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2020年02月16日

原始人類の道具の進化 30万年前~1万年前

●石器の時代区分
前期旧石器時代 260万~30万年前 ジャワ原人 北京原人
中期旧石器時代  30万~3万年前 デニソワ→ネアンデルタール→現生人類
後期旧石器時代    3万~1万年前  現生人類
(ヨーロッパでは2万年前~1万年前を続石器時代と呼ぶこともある)
新石器時代    1万年前~    栽培

●前期旧石器時代(260万~30万年前)
原始人類の道具の進化史 260万~30万年前の石器参照

● 中期旧石器時代(30万~3万年前)
石器製造は、さらに高度な石核調整技術ルヴァロア技法が編み出され、より精巧な剥片石器の量産が可能となった。この手法によって木製の軸に鋭く先のとがった石片を付けることで石の付いた槍を作れるようになった。この技術を手に入れていたネアンデルタール人らの集団は、現代人類同様に狩りをしていたようである。ネアンデルタール人は待ち伏せるか、槍を突き刺すような乱闘用兵器で攻撃することで大きな猟獣を狩っていた。

●後期旧石器時代(3万~1万年前)
石刃系の文化が特徴。石器のほかに骨角器の使用も認められる。洞窟絵画などの原始美術も現れはじめる。また人間が生活領域を大きく広げたことも一つの特色。

「中期旧石器時代」の画像検索結果

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について

細石器】日本では2万年前に登場。
長さはだいたい3センチ以下、幅0.5センチ前後で小形の石刃で、、幾つかを木や動物の骨の柄に溝を掘り、はめ込んで使用した。植刃器や尖頭器として用いられた一種の替え刃式の石器である。槍や銛の先端近くに刃として埋め込んで貫通性能を高め、槍全体を軽量化することによって投げ槍としての命中率を高める効果も期待されたと推測される。別名、細石刃(さいせきじん)。 しかし、日本では、細石刃を装着した実例は知られていないが、シベリヤや中国の出土例から類推されている。

世界にさきがけて中国東北部からシベリアのバイカル湖付近で発達したと考えられており、アルタイ地方には約4万年前頃に幅1センチメートル以下の石刃(細石刃)がすでに発生していたという。アラスカに至るまで瞬く間に広がり、世界各地の広い範囲から出土している。

「石刃技法 ナイフ」の画像検索結果

石刃技法とスイスアーミーナイフ効果

●新石器時代(1万年前以降)
【磨製石器】新石器時代を代表する道具で、世界で広く使われた。
磨製石器は打製石器さらに砂や他の石で擦ることにより磨いて凹凸を極力なくした石器をさす。磨かないものが打製石器である。母材の石が緻密なほど表面はなめらかで鋭利となり、樹木伐採などに使用する場合でも何度も繰り返して使用できる。

オーストラリアと日本では、旧石器時代に刃部磨製石斧(局部磨製石斧)が作られた。最古の例はオーストラリアで4.7万年前にさかのぼるという。日本では3.8万~3.5万年前に出現し、打製石斧と併用したが、3万年前には見られなくなった。

 

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2020年02月09日

母系社会シリーズ~原始人類集団のリーダーは、精霊信仰⇒祭祀を司る女であった

『実現論』「序2.私権時代から共認時代への大転換」より。

古代初期、王国が誕生した段階では、武装勢力を率いてきた部族長が王となり、将たちが貴族となって、国を治めていた。

ただし、部族長は、もともと祭祀を司る長でもあったが、王国が誕生する前後に、祭事は神官(後に教団)に委ねられてゆく。次に、国の規模が大きくなると、政治も官僚に委ねられていった。

そして、教団勢力が大衆の共認支配を担い、官僚勢力が大衆の法制支配を担うことによって、現実に社会を動かすと共に、その権力をどんどん拡大していった。

その結果、王は、形の上では最高権力者だが、それは表向きだけで、実権は官僚や教団が握って好きなように社会を動かすようになり、王は彼らが進める彼らに都合のよい施策に、お墨付きを与えるだけの存在にまで形骸化する。要するに、名前だけのお飾りである。

『るいネット』「原始人類集団のリーダーは、精霊信仰⇒祭祀を司る女であった」より転載。

「部族長は、もともと祭祀を司る長でもあった」ということだが、祭祀(を司る長)とはいつ登場したのか?

祭祀を司る長とはシャーマンのことであり、古くは原始人類の精霊信仰にまで遡る。古代では王と祭祀長は分化しているが、原始人類ではどうだったのか? そもそも原始人類のリーダーの役割は何だったのか? そこから考える必要がある。

足の指が先祖返りして、それ以前の獣たちと同様、足で枝を掴むことが出来なくなったカタワのサル=人類は、樹上に棲めるという本能上の武器を失った。そして、人類は1~2万年前まで、まともに地上を歩くことが出来ず洞窟に隠れ棲むしかない様な、凄まじい外圧に晒されていた。

まず、この原始人類の生存状況に同化してみよう。

洞窟の中で餓えに苛まれなが暮らしている。主要な食糧は肉食動物が食べ残した動物の骨であったが、それを拾い集めるのは短時間で済み、何より洞窟の外は危険が一杯なので、長時間も居られなかった。
つまり、大半の時間を洞窟の中で過ごしていたわけで、原始人類はその間、何をしていたのか?

まず考えられることは、エネルギー源としての充足の追求であり、それによって人類は充足機能を発達させてきた。
カタワのサルである人類は地上で適応するために直立歩行の訓練を始め、それが踊りとなり、この右・左と足を踏み鳴らす踊り=祭りが日々の充足源(活力源)となった。
この踊り=祭りの中でトランス状態に入り、そこで観た幻覚の極致が精霊である。
人類が万物の背後に見たこの精霊こそ、人類最初の観念であり、人類固有の観念機能の原点である。

脳回路の最先端に精霊信仰の回路が形成されて以降、人類は、生存課題の全てを本能⇒共認⇒観念(精霊信仰)へと先端収束させる事によって、観念機能(→言語機能を含む)を発達させ、その事実認識の蓄積によって生存様式(生産様式)を進化させていった。
精霊信仰に先端収束することによって統合された人類集団では、精霊への祈りが最も重要な課題であり、元々は二足歩行訓練という目的であった踊りや祭りも、精霊への祈りが主要な意味に変わっていったであろう。
また、それに応えるために最も霊感能力の高い者(一般的には女)が集団のリーダーになったはずである。

このように原始人類集団では、祭祀の長(シャーマン)=部族長である。部族長がいなかった部族があったとしても、シャーマンのいない部族はなかったであろう。 

もちろん、祭祀とは別に、食糧(動物の死骸の骨)を拾いに出る決死隊も必要であり、そのリーダーは男が担っていたが、霊感能力の高いのは一般に女であり、原始人類の集団のリーダーは女が担っていた可能性が高い。(集団のリーダーは力の強い男という固定観念を塗り変える必要がある。)

そして、集団のリーダーになったのは経験智の高い婆さんである。
この婆さんが娘たちの婚姻相手を決めるわけだが、その相手は集団で最も優れた男=首雄になるのは必然である。このように、原始人類の首雄集中婚は男が主導したものではなく、女たちが望んだものなのである。
人類に限らず殆どの哺乳類が首雄集中制をとっているが、生殖過程(雌雄関係)の主導権を握っているのは雌(女)たちであって、首雄集中婚だからといって雄(男)が主導権を握っていたと見るのは大きな誤りである。

観念機能(事実認識=洞窟・貯蔵・火・調理具・戦闘具・舟・栽培・飼育)の進化によって生存力を強化した人類は、2万~1万年前、弓矢によって外敵と互角以上に闘えるようになった頃から洞窟を出て地上に進出する。そして地上に進出した人類は、忽ち外敵を駆逐して、繁殖していった。その結果、繁殖による集団の拡大→分化を繰り返した人類に、ようやく同類闘争の潜在的な緊張圧力が働き始める。

それでも5000年前の中国では農耕の母権社会であった。このことも、それ以前の人類集団のリーダーが女であったことを伺わせるものである。

中国の母権社会は採集→農耕部族の例であるが、狩猟部族でも北米インディアンは母系だし、父権制に転換したゲルマン人でも、戦いの際には女たちが男たちの尻を叩くなど、母権制の風習を残している。ということは、闘争圧力が高い狩猟部族でさえ、元々は母権社会であったと考えられる。

ところが同類闘争圧力→戦争圧力が高まると、戦闘集団の長(男)が部族長になり、戦争の果てに古代初期に王国が誕生すると、武装勢力を率いてきた部族長が王となる。
このように、元々の人類集団では祭祀長が部族長だったのが、闘争圧力が上昇したことにより、戦闘隊長が部族長に昇格し、その下or横並びに祭祀長(シャーマン)が控えるという形に逆転した。(なお、東洋では神官集団はほとんど例外なく女集団である。)

このような長(リーダー)の役割の交代の背後にあるのは、大衆の期待の変化である。
原始時代~採集生産時代は自然圧力に適応することが集団の成員の期待であって、それに応えるために長には祭祀能力が求められた。同類闘争圧力が高まり戦争が始まると、防衛や闘争勝利が大衆の期待となり、それに応えて武装勢力の長がリーダーに変わったのである。

※精霊信仰⇒祭祀は自然を対象としているが、同類を対象とする同類闘争→戦争でも部族長には予感・予測能力が求められた。その予感・予測能力は霊感能力に近いものであっただろう。実際、未だにアラブでは部族長に求められるのは予感・予測能力である。

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2020年02月06日

母系社会シリーズ~母系社会が平和への鍵になる~

古代には、世界中に多くの母系社会が存在していたと言われており、日本にもかつては母系社会が存在していました。
しかし、現代まで母系社会を継承している民族はとても少なくなっています。
なぜ、母系社会は消えてしまったのでしょうか?
リンク より紹介します。

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なぜ世界から母系社会は消えたのか 女性性を尊重しない社会は滅びる!?

~前略~

母系社会を簡単に説明すると、一般的には母方の血筋を継承していく家族であること、つまり、現代の日本は「父系社会」なので、父親から息子へと男子が家を継いでいくところ、母から娘へと女子が継いでいくということになり、現代とはまったく逆の制度になるということです。ただし、このように簡単に説明してしまうと単純な制度や習慣の違いと捉えられがちですが、その違いによる社会への影響はとてつもなく大きかったと予想しています。  なぜ予想と書いたのかですが、あらゆる時代を通して母系社会の歴史的な背景やその重要性を体系的にまとめた文献が、ほとんど存在していないからです。つまり現代においては、すでに遠い過去の取るに足らない制度であり、原始的な習慣の名残という程度の認識しかありません。稀に民俗学の分野などで「古代から残っている珍しい習慣」という取り上げ方ぐらいにしかされません。

古代には、世界中に多くの母系社会が存在していたと言われています。現存している先住民族の中でも母系社会を継承している民族の分布を見ると、熱帯地方に多く集中しており、寒帯地方では少ない傾向があるようです。また、農耕を中心とする民族に母系社会が多く、牧畜を中心とする民族には少ない傾向があります。これだけを見ると、温暖な地方で農耕を営む民族には母系社会という構造が適していたのかもしれません。
さて、母系社会の大きな特徴をまとめると、部族の長は女性であり、その女性が部族内をすべて取り仕切り部族全体に大きな影響力を持っています。しかしその内部は非常に民主的に運営されており、決して封建的ではなく、すべての者に寛容な社会を築いています。

中国雲南省の奥地に存在する「モソ」という民族は典型的な母系社会を継承していますが、その特徴を見るのが分かりやすいと思います。まず、結婚という制度がないため夫婦という関係性もなく、その概念すら存在しません。ではどうなっているかというと、「走婚」つまり「通い婚」になっているのです。男性は好きな女性の家に通いながら、というより女性が好きな男性を呼び、関係性をつくります。最低限のルールがあるにせよ、一緒に住むのも自由だし、その関係を終わらせるのも自由なのです。もし子供が出来た時は女性の家族が皆で育てることになり、男性には一切の養育の義務はありません。父親が誰であるかは重要ではなく、誰が産んだのかが大切にされます。  このような習慣を現代の常識的な目線で見てしまうと「これで社会が成り立つのか?」という疑問が浮かぶと思います。民族の構成はシンプルで農耕を中心とした社会なので、必要以上に現金収入を必要としていないから成立していたという背景もあります。また男性の存在感がないわけではなく、地域社会の中でしっかり役割があり責任ある仕事が任されています。ただ、至って自由であるということ。前述のように男女関係だけではなく、すべての人間関係が、とてもおおらかで寛容な社会を築いていたということです。この傾向はモソだけではなく、多少の違いはあれ母系社会を築いている民族ですべてに見られる傾向です。

かつての日本も平安時代までは明らかに母系社会を築いていたといえます。おそらく当時は一部の貴族や武士階級を除き、明確な結婚の制度もなく女性が家系を継いでいました。源氏物語をご存じの方ならその時代背景が何となく分かると思いますが、あまりに自由奔放な暮らし方に理解に苦しむ部分があるのではないでしょうか。もちろん物語として脚色されている部分もあるでしょうし、貴族の話なので特殊な環境ではあります。少なくともとても自由な人間関係を許容する社会があり、個人的な人間関係に留まらず、社会のあらゆる仕組みの中に平和的な影響を与えてきたと考えています。

では、なぜそこまで定着していた母系社会が消えていくことになったのでしょうか。ここからは私自身の推測も交えて進めていきたいと思います。

世界的にみると人々の生活習慣や社会的な仕組みに大きく影響を与えた出来事は宗教の広がりです。有史以来、世界に急速に広まった宗教には女性を蔑視する内容がとても多いことに気が付きます。キリスト教・ユダヤ教・イスラム教・仏教にいたるあらゆる主な宗教で経典の中に明確に女性蔑視を記述しており、表向きは平等と教えながら本質的に男性から劣っている存在であると位置づけていることから、とても矛盾をはらんでいます。神道についても穢(けが)れという考え方があり、例えば相撲の本場所の土俵には女性が立ち入ると穢れるという理由から厳しく禁じています。  もちろん宗教もその時代とともに内容の解釈や記述が変えられてきているので理解は様々です。宗教の発祥初期からそのような教えがあったかは定かではありません。ただし、世界的に共通していることは、みな同じように男女の関係性に抑圧的な厳しい戒律を設けて、女性の位置づけを低く保ち、同時に善悪の概念を強力に植え付けてきたと言えるでしょう。

日本も平安時代以降、本格的に仏教が普及してきたところから、明らかに父系社会への転換が起こりました。それが直接的な要因と断言できませんが、やがて戦国時代へと移り変わっていきます。

ではなぜ、そもそも多くの宗教が女性を蔑視してきたのでしょうか? ここは大いに想像力を膨らませる必要がありますが、それは主な宗教が常に権力と結びついてきたという経緯があります。  歴史上、常に政治が宗教を利用して、逆に宗教も政治を利用してきました。時の権力者たちは民衆をコントロールするのに宗教を使い、宗教にも様々な便宜を図ることで関係性を強固にして、必要であれば教義を書き換えてでも目的を達成させようとしてきました。当然ながら権力者やそれを取り巻く者たちは、その体制に反対する人々を物理的・政治的に抑圧しました。  しかし、どうしてもコントロール下に置けない勢力がありました。それが女性だったのです。まだ母系社会が色濃く残る社会であっても政治的には優位な立場になっていた男性が、すでに社会全体に浸透していた女性の影響力を弱めることが出来ないため、宗教の力を使って存在そのものを低く劣ったものとして定義しました。つまり権力者はそれほど女性の力を恐れました。

中世のヨーロッパを中心に起こった魔女狩りはまさにそれを象徴する出来事であったといえます。人並み外れた霊的能力や知識をもった女性を魔女や悪魔の使いとして仕立て上げ、社会を惑わすものとして民衆の恐怖を煽り、社会的に影響力のある女性を抹殺してきたのです。  ここまで読んだ方は、「では父系社会というのはそんなに悪い仕組みなのか?」と思われるかもしれません。実はそうではなくて、現代社会の中で父系社会を形成する男性性の要素が強くなり過ぎたということです。古代では母系社会と父系社会が共存していた形跡が多くみられており、中には双方が混ざった習慣を持つ民族もあります。

近代では、その男性性の特徴である論理的・競争心・実力主義・結果重視などの傾向が過剰になり、社会の中で常にその条件に合うように生き方を要求されます。更に付け加えると、宗教の普及とともに貨幣経済が強力に広がり、社会を構成する要素として最も大きな影響力を持つことになったため、なおさら男性性を増長させることになりました。戦争や民族的な争いが絶えないことも、男性性の過剰という問題が根底にあるからではないでしょうか。

女性への差別や蔑視や抑圧的な行為は、明らかに男性性過剰の結果であり、逆に言えば女性性の欠如の現れです。これは生物学的な男と女の違いの問題ではありません。どちらにも男性性、女性性の両方が備わっているからです。  長い歴史の様々な場面で女性(性)が犠牲となってきた事実があります。犠牲とは、その犠牲の下に社会が成り立ってきたという意味です。さて、それを犠牲にして得てきたものは何でしょうか。国家の軍事的な強さでしょうか? 経済的な強さでしょうか?  かつて男性性優位と見られる帝国が数多く誕生しましたが、ことごとく衰退・滅亡していきました。その一方で目立たないながらも女性性を大切にする平和な国家も存在していました。歴史の年表にはまったく出てこない史実ですが、帝国の栄枯盛衰を学ぶより、なぜ平和な国が存続していたかを学ぶことに価値があると思います。そうすれば、かつて理想的な母系社会を築いていた日本が、世界に先駆けて出来ることが自ずと見えてくると思います。

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2020年02月02日

原始人類の道具の進化史~従来説よりも早くから人類は道具を進化させていた

『別冊日経サイエンス 化石とゲノムで探る人類の起源と拡散』「創造する人類」(H.プリングル)「祖先はアフリカ南端で生き延びた」(C.W.マリーン)の要約。
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人類の創造性は、出現から数百万年間さしたる進歩を遂げなかったが、人類が発明や芸術などの創造性を獲得した時期は,4万年前の後期旧石器時代の初頭であると従来考えられてきた。ヨーロッパにいたホモ・サピエンスが様々な石器や骨角器を作り始め、貝製ビーズのネックレスで身を飾り、洞窟の壁に動物の絵を描いていた頃だ。そうした発見から、その頃に起こった遺伝子突然変異が人間の知能を一気に飛躍させ、「創造の爆発」を引き起こしたという有名な学説が生まれた。しかしこの10年ほど、はるかに古い考古学的証拠が見つかり、人類の創造性の起源は、ホモ・サピエンスが出現した20万年前よりもさらにさかのぼることがわかってきた。

340万年前 石器による切痕がある動物の骨(エチオピア・ディキカ遺跡)

260万年前 剥片石器(エチオピア・ゴナ遺跡)石を打ち欠いて作ったチョッパー。動物の死体から肉を剥ぎ取るのに使われた。

176万年前 両刃の石器(ケニア・トゥルカナ遺跡)

100万年前 火を使用していた証拠となる焼けた骨や植物(南アフリカ・ワンダーウェーク洞窟)
       ホモ・エレクトスが暖をとり、動物から身を守るために火を起こしていた可能性。

 50万年前 木の柄に取り付けたとみられる尖頭器(南アフリカ・カサパン1遺跡)
      ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの共通祖先ホモ・ハイデルベルゲンシスが使用。

 20万年前 ネアンデルタール人がカバノキの樹皮を原料とするタール状の接着剤で木の柄に石の薄片を固定し、柄付きの道具を作成。

19.5~12.3万年前の間、寒冷化と乾燥化のせいで、アフリカ大陸の大半は、動植物が姿を消した。人類が暮らせたのは、ほんの数カ所の草原や地中海性低木地帯だけだった。アフリカ南岸は、冷たいベンゲル海流の湧昇流による栄養豊富な水と温かいアガラス海流のおかげで貝類が豊富な上に、ここのフィンボス植生地帯だけに生える可食食物もあり、人類がこの気候変動を生き延びるための数少ない避難所の一つとなった。

16.4万年前 細石刃と熱処理された石器(南アフリカ・ピナクルポイント遺跡)
  南アフリカ・ピナクルポイントの洞窟PP13Bでは、貝やアザラシやクジラの骨が発掘された。16.4万年前から海産物の採集が行われていた。貝類を採集する上で、アフリカ南岸沿いで安全に十分な収穫が得られるのは、大潮の干潮時だけ。しかも、潮の干満は月の満ち欠けと関係しているので、毎日50分ずつ遅れてゆく。ビナクルポイントの人類は、月の満ち欠けと干満の関係を把握し、それに合わせて海岸に貝を採りに行く日を決めていた。
  彼らは異なる材料を組み合わせた道具を作成していた。石器の中には、かなりの数の細石刃(剥片石器)があるが、手に持って使うには小さすぎるので、これらは木の柄に固定して、投擲武器として使われた。 シルクリート(珪質礫岩)と呼ばれる地元産の岩石を火にかざして加熱し、加工しやすい光沢のある材料に変えていた。
  未加熱のシルクリートは粒子が粗く、細石刃を作ることはできないが、加熱することで細石刃を作ることができる。彼らは加熱によって原材料の性質を大きく変えられることを知っていた。シルクリートの細石刃を作るには、まず温度を保つための砂場を作り、350℃までゆっくりと上昇させてからしばらく温度を一定に保ち、その後ゆっくりと温度を下げてゆくといった、複雑な手順(工程)が必要になる。手順を考えて実行し、技術を次の世代に伝えるには、言語が必要だっただろう。

  また、PP13Bの最古の地層で発掘したレッドオーカー(酸化鉄)には、粉末を作るために削ったりこすったりした跡があった。その細かい粉末を動物の脂肪などの接着剤と混ぜ合わせて、身体の表面に塗りつけることができる顔料を作っていた。

10~7.5万年前 模様が刻まれた黄土(酸化鉄)(南アフリカ・ブロンボス洞窟)
   黄土の塊に模様を刻み、骨をピン状に加工し(皮の衣服を作るために使われたと考えられる)、
   キラキラ光る貝製ビーズのネックレスで身を飾っていた。また、粉末にした紅土をアワビの貝殻でできた容器に収めた。

7.7万年前 虫除け効果がある寝具(南アフリカ・シブドゥ洞窟)
   多種多様な樹木から1種類の葉で作った寝具。その植物には、病気を媒介する蚊に有効な天然の殺虫成分が微量に含まれている。
   洞窟から出土した尖頭器に付着していた黒い残留物は接着剤で、尖頭器を木製の柄に固定していた。
「7.7万年前のシブドゥ洞窟にはアンテロープ(レイヨウ)の骨が散在。小さいアンテロープを捕らえるために罠を考案していた。洞窟から出土した尖頭器のサイズや形、磨耗パターンから判断すると、アンテロープよりも危険な動物を仕留めるために弓矢を作っていたと考えられる。」

7.1万年前 飛び道具の先端部(南アフリカ・ピナクルポイント遺跡)

4.3~4.2万年前 楽器のフルート(ドイツ・ギーセンクレステルレ洞窟)

4.1~3.7万年前 洞窟絵画(スペイン・エルカスティーヨ洞窟)

4~3.5万年前 造形美術品(ドイツ・ホーレフェルス遺跡)

なるほど、4万年前のヨーロッパで人類の創造性が爆発的に進化したという従来の説は、白人の優越性の演出だと考えられる。実際は、もっと早くから人類は工夫思考によって道具を進化させてきたと考えた方がよさそうである。

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2020年02月02日

原始人類の道具の進化史 260万~30万年前の石器

東京大学総合研究博物館 本館特別展示「石器テクノロジーの発達とデザインの変遷」佐野勝宏(早稲田大学高等研究所准教授/先史考古学)諏訪 元(自然人類学・古人類学)

●はじめに
石器は、人類が道具を製作したことを示す最古の証拠であり、初めて明確なデザインを脳にイメージさせて製作された人工物である。素朴ではあるが、そこには初期人類の重要な技術発達が隠されている。太古の人類の脳は、分解されてなくなってしまい、もはや解析することは出来ないが、石器テクノロジーの分析は、人類の認知能力の発達を間接的に理解する重要な手がかりを与えてくれる。特別展「最古の石器とハンドアックス-デザインの始まり」では、人類が辿ってきた進化と技術の発達を理解する上で重要な一級資料が展示されている。

●最古の石器 260万年前
人類は、約260万年前には、日常的に石器製作をするようになったと考えられる。その証拠となるゴナ遺跡の世界最古の石器が、本展示では見ることが出来る。この頃の人類は、礫の比較的鋭角な箇所を狙って叩くことで、鋭利な刃を持つ石の欠片(剥片)を剥がし取っていた(図1)。この石器製作伝統をオルドワンと呼ぶが、研究者でないと自然に破砕した礫片と識別するのは必ずしも容易ではない。それは、オルドワンの石器が、明確なデザインをイメージして作られたわけではないからだろう。

図1 ゴナ遺跡から出土した世界最古の石器。左の4点が石核で、他は剥片.

●最古のデザインされた石器 175万年前
しかし、約175万年前に登場するアシュール型の石器は、誰しもが人工物と認めるだろう。それは、アシュール型の石器が、人類史上初めてデザインされた道具だからだ。アシュール段階のもう一つの画期的な点は、大型の剥片を石器の素材として使い始めることだ。巨大な原石から、20cmを超える剥片を剥がし、剥がされた剥片に加工を加えることで、アーモンド型のハンドアックスや、平面も断面も三角形のピックや、逆台形のクリーバーを製作する。世界最古のアシュール型石器が確認されたコンソ遺跡では、その3点セットが出土している(図2)。
アシュール段階の大型剥片を剥がし取ることは、オルドワン段階の小型剥片を剥がすよりも遙かに難しい。その大型剥片は、更なる剥離で決まった形状に整えられる。175万年前頃に見られるオルドワンからアシュール型への技術変化は、実は人類の進化史において大きな意味を持っている。

図2 コンソ遺跡の175万年前のサイトから出土した世界最古のアシュール型石器.左から、ハンドアックス、ピック、クリーバー.

●石核調整技術の出現 140万~125万年前 
アシュール型石器が現れると、この「完成」された石器伝統は、その後100万年間以上変化することなく持続されていくと長らく考えられてきた。しかし、その考えはコンソ遺跡の調査研究で覆された。最古のアシュール型石器は、形を整えるといっても、その加工は荒々しく、限定的で粗雑な剥離で形作られる。しかし、整形のための剥離の数は時代の経過と共に徐々に増えていき、より丁寧に整った形が作られていくようになる。そして、140万~125万年前には、単に巨大な剥片を剥がす技術から、定形化した巨大剥片を剥がす技術へと発展する。
剥がし取る剥片の形状を定形化する(事前に決める)ためには、石核(剥片が剥がされる原石)を予め調整加工しておく必要がある。コンソ遺跡では、求心状剥離とコンベワ技法と呼ばれる石核調整技術が確認された。特にクリーバーの中には、石核調整時におこなわれた求心状の剥離痕が残っている資料が多く存在した。クリーバーは、未加工の鋭い縁辺を刃として使った石器である。したがって、素材となる剥片を剥がす際には、全体形状だけでなく、使う刃の部位も予め決めておかなくてはならい。求心状剥離は、鋭い刃部を持った大型剥片の剥離を可能にする石核調整技術の1つである(図3)。
コンベワ技法は、大きく分厚い剥片から、石器の素材に適した剥片をさらに剥がし取る技術である。剥片の腹面側から素材剥片を剥がし取るため、石器の表裏両面が凸状の膨らみを持つ。これにより、石器縁辺は刃こぼれしにくくなり、クリーバーに適した丈夫な刃部となる。剥がされた両面凸型の剥片は、端部の鋭い刃部を残して手で持ちやすいように整形加工される。
求心状の石核調整やコンベワ技法は、従来100万年前以降に現れる技術と考えられていた。しかし、コンソ遺跡の調査により、これらの石核調整技術の起源がずっと古く遡ることがわかった。石核調整技術には、先を見越した計画性が必要である。本技術の出現は、人類が場当たり的な石器製作ではなく、一定の計画性を持った石器製作をおこない始めたことを示している。

図3 クリーバーの製作方法.求心状剥離による石核調整を行い、使用する刃部を決めた上で大型剥片を剥離する.
刃部以外の部位に二次加工を加え、握りやすい平行な側縁に整える。最小限の整形で、鋭い刃部を持つクリーバーが製作される.

●洗練されるデザイン 90万~80万年前
コンソ遺跡で出土する90万~80万年前のアシュール型石器を見ると、その出来映えが格段によくなっていることに気づく。これは、素材剥片を剥がし取る技術と、素材剥片を整形加工する技術の双方が進歩しているためだ。単に定型的な大型剥片を剥がすのではなく、薄くて定型的な大型剥片を剥がす技術へと発展している。整形加工は、骨や木等のソフトハンマーを使うことにより、薄く奥まで伸びる調整剥離技術へと発展した。これにより、ハンドアックスの側縁刃部は直線的となり、更に三次元での対称性を持った形状へと変化する(図4)。概期の人類が、三次元的対称性をコントロールする技術と認知能力を獲得した証である。

図4 コンソ遺跡の90万~80万年前のサイトから出土したハンドアックス.側縁の刃部は長く直線的で、三次元での高い
対称性を持つ.

●機能を超えたデザイン 70万~50万年前
70万~50万年前、東アフリカで旧人が支配的になっていく頃になると、上記の傾向は更に顕著となる。その中には、もはや機能的目的を逸脱した大きさと見事な対称性を持つ石器がある(図5)。このような石器には、例えば威信材のような特殊な意味合いが込められたのかもしれない。人類は、抽象的な思考をする認知能力を獲得し、それを発現させるだけの技術を獲得したのだ。最初にアシュール石器伝統が出現してから100万年以上の時間が経過し、人類は我々に近い段階までに進化していた。

図5 アワッシュ川東部のサイト群で出土した巨大ハンドアックス.

●量産のデザイン 50万年前以降
アフリカでは、典型的な石核調整技術は、50万年前以降に増え始める。ルヴァロワ技法は、石核調整技術を代表する技法である。本展示のTLA石器地点から出土した資料は、教科書的なルヴァロワ技法で作られた石核と剥片である(図6)。この段階から、人類はいよいよ一つの原石から大量の石器を製作することを可能にした。美しい石器を作る技術ではなく、量産のための技術発達である。石器の素材となる剥片の製作は、定形化、薄型化、大量生産と、少しずつ進歩を遂げていく。現代のモノ作りに通じる工夫は、太古の人類の石器作りに既に見出される。石器デザインの変遷には、人類の技術発達史がしっかりと刻まれている。

図6 TLA石器地点で出土したルヴァロワ石核(左)とルヴァロワ剥片.
ルヴァロワ剥片に残る複数の剥離痕跡は、入念な石核調整が剥片剥離前におこなわれたことを物語る.

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2020年01月28日

母系社会シリーズ~カシ族の母系社会~

現在の日本では、女性が男性の家に嫁ぐという形が多いですね。
父方の血筋による血縁集団を基礎とするこの形態を父系制度と言います。
私たちはこれが一般的だと思っていますが、古代には日本を含めて世界中に多くの母系社会が存在していたということが分かっています。(母系社会とは、母方の血筋を継承していく婚姻形態です。)
よくよく考えてみると、母親や姉妹たちのいる集団の中で子育てが出来るのは、女性にとってとても安心できる環境ですね。集団としても安定しそうです。

そんな母系社会の事例を数回に亘って紹介していきます。

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メガラヤ州は山岳丘陵地帯であり(標高1000メートル以上)、東側にカシ族、西側にガロ族が住んでいる。
カシ族は、中国の雲南や安南(ベトナム)地方から山の尾根伝いにやってきた古代越系民族で、西のガロ族は、北のヒマラヤ南麓からやってきた人びとの末裔だとされているが、両方とも母系(母権)社会である。
森田勇造著『アジア稲作文化紀行』より。

■母親を中心とするおじさん後見人的社会 女家長の同意なくして何事も始まらない
カシ族の男によると、「女性が強いのは、男性より神秘的な力(生殖能力)を持っているし、なにより強い男を産む。男が女に権利を与え、男はその女のために生きる」のだという。 土地は個人、村、または部族の所有になっている。

・部族所有の土地は希望者が依頼し、部族長の許可を得て使う。
・使用していない村の所有地は村民なら誰でも無料で借りられる。しかし、2年間使用しないと自動的に使用権を失う。
・個人所有の土地は「おじ」の判断により家母長が同意すればどのようにでもできる。 村民たちは自給自足。

農作物の種類や作付面積は、母親の兄弟か息子が判断するが、決定は家母長がする。 男は皆入婿だが、村長や部族長は男だ。 しかし、実生活は女性が仕切り、積極的でよく働く。籾を杵でついたり、家畜の世話をしたり料理をするのは女たちである。男は椅子に座ってポケッとしている。 男の楽しみはハンティング。
この辺には象、豹、野豚、鹿などがいる。ときに象が村にやってきて農作物に被害が出ることもある。
そんなとき、男たちが集まって象を追っ払う。

親族集団の成員権や財産所有権は母親にあり、末娘が財産権を継ぐ
末娘以外の女は結婚してしばらくすると生家を出るが、親が近くに家を建て与えるので遠くへは行かない。男たちは他家の女性と結婚して生家を出る。 婚姻は男が女側に同居することだが、男には婚家の成員権や財産の監督権はなく、生家の姉妹の家族集団の成員権と財産の監督権がある。監督権は兄弟から姉妹の息子へと継承される。だから男は結婚後も生家のほうが居心地よく、絶えず訪れるので、子どもたちは父親よりも母方の「おじ」に親近感を持つ。 カシ族の母系社会は、社会的に強い女と腕力的に強い男の和合した、母親を中心とするおじさん後見人的社会でもある。

すべては男の奉仕から
カシ族の男女関係は自由恋愛であり、男が女に行うサービス(奉仕)から始まる。 独身の男は、未婚の娘や離婚した女の家を訪れ、労働力を無料で提供するより長く労働奉仕させる女が実力者で、魅惑的なのだ。そして、女がこれぞと思う男がいると身を許す。しかし結婚するとは限らない。今では一般的に一夫一婦であるが、以前は一妻多夫で、よい女は男にとっては大変な競争率であった。 女は自分の気に入った男がいると、誘惑して労働奉仕をさせ、夜も昼もよしとなると同じ屋根の下に同居することを許す。しかし、嫌いになれば追い出してしまう。男は死ぬまで女に尽くし、気に入ってもらわないことには落ちついて暮らす場所がない。男は「三界に家なし」の悲しい宿命を背負わされているのだ。 女性は若くても男女関係をもてるが、男性は女に尽くせるだけの知識・体力・精神力が身につかない限り困難である。母系社会では、男は女を得るために知徳体の修養が必要なので、より強くなければならない。 娘は結婚を決意すると、母親の兄弟であるおじさんに相談し、そして男の方のおじさんに話が行くが、最終的な決定権は娘の母親がもっている。 結婚式の当日から男は女の家に住みつくが、母親中心の家族構成の末席に入るようなもので、身勝手は許されない。女にとって夫は労働者であり、夜の相手であるだけなので、一家の内部事情に通じていない部外者なのだ。 最初の子どもができて2~3年後に夫は妻子を連れて里帰りする習慣があるが、これは、妻の家族から信用を得た証明でもある。 女と男が離別、離婚するのも容易で、数も多い。
これらの離婚の大半が、子どもが生まれなかったケースである。離婚のモーションを起こすのはほとんどが女だ。 妻が死ぬと夫は子どもを残して生家に帰り再婚する。女もしかりであるが子持ちだ。ここでは夫婦の縁は弱く、母親と子の絆が強いのである。

男たちの放浪
娘の多い家族の場合、複数の夫が住みつくが、仕事があまりないので、若い夫たちは妻の家に居づらく、出稼ぎに行ったり生家に戻ったりで留守がちだ。だいたいカシ族の男たちは結婚した後、出稼ぎを兼ねて2~3ヵ月またはそれ以上の長い旅に出ることが多い。稼ぎが悪いとどうしても出稼ぎの旅が長くなる。 土地が開墾され、田畑が多くなると、女たちは自分の所有地なのでせっせと農作業に従事し、収穫を上げる努力をするが、男には自分の管理する田畑はあっても所有地はないので、労働に自主性が乏しい。だから女のほうが積極的に働くので、男よりも労働力が大きい。 家を守る女よりは、自由に行動し、いろいろな体験をする男のほうが、はるかに行動範囲が広く、知識が豊かで洞察力もある。男はおのれを鍛えるために放浪の旅をし、空しさに耐えながら、村の女たちを守るためにいろいろなものと戦いつつ生活する。 野生動物のほとんどが母親を中心とする社会生活を営んでいる。人間も決して例外ではなく、本来は母親中心的な母系社会である
カシ族の母系社会では、男と女の愛ははかなく不確実なもので、母と子の絆こそが永遠だと信じられている。

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2020年01月27日

オナガザルとテナガザル4~アフリカでは、出産・育児期間を延長し大型化した類人猿だけが生き残った

生物種の繁殖戦略として、子供をできるだけ多く残す r 戦略と適応能力の強い子供を確実に残す K 戦略がある。「生物用語(生態学)r-K 戦略」

r 戦略とは、できるだけ多くの子供を残そうとする戦略である。環境の変化が激しい場所に生息する生物種が取る戦略である。このため環境の変化によって大部分の個体が死滅しても、生き残ったわずかの個体で、再び繁殖し子孫を残すことができる。
K 戦略とは、環境収容力において、競争力の強い子供を確実に残そうとする戦略である。環境の変動が少なく、安定している場所に生息する生物種が取る戦略である。安定な環境において、生態的同位種が生息空間や餌などを奪い合うようになり、種間競争が強くなる。K 戦略では、このような激しい競争下において、競争能力の高い子供を確実に残すそうとする戦略である。

「アフリカの中新世旧世界ザルの進化:現生ヒト上科進化への影響」(中務真人、國松豊 京都大学自然人類学研究室)から転載。

現生のオナガザル科と類人猿は繁殖戦略,あるいは生活史戦略において対称的である。基本的に一産一子の真猿類では,出産間隔の違いが,r 戦略と K 戦略の選択につながる。熱帯雨林内のように安定した環境では,資源をめぐる生物間競争が激しく,生物個体数はその環境収容力の限界付近であると考えられ,K 戦略者が有利に,環境の変化が激しい森林の辺縁部や疎開林では,r 戦略者が有利になる。その結果,オナガザル科は r 戦略,類人猿は K 戦略をとっている。この場合,それぞれ,速い生活史戦略,遅い生活史戦略といってもよい。生活史戦略とは出生前,出生後の成長と老化,繁殖スケジュールについて,どのような時間配分を行っているかを指す。哺乳類において生活史変数(妊娠期間,離乳時期,性成熟時期,最初の出産時期,出産間隔,繁殖停止年齢,寿命など)は相互に高い正の相関をもつため,それぞれの種の生活史を速い型から遅い型の勾配の中に位置づけることができる。一般に生活史の速さは体サイズと負の相関をもつが,生活史は体サイズだけで決定されているわけではない。例えば,テナガザルと同サイズのオナガザル科を比較しても,発達速度はテナガザルの方が遅い。

熱帯森林のように相対的に捕食圧が低い環境では遅い生活史が選択されやすい。前期中新世(2350万~1650万年前)のプロコンスル以来,大型の非オナガザル化石狭鼻類(たとえば,アフロピテクス,シバピテクス,ヒスパノピテクス)の最初の永久歯萌出時期は(体サイズの違いを斟酌する必要があるが)おおむね,チンパンジーの変異幅に含まれる。

一方,疎開林では森林に比べ霊長類の補食圧が高い。現生オナガザル科は,生活史の速さを上昇させている。
現生のオナガザル科では,コロブス亜科がオナガザル亜科よりも早い生活史をもつ。霊長類では,一般に葉食者が果実食者よりも速い生活史をもつ傾向があり,それは,成長速度を高くしても飢餓の危険が少ないこと,早い歯牙成長は葉食効率を上昇させ適応的であるためと考えられている。

現在のアフリカの森林における霊長類コミュニティでは,類人猿 1–2 種に対し,オナガザル科は 4–9 種いる。類人猿が含まれる霊長類コミュニティでは,マンドリルやマンガベイのように地上性に適応した後に,二次的に森林性となったヒヒ族がほとんど例外なく存在する。

興味深いのは、遺残種とはいえアフリカ類人猿の系統は残存している一方,小型の非オナガザル狭鼻類は絶滅した点である。このグループは,中期中新世(1650万~1160万年前)を通じてビクトリアピテクス科を含む霊長類コミュニティをつくってきた(マボコ,キップサラマン,ナチョラ,ンゴロラ)。さらに後期中新世(1160万~530万年前)のナカリでも,少なくとも 3 種の非オナガザル小型狭鼻類がマイクロコロブスと同所的に棲息していた。環境の悪化に対しては,体サイズが小さく生活史が速いと思われる小型狭鼻類の方が有利だと考えられるが,アフリカ非オナガザル狭鼻類で生き残ったのは大型系統(ゴリラ,チンパンジー,人類系統)だけである。

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2020年01月27日

オナガザルとテナガザル3~半地上生活をしていたオナガザル

「アフリカの中新世旧世界ザルの進化:現生ヒト上科進化への影響」(中務真人、國松豊 京都大学自然人類学研究室)から転載。

中新世(2350万~530万年前)アフリカ狭鼻類の化石記録から、初期のオナガザル上科であるビクトリアピテクス科は,北アフリカ(エジプト,リビア)と東アフリカ(ケニア,ウガンダ)の地理的に離れた2地域から知られている。
ビクトリアピテクス属に地上運動に関連した四肢骨の特徴があることは古くから知られていた。後方に屈曲した尺骨肘頭や後方を向く上腕骨内側上顆は現生の半地上性オナガザル亜科と類似している。
コロブス亜科の体幹,四肢骨格の特徴はオナガザル亜科的状態から進化した事を示唆している。

オナガザル科の確実な最古の化石記録は,約1000万年前,コロブス亜科マイクロコロブス・トゥゲネンシス)である。
現生のコロブス亜族は手の母指を完全に失い,プレスビティス亜族は退化しているものの機能する母指をもつ。マイクロコロブスは全く退化していない母指をもつ。

マイクロコロブスに次いで古いオナガザル科はメソピテクスである。メソピテクスはアフリカからは知られていないが,東はアフガニスタン,西はイタリアまでユーラシアの広域から知られている。850万~300万年前の長い棲息年代をもち,3~4種が認められている。メソピテクス属の資料には,数多くの四肢骨が含まれ,種によってある程度の変異はあるものの,一定の地上性適応をしていたことが知られている。

半地上性に適応した過程で,オナガザル上科は四肢走行型の筋骨格系を獲得し,それらは,多かれ少なかれ今日でも維持されている。例えば,前腕の日常的な回内,肩,肘関節の運動範囲の制限,指骨の短縮と中手・中足骨の伸長,比較的可動性の低い中手・中足関節などがある。その結果,樹上では,枝の上での俊敏な運動を得意とし,優れた跳躍運動を行う事ができる。一方で,枝下での運動(懸垂運動など)は余り得意ではない。
そのため,樹上性オナガザル科の体サイズの上限が低めに制限されている。小型の体,高い移動速度と跳躍力は,変形しやすく非連続的な枝上での移動能力を高める。

現生の樹上性オナガザル科が半地上性祖先から進化したという考えは,現在では定説となっている。

オナガザル科の俊敏性は,半地上生活を送った時代にそうであったように,捕食者の攻撃から逃れることに,より役立っていると考えられる。体サイズの小さなオナガザル科は,相対的に高い捕食圧にさらされている。また,移動能力の高さは,遊動域を広げるため,大きな群サイズをもつことを可能にしているかもしれない。大きな群サイズは捕食者対策として効果的だが,十分な食料を手に入れるため広い遊動域が必要となる。

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2020年01月27日

オナガザルとテナガザル2~葉食適応したオナガザル(コロブス)

「アフリカの中新世旧世界ザルの進化:現生ヒト上科進化への影響」(中務真人、國松豊 京都大学自然人類学研究室)から転載。

コロブス亜科はオナガザル亜科に比べ葉食傾向が強い。果実と比べると,葉は安定して大量に手に入れやすいため,森林におけるバイオマスは,オナガザル亜科やヒト上科を上回る。コロブス亜科は葉に含まれるセルロースを利用するため,特殊な消化管をもっている。胃は 4 つにくびれ,その中のバクテリアによって前腸発酵を行う。特に,第一胃(前盲嚢部)が葉の分解に役立っているとされている。セルロースが分解されて生成される揮発性脂肪酸(酢酸,プロピオン酸,酪酸など)は容易にエネルギー源として利用でき,死んだバクテリアもタンパク源として利用される。ちなみに,オナガザル亜科は,それほど特殊化した消化管をもたないが,後腸(盲結腸)発酵によってセルロースを分解する。食物の消化管通過時間が,体サイズに比較して長いという特徴が,効率よい発酵に関係していると考えられている。

現生コロブス亜科は,森林環境に依存する程度が強く,オナガザル亜科ほどには広い分布域をもたない。骨格には樹上運動,特に跳躍運動に関連した特徴が発達している。コロブス亜科もオナガザル亜科同様にアフリカとアジアに分布する。

化石産地の動物相から,漸新世(3400万~2350万年前)の初期狭鼻類も前期中新世(2350万~1650万年前)の非オナガザル狭鼻類も,森林に棲息していたと推測される。食性については,歯牙の形態から初期狭鼻類は果実食性であったと考えられ,中新世の非オナガザル狭鼻類も,例外的な葉食者を除けば,大半は歯牙特徴に葉食適応が認められない果実食者だった。
つまり,現生類人猿に見られる森林性果実食(ゴリラ,フクロテナガザルのように例外的に一定の葉食適応を示すものもいるが)という特徴は,初期狭鼻類以来の祖先的状態の維持である。

前期中新世(2350万~1650万年前)のオナガザル上科(= ビクトリアピテクス科)の化石記録は相対的に乏しいものの,その産地の一つであるワジ・モガラ(エジプト)の古環境を動物相から推定すると,疎開林である。中期中新世(1650万~1160万年前)始めのマボコ(ケニア)では比較的樹木の多い疎開林,中期中新世終わり近くのトゥゲン丘陵(ケニア)では開けた疎開林だったと考えられる。
さらに現生種と化石種についての環境適応から系統群の祖先的適応状態を推定すると,オナガザル亜科とコロブス亜科の祖先的適応環境は,ともにサバンナ的であったと考えられる。これらの事は,オナガザル科,ひいてはオナガザル上科も,サバンナ適応した祖先種から進化したことを示唆する。
サバンナあるいは疎開林のような,季節性の影響を受けやすい環境に,純粋な果実食者が適応することは難しいと考えられるため,初期オナガザル上科(= ビクトリアピテクス科)は果実以外の食物も利用したと考えられる。
現生群ではコロブス亜科は主として葉食であり,オナガザル亜科の食性はそれに比べれば幅が広い。しかし,オナガザル亜科の中にも葉食傾向の強い種が存在する。

前・中期中新世(2350万~1160万年前)のビクトリアピテクス科に地上運動適応が認められること,後期中新世~鮮新世(1160万~260万年前)のオナガザル科の中に地上性傾向の強いオナガザル亜科やコロブス亜科が認められること,現生のオナガザル科がその骨格特徴に共通して地上性適応(あるいは,その名残り)を留めていることから支持される。まとめると,祖先的オナガザル上科は,森林の外縁へ適応することによって派生的に進化した葉食者であった。

野外研究から,オナガザル科は基本的に植物食者だが,果実以外の部位の利用が高いことが明らかにされている。
一方,現生類人猿は,果実の不足期をどのように乗り越えるかにおいて,種間の違いが見られるものの,基本的には果実に依存した食性をもっている。
チンパンジーと複数のオナガザル亜科が同所的に棲息するキバレ(ウガンダ)の調査によれば,現生オナガザル亜科は,年間を通してほぼ一定割合の果実を消費し,チンパンジーと重複して利用する果実が多い。

小型種では,体重当たりの基礎代謝率が高いため,速やかに利用できる熱源を必要とする。したがって,分解に時間がかかるセルロースに強く依存するのは効率的ではない。その場合,種子食に依存する割合が高かったか,せいぜい選択的に未成熟葉を利用していたと推測される。基礎代謝率の制約から 7 キロ以下では真の葉食者にはなれないといわれている。初期のコロブス亜科が現生コロブス亜科に比べ劣った消化能力をもっていたことは,消化酵素の研究からも示唆される。コロブス亜科は,発酵により急増した細菌の RNA を分解し,窒素を効率的に回収するため,膵臓から大量の RNA 分解酵素を分泌する。コロブス亜科では遺伝子重複によって,霊長類が共通にもっている RNA 分解酵素以外に,より低い pH 値に酵素活性のピークをもつ RNA 分解酵素をもち,発酵によって作られた脂肪酸により,小腸内の pH が下がっても,効率的に RNA の分解を行うことが可能である。

小型種では,体重当たりの基礎代謝率が高いため,速やかに利用できる熱源を必要とする。したがって,分解に時間がかかるセルロースに強く依存するのは効率的ではない。その場合,種子食に依存する割合が高かったか,せいぜい選択的に未成熟葉を利用していたと推測される。基礎代謝率の制約から 7 キロ以下では真の葉食者にはなれないと言われている。

初期のコロブス亜科が現生コロブス亜科に比べ劣った消化能力をもっていたことは,消化酵素の研究からも示唆される。コロブス亜科は,発酵により急増した細菌の RNA を分解し,窒素を効率的に回収するため,膵臓から大量の RNA 分解酵素を分泌する。コロブス亜科では遺伝子重複によって,霊長類が共通にもっている RNA 分解酵素以外に,より低い pH 値に酵素活性のピークをもつ RNA 分解酵素をもち,発酵によって作られた脂肪酸により,小腸内の pH が下がっても,効率的に RNA の分解を行うことが可能である。

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2020年01月27日

オナガザルとテナガザル1

「アフリカの中新世旧世界ザルの進化:現生ヒト上科進化への影響」(中務真人、國松豊 京都大学自然人類学研究室)から転載。

化石記録の見直しでは,後期中新世(1160万~530万年前)の初頭までは,オナガザル上科の放散も,非オナガザル狭鼻類の衰退も認められない。オナガザル科の放散と非オナガザル狭鼻類の衰退は,おそらく同じ時期(1000万~700 万年前)に起こったと考えられる。

1000万年前前後のアフリカ3カ所の化石産地からは3属の大型類人猿が発見され,サンブル丘陵以外は,オナガザル科も出ている。ヒト上科は,サンブル丘陵の年代以降(960万年前),600万年前前後の初期人類(サヘラントロプス,オロリン,アルディピテクス・カダバ)の登場まで知られていない。
ヒト上科の乏しさと対称的な化石記録は,オナガザル科が非オナガザル狭鼻類を(ひいてはヒト上科を)凌駕していた事を示している。両者の逆転は,幅を見ても1000万~700万年前に起こったと考えるのが妥当。

アフリカとユーラシアに棲息する現生真猿類は,全て狭鼻下目に含まれる。現生の狭鼻下目はオナガザル上科とヒト上科に分けられる。
鮮新世(530万~260万年前)に入るまでに,狭鼻類にはオナガザル上科とヒト上科しか残らなくなる。
オナガザル上科は,オナガザル科と絶滅群であるビクトリアピテクス科を含む。オナガザル科は,オナガザル亜科とコロブス亜科を含む。オナガザル科は,種数と分布域の広さから見て,現在もっとも繁栄している霊長類分類群である。

オナガザル亜科は,地上性に適応した種類を多く含み,食性の幅が比較的広いため,広い分布域をもつ。オナガザル亜科は頬袋をもつ。頬袋は,口腔に食物を一時的に蓄えることを可能にするため,採餌効率が重要となる群内間接競争に有利であり,頭上が開いた環境で採食する際には,捕食者回避にも有効である。
現生オナガザル亜科は,オナガザル族とヒヒ族とに分けられる。前者はグエノン類で,分布はアフリカに限られる。後者はヒヒ亜族とマカク亜族を含み,それぞれアフリカ・アラビア半島,アジアの広域・北アフリカに分布する。

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