2010年04月30日
日本婚姻史2~その4:夜這いの解体と一夫一婦制の確立1
前回の『日本婚姻史2~その3:夜這(オコモリ)は女性から若衆への期待』では、かつての村落共同体では、女性の充足性が集団を存続させる活力となっているという分析を行いました。
オコモリに臨む女性は、「この子を一人前にする」という使命感、「わが子のように可愛い」という肯定視(母性)、「いてくれてありがとう」という感謝など等、「充足存在」と呼ぶにふさわしい心持であったのだと察します。若衆にとっても、そのような充足にあふれた女性は、年齢など関係なく大変魅力的に映ったことでしょう。(リンク)
こうした『夜這い』のシステムが、なぜ戦後急速に衰退して行ったのでしょうか。夜這いが解体され一夫一婦制の確立していく過程を、今回から4回のシリーズで解明していきます。
◎夜這いの解体と一夫一婦制の確立1(リンク)
現代の結婚制度を客観視するために、現代の結婚制度の確立前の男女関係の様式である夜這い解体と一夫一婦制の確立について、触れておきます。
夜這いの解体と一夫一婦制の確立1~4は、「村落共同体と性的規範」赤松啓介 からの引用です(省略部分あり)。明治政府などに対しては、厳しく書いてありました。
まずは、当時人口構成の80%を占める農民の間で「夜這い」が一般的であった江戸時代の様子についてです。
【江戸時代 性民俗は多重的】
夜這いというのは、ムラで一人前に育った男と女との性生活を、どうして維持したら最も矛盾が少なくできるだろうかという実践的方法論である。したがって、そのムラの創成の歴史、社会構造の基盤、住民の意識構造の違いによって、いろいろ変化するのが当然であった。厳密にいえば、一つとして同じものはないことになる。
すくなくとも、徳川後半の日本の全国のムラでは、夜這いは、ありきたりの、どこでもやっていた性民俗なのである。
だいたい夜這いは自村、ムラウチ限りが主体で、他のムラへ遠征するのは法度である。村内婚を主とした段階では、夜這いも一つの結婚形式というべきもので、排除されるような民俗ではない。私は夜這いが次第に固定されるようになったり、妊娠などの機会に同棲生活になったと思う。つまり結婚などという儀礼に固まったのは極めて新しい大正以後の習俗で、古くは夜這いの積み重ねによって自律的に夫婦と同棲関係に移ったのである。したがって徳川時代には三婚、五婚などという重婚も珍しくない。もとより三婚、五婚などというのは幕府の法意識による査定で、農民たちには無関係であった。要するに農民の男女の共同、共棲意識は極めて流動的なものであって、儒教的夫婦意識ではとても理解できなかったのである。彼、彼女たちの共同、共棲関係は、常に流動的、相互的であって、子供は母が養育したので、不特定多数の男たちの責任を追求する意識はなかった。そうした現実を直視しない限り、夜這いの実在を認識する方法も、手段もない。
こうした事象を裏付ける話が「るいネット」に投稿されていましたので紹介します。夜這いの習慣は戦後とともに衰退していったようですがリンク先から判断すると西日本では戦後もしばらく続いていたようです。
◎豊かな性から貧弱な性へ~夜這いの衰退その1 (リンク)
かつて、揖斐川の上流に徳山郷 という平安以前に起源を持つ古い村があって、その奥に能郷白山や冠山という奥美濃山地(両白山地)の名峰があり、このあたりの山深い雰囲気に惹かれて何度も通った。今は無意味な形骸を晒すのみの巨大なダム底に沈んだ徳山の里は、筆者の足繁く通った1970年代には、いくつかの立派な集落があり、春から秋までは渓流釣りマニアでずいぶん賑わったものだ。
そのなかに、名古屋からUターン里帰りした中年女性の経営する小さな飲食店があった。そこでよく食事をして世間話に興じながら、おばちゃんに村の事情を聞いていたが、実におもしろい話がたくさんあった。
一番凄いと思った話は、近所の農家の中学生の娘が妊娠したことがあったが、その相手は祖父だったという。しかし、当時の徳山では、この程度は全然珍しいものでなく、ありふれていると言ったことの方を凄く感じた。
夜になると近所の若者が飲みにくるが、必ず店仕舞のときまでいて「やらせろ!」としつこく強要し、うっとおしくてかなわないという話や、この村では後家女性がいれば、婿入り前の若者たちの性教育係を務めるのが村の伝統的義務とされているというような話も驚かされた。
中学校を卒業したばかりの主人公が、、父の故郷である村へ向かったところ、旅の途中で田舎の山奥に迷い込んでしまった。偶然出会った同い年の少女に助けられ、彼女の母親が営んでいる民宿のある集落 まで案内される。隠れ里であったその集落には、夜這いや実際的な性指導を今も慣習として行っていて…。 民俗学者も絶賛したと言う、柏木ハルコ『 花園メリーゴーランド』より |
◎豊かな性から貧弱な性へ~夜這いの衰退その2 (リンク)
夜這いの結果、もちろん子供ができてしまうわけだが、生まれた子供が誰の子であっても、事実上関係ない。子供の父親を指名する権利は娘にあった。別に実の父親である必要はなかった。夜這いをかけた誰かの内、一番好きな男を父親に指名するのである。これが、やられる側の娘の権利であった。
夜這いを拒否することは、男にとって大きな屈辱だった。そんなことをすれば後々まで男に恨まれて「八つ墓事件」のような事態が起きかねない。津山殺戮事件の裏には、こんな背景も考える必要がある。
父親を特定することが意味を持つのは、子供たちに受け継がせるべき財産・権力のある有力者に限られていて、持たざる民衆にあっては、受け継がせるべきものもなく、名もない我が子種を残す必要もなく、したがって、女房が誰の子を産もうと、どうでもよいことなのである。
生まれた子供は「みんなの子供」であった。集落全体が一つの大家族だったのだ。みんなで助け合って暮らし、みんなで子供を育てたのであって、小さな男女の家族単位など、権力が押しつけたタテマエ形式にすぎなかった。
タテマエとしての結婚家族制度は、明治国家成立以降、政権が租税・徴兵目的の戸籍制度整備のために、それを強要したのである。
それは権力・財産を作った男性の子供を特定するための制度であった。それは名主・武家・商家・有力者などの権力・財産を「自分の子供に受け継がせたい」インテリ上流階級にのみ意味のあることであり、このために女性を婚姻制度、貞操に束縛したのである。
農民をはじめ一般大衆にとっては、束縛の多い不自由な一夫一婦制など何の意味もなく、たとえ配偶者がいても、誰とでも寝るのが当然であり、生まれた子供は「みんなの子供」であって、集落全体(大家族)で慈しんで育てたのである。
村全体が一つの共同体として機能していた時代、生産(農業)も教育も、そして性の問題も全て村の構成員全体の課題であり、皆が当事者として関わることで機能していました。それが時代が進むにつれて変貌していきます。
次回、『夜這いの解体と一夫一婦制の確立2』は明治時代についてです。
- posted by kato at : 2010年04月30日 | コメント (8件)| トラックバック (0)
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comments
子育てが「あそぶ」に位置付けられると言うのは、非常に面白いと感じます。
現在日本社会では、子育てはやはり「課題」であり、人によれば自分の時間ややりたいことを押し殺して向かう必要があると捉えていると思われますが、ヘアーの社会にはそのような意識は全く感じないですね。
子育てが最大の充足源であると言うのは、なるほどと感じる点ですが、現在日本社会で子育てを充足課題として実現していくには何が必要か?非常に感心のあるところです。
>皆が子育ての充足を得られるような社会構造となっている。<
子育てが遊びの一つになるのがすごい。全く違う発想に驚きました。私権社会に最もかけている点かも知れない点だと思いました。
私権社会の中では、「子育て」も、その親や子供が、私権を獲得するためのものだったのでは?と思いました。
共同体社会の「子育て」を考える上でこの発想の違いは、参考になると思います。
>部族全体(概ね350人程度)の中で子どもは親子関係に因われることなく移動し、皆が子育ての充足を得られるような社会構造となっている。
子育てが充足課題として認識され、更にそれをみんなで共有しようとする意識があるってすごいことですよね。現在の日本では下手をすると子育ては不安、大変な課題で、密室で行うものというような捉え方さえあるような気がします…。
子育て観がここまでちがうのかというのが実感です。
共同体の子供たち・親は大変幸せであったのではないかと感じました。
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