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2010年12月31日

長江下流域の馬家浜・崧沢・良渚文化

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長江下流域は海浜部に当たるため、新石器時代早期・前期(7000年前まで)の遺跡は、ヒプシサーマルの海進で水没ないし地形環境が変化し明確でない。
そこで中期~後期(7000年前~4000年前)を見ます。(参考:宮本一夫『中国の歴史01神話から歴史へ』)
(写真は良渚文化期の玉璧。こちらからお借りしました。)
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image20101231002.jpg
※上図は長江下流域の新石器時代主要遺跡。
新石器時代中期の馬家浜(バカホウ)文化期(7000年前~6000年前)
河姆渡遺跡(7000年前~5300年前)
遺跡周辺は湖沼が発達し、イネ栽培に適していた。出土した中期初頭(7000年前~6500年前)の多量の稲籾は大部分が栽培イネであり、一部野生種が存在している。この段階はまだ水田は存在せず、天水田ともいうべき谷部を利用してのイネ栽培であった。
また菱の実などの採集、小動物の捕獲、漁撈も重要であり、住居は湿地性の環境に適した高床式住居で、生活一般は華北地域とは大きく異なっていた。
江蘇省常州市圩墩(ウトン)遺跡の墓地
副葬品には、男子には鹿角靴形器(ロッカククツガタキ)、女性には紡錘車が伴い、性別による違いが重視されている。
また抜歯の風習もあり、性別による形態差が認められる。埋葬配置も、完全ではないが性別ごとに列をなしている。
この段階の社会は、性別を基礎単位とした社会的分業が盛んで、稲作農耕は採集活動の延長として女性が主に担った。稲作は多角的な生業の一つで、男性による狩猟や漁撈がかなりの比重を持っていた段階であろう。
(引用者注:この段階は母系社会と見ていいであろう。)
新石器時代中期後半の崧沢(スウタク)文化期(5900年前~5200年前)
性別を基礎単位とした社会から、血縁家族集団が社会の基礎単位になっていく段階。
上海市青浦県崧沢(スウタク)墓地
崧沢第二期墓地は、三群の墓群から成り立っており、墓群間で副葬品構成や数量において、圩墩墓地と異なって格差が出現していくが、性別分布も依然強い段階である。
しかし崧沢第三期墓地になると性別分布は見られず、血縁関係を紐帯とする集団の墓群間に格差が広がっていった。
崧沢文化期から新たに耕起具として石犂(セキリ。犂耕用具)が出現し、初期は人間、その労働量からみて男性によってなされたと考えられる。
これまでの女性主体の稲作農耕から、男性も組織的に組み合わされた集約的な農耕へ進展した。これに伴い、稲籾が現在の栽培種に近い大きさまで飛躍的に大型化した。
経営単位は、墓群に見られる婚姻家族を基礎単位とした血縁集団=氏族集団であろう。
(引用者注:この時代は母系から父系社会に移行する過渡期と見ていいだろう。)
新石器時代中期末から後期の良渚文化(5300年前~4200年前)
さらに集約的な稲作農耕が進展し、本格的な灌漑水田が出現する。また、それまでは一定以上のシカなど野生動物が含まれていたが、飛躍的にブタなどの家畜動物の割合が高まる。生産性が向上し、急激な人口増加と遺跡数の増加をもたらした。
一つ一つの墓葬が土饅頭のように築かれていたものが、特定の集団ごとにまとまって大きなマウンドとなった墳丘墓が成立する。在来の墓が集積したものなので在来墳丘墓と呼ぶ。
一方、もともと祭壇として築かれたマウンドをその後に特定集団墓として墳丘墓とする「祭壇墳丘墓」が、良渚文化中期(4700年前頃)から現れるが、これは階層上位者の墓である。
祭壇墳丘墓の副葬品でとりわけ目立つのが玉器の量の多さである。
天の神と地の神をつなぐものと考えられる祭祀具=玉琮(ギョクソウ)。
武器であり、軍事権を示す威信財=玉鉞(ギョクエツ)。
邪悪なものを除く祭祀具で、外面に神人獣面文と呼ばれる文様が彫り込まれている玉璧(ギョクヘキ)。この獣面文は殷周社会の青銅器に見られる饕餮文(トウテツモン)の原形とされる。
男性が祭祀権や軍事権という首長権力を身につけていた。
image20101231004.jpg
良渚文化期は、(上図のように)大湖を巡る諸地域の首長が男系血縁単位を核とした階層構造を構成し、地域首長が玉琮など玉器を保有しながら、より下位の地域首長には玉器を贈与ないし分有させることにより、祭政システムによる同盟関係を構築していた。
地域間での首長の序列化が形成されつつあるものの、その序列化は不安定かつ流動的で、王権の段階には達しておらず、首長制社会の枠組みに収まる。
良渚文化の突然の終焉と馬橋(バキョウ)文化(4000年前~2700年前)
良渚文化は突然の衰退とともに、文化的には洗練度の低い馬橋文化に移行する。
この終焉の原因は、大規模な水害などの自然災害とする説が有力である。紀元前3000年紀には気温の冷涼化に伴い大規模な洪水が起きた可能性があり、現に良渚文化の包含層の上には厚い洪積層が覆う調査事例が幾つか見られる。
衰退していく良渚文化の周辺域では、例えば上海市の広富林遺跡のように、黄河中流域の河南省龍山文化王油坊類型が淮河流域から広がっていった。
王油坊類型の南に向けた広がりの中に、良渚文化の系譜を引きながら、馬橋文化の成立があった。
――――
次回は長江中流域を見ます。お楽しみに

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