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2006年09月25日

モソ人の課題意識

バスの固いシートでそろそろ尻の痛みも限界だと思うころ、ようやく寧★に到着する。
イ族自治県のため、役人の多くはイ族であるが、副県長のひとりにモソ人がいる。
昆明にある雲南大学の卒業者である。
彼のほかにも雲南大学や昆明の民族学院、芸術大学などを卒業したエリートたちが役人として働いている。
私の友人のモソ人の役人は二人いるが、ひとりは趣味でモソ人の風俗を油絵にしており、もうひとりはモソの歌を採集して、漢民族を意識した創作歌を創っている。
彼らと話していて感じるのは、優勢異文化つまり中央の漢文化のシステムのなかで生きる少数民族エリートの葛藤である。モソ文化のすばらしさを、自民族の言葉や発想ではなく、漢語や漢民族的発想で強調しなければならない葛藤とでもいおうか。
母系社会を営むモソ人の村へ 遠藤耕太郎の報告)

中央の大学に進学し、漢民族と交わりながらもモソの文化を大切にというアイデンティティを失わず、民族のために勉強するという意識の高さを感じました。現代人との課題意識の違いが読み取れました。
気付きがあれば、クリックを↓↓ (by後藤)

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2006年09月24日

「摩梭人走婚」(モソ人の妻問い婚) 3

現在のモソ人の妻問い婚は、母系族外婚としての交差婚と婿入り婚が混在している。
アシャ別居婚は、昼はそれぞれの実家で生活し、夜になると男が女のもとを訪れる。
アシャ同居婚の場合は、これは妻問い関係にある男が女の家に住み、仕事にも携わる。
別居の場合でも、仕事が忙しければ女の家に数日間住み込んで仕事をすることもあるので、その間には大きな隔たりはないのかも知れない。

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2006年09月20日

アメリカ原住民の対偶婚

 モソ人の妻問婚は、かつて世界の各地で見られた交叉婚(の変形?)ですが、モルガンは著書『古代社会』(1877年)で、人類文化の発展段階(野蛮→未開→文明)に応じて、次のような家族形態と親族制度へと発展したとしています。
0乱婚(全員婚)…家族形態に先行するもの
①兄妹婚―→血族家族<母系でもあり父系でもある>
②兄弟姉妹の通婚を禁止するプナルア婚(交叉婚)―→プナルア家族<母系>
③排他的同棲を伴わない一対の男女の結婚―→対偶婚家族<母系または父系>
④一夫多妻(一般に妻たちの隔離を伴う)―→家父長制家族(遊牧民の例外段階)<父系>
⑤排他的同棲を伴う一対の男女の結婚―→一夫一婦制家族<父系>
①②⑤が基本で、①→②→③→⑤へ移行した。
①②はある程度解明されているので、以下で最も分かりにくい③対偶婚家族を、アメリカ原住民を中心に紹介します。なお、プナルア婚から対偶婚への移行とは、異なる氏族の男集団と女集団の通婚から、一対の男女間の結婚に移行したこと。それに伴い、女系だった氏族組織が、女系または男系へと転換している。

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2006年09月13日

「摩梭人走婚」(モソ人の妻問い婚) 2

一夫一婦制というのは、常にお上からの強制という形で押し付けられる。日本においてもそうであったし、モソ人と漢民族との関係においても同じである。
>1983年末から84年初にかけて、陳烈(雲南省文連)の行った調査(『最後的母系家園』雲南人民出版社・1999年10月)によると、永寧郷の20自然村の全527戸において、総人口3,725人、うち男1,847人、女1,878人であった。女性のうち、成年女子(16歳以上)は1,178人で、全女性の62.7%。成年女子のうち、出産経験のある者が745人で、成年女子の63.24%。出産経験のある者のうち、アシャ婚(別居、同居)による者が393人で、出産経験者の52.75%であったという。また、全527戸のうち、純母系家庭171戸(32.4%)、双系併存家庭144戸(27.6%)、父系一夫一婦制家庭212戸(40%)であったという。(母系社会を営むモソ人の村へ)

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2006年09月11日

「摩梭人走婚」(モソ人の妻問い婚) 1

雲南省の西北、四川省との省境に瀘沽湖という湖がある。この湖の周囲にモソ人と呼ばれる人々が住んでいる。母系社会を営む人々として、文化人類学的にも、観光地としても、よく知られた存在となっている。
>観光客の目当ては、母系社会を維持し、妻問いをしている人々への興味である。それに応えて、村人たちも「摩梭人走婚」(モソ人は妻問い)を観光客に積極的に説明してくれる。ある男性が夜道でも懐中電灯なしにすたすた歩いていたので、それを褒めると、彼は始めて我々に会ったにもかかわらず、「我々モソ人は走婚(妻問い)で、毎晩、女のもとに通っているから、道は全て覚えている」などと話しはじめた。(母系社会を営むモソ人の村へ)

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2006年09月10日

自由恋愛の国アメリカと、母系社会のモソ人

初投稿になります☆家島です。
上は中国奥地、チベットに住むモソ人の民族衣装です♪
大学では民俗学の授業は
ほとんど寝ていたけれどあまり熱心には学ばなかったけれど、
社会人になってから逆に興味が出てきたりしています。
(よくありますよね?そういうことって。)
さて今回のモソ人の話ですが、
何が興味深いかって未だに「母系社会」が続いているという事!
(要するに、夜這・妻問いが続いてる)
うちの故郷は日本の果て滋賀県なんですが、
そこでは妻問いが昭和40年代まで続いていた
(つまり聞き取り調査なんかもできちゃう)わけですが、
今でもまだそういった文化を残してるってのはすごい。

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2006年09月09日

何故、ヒトだけが死肉あさりを行うのか?

 京大の自然人類学研究室のサイトに拠ると、最近では『初期人類が死肉あさりをしていた』ということについては、ほぼ意見が一致しているらしい。リンク
>遺跡から出土する動物骨が、狩猟されたものか、死肉あさりにより手に入れたものかが関心の中心であった。
>この20年あまりの間にライオンなどの捕食者とハイエナなどのスカベンジャーの菜食行動の観察データと、骨の破壊や風化に関するさまざまな膨大な実験データが蓄積され、遺跡における出土状況とのつきあわせが行われた。
>肉を手に入れる手段に関しては、ホモ・エレクトス / エルガスターの段階では大型獣の肉は死肉あさりで手に入れていたという点と、古代型ホモ・サピエンスの段階では少なくとも小動物の狩猟は行っていたという点では研究者の間でほぼ意見の一致を見ている。
そして、次のような指摘を行っている。
>ヒト以外の霊長類はほとんど死肉あさりをしないことから、死肉あさり行動をヒトの特徴ととらえることさえできるかもしれない。
この事実からも、るいネットの実現論で述べられている、「人類の起源が木から落ちたカタワの猿」であり、「人類とは99.99%が飢餓の歴史。」リンクであったという論理の正しさが認められる。

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2006年09月07日

樹から落ちた人類の極限的洞窟生活

こんばんは。初投稿の廣田です。
今日は、「樹から落ちたカタワのサルがどうようにして生き抜いてきたのか」をテーマに仲間と話合ったので、それを書きたいと思います。
まず、そもそも何でサルが樹に登ったのか。
それは、「ネズミに追われたから」なんです。
しかし、ネズミに追われて登ったとはいえ、そこは楽園とも呼べる場所でした。
なぜなら、樹上には外敵がおらず、木の実が豊富で、防衛力にも生産力にも優れていたからです。
しかし、突然変異による足の指の先祖返りによって、枝を掴めなくなったカタワのサルは、地上へ落ち、一気に地上最弱の動物となってしまいます(鋭い牙もなく、走りも遅いカタワのサル=人類は狸にも負ける存在だった)。

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2006年09月06日

原始人はどのようにして生き延びてきたか?

始めまして。内藤です。
祝”初投稿!!”
今日は、原始人の極限状況のお勉強をしたので、そのおさらい・・・
(1)人類はカタワのサル
・サル時代に共認機能を獲得した。
・足の指の先祖返りによって、地上に降りるしかなかったサルが人類。
・地上最弱な動物が人類。
◆人類とは足の指が先祖返りしたカタワのサルである

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2006年09月04日

一対婚と夜這いの併存形態(白川郷)

飛騨白川村の合掌造りは、40人程の大家族が住める住居ですが、寝室につながる夜這い用の出入り口が設けられていることでも有名です。家を継ぐのは長男だけで、それ以外は結婚せずに家に留まり血縁だけの大家族を形成します。
長男だけが家を継ぐ制度は、江戸時代の農民社会ではしばしば見られ、歴史の参考書では、「分地制限をはじめ、生活難からも分化不能の場合が多く、次・三男は独立の機会を失って長子に隷属する場合もしばしばみられたのである。」(山川出版社 詳説日本史)のように書かれています。私も、長男に生まれなかった人は悲惨だな、と思っていましたが、そんな杞憂は不要でした。

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