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2010年01月21日

日本語の成り立ち9~縄文語の形成

%E5%9C%9F%E5%81%B6%EF%BC%88%E7%B8%84%E6%96%87%E4%B8%AD%E6%9C%9F%EF%BC%89.jpg 日本語の成り立ち7で縄文後期の縄文語の復元を、日本語の成り立ち8でそれを下敷きにした弥生語の音韻的特色を取り出しましたが、今回はシリーズ最後として、縄文中期以前の縄文語の形成過程を紹介します。小泉保著『縄文語の発見』より。
(写真は特徴的な顔面表現をもつ土偶(縄文中期)、東京大学総合研究博物館からお借りしました。)
本土縄文語九州縄文語裏日本縄文語に分裂したと推測されるが、琉球縄文語が九州縄文語から派生したことはほぼ間違いない。そこで、九州縄文語を復元するために、まず琉球縄文語の原形を探ることから始める。
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1 琉球縄文語
沖縄本島には早期の縄文土器が発見されている。これらを作製あるいは携帯した先住民が本土の縄文語と関係なかったとはとうてい考えられない。東北方言琉球方言とは明確な音声対応を示しているそれらが共通の基語から派生したことは疑う余地がない。また、無土器の島々とされる宮古・八重島群島の言語もやはり沖縄や奄美大島の言語と質を同じくしている。
琉球方言が本土から分離したのは縄文時代のかなり早い時期のことであろうと思われる。琉球方言が南九州から南下したとする見解は比較言語学の立場から見て動かしがたいものがある。
(1)母音の変化
琉球分家の祖先にあたる琉球基語の母音は次のような体系をなしていたと考えられる。
「イ」の舌面が前進し、「ウ」は唇の丸めをもつ後舌の位置にある。「エ」と「オ」はそれぞれ口の開きの狭い東北系のイとエに近いものであっただろう。中舌の「」に「ア」が加わって六母音の体系を組むことになる。
琉球方言はこの狭めのエとオをめぐって様々な変化が引き起こされている。たとえば、沖縄の首里方言では本土の言葉との間に次のような違いが見られる。
「目」メ:ミー  「雨」アメ:アミ  「音」オト:ウト  「沖」オキ:ウキ
すなわち、「エ」→「イ」、「オ」→「ウ」のような変化が起こっている。基本的には、沖縄本島では、「イ」が「エ」を吸収し、「ウ」が「オ」を引きこんで合併している。
(2)子音の分裂
母音の「エ」と「オ」がそれぞれ「イ」と「ウ」に合体するに当たり、その痕跡を子音に残している。
中本氏(1990)によれば、沖縄北部の名護では2種類の子音に現われている。
「花」ハナ  「昼」ヒル  「舟」フネ  「箆」ヘラ  「骨」ホネ
ナー   ピル    プニ    ピラ    プ

この2種類のp音は特定の母音と結合し、
本来の「イ」の音、本来の「ウ」の音の前では喉音化した「」が立ち、
エからきた「イ」の音、オからきた「ウ」の音の前では有気の「」が立つ
というように、子音に影響を与えている。
2 九州縄文語
%E7%94%BB%E5%83%8F2.jpg 琉球縄文語が本土から分離したとき、その母胎となっていた九州縄文語の母音と一致していたはずで、この母音体系こそ現在推定することのできる最古のものといえよう。
そこで九州縄文語裏日本縄文語を対比させて、その新旧を論じる必要が生じてくる。
均衡型六母音の九州式から中縮型五母音の裏日本式が生まれたのか、またはその逆か。
前者のほうが理に適っていると思われる。つまり、裏日本縄文語では九州縄文語の「イ」と「エ」が融和し、円唇の「ウ」が前方へ引き寄せられて非円唇の「」が形成されたことになる。
要するに、縄文時代には九州と裏日本の二大方言が(=裏日本縄文語)と西(=九州縄文語)に対立していたと考えられる。もちろん、両方言はそれぞれが分派した小方言をかかえていたであろう。
(1)四つ仮名
%E7%94%BB%E5%83%8F1%5B1%5D.1.jpg 古くは「ジ、ヂ、ズ、ヅ」の四の仮名が、文字とその発音において区別されていたが、江戸時代に入ると、「ヂ」→「ジ」、「ヅ」→「ズ」という融合が起こり、「ジ」「ズ」の二音にまとめられてしまった。文字からすれば二つの仮名で間に合うので「二つ仮名」と称している。
さらに東北方言では、「ジ」→「ズ」もしくは「ズ」→「ジ」という一本化が生じている。したがって、東北弁を話す地帯は「一つ仮名」の地域ということになる。

 だが、四つ仮名の発音を依然として守っている地域がある。
「地震」ヂシン 「自身」ジシン 「水」ミヅ 「見ず」ミズ
この四つ仮名は、現在長崎県、佐賀県、福岡県西部、宮崎県の大半と鹿児島県それに四国の高知県全域で認められている。こうした四つ仮名の地域こそ九州縄文語の名残りを留めているのではないかと思われる。したがって、九州縄文語の領域は九州全体と四国南部を含んでいた、いやそれよりもさらに広い範囲に及んでいたのかもしれない。
3 表日本縄文語
さらに「表日本縄文語」なるものが設定できるのではないか。この縄文語は縄文晩期に山陽、近畿、東海の地域を占めていたと思われる。
奈良県南部で話されている十津川方言は方言研究家にとってひとつの謎である。吉野郡大塔村、十津川村、天川村、上北山村、下北山村からなる地域で、紀伊山脈でも近畿の屋根と呼ばれている山岳により、奈良県北部と隔離された別天地である。この秘境に踏みこむと関東弁の方言圏に迷いこんだような錯覚をおぼえる。周囲は近畿の甲種アクセントなのに、この「南部方言」だけは東京方言と同じ乙種アクセントが通用しているのである。
これは、かつて山陽、近畿、東海にわたる「表日本縄文語」の地帯があったが、縄文晩期に弥生語が北九州から新入してきて近畿地方を占拠したため、表日本縄文語が東の東海方言と西の山陽方言に分断されたという見方である。奈良県南部方言は、それから取り残された表日本縄文語の末孫ということになる。
4 前期縄文語
縄文前期こそ原日本語の黎明期にあたるであろうが、この時代に縄文語がどのようにして形成されたかは想像に頼るしかない。このため、様々な憶測が飛び交っているが、1万年に及ぶ時間的射程の内で原日本語の構成原理とその成分の由来を明確にすることは不可能に近い作業に思える。
ただ一つ確実ではないかと考えられることは、一万二千年前の氷河期が終わった時点で、人類学者が言うように、南方のスンダランドに住んでいた原アジア人が北上してきて日本列島へ移住したという仮説が正しければスンダランドで交流していた南方系民族の言語要素が持ちこまれたことは不思議ではない
この観点から、日本語の成り立ち2で紹介したタミル語ビルマ系カンボジア系インドネシア系オーストロネシア系の単語と日本語との近似性を否定することはできない。また弥生期に渡来人により中国語的語彙が日本語に注入されたこともうなずける。
本書はここまで方言形の中から古い特徴を拾い集めて、祖形を再構成する「地域言語学」の手法によって考察してきた。日本語の方言の中から縄文語の土台を掘りだし、その上に柱を組み立てるというように、下から積み上げる形で復元に努めてきた。

5 結論
%E7%94%BB%E5%83%8F3.jpg 最後にここまで追究してきた過程を右図のようにまとめて結論としたい。(図中の青色の点線は影響力を示している。)
日本列島では太古の昔、前期九州縄文語から表日本縄文語裏日本縄文語が分派し、さらに琉球縄文語が分離したと考えられる。
やがて表日本縄文語の子孫が山陽・東海方言となり、裏日本縄文語は末裔の東北方言とつながっている。また、琉球縄文語から琉球諸方言が生み出されるに至った。
紀元前後には、前期九州縄文語を受け継いだ後期九州縄文語と裏日本縄文語に渡来語が作用して弥生語が形成された。弥生語の直流の資格をもつのが関西方言である。
他方、裏日本縄文語に表日本縄文語が働きかけて関東方言が作り上げられたようである。
以上が縄文期から現代に及ぶ日本語成育の足取りであると推考する。
このように、現在われわれが話している方言を逆に手繰っていけば、縄文基語に達するであろう。弥生語も縄文語の一変種にすぎない。要するに、日本語は縄文文化と共に始まったと考えてよく、1万年にわたる伝統をもっていることになろう。これは島国という立地条件に負うところが大きい。
だが、縄文基語そのものがどのように形づくられたかという問題は依然として太古の霧の中に包まれている。
******************************************************
日本語の成り立ちシリーズ、最終回にお付合いいただき、ありがとうございました。
類い稀なる縄文人的精神基盤』は、言葉でも裏付けられました。ここまで緻密に積み上げられてきた成果に敬意を表したいですね。(ただ旧石器時代以前にさかのぼるであろう縄文基語については、さすがに手がかりを掴むのも困難なようです。)
1万年にわたって育まれてきた日本語をもっともっと勉強して使いこなしたいものです。

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comments

>女を略奪して再建した混血部族が玉突き的に激増してゆきます。<
掠奪部族が玉突き的に広がっていく中で、婚姻様式も玉突き的に広がって一気に転換したのが分かりました。

  • yooten
  • 2010年5月15日 19:45

父系制への転換は遊牧によるもの。そうでない場合は、母系制が基本だったようですね。
現代父系制の必然生が無いように思えました。

  • tani
  • 2010年5月15日 19:47

いやーすごいっすね略奪婚。もの凄い解りやすい様式(?)だけど、これが現在の婚姻制度に繋がると言うのは驚きですね。そういえば、現在でも遊牧部族の中には、略奪を是とする部族があると言うのを、文献で読んだことがあります。あと、ローマのスタートが略奪婚から始まったのも驚きでした。
全体的に解りやすくて秀逸な記事だと思いました☆

  • KAZUMA
  • 2010年5月15日 19:49

父系って婚資は嫁さん側が払うんですね。
なんとなく違和感が・・・
現代は父系であっても、どちらかと言えば夫側が払うほうが多いので、その変がどのような課程で変化してきたのか興味があります。

  • 2010年5月15日 19:49

古代ローマって略奪婚だったんですね。
はじめて知りました。
>この略奪婚が、現在の一対一の婚姻制度=一対婚制度に繋がる、私有婚の起源となっていきます。
ということですが、これは男側の「女を私有する」という意識が芽生えたことを指しているという理解でいいですよね?
そうなると、なぜ一対になっていったのか、が疑問ですね。(相対的な格差をなくす)平等意識みたいなものが関係しているんでしょうけど、なんかわかるようなわからないような…

  • hao
  • 2010年5月15日 19:52

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