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2020年07月16日

これからの共同体社会はどのように創られていくのか-7

前回は、婚姻には結局なにが必要かを問い返し、子供食堂など地域貢献活動を担う人の意識から危機感からの課題役割、そこで感じる充足感がカギになると述べた。それを実感できる場が共同体である。

歴史的に、人類は共同体を母体として生き延びてきたことはすでに述べた。たとえ国家が消滅しても共同体が残っていれば、生存でき、その文化(世界観、規範意識や評価などの価値)も存続する。逆に共同体が消滅すれば、国家あるいは市場原理という人工的なシステムにより管理され、ばらばらの個人に分解されてしまい、その文化(世界観、規範意識や評価などの価値)が失われる。近代(管理国家や市場システム)が奪ってきたのは、まぎれもなくこの共同体の価値である。

であれば、脱管理、脱市場システムに舵をきることが必要で、親や学校、マスメディアにより植え付けられてきた固定観念が、活力を奪っているのが現実であるから、主体的な意志をどう回復するかにかかっている。

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■主体性の本質とはなにか?

よく、主、客という対語としてとらえられがちであるが、意識としてそういう分断した捉え方自体が間違いだと思われる。

本質的には、すべて同一、同化(つまり一体化したいという欠乏)こそが意識の原点にある。(下記参照)

 

主体性の本質~みんなと一緒に生きているか~

「お手伝い」という言葉があります。これは「手伝う」に「お」の接頭語が入ったものですが当たり前に使っている言葉ですが大変な意味があるように思います。この手に伝えるという合わせた言葉、とても深く味わい深いものがあります。現在では、チームだとか協力とか主体性とか色々な言葉が組織運営について出てきますがこの当たり前の「お手伝い」が何よりも仕事の本質であるようにも思います。

幼いころから、家のお手伝いをして育ってきますが人間は当たり前に協力して働くためにはその働くための智慧を自然に身に着けていきました。その代表的なものが、農業であり里山での暮らしの中で集団を通して助け合い生きる力を育んできたのです。たとえば、みんなで助け合い屋根をふきかえたり、堤防の修理や、家々の柿の実を収穫したり、子どももみんなで見守り、お年寄りもみんなでお世話をする。

これは自分のもののようで自分のものではなく、みんなのものであって自分のものでもある。つまりは生活共同体、共存関係を結んでいたのです。沖縄ではその関係を「ゆいまーる」ともいい相互扶助の関係を築き上げていました。

現在では、自分は自分、他人は他人となってしまってみんなのものという意識は消失してきているように思います。そのことから本来のお手伝いということも意味が異なり単なる役割分担や担当制のように変わってきているように思うのです。つまりは歪んだ個人主義が蔓延しつながりが切られたことで「一緒に生きている」という実感がますますなくなってきているように感じます。

本来の「お手伝い」とは、この「一緒に」という気持ちをお互いが持っていることのことを言います。本当の主体性とは、「自分はみんなと一緒に生きている」という共存意識を持っている人たちのみに発揮されるものだからです。

だからこそ他人事にせず、自分のことだという当事者意識が生まれます。そして会社も同様に、自分の会社であって自分だけのものではなくみんなのものである。みんなのものだからこそ自分も手伝うことができて有難いと感じながら働くことが相互扶助でお互いを活かしあい助け合うことができるということでしょう。

自分というものと全体とのつながりが消えてしまうと主体性は消失します。すると、孤立感や孤独感、そしてやらされ感やさせられ感に変わってしまうのです。結局、何か自分に何かの出来事があったときに気づくのが自分が助けてもらえ所属する会社、仲間や友人、家族など周囲のコミュニティの中があることに気づき直すのです。

だからこそそのコミュニティを守ろうと「お手伝い」をすることは当然のことであり、それが「自分もみんなも守る=お手伝い」ということなのです。手伝っているようで手伝ってもらっているのは自分、見守っているようで見守られているのは自分自身であるという真実に気づくことが共存共栄していくという人間の智慧の本質なのです。

チームかどうか役割とか担当とか議論する前に、そもそもは果たして自分とは自分だけのものなのか、そんなことは一人では生きていけないからすぐにわかるはずです。いくらお金があったとしても、助けてくれる人たちがいなければそのお金を使うこともありません。つまり人間は自分であって自分ではないものの存在に気づけるかどうかが何よりも先なのでしょう。

みんなで一緒に生きていく、その一緒になっている組織を守っていくということにどれだけ真剣に関わり本気で取り組むかが主体性の本質です。

 

■主体性は構造的に認識される認識によって高まっていく

人は、言葉により意識が固定化するので、やはり日々移ろいゆく現実の人々の意識を構造化していくことで、主体性は既はぐくまれていくのではないだろうか?

 

「主体性」と「観念内容」は一体不可分のもの

>つまり、現在は主体性ゼロの状態から、主体性の再構築という過程に入っており、それはとりあえず意味の探索に向かう。この意味の探索において、最初に見つけた意味が仲間である。そして、仲間を飛び越えて、社会的に意味がありそうな課題(勉強、授業)への収束し始めた。この手順で主体性を再構築し始めている。

よく「主体性を持て」とは言われるが、この主体性という言葉の中身がいまひとつわかりにくかったように思う(主体性とは自己主張性のような誤解も多い)。しかし、この投稿によって「主体性の再構築」とは「意味の探索」であることがはっきりした。意味とは価値との繋がり(関係)であり、それは言葉(認識)によって顕在化する。

とすれば、「主体性」とは本人の性格や思考方法に立脚するものではなく、ダイレクトにその観念内容に依るのではないか。 一見、意見もはっきり述べて、自ら考え、すぐに行動するようであっても、観念内容が旧観念のままでは「現実とのズレ(乖離)」が大きくなるだけでむしろ統合や実現を阻害する。

状況変化に対応できない融通の利かない「主体」とは、固定観念(特に都合の良い価値観念)や思い込みなどの観念で頭が支配されてしまっている状態。逆に、どんな事態においても状況を精確に捉え、何の為にやるのかを考え、どのようにするかを判断し行動につなげていけるような主体とは、それを可能にする「構造認識」と一体のものだといえる。

例えば、課題に取り組む時に、その課題の背景、意義(意味)、実現までの手順や道筋(短期<中期<長期というような目標の階層化)などを構造的に認識できるかによって主体性の中身が全く変わる。誰かに課題を依頼する時も同様で、いかに課題を構造化して伝えるか(共認できるか)が仕事の成果を規定する。

そのことの繰り返しが真に必要とされる「主体性」の再構築につながっていくのだと思う。

 

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