2010年07月16日
単一起源説vs多地域起源説を切開するvol.8 その論争に意味はあるのか?
シリーズ「単一起源説vs多地域起源説を切開する」、今日は第8回をお届けします。
シリーズ「単一起源説vs多地域起源説を切開する」インデックス
vol.1 『起源説の概要』
vol.2 『単一起源説を支持する分子遺伝学的証拠とは?』
vol.3 『ネアンデルタール人、現生人類と交配?』
vol.4 『DNA解析って何? 』
vol.5 『DNA解析って何?-2~分子時計』
vol.6 『DNA解析って何?-3~分子進化系統樹』
vol.7 『DNA解析(先端技術に潜む罠)』
前投稿では、「学問のお金化」「報道のお金化」による弊害を引用させて頂きましたが、問題の本質は「お金化」そのものにあるのではありません。学問であれ、報道であれ、それが何のために必要なのかという根源的な部分での目的意識がすっぽりと「自分発」に塗り替えられてしまったことが、事の本質ではないでしょうか?
ここで、皆さんに紹介したい一文があります。
【実現論】序文:徹底した現実直視と事実の共認
社会が全面閉塞に陥ったその病根は、(危機が迫っているにも拘わらず、どこからも突破口が提示されないぐらい)とてつもなく深い所にあり、人類の進むべき方向を確定する為にはとことん歴史を遡って、人類の原基構造を解明してゆく必要があるだろう。その意味では、この書はサル時代や哺乳類にまで遡って人類の存在構造を解明しようとする、悠大な史観である。
人類の起源を追求する以上、この視点は不可欠ではないでしょうか?
この視点から、この間の論争の意味を考えてみたいと思います。
応援よろしくお願いします 🙄
「単一起源VS多地域起源」。学者のその論争は本質的に意味があるのか?①
「単一起源VS多地域起源」。学者のその論争は本質的に意味があるのか?②
【引用、一部編集】
現代人は単一起源か多地域起源か?人類学者達はこの問題の解明に熱心に取り組んでいるらしい。しかし私はこの問題について、そのどちらが正しいか以前に、この論争に果たして意味があるのか?という根本的疑問を持っている。それは以下の点においてである。
まずこの問題は、現代人というの種の起源を明らかにするという事だから、その起源とされる対象が、それ以前の存在に対して「種」として明確に枝分かれし分化しているということが前提となる筈である。ところで、その種が同種か別種かはそれらが交配可能で子孫を残せるかどうかで一般的には定義される。しかし、今、学者が言う現代人は、それ以前の旧人(ネアンデルタール人に代表される)と、そもそも異種(生物学的な意味で)ではない可能性が高い。
DNA的な距離はネアンデルタール人と新人ではそれほど遠くない。ネアンデルタール人と新人を比較した場合脳容量は1500ccでほぼ同等。形態上も文化レベルも言語能力も新人と大差がない。形態上異なるのは眼の上の出っ張り下あごの先の「オトガイ」が発達していることぐらいだが、これは基本的に煮炊きの発達や道具の発達によって咀嚼器官に対する負荷が弱まったためと考えられ、生物種としての差異とは考えられない。またネアンデルタール人以前の旧人では頭骨が前後に長くなっているが、これも前記の理由に加えて、現代人が前頭葉部分を発達させたためと考えられる。つまり何れも観念機能の発達→道具の発達という問題に集約される問題である。
現在でも学術上は、現代人は現代型ホモサピエンス、旧人は旧来型ホモサピエンスとも呼ばれており生物学的な種としての差異が認められていない。ネアンデルタール人は50万年以前に現生人類の祖先と「分岐」したその生き残りであると言われ、論争上問題になっている現代人の祖先なるものは、10万年前から20万年前までに「登場」しているらしいが、この「現代人」はそれ以前の種と連続していることになる。
因みに、4万年前~3万年前にかけては、新人であるクロマニヨン人と旧人であるネアンデルタール人は同じ時代に共存していたようだが、DNA解析によれば、この時は確かに混血は起こっていないらしい。しかしこれは人類の婚姻のありようを考えれば、ごく当然である。なぜなら人類集団は点在しており、かつ互いにまれにしか遭遇せず、婚姻は集団内部で行われていた。かつ人類は共認動物であるがゆえに、当時であれば言語も当然違った別集団と婚姻上交わることは非常に考えにくい。だから混血が行われていないからといって種が違うという証拠には全くならない。
このように考えていくと現在行われている論争の意味が訳がわからなくなってしまう。
人類進化上の観点で見れば、人類は、一番遡って見ても旧人以降はDNA的な種としての進化というより(=種が変わったわけではなく)、もっぱら観念機能に基づく集団としての文化(生存形態のありよう)の差異を作り出し、付随的に肉体機能も部分的に変化させてきた生き物である。この論争はその事実を無視した論争である。かつ生物学上の観点から見ても、彼らが言う現代人の祖先なるものは、生物学的な規定に基づくものでさえなく、彼らの頭の中で作られた観念的な区分に基づいて作られたものである。その意味で、これは一見科学的な分析を行っているがその出発点において、「科学的事実」の根拠が希薄なのだ。これは一体何のための論争なのだろうか?
ところで単一アフリカ起源説は、聖書のノアの説話(他の集団は滅び、一つの集団だけが脱出してその後の世界を築いていった)によくたとえられるといわれる。この意味不明な論争には、どうも不透明感が付きまとう。その背後にキリスト教・ユダヤ教の影を感じる。これは彼らのイデオロギーを正当化しようとせんがために「神学論争に持ち込まんが為の、作られた科学的論争」ではないか、と考えるのは余りにも邪推と言うものであろうか?
同感です。この間の捏造問題も考えあわせると、学者というのは「科学」という仮面を被った商売人なのではないかとさえ思ってしまいます。
最後にもう一度 【実現論】を引用します。
【実現論】第一部:人類:極限時代の観念機能
かくして人類は、生存課題の全てを本能⇒共認⇒観念(精霊信仰)へと先端収束させる事によって、観念機能(→二〇〇万年前の言語機能を含む)を発達させ、その事実認識の蓄積によって生存様式(生産様式)を進化させていった。そして遂に1万年前、弓矢の発明によって外敵と対等以上に闘える段階にまで生存力(生産力を含む)を高めて、過酷な生存圧力を動物一般レベル以下にまで克服した。人類は、ここまで五〇〇万年を費やして共認機能⇒観念機能⇒生存力(生産力)を進化させてきたが、その間、サルの主圧力であった同類闘争圧力は全く働いていない。しかし、忘れてならないのは、同類闘争圧力は働いていないが、極限的な生存圧力と、それ故の期待・応望の同類圧力は極めて強力に働いており、この強力な生存圧力⇒同類圧力こそが、観念機能と物的生存様式を生み出し、進化させてきたのである。
この観念機能(特に言葉)は、サルが頼りにする表情や身振りによる共認よりも、遥かに多様で容易な共認を可能にし、共認内容の無限の組み替えを可能にする。従って、観念機能こそ、DNA進化に替わる新たな進化機能=共認機能の完成形態であると言える。しかし、観念機能がDNA組み替えを超えた新たな進化機能であるという事は、その機能を獲得した人類は、その共認=観念内容によって進化もすれば退化もする可能性を孕むことになる。
論理整合性のある大胆な仮説の提示。それこそが、人類の進むべき方向を確定させてくれるのではないでしょうか?
- posted by naoto at : 2010年07月16日 | コメント (3件)| トラックバック (0)
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