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2014年04月04日

再読 日本婚姻史 奈良時代の婚姻 ~国家制度としての婚姻・・・藤原不比等の策略~

toudaizi
皆さん、こんにちは。今日の記事は『再読 日本婚姻史』シリーズです。

本シリーズではこれまで、以下のような「再読」を行ってきました。

1)再読 日本婚姻史 「先土器時代(旧石器時代)」

2)再読 日本婚姻史 縄文時代 集団の有りようの検討と婚姻様式

3)再読 日本婚姻史・・・縄文時代の婚姻様式:集団密度との関係について

4)再読 日本婚姻史 「縄文から弥生への婚姻様式の変化」

5)■再読 日本婚姻史 「弥生時代の父系文化への移行~父親観念の発生~」

6)日本婚姻史再読シリーズ 妻問婚から婿取婚への移行期(古墳時代~飛鳥時代) 氏族の誕生と継承

 1万5千年前の旧石器時代から、各時代の婚姻について述べてきたシリーズ。7回目の記事になります。

今日の話題は、前回の「古墳時代~飛鳥時代」の次の時代、「奈良時代」の婚姻についてです。ここでも、男女の婚姻に特徴的な変化が現れます。
時はすでに日本という国家を形成しつつあった時代。単位集団としての婚姻様式だけで語れる時代ではありません。そのため、まずは、社会的背景と対比的に時代を眺めてみるところからはじめます。飛鳥時代~奈良時代の概要です。

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■飛鳥時代~奈良時代の概要                                                 
1)律令国家の概成
 まず、日本史の教科書の復習です。
飛鳥時代、有名な政治改革「大化の改新」を経て『改新の詔(みことのり)』が発せられたと日本書紀にあります。ここでは、戸籍(戸籍・計帳)、徴税(班田収授法)についての考え方が述べられているほか、従来の共同体的な婚姻習慣に変えて、制度として婚姻が位置づけられました。その後、701年に『大宝律令』が発せられ“律令国家が形成された”と歴史の教科書にはあります。
年表

 大宝律令は、現在の刑法にあたる「律」と、それ以外の法律(行政法・訴訟法・民法)にあたる「令」からなります。なかなか分厚いこの法律は、中国の唐の律令を参考にして変遷された当時としては最先端の法律だったと言います。大きく捉えると、飛鳥時代後期~奈良時代初期に、概ね中央集権的な法治国家の制度的基礎が出来上がり、以降、約90年近く続く奈良時代へとつながっていくと考えてよいでしょう。

2)支配層の実態・・・命がけの権力闘争
 ここで、学校の教科書ではあまり注目されないところを見てみます。それは、この当時(それ以降も)、支配者層ではドロドロの実にえげつない権力闘争が繰り広げられていたということです。

大化の改新を象徴する乙巳の変(645年)→蘇我氏滅亡、天皇の継承権をめぐる壬申の乱(672年)、その勝者たる天武天皇一族の大津皇子が謀反を疑われて自殺に追い込まれる(686年)…などなど、大小数え切れない“やったやられた”が繰り返されています。
改めて歴史年表を見てみると、天皇が10年内外のスパンでコロコロ入れ替わっていることに気付きます。そして、その横には少なからず「滅ぼす」とか「処刑」とか「自殺」などと書かれています。これ、実は大変恐ろしいことです。滅亡とは「一族郎党皆殺し」。それに近いことが十年おきくらいで繰り返されていたということになります。支配層の実態は、まさに、命がけの権力闘争に明け暮れる時代。そういっても過言ではないでしょう。

これは、とりもなおさず、当時の支配層が渡来人の系譜を受け継ぐ人々、もしくは渡来人そのものであったことを意味します。
概ね平和的で他集団との共存路線をとってきた在来の日本人が、短期間のうちに権力闘争(謀略や暗殺など)に血眼になるというのは話が飛躍しすぎです。日本史の教科書は明言を避けていますが、前回の記事で指摘したとおり「彼らは大陸で失った家系を日本で再興し、日本における「皇族や有力な氏族」となっていったことと繋がります。」というのが史実でしょう。
したがって、飛鳥~奈良時代は、「支配層」=渡来人、「庶民」=在来の日本人、と大きく二つに分断された社会構造が、法(律令)制度という観念体系によって整理・確立されていく時代とみなせます。

 

■藤原氏の台頭                                                         
1)不比等の政略
 乙巳の変で蘇我氏を滅ぼした中臣鎌足。彼が、藤原姓の始祖です。大化の改新の功績により天智天皇から藤原の姓を賜ったといわれています。そして、その息子である藤原不比等が、前述の大宝律令(701年)、その後の養老律令(718年→757年施行)の制定に大きく関与しました。不比等は、律令制度の確立をはかりつつ、政界への勢力拡大を実行します。彼が実現を目指したのは、大きくは以下3点でしょう。
(1) (自らの)地位の確立    ⇒ 階級・官職の整備
(2) (自らの)富の確立      ⇒ 徴税制度の整備
(3) (自らの)地位と富の継承 ⇒ 婚姻制限=父系制の浸透

前述のとおり、大宝律令および養老律令が参照したのは中国=唐のシステムです。その考案者が、自らの都合が良いようにオリジナルにはないプログラムを埋め込む、というのは容易に想像できます。それにくわえて、不比等は、藤原一族の権力を確固たるものにするため、実に周到なやり方をとりました。それは「天皇」との「政略結婚」です

2)天皇との政略結婚
 古くは、隣接集団との和平関係を保つための族外婚=交叉婚。これは和平という方針(≒政策)を実現する目的を帯びた婚姻です。作為的な意図はありませんが、広く捉えれば、集団間での政略結婚と捉えられなくもない。そう考えれば、過去から一貫してこのような目的で婚姻は行われていました。
ところが、ここに地位をからめて、さらにそれを制度として成立させるという、明らかな意図(≒作為)をもったやり方をしたのは、藤原不比等が初めてでしょう。具体的に、彼がやったのは以下2点です。
(1)大宝律令の中で「天皇」を正式名称とし、頂点の地位として確立した
(2)自らの娘を天皇の妃とした

不比等は、それ以前に確固たる呼称がなかった「天皇」について、自ら制定に関わった法制度の中で正式名称と地位を定めました(図版はそれを示す出土品の木簡です。天皇の字が見えます)。
木簡 その上で、娘の宮子を文武天皇の妃にして、生まれた子供を天皇(聖武天皇)に即位させます。さらに、自分の娘の光明子を聖武天皇の妃とします(←叔姪婚(しゅくてつこん):三親等以内の結婚)。当時、近親婚は珍しくありませんが、わざわざそうすることに特段の意図がないとは考えられません。いずれにしても、天皇家との結びつき=血を濃くすることで、勢力の拡大をはかったことに違いはありません。後に政界で権力を振るう藤原四兄弟(南家・北家・式家・京家)は有名です。

3)後世に続く藤原家
皇后史 (1)
 余談的になりますが、藤原家と天皇家の結びつき、言い換えれば、藤原氏の政略結婚攻勢の執拗さを示す実例を紹介します。それが左の表、「皇后史」です。これ、すごいですよ。奈良時代以降、皇后の出身は藤原姓ばかりです。それこそ延々と、ほとんど切れ目なく藤原が連なっています。ここでは省略しましたが、実は、鎌倉以降、江戸時代までも皇后の出身には藤原が連なっています。

ここまでを俯瞰すると、国家の頂点たる天皇の地位を確立したのは藤原氏であると解釈できます。そして、それに天皇家も相乗りして、富と権力を継承してきたと考えて大きな間違いはないでしょう。まずは、奈良時代の直後、平安時代の「摂関政治」で不比等の政略は大きく実を結びます。(詳しくは次回の記事で)

 

■制度としての婚姻                                                       
 ここからは、不比等が定めた律令の中身を見ていくことにします。前回の記事で参照した『古代における婚姻形態―平安期貴族社会を中心に』を引き続き参考にさせていただき、考察します。ここからのお話も、貴族階級や有力豪族、すなわち支配階級に関するものです。

1)婚姻制度
 大宝律令は、日本で初めて整備された法制度ですから、そのなかで定められた婚姻も日本初の婚姻制度ということになります。その内容の多くは中国の唐の律令(唐律)を写したもので、一部が改変されています。以下、その概要を述べます。

1)   婚姻の要件
・男子15歳以上、女子13歳以上であること。
・親子間の婚姻でないこと。
・良民と賤民の間の婚姻でないこと。
・妾が存在しても差し支えないが、重婚でないこと。
・父母の喪中でないこと。
・祖父母、父母、伯叔父母、兄弟の同意があること。
・婚約、成婚を明らかにする2回の儀式を執り行うこと。

(2)   婚姻の効果
・妻の財産の管理は夫が行う。
・夫婦には同居する義務が生ずる。
・男女は、婚姻後も実家の姓を称する。

(3)   離婚の要件
・夫の意思により成立する
・夫婦の合意により成立する
・国家により強制され成立する
・男性が失踪もしくは事故などによって婚姻の継続が不可能となった場合に成立する

(4)   離婚の効果
・夫婦双方の再婚が認められる。
・妻が実家より持参した財産は、その時点で現存するものが返還される。

(5)補足事項(妾について)
・妾の存在が認められている。
・妾の法的な扱いは、妻のそれに対して劣後している。
(ex.夫が妾を殺害した場合の罰則規定は、妻を殺害した場合のそれよりかなり軽い)
・一方、妻と妾の地位を同一のものとみなす条文が少なからず存在する。

2)相続制度
 婚姻を制度化したことによって、相続についても別の条項によって制度化されます。以下、大宝律令における概要を述べます。

(1)家督(あととり)の相続
・嫡子長子(妻が産んだ長男)が第一相続権者である。
・二位以下は、嫡出長孫、嫡妻長子同母弟、庶子(妾が産んだ子供) である。

(2)   財産の相続
・財産とは、家屋、家人(家臣、家来)、奴婢(賤民)、財物 である。
・相続権第一は、嫡子長子。財産の半分が相続される。
・残りの半分を、嫡子・庶子の全てが均分する。

3)律令による婚姻制度・相続制度の特徴と目的
大宝律令、養老律令ではいずれも、「夫」や「長男」の権限が最大と規定されています。今現在はこれと似たような制度が採用されていますから、それほど大きな違和感はないかもしれません。しかし、当時の状況を考えると、全く異なったものに見えてきます。

当時の社会は、日本全国が「母系。支配階級(天皇家を除く)においても母系が踏襲され続けてきました。したがって、社会を構成するための規範や慣習も、女性を中心に据えて形成・継承されていたはずです(父親という概念が存在しないくらいですから)。それを、がっさり引っくり返す大改革を行なおうとしたわけです。端的に言うと「父系」転換。社会の根本原理を180度引っくり返そうというのですから、パラダイム転換に匹敵する大改革です。藤原不比等が、大宝律令・養老律令で唐律を模写した最大の意図はまさにここにあります。彼の目的は、中国の父系社会を日本でも構築し、男性を中心とした婚姻制、財産制、相続制を実現することにあったのです

 

■制度と現実の相違                                                       
 わずか数十年の間に、既存の規範や慣習を引っくり返そうとする不比等の大改革はかなり乱暴でした。そのため、制度と実態が相違している場合があります。それらついて『古代における婚姻形態―平安期貴族社会を中心に―』 を参考にさせていただき考察してみます。

1)妾の規定について
<制度>
唐律と律令で「妾」の扱いはずいぶん違っています。唐律では、妾は正式の家族とはみなされません。そのうえ、妾は売買の対象だったそうです。しかし、律令では、妾の家族的な地位は妻と同一とみなされています。また、妾を売買する条文は削除されています。
<実態>
奈良時代は妻問い婚が主です。方々の女性を訪ね歩く男性が、妻と妾を明確に区別し、かつその意識を変わることなく維持できたか、いささか疑問です。むしろ、妻問い婚の様式ではそのような意識が形成されないため、実態を鑑みてオリジナルの条文を変えたと考えるのが自然でしょう。妾の売買についても同様。母系集団に属する女性を売買することは、実質的に不可能です。

2)離婚について
<制度>
律令の離婚要件では、男性だけが一方的に離婚を宣言する権利を有しています。女性にはありません。
<実態>
男性が明確に離婚を宣言することは稀で、男性が通ってこなくなること(「夜離れ」や「床去り」という)をもって事後的にそうと察することがほとんどだったようです。
こうなると、女性は、夫が通ってくるのを待ち焦がれることになったかもしれません。ちょっと気の毒な気がしますが、女性の生計は生家(母系集団)に保護されています。夫に捨てられたからといって、路頭に迷うことはありません。妻問い婚の離婚が、生死を分かつような重大さを伴わないため、制度によらず、曖昧に済ませていたのだと思います。

3)相続について
<制度>
律令の相続の規定では、嫡子長子(妻が産んだ長男)が家督と財産の過半を受け取ることが定められています。
<実態>
(家督ではなく)財産に関しては、娘にほとんど全てを相続させた事例が多いそうです。男性(父や夫)は、後見的に女性の財産の管理を行っていたらしい。
これは、女性が財産を得る機会が男性に比べて少ないため、保護的意味合いで制度によらず相続を行っていたと考えられています。くわえて考えられるのは、妻問い婚の様式では、妻方に居を構えていない夫の発言力は限定的という視点です。たとえ制度がそうだったとしても、他に正当な必要性のある娘への相続を、夫(←妻の集団にとってはほとんど他人)の発言だけで覆すのは、難しかっただろうと思います。夫の意思で嫡子長子への相続を実現するためには、妻方への利益供与にくわえ、居を構えて発言力を養う必要があったのだろうと思います。婿入り婚がそのきっかけかと思います。

 

■考 察                                                              
1)母系制社会に父系制を接木する「苦心」
 藤原不比等が制定した大宝律令、養老律令は、父系制への先鞭をつける大改革であったと思います。その一方で、強く残存する母系制社会と折り合いをつけながら運用せざるを得ない実態は否定できません。まさに、先回の記事で「これも、異国の婚姻様式を接木しようしたことから生じる歪なのです。何とか折り合いをつけようと、男が複数の女(場合によっては近親者)のところに通い、嫡子を設けた女を妻とするなど、現実(母系制)を受け入れながら父系社会を苦労して構築していく様子が伺えます。」と申し上げたとおりでしょう。

2)生産力を持たないがゆえの「苦心」
 中国や朝鮮からやってきた敗残の渡来人は、大陸の最先端の技術や制度設計には通じていたかもしれません。しかし、日本で新たに国を立ち上げるほどの生産力はない。この点は、日本在来の母系氏族集団に頼るしかなかったわけです。そこで、権力の座についた後も日本人女性のもとに足しげく「通う」。平安時代に、自らが母系氏族集団に入っていく「婿入り」に至るのは、相手社会への影響力を高める意味では、必然の流れだと思います。
それにしても、地道。時間がかかる。史実として、生産力を伴った集団の規範や習慣は強い、ということでしょう。

3)日本の母系制社会
 一方、日本の母系制社会を評価すると、中国の強硬な制度をやすやすと受け入れない“強さ”を持っていた、と言えるでしょう。それはおそらく、長年をかけて醸成された必然性のようなものだと思います。制度化して明文化せずとも、母系制社会の規範や慣習に極めて高い必然性があり、かつ、それに完全に順応している在来の民がいたこの両者を短期間に塗り替えるだけの必然性を、新しい制度は用意できなかったと解釈できるのではないでしょうか。

このようなことを踏まえつつ、次回は、平安時代の「再読」です。
長々と失礼いたしました。

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