2010年07月10日
日本人の可能性④ ~共同性の差がもたらす東洋・西洋の観念体系の違い~
連続シリーズ「日本人の可能性」。これまで・・・・・・
日本人の可能性①~日本人の基点「勤勉」は、充足発の女原理
日本人の可能性②~西欧と日本の階層意識の違い
日本人の可能性③~西欧と西洋の民主制の違い
以上の3つの記事をおとどけしました。
で、今日は「共同性の差がもたらす東洋・西洋の観念体系の違い」をテーマに考えてみます。
欧米の人が日本に来たとき、自分たちとは全く異なる文化や価値観、思考体系に驚いたという話はよくあります。いわゆるカルチャーショックというやつですね。逆もまたしかり。私たちが欧米を訪れると、少なからず驚きをおぼえることは多いものです。でも、なんでそのような違いが生ずるのか?
それを理解するうえで、一つの切り口となるキーワードが「共同性」です。
一人では決して生きていくことができない集団動物としてあるのが私たち人類です。その本性は集団を軸とした「共同性」。共同性がどの程度 地域的な規範なり人々の意識なりに残っているか。そこが重要になってくると思うわけです。
まずは、入口として情報考学 Passion For The Future 様の記事「木を見る西洋人 森を見る東洋人思考の違いはいかにして生まれるか」より引用させていただきます。
(前略)
西洋の母親:
「これはクルマ。クルマを見てごらん。これ好きかな?かっこいい車輪がついているねえ」
東洋の母親:
「ほら、ブーブーよ。はい、どうぞ。今度はお母さんにどうぞして。はい、ありがとう」
西洋の母親は世界が名詞の集まりだということを教えるが、東洋の母親は世界が関係に満ちていることを教える。実際に育児を観察してみると、アメリカの母親は対象物の名前を言う回数が日本の母親の2倍も多く、逆に日本の母親は社会的な約束事(あいさつ、共感)を教える回数が2倍も多くなるという。動詞は関係を表現するものだから、東洋人では登場回数が多くなる。
これは、東洋の社会は個人の能力以上に、関係性が重んじられる社会であることに起因する。理屈を並べる人よりも、場を和やかにする人、協調性の高い人の方が大切にされる可能性が高い。
東洋人はゲマインシャフト(自然発生的人間関係と、共有されたアイデンティティ意識にもとづく共同社会)的社会に生きる。西洋人はゲゼルシャフト(道具的な目標を達成するために組織された社会、交渉と契約の社会)的社会に生きる、とも言い換えられる。ふたつの社会の違いは、集団主義的か個人主義的かの違いだとも言える。それが母親の教育態度と、こどもの言語学習の違いに現れていると著者は言う。
■関係性を大切にする東洋人
人間関係を重視する子育ては、西洋の基準ではマザコンのこどもを育てる。日米の成人が母親と一緒にいることをどの程度望んでいるかを調査する尺度設定の際、一方の極みを「私はいつも母親と一緒にいたい」という基準にしようと東洋人が真面目に提案したら、西洋人研究者はあきれた顔をしたと言う。独立心を大切にする西洋では赤ちゃんが一人で別の部屋のベッドに寝かされることも珍しくないらしい。東洋では同じ部屋で家族に見守られるケースが多いだろう。我が家ももちろん同じだし、土日には祖父母も現れる。
こどもが少し大きくなってくると、西洋人のこどもは「お母さんの選んだ問題」に興味を失い、自ら選んだ問題の回答に強い意欲を見せる。逆に東洋人のこどもは「お母さんの選んだ問題」の回答に熱心である。東洋人は何事も場に依存しているのである。
大人になってからも同じである。多国籍企業IBMの調査が紹介される。西洋人の社員は個人の独創性が奨励されそれを発揮できる仕事に強い意欲を感じるが、東洋人は全員で力を合わせる仕事を好んだという。これには労働市場の流動性も関係がありそうだ。米国では職業は一時的なものと考える社員が多く(90%)、日本では半永久的なものと考える(40%)社員が多い。
社会環境が異なるので、教育も価値観もまるで異なる内容になってしまう。世界の見え方が根本的に違ってしまう。
(後略)
大きく見れば、東洋は関係性を重んじる一方、西洋は独創性を重んじるといえるでしょう。
これらの違いは、自然環境という外圧、更にそこから導かれる生産手段や集団のあり様など適応様式の違いです。地域に応じた必然性があるもの。したがって、「どちらが良いか」ということは言えません。
しかし、これらの性質の違いを背景にして集団や社会が形成されることは事実です。子育て=教育のやり方が大きく違うのもそのあらわれ。結果として、地域が異なる社会においては、社会的な意識構造が異なってくることになるわけです。
では、私たち日本人の特徴は何なのか。活かすべき長所はどこにあるのか。その一つの回答として、るいネットより以下の投稿をご紹介します。
■日本人の可能性 共同性の差がもたらす東洋・西洋の観念体系の違い
西洋人/東洋人(その中でも日本人)の民族性の違いは、人間の本性である共同性がどれくらい残っているかによって規定されています。(『人類の本性は共同性にある』リンク リンク )
東洋であれ西洋であれ、始原人類はこの共同性を育みながら、共認充足を最大の活力源として何とか生き残ってきた存在です。
約5000年前にイラン高原で勃発した人類最初の略奪戦争は、玉突き的に東西に伝播していきますが、皆殺しが常態となっていった西洋に比して、東洋は支配・服属という形が主流となります。特に、日本列島では、大規模な略奪戦争は発生せず、中国大陸の負け組みが渡来人として定着していきました。
この大規模な略奪戦争の有無によって、西洋人、東洋人、日本人、それぞれの共同性に大きな差が生まれ、民族性の違いを生んでいます。つまり、皆殺しにまで発展した戦争を経験した西洋人は周囲に対する警戒心が高まり共同性が失われ、そのような戦争を経験していない日本人は警戒心がそれほど高まることなく共同性が保持されています。
この「共同性」が影響を与えるのは、何も人間関係だけではありません。共同性の根本にある自分と相手を同一視する機能は、観念機能のあり方にも大きな影響を与えます。(対象物である自然との同一視を通じて作り上げられた日本の観念体系と、自然を警戒すべきもの→征服すべきものとして捉えて作り上げられた西洋の観念体系)
この観念のあり方の違いが、その後の文化・芸術の発展過程をも分けていきます。日本では、できるだけ主観や自身の感情を排して対象をありのままに描写する方向で文化・芸術が発展していきますが、西洋では自身の感情を(大げさに)描写する方向で発展していきます。(日本の浮世絵⇔西洋の宗教画/日本の俳句⇔西洋の叙情詩)
1970年前後、ヨーロッパ(特にフランス)において、西洋の(主観的な)言葉・観念のあり方が大きく見直される中、最終的に注目されたのは「俳句」でした。俳句では自然への描写を重んじるだけでなく、先人たちが築き上げた「型」に当てはめることによって、言葉の使い方にまで人間の主観的な要素が入り込まないようにしている様式です。(そして、今ではフランスの中学・高校で「俳句」が教えられています)
自然への同一視、共同性が残っていたため、ここまで人間の主観を排除し続ける観念体系を築きあげることができたのでしょう。このような観念機能のあり方(頭の使い方)によって、現実を直視し続け、その本質をつかみ出すことができると考えています。
地域差による適応様式の違いは、ものの見方=認識の違いに結びつき、ひいては頭の使い方=観念体系にも影響を与えるという内容です。確かに、そのとおりだと思います。そして、このあたりから日本人の長所=可能性が見えてきませんか?
現実の問題を突破するためには、事実を正確に見定める必要があります。当然、主観を押し通すための詭弁など無用。それに最も近いのが、私たち日本人の認識方法であり、それをもとに形成された観念体系なのです。
自他の隔たりをなくして、相手と同じであることに喜び=充足を感じる。このような共同性を基にした思考の軸は、私たち人類の充足の軸とも重なります。したがって、私たち日本人の観念体系は充足の観念体系であると捉えなおせると思います。
いかがでしょうか。
- posted by hayabusa at : 2010年07月10日 | コメント (3件)| トラックバック (0)
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