣の漁師町の若い善男善女が夜を徹し参籠する事が有名な地元の人に愛されたお堂でした。地元の人々は親しみを込めて海泉寺本殿を「ざこね堂」「雑魚寝堂」
「枕寺」と呼んだそうです。

  • ざこね堂〔雑魚寝堂〕
  • 2010年4月30日 16:08

海泉禅寺
 臨済宗 南禅寺派。 
文永三年(1266)この村の宝満寺が覚心禅師の教化で密教から
禅宗に改められ、大いに栄えてからのち、この村に海泉寺は宝珠庵、慈眼庵、松月庵、松源庵、とともに建てられ、宝満寺の子坊となつた。のちに宝満寺は禅昌寺の末寺となり、更に本山直寺となつた。 慈眼、松月、松源、の三庵は明治初年に、村の経済の都合で廃寺となつた。のこつた宝珠庵は「さつき寺」ともいわれ、一株のサツキが庭一面に枝をはり、花時には賑わう名所となつていた。が先の阪神大震災で壊れ、現在建築工事準備中。
宝珠寺は長田北交差点のひがしきたがわにある。
海泉寺は寺伝では、正和二年(1313)の創建、もと長田港の西方にあったが、明治七年火災に遭い現在地にあった慈眼庵に移って海泉寺とした。大正十二年に駒ガ林町にあった阿弥陀堂の木材を本堂に利用した。このとき発見した阿弥陀堂の棟札には文化十二年(1815)建立とあった。
此の堂にまつられていた阿弥陀三尊仏がいまの海泉寺の本尊である。この阿弥陀堂が往古駒ヶ林でざこね堂〔雑魚寝堂〕としたしまれたお
●追記 雑魚寝堂というのがあるが寺ではない。〔村の阿弥陀堂でその後移転〕同村の未婚の男女が
毎年節分の夜にここに集まり籠るので、雑魚寝堂と称したのに
始まる。その夜に契った男女は夫婦となる掟であるが、いかに
神の結ぶ縁とは言え、若い男が年老いた女を、年老いた男が若
い女を妻とするのは世の慣わしに背くというので廃止されてしま
ったが、今でも節分の夜だけは、古い名残を留めて、女ばかりが
籠ることになっている。こうすると安産だと言われている。

  • 神戸 駒ヶ林のざこね堂〔阿弥陀堂〕
  • 2010年5月1日 11:05

長田区の伝承行事
http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/folk/entertainment/l_area/60nagata.html
駒ヶ林・阿弥陀堂 長田区駒ヶ林町 寝宿 ざこね 人生儀礼/婚姻 12月31日・1月1日
日本では、通い婚が衰退した後も、
農村・漁村を中心に若者宿とか寝宿〔ねやど=ざこね堂〕
といった場所で、男女が相手を見定めたり、
地域によっては未婚・既婚かかわらず
男女が総当たりでセックス・乱交し、
男女の性的満足感と、地域の連帯感
を高めたのだそうです

  • 匿名
  • 2010年12月14日 07:23

私はタイトルの融資を申請したいと思います。私はタイトルの融資を申請する必要がありますか?
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