2010年12月12日
黄河下流域の大汶口・山東龍山文化-階層分化と父系血縁家族単位での序列化-
黄河中流域の仰韶・龍山文化-遺跡と婚姻制-に続き、黄河下流域の大汶口・山東龍山文化を、集落や墓葬から、集団規模や集団単位・婚姻制を見て行こうと思います。(参考:宮本一夫著『中国の歴史01 神話から歴史へ』)
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今日は黄河下流域の後李文化(8500~7500年前)⇒北辛文化(7300~6100年前)⇒大汶口文化(6200~4600年前)⇒山東龍山文化(4600~4000年前)の流れの中で墓制の変化から、階層分化と父系制への流れを見ていこうと思います。
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【後李文化と北辛文化】(8500~6200年前)
■後李文化と北辛文化とは、雑穀農耕が基盤
この段階は階層差などはあまり見られない等質的な社会であり、集落を含めて等質的な共同体として集団が構成されていた。
また、黄河中流域の人々が周辺地域の諸集団と交流を繰り返した痕跡がある。
その交流とは、貴重な彩陶を媒介とする交易であったり、彩陶を提供することによって他集団と誼を結ぶもので、貴重なものを与えること(注:贈与)で、お互いの胸襟が開かれていったのであろう。
【大汶口文化前期】(6200~5500年前)
■墓制の身分標識や墓葬の基本構造を作った大汶口文化
紀元前4200年~紀元前2600年(6200~4600年前)の大汶口文化期は、安定した農耕生産を背景に階層分化が広がっていく段階である。
墓葬における副葬品の数量や種類などの多寡によって、次第に階層格差が広がっていくことが理解できる。また、墓葬構造にこれまでの土壙墓のといった地中に墓壙を掘って直接死体を埋めるものだけでなく、木棺に安置して埋める木棺墓が出現する。その上に、単なる土壙ではなく地下に木質の部屋であるいわゆる木槨が作られ、その木槨の中に木棺が配置される木槨墓が出現するのである。大汶口文化後期の大汶口遺跡25号などがそれにあたる(下図)。
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木槨墓・木棺墓・木壙墓の順で階層上位者になるが、このような墓制の身分標識やその基本的な構造は、後の殷周社会にも受け継がれるのであり、その基本構造が大汶口文化において認められることは注目しておくべきであろう。
【大汶口文化中期】(5500~5000年前)
■大汶口文化中期には階層格差と、階層構造が確立される
大汶口文化中期にはこうした階層格差が明瞭となり、階層構造が確立していく。
これを示すのが大汶口墓地での実例である。大汶口文化中期前半の墓では、墓の規模に格差はほとんどないが、大汶口文化中期後半になると、次第に墓壙の大きい墓と小さい墓の区別が生まれていく。
さらに大汶口文化後期になると、墓壙規模は大きい墓群と小さい墓群というように、墓葬分布上でも差違が生じてくる。
この動きは、家系単位での階層格差が次第に広がっていくことを物語っている。さらに墓壙規模の格差は墓葬の副葬品において服装土器の数量の多寡と呼応しており、身分差が明瞭になっていくことを示している。
男系氏族社会が形成されていたことが推測されるが、この推測をさらに補強する事実が明らかになった。それは男女合葬墓にあった。
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合葬墓とは男女が同時に埋葬されたものであり、一般的に女性が男性の死に際して殉葬されたものと考えられている。墓葬構造、副葬品の数量や種類から全て相対的に男性が優位な立場で埋葬されているのである。
こうした合葬墓に関しては、これらを兄弟親族と考えるよりは、対偶婚による夫婦関係の男女と考える方が素直でだろう。婚姻家族による男系の優位を示す事例であり、いわば男尊女卑の社会格差がすでにこの段階に生まれていたことを示す事実と解釈されている。父系血縁組織を単位として社会格差が進行していったのである。
【大汶口文化後期】(5000~4600年前)
■大汶口文化後期には、集落規模も三段階の階層に
新石器時代後期の大汶口文化後期には、このような男系氏族社会を中心に社会の階層格差が広がっていった。
新石器時代後期の大汶口文化後期から山東龍山文化期(4600~4000年前)は、血縁家族単位での序列化が進んでいく段階である。
また淮河流域を中心に、環濠集落の内部に長屋式住居(注:一対世帯用。黄河中流域参照)も発見されている。
【山東龍山文化期】(4600~4000年前)
さらに新石器時代後期の山東龍山文化に至ると、集落を城壁で囲んだ城址遺跡が山東地域においても出現していく。
城址遺跡の規模から見ると、規模の大きい中心的な城址遺跡と、その周りを規模がやや小さく衛星的な城址遺跡が取り囲み、さらに城壁をもたない一般集落がそれを取り囲むという3段階の構造が考えられている。集落そのものがピラミッド型の階層構造を示すように配置されているのである。
地域集団が祖先祭祀を含めた信仰を核にまとなり、さらに地域集団間での統合を目指す、政治的な同盟関係を含めた地域集団の統合が始まっていく。
集落を囲む城壁とともに、戦闘用の矢である鏃(ゾク)などが大型化するなど武器として進化していく。
そして、地域集団の首長墓も、それまでは氏族単位でまとまって配置されていたが、単独に墓葬地を形成するようになり、特別な存在として特化していく。
山東龍山文化のグループの一つである、河南省南東部の淮河支流域の王油坊(オウユボウ)類型は、良渚(リョウショ)文化が繁栄を極めていた長江下流域にまで分布域を広げていく。
次回は、その長江下流域を見ます。お楽しみに
- posted by yidaki at : 2010年12月12日 | コメント (0件)| トラックバック (0)
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