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2017年09月15日

【南北朝仮説】北朝とは百済勢力であり、南朝とは後発の新羅・高麗勢力では?

北朝・南朝とは何なのか?仮説を提起したい。

孝明天皇の皇子(睦仁)とスリカエられて明治天皇になった大室寅之祐は南朝と云われている。

大室家は山口県熊毛郡田布施町麻郷の小字である鞠府(麻里府)にある。この地は平安時代の中期頃から大内氏の拠点で、高麗からの渡来民たちの末裔が住民の多くを占めていた。大内氏の傭兵となった因島村上水軍も、漕ぎ手の大部分は半島からの渡来民の末裔だった。

百済発祥の多々良姓を称した大内氏は、大内氏を頼って渡来してきた半島系民族集団を配下に置く在日居留民団の団長として存在していた。

『奇兵隊天皇と長州卒族の明治維新』(落合莞爾著 成甲社刊)「第二章 大室天皇はなぜ田布施にいたのか」「第三章 卒族たちの憧れは奇兵隊天皇」から要約する。

山陽山陰地方は古来から朝鮮半島民の流入が絶えないが、周防国は、百済王族の琳聖太子の子孫を自称する大内氏の本拠であった。平安時代頃に渡来してきた大内氏は、周防・長門を中心に支配領域を広げ、百済の琳聖太子の末裔と称した。但し、琳聖太子は架空の人物とされている。

半島渡来人は当初は百済人だったが、やがて統一新羅人、さらには高麗人になる。平清盛も瀬戸内海の制海権を確保し、日宋貿易に本格的に進出したが、清盛は海上要員として、高麗人を多数移入した。

1363年に南朝から北朝に帰順した大内氏は、周防国大内村から山口に本拠を移す。この頃から琳聖太子の末裔を自称し始めた大内氏は、1399年に渡鮮して倭寇を討伐した功績に高麗王に対し百済の故地に領地の下賜を請願する。この請願そのものは、成就の寸前で高麗王臣の反対により不成功に終るが、このように、足利氏に仕えながら大内氏は高麗王にも秋波を送っていた。
このように大内氏は、中国地方と北九州の数カ国が大内氏を国王として分国・独立し、李氏朝鮮を宗主国に仰ぐこともあり得たのである。分国・独立の危機を感じた室町幕府にとっては、この地の高麗系住民をヤマト文化に同化させることが重要な課題だった。

実際、高麗では満州系女直族の李成桂が裏切りによって李氏朝鮮を建てていた。まず元を裏切り、双城総管府を陥落させた李成桂は、次には明の密命で、1392年に高麗を滅ぼして李氏朝鮮を建て朝鮮国王になる。大内氏が李氏朝鮮を通じる可能性もありえたのである。実際、15世紀には大内教弘は防長両国の他に筑前・豊前・肥前を合せて5カ国の守護を兼ねるが、少弐教頼と戦った時、対馬に逃げた少弐を討伐するため、対馬の部分割譲を李氏朝鮮に提案している。

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この説自体は事実であろう。
その上で、一つの仮説を提起する。
天皇家を頂点とする日本の支配階級の出自が朝鮮半島である。
まずは、百済勢が支配権に握る。支配の完成形が平安朝であり、その糸を引いていたのが秦氏である。彼ら平安貴族は専ら農民からの収奪に血道を上げる。

しかし、これで朝鮮半島からの流入は終わりではなく、その後も新羅勢や高麗勢が流入する。日本国内に領土を持たない彼らは、市場ネットワーク・芸能ネットワークを形成する。この市場・芸能ネットワークに依拠したのが南朝である。

ということは、北朝とは初期に流入して平安朝をつくった勢力(主力は百済勢)であり、南朝とはその後に流入してきた新羅勢・高麗勢ではないか。

※元々、南朝派であった大内氏は百済王族の末裔を自称しているものの、平安中期に登場したことや高麗出身者を抱えていたことから考えて、後発の高麗出自であった可能性が高い。

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2017年09月14日

現実社会を知らずして、教育をする資格はない

>大学の生き残る道は、とことん現実課題を追求する実学の場(生産機関への転換)しかない
少子化による大学経営危機に「大学=最高学府」は答を出せるのか?

 

先日、インターンの学生が話していたことが印象的だった。
「大学は研究ばかりで、現実と全く繋がっていないから面白くない、、、
今(インターン生活)は色んな経験が出来るから、大学より全然楽しい、、、」

 

どうも、学ぶことが目的化してしまい、何のために学ぶのかの命題が全く抜け落ちている。
これでは、研究者の自己満足を学生に無理強いしていることに他ならない。
多かれ少なかれ、これが大学教育の実態なのだろう。
大学教員という特権身分が「選民意識」生み、現実とかけ離れた研究こそが学問なのだと正当化する。
そもそも現実社会を知らずに教員をしていること、教員になれること自体が問題であろう。

 

2014年の文科省の有識者会議でも、「日本の大学の大半を職業訓練校にするべきだ」という意見が出ている。
産業界からすれば真っ当な意見であろう。

 

東洋経済ONLINE

インターネット上で炎上した「G型・L型大学」の議論についてご存じだろうか。
発端は文部科学省が2014年10月に開いた有識者会議。
委員を務める経営共創基盤の冨山和彦CEOが、「日本の大学の大半を職業訓練校にするべきだ」と提言したのだ。

提言では大学をG(グローバル)型とL(ローカル)型に二分。
G型はごく一部のトップ大学・学部に限定し、グローバルに通用する極めて高度な人材輩出を目的とする。
そのほか大多数の大学・学部は、地域経済の生産性向上に資する職業訓練を行う――としている。

アカデミズム一辺倒で事実上、偏差値でしか差別化できていない日本の大学に、新たに「実学」というラインを作るべきだという主張だ。
当然ながら、大学教員からは激しい反発があった。
一方で、「社会に出て役立つ実学の方が求められている」という肯定意見も少なくない。今なぜ実学なのか。

 

・反論の中で一番多かったのは、「教員に実学を教えさせるのは、アカデミズムに対する冒涜だ」という大学教員の意見。
でも逆にこの意見こそが、実学の世界で生きていく市井の人たちに対する冒涜。

・そもそもの問題は、日本の大学教育が平均的な学歴で社会に出て行く大多数の人たちにとって役に立たないという現実。
中小企業で働く人の現実と、大学が教える内容はまったく合っていない。

・教養・教育は大学の独占物ではない
大学の授業そのものが、ネット上で無償で公開されている時代。
一般教養は大学に閉じ込めるのではなく、むしろ万人に開かれるべきです。

・教員が知識の独占者でいたいのでしょう。コアにあるのは、大学教員のものすごい選民意識。
大学人は職業訓練なんか二流、三流のものだと思っている。

 

 

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2017年09月07日

日本列島で稲作はどのように伝播したか?

『民族学伝承ひろいあげ辞典』「遠賀川式土器の移動と早期水田伝播から見えるもの」から転載します。

「(北九州の)遠賀川式土器(おんががわしきどき)は、西日本に分布する弥生時代前期の土器の総称。九州から西日本に広く分布し、それが初期の水田稲作の西から東への伝播の指標とされ、西日本の弥生前期土器の総称としてつかわれるようになった。」
「分布は太平洋側では伊勢湾沿岸まで、日本海側では若狭湾沿岸までの西日本全域におよぶ。その後南西諸島や本州北端の青森県までおよんでいることが分かった。 伊藤信雄は、1970年代に炭化米・籾痕土器関連の遺跡を東北地方で23カ所掲げて、日本海沿いの稲作伝播の可能性を指摘している。1980年代に入って青森県三戸群南郷村の松石橋遺跡で完形壺がみつかり、遠賀川式土器であることが分かり、是川遺跡から出土した土器片が遠賀川式であることが確認された。それ以来東北地方各地で遠賀川式土器的などが見つかっている。これらは遠賀川系土器と呼ばれ、東北地方各地の遠賀川系土器の詳しい観察結果や図・写真が公開されている。」

列島の稲作は土器の出土編年から、まず日本海ルートで出雲・越(新潟)へと早期に動く。この流れが青森砂沢へと向かったようである。日本海側が早い理由として学者は対馬暖流の流れと温暖さ、さらに夏季の雨量の多さをあげている。疑問点もあるが記紀などの史書が出雲に早期のクニがあったと言うこととは合致することになる。太平洋ルートでは遠賀川から瀬戸内に入り吉備~近畿へと向かうルートと、豊後水道から外海へ出て土佐、紀伊、伊勢、濃尾平野へと向かうコースがある。

東北の三陸側へは太平洋ルートではなく、もしや日本海で青森周りで南下して到着した可能性がある。関東地方の水田が最も遅くなっているからである。

いずれにせよこれらすべてのコースは安曇族や久米族の海上交流コースの早期存在を示唆することになるだろう。

●遠賀川式土器の移動と水田の広がり
史学界では遠賀川式土器を作る人々が水田稲作を東北にまで広めたことはすでに定説化している。しかし、最初、菜畑のような北部九州の西側で始まった水耕稲作が、なにゆえに北東部の遠賀川流域の人々によって広められたについては、いまだ納得できるアイデアにお目にかかっていない。そもそも九州北西部には長江中流域に多い甕棺墓が広まったが、博多の北東部から豊前には例えば板付遺跡でさえも菜畑から500年も遅れてしまうのである。

しかしほかによい付随遺物がないので、ここでは学界の説に準じて話を進めておく。
東北で遠賀川式を模倣して作られた類似土器が多数出る。後進地帯と言われてきた東北だがこれによってすでに地域によっては九州と交流していた先進地帯があったことがわかった。稲作ばかりではなく、農具つまり実用鉄器の移動、あるいは九州的な装飾品も同時に届いており、あるいは琉球の南海にしかいなはずの貝の模倣品土器すら縄文後期・晩期に出ている。
つまり九州~日本海~東北(南北海道までも)のコースは稲作以前からすでにあったということになる。さらに付け加えるならば、世界の交易は遠隔地から始まるという世界史の定説もあり、このような長旅を小舟でやれた人々ならば、当然東シナ海すらも渡って長江河口部や山東半島にまで往復できたと考えてもおかしくないだろう。

さて、この遠賀川式土器の日本で最も早い移動の痕跡は、つまり倭人の船旅の列島内で最古のものであり、それが「おがのみなと」のちの「岡の港」(おがとは遠賀の古い発音)からはじまったことに日本古代史最大の謎を解く大きなヒントがあるわけである。

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http://www.ranhaku.com/web04/c3/2_01map.html

●遠賀川式土器の分布と発見された弥生時代の水田分布図をもう一度じっくりと眺めていただきたい。

瀬戸内海で近畿へ向かう航路では岡山に土器が集中している。そして播磨から淀川流域(摂津)である。南下して河内方面へも広がる。しかしこの瀬戸内ルートはここで一旦伝播の波がやみ、淀川を北上した波も琵琶湖南部で止まっている。

紀伊半島・三重県から尾張へは太平洋ルートで伝播したのである。そしてこの流れはここで一応終結したと思われるのは、濃尾平野から北へは伝播時期が非常にはなれてしまい、最後になったのである。

ちなみに、不思議なのは吉備と出雲の間と、播磨と出石の間に横たわっている中国山地である。吉備と出雲は古墳文化が大きく異なるが、考古学的には出雲の西谷古墳(四隅突出型)からは吉備系の円筒埴輪などが出てきており、双方に交流があったことは明白なのだが、播磨と出石には水田・鉄器・土器の交流がないのである。なぜおかしいかというと、実はここの間の山地は、日本で最も低くなだらかな丘陵だからである。分水嶺が日本最低の海抜10メートルというからこれは山地とは言えず、ひょいっと越えられる丘なのだ。なのに交流が少ない?尾張から福井若狭へ抜ける部分が日本でも最長最高の日本アルプスでさえぎられていたにも関わらず文化交流や人の流れがあったにも関わらず、なぜ兵庫県の日本海側と瀬と内側には古くからの交流がなかったか?筆者には疑問である。

参考文献 木下正史 『よくわかる古代日本の全体像 知識ゼロから学ぶ日本史の原点』新人物往来社2011

※遠賀川式土器が水田と鉄器その他の装飾品などと移動していった道こそは、実はツヌガアラシトやアメノヒボコらの通り抜けていった道、神武天皇東征ルート、そして海人族と隼人たちの海の道なのである。

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日本列島における稲作の伝播ルートの指標として、遠賀川式土器が使われている。これが正しいと言えるかどうか疑問はあるが、定説では、稲作の伝播ルートは、北九州東部の遠賀川を基点として次のようになっているようだ。

【1】日本海ルートで出雲・越(新潟)から青森砂沢へ伝播したルート。

【2】瀬戸内に入り吉備~近畿へと向かったルート(岡山に集中。淀川~河内・琵琶湖南部で止まる?)。

【3】豊後水道から外海へ出て土佐、紀伊、伊勢、濃尾平野へと向ったルート。

【4】関東地方の水田が最も遅くなっている。日本海で青森周りで南下して東北の三陸側へ→関東地方という可能性も。

【5】北部九州の西側で始まった水耕稲作が、なぜ、北東部の遠賀川流域の人々によって広められたかは不明。

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2017年09月07日

少子化による大学経営危機に「大学=最高学府」は答を出せるのか?

少子化による大学経営危機がいよいよ本格化する、いわゆる2018年問題。

ただでさえ大学の存在意義が問われているのに、誰でも入れる状況になれば、ますます大学に行く意味が問われる。

教育の危機的状況に対し、大学側の動きがよく見えない。文科省は文系学部を減らそうとしているようだ。

大学の生き残る道は、とことん現実課題を追求する実学の場(生産機関への転換)しかないが、

これは教育改革の最大のチャンスであろう。何もしなければ潰れるのを待つしかない。

差し迫る現実課題に答えを出せないとすれば、それこそ大学は不要であることが証明されるだけだ。

 

 

◆2018年問題

現在ある程度の均衡を保っている18歳の人口が2018年を境に大きく減り始め、大学進学者が減少することを関係者の間で「2018年問題」と呼ぶそうです

2012年度から2018年度にかけては118万人から123万人を推移する18歳人口も、2019年から2022年度にかけ毎年1万人の規模で減少し、2023年度から2024年度では4万人減少し105万に達する

2018年問題で地方国立大学倒産の危機 大学乱立で、問われる大学経営

 

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◆大学経営難

2014年の時点で約4割の私立大学が定員割れを起こしています。さらに、代々木ゼミナールの校舎が7割減に象徴されるように子供の数自体が減っているので避けようのない事実

現在は「大学全入時代」で、大学を選ばなければ、誰もがどこかには入れる時代になりました。そのため、「入学して価値のある大学」と「入学しても価値がない大学」の二極化が生まれています

今現在でも就職活動において「どこの大学か?」「大学で何をしてきたのか?」は、重要な要素として見られ、その合否に大きな影響を与えています。これは、ある意味、当然のこと

「2018年問題」が大学受験にもたらす変化 ~1000人規模の大学が170校も潰れる

 

◆少子化

大学の経営が厳しい理由は、大きく2つある。1つは少子化による18歳人口の減少だ。1992年に205万人いた18歳は、12年に119万人へ約40%減少している

わが国の若者人口(18~24歳人口)は平成に入って以降、ピーク時の約1,400万人から1,000万人を割り込むまで、約3分の2に減少している

私立大「財務力ランキング」ベスト30 ~半数近くの私立大が“赤字経営

 

◆大学数の増加

大学設置基準の緩和による大学数の増加だ。92年には523校しかなかった大学が、12年には783校へ1.5倍に増えている

参入規制の緩和により大学の新設が大幅に認められ、大学数は5割増となった。その結果、一種の逆転現象が起こり約600ある私立大学のうち半数近くが定員割れを起こす事態

厳しさを増す大学の経営環境

 

◆地方大学は、、

都市圏の有名大学は相変わらずの人気を集めており、そのシワ寄せが地方圏の私立大学にきており、学生が集まらず定員割れをおこしているところが続出

実質的には無試験(AO入試など)で入学できるため、たとえば「勉強をする気はあまりないが、とりあえず大卒の肩書きだけは欲しい」という学生のたまり場のようになっていることも多い

大都市圏への流出(特に若い女性)は、地域の人口減少に拍車をかける。地方の受け皿となってきた国公立大学の今後は、その地域にとっても死活問題

地方大学の活性化

18歳人口が2018年あたりから激減 地方国公立大学は死活問題

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2017年09月07日

日本列島への稲作渡来ルート諸説

『民族学伝承ひろいあげ辞典』「遠賀川式土器の移動と早期水田伝播から見えるもの」から転載しました。

●3水耕稲作の発祥地と渡来経路
遺伝子分析と考古遺物の炭素同位によってジャポニカ米の発生地は中国長江流域と確定している。
現在までに水耕稲作の日本列島への伝播ルートは4つの案が出されている。

1 北東アジア北回り遼東半島から朝鮮半島へ南下して北西九州へ→×寒冷乾燥地帯ゆえに痕跡なし。
2 山東半島から海を渡って朝鮮半島の温暖な南部へ入り、そこから対馬・壱岐を経て北西九州へ→○遺跡あり(※ただし・・・)
3 長江流域から台湾・琉球諸島を経て南九州へ(柳田國男説)→×沖縄の水田は11世紀以降しか出てこない
4 長江流域から直接東シナ海を横断して北西九州へ→?証拠になる遺物や渡海の痕跡は探しようがない

筆者はイネが南方系植物であることから半島南部と九州玄界灘への到着はほぼ同時だったと見る。なぜならばのちの伽耶など、半島海岸部の倭人と九州の倭人は同じ海人族で同族(はらから)だったからである。なんとなれば彼らが中国沿岸部の白水郎と同じ海の民である限り、彼ら自身がすでに縄文中期あたりから長江などとも交流していた可能性もあながち否定できず、弥生時代になれば彼ら自身がイネを持ち帰ることも可能である。北西九州の初期水田はすでに長江の最先端技術と鉄器農具とともに渡来していたわけなので、彼らの舟に長江人が同乗してやってきて指導したことも否定できないのである。

水耕稲作の北西九州への到来は推定紀元前5世紀だとされている。最古の水田遺跡は菜畑遺跡。

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http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_03suidenninasaku_no_jitunenndai.html

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2017年08月31日

葛城氏と秦氏

元々、市場や諜報のネットワーク、神社ネットワークを作り上げたのは葛城氏(賀茂氏)だが、その後、賀茂神社の実権を秦氏が握ったことに象徴されるように、ネットワークは秦氏に移行したと考えられる。

以下、「泰澄大師 と 日本文化 」の一部要約です。

●京都の愛宕山の寺院には、「大和葛城・鴨氏の役小角」と「越前秦氏の泰澄」の起源に関わる、奈良時代の伝承がある。銅鐸・鉄器をもたらした人々は、出雲など日本海側から渡来し、丹後・亀岡などに拠点、大和に至り、三輪山山麓を本拠とした。彼らは、水・鉄をもたらす山を崇めたが、その中の一集団が、奈良盆地 南西に暮らした葛城鴨氏である。 今日の奈良「高鴨神社」一帯に暮らし、やがて新しい勢力の流入を受け北上し、山代に至る。 その後、奈良時代、同じく葛城から山代へ北上したのが山岳修験の「役小角」である。

天智天皇は、大津京守護のために、奈良の大神神社から、今の日吉大社へ出雲の神である「大己貴神」を勧請した。天武天皇は、出雲の一族である鴨氏奉祭の上鴨神社社殿を整えた。桓武天皇も平安京の護りとしたのは、賀茂社の地である。

古墳時代、秦氏は主に北九州~河内・山代に至るが、一方、日本海側、越前から淡海(滋賀)を経て山代に南下した秦氏もある。その一人が泰澄。泰澄(越前秦氏)は、奈良時代の修験道の僧。越前国白山を開山した。泰澄の父は、秦氏の 秦角於だとする説がある。

秦氏の拠点拡大や、その二つの渡来ルートの合流は、松尾大社の祭神「大山咋神」と「市杵島姫命」に伺える。大山咋神は、日吉大社の奥宮磐座に残る古代の神山信仰で、山城の松尾大社から保津川を昇り、亀岡に伝わる。市杵島姫命は、元来、北九州の宗像大社の祭神である。また、越前から南下した泰澄の白山信仰は、日吉大社など滋賀に多く伝わり、山城に至る。
以上、出雲からは亀岡、大和~山代、 一方では、越前からの淡海~山代。 出雲から伝来した磐座信仰、大国主信仰は、亀岡の出雲大神宮や愛宕神社、そして山代の山頂に至り、今日の愛宕山社寺に伝わる。最澄は、奈良の三輪山より大物主の分霊を日枝山(比叡山)に勧請して、大比叡とした。

『秦氏の研究 -日本の文化と信仰に深く関与した渡来集団の研究-』(大和岩雄 著/大和書房)は、泰澄の生まれた足羽郡に秦氏がいたことを指摘し、また、秦氏の山岳信仰の山である愛宕山の開基が泰澄であり、愛宕山を「白山」ということをあげて泰澄が秦氏の出であることを主張している。泰澄は 702年、文武天皇から鎮護国家の法師に任じられ、717年、越前国の白山にのぼり妙理大菩薩を感得した。 各地にて仏教の布教活動を行い、元正天皇の病気平癒を祈願し、その功により神融禅師(じんゆうぜんじ)の号を賜る。737年に流行した疱瘡を収束させた功により泰澄の戒名と大和尚位を賜ったと伝えられる。

この時期600年代後半~700年代、愛宕山麓、嵯峨野周辺では秦氏の活動が活発となる。

●松尾大社 縁起(ホームページ)より
[磐座祭祀] 当社の御祭神「大山咋神」は、当社社殿建立の飛鳥時代の頃に、始めてこの場所に祀られたものではなく、それ以前の太古の昔よりこの地方一帯に住んでいた住民が、松尾山の山霊を頂上に近い大杉谷の上部の磐座(いわくら)に祀って、生活の守護神として尊崇。
[秦氏来住] 五・六世紀の頃、近年の歴史研究では朝鮮新羅の豪族とされている 秦氏の大集団が、朝廷の招きによってこの地方に来住、その首長は松尾山の神を同族の総氏神として仰ぎ開拓。
[秦氏の開拓] [大堰と用水路][酒造神]
[平安京誘引] 時代と共に経済力と工業力を掌握した秦氏は、大和時代以後朝廷の財務官吏として活躍し、奈良時代の政治が行き詰まると、長岡京へ、次に平安京へ遷都を誘引したのも秦氏の膨大な勢力によるものであったことが定説。
〔神殿の造営〕 701年に秦忌寸都理(はたのいみきとり)が勅命を奉じて、山麓の現在地に神殿を営み、山上の磐座の神霊をこの社殿に移し、その女の知満留女(ちまるめ)を斎女として奉仕し、この子孫が明治初年まで当社の幹部神職を勤めた秦氏(松尾・東・南とも称した)。

●修験道の開祖に仮託された役小角も山岳修行者の一人だった。平安時代になると最澄が比叡山、空海が高野山を開くなど山岳仏教が隆盛し、密教の験者たちがその験力を得るために山岳修行を行なった。また安倍晴明などの陰陽師で山岳修行をしたものも少なくなかった。こうした験力をおさめた密教の験者たちが修験道を作りあげてゆく。中世期に修験道が全盛期をむかえ、熊野を本拠として、本山派や当山派などの中央の修験をはじめ、羽黒山・彦山・白山・立山など地方の諸山の修験が活発な活動をするようになった(本山は三井寺を後ろ盾としてまとまり、当山派は吉野を拠点とした大和の諸大寺の修験から成る)。白山山麓の永平寺を修行道場とした曹洞宗、身延山の七面山を道場とした日蓮宗、一遍が熊野で啓示を得て開教した時宗など、鎌倉新仏教も山岳信仰や修験道と密接な関係を持っている。

近世期には山岳を拠点として諸国を遊行した修験者や聖たちは村や町に定着して、氏神や小祠小堂の祭や芸能にたずさわったり、加持祈祷などの活動に従事した。その影響は強く、現在でも奥三河の花祭などのように、山村には彼らが残した祭
や芸能が伝えられている。また近世中期以降になると在俗の庶民たちが講をつくって羽黒・富士・白山・立山・木曾御岳・大峯・石鎚・彦山などの山岳にのぼるようになっていった。

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2017年08月31日

試験制度の功罪~あらゆる制度は自己目的化し、腐敗する

先週の「実現塾」では、市場拡大における先進国の差、違い、構造について学んだ。

日本は先進国の中でもいち早く豊かさを実現したが、一方隣国の中国ははるか四大文明の頃から市場の歴史があるが、未だに豊かさが実現したとは言えない。その理由は中国の科挙制度にあり、科挙制度により官僚機構が腐敗、それどころか国家が腐敗していることにあると。
日本の官僚登用制度も科挙を参考にしており、現在の官僚(試験エリート)の無能さ、暴走を見るに付け、試験制度が社会を腐敗に導くことは誰しも納得のいく事実だろう。

 

今回は「科挙」がどのようなものかを参考に紹介。

「科挙の功罪――あらゆる制度は自己目的化し、腐敗する」より

 

科挙は6世紀の隋の時代に始祖の文帝によって初めて導入され、1904年の清朝末期に廃止されるまで、1300年以上続いた制度です。優秀な人間を選抜するとともに、皇帝の権力を強化するのが目的でした。

家柄や出自に関係なく、ペーパーテストの成績さえよければ高級官僚として登用するというのは、世界的に見ても画期的なことでした。事実、18世紀くらいまでのヨーロッパでは、高官は貴族の世襲が当たり前でしたから、中国の科挙は非常に優れた制度として紹介されていたようです。

この科挙ですが、最も効果的に機能したのは宋(960年-1279年)の時代だったというのが一般的な評価です。宋に先立つ隋や唐の時代はまだまだ貴族階級の力が強かったのですが、宋代にもなると、彼らの力は衰えます。宋の時代には、科挙の試験に合格することが、高級官僚へのほぼ唯一の道筋となりました。

中国における高級官僚の地位は、現代の日本のキャリア官僚などに比べると比較にならないくらい強大なものでした。古代の中国では伝統的に公金と私財の区別はありません。賄賂も当然のものでした。官僚は、税や付け届けで集めたお金や供物の中から一定額(一説には、集めたお金のたかだか1%以下と言われています)さえ皇帝に上納すれば、あとは私財とすることが可能でした。

時代にもよりますが、今の日本の金銭価値にすると、兆円から数十兆円単位の蓄財をした官僚も数多くいました。百億円程度の蓄財しかしなかった高級官僚が「清廉な人物」とされていたというのですから、あとは推して知るべしでしょう。出自を問わず、ペーパーテストに合格すればこの地位を得られるのですから、優秀な人間が科挙合格を狙ったのも当然と言えます。

とは言え科挙は、宋代までは、実際に優秀な実務者を選ぶ機能を果たしました。科挙の首席合格者が有能な宰相になったという例も少なくありません。南宋の三忠臣の1人とされる文天祥などがその例です。その理由には諸説ありますが、宋の頃まではペーパーテストとはいえ出題範囲も広く、また「志」を育むような文章も勉強しなくてはならなかったという説が有力です。

趣が変わったのは明(1368年-1644年)の時代です。この頃になると朱子学の影響が強くなり、出題範囲は四書五行(論語、孟子、大学、中庸、易経、詩経、書経、礼記、春秋)に限定されます。ひたすらこれを暗記したものが科挙に合格するようになったのです。

では、どのような人間が科挙に合格するかというと、記憶力が良く、親がお金持ちで、子どものころからひたすら科挙合格に時間を使った人間です。時代によって制度も変わるのですが、科挙にはいくつかのステップがあり、概ね30代後半で最終試験に合格するというのが、合格者の一般的なパターンでした。子供のころからカウントすると、30年以上ひたすら科挙合格に向けて頑張った人間が合格するわけです。合格できない人間は、60歳、70歳まで試験を受け続けたとも言われます。一族からの期待があまりに高かったため、期待に応えられずに発狂したり自死を選んだりした人間も多かったと言います。

しかし、ひたすら儒学関連の古典を記憶した人間が実務者として優秀かと言えばそんなことはないのは容易に想像がつきます。実際、明代では、科挙に合格したからといって、実務者としては必ずしも優秀ではない人間が数多くいたようです。

それでも明の政治がそれなりに回った背景としては、そうした官僚の限界を補う一群の存在がありました。それは宦官です。宦官は男性器を切除された皇帝の世話役、補佐役です。日本人の感覚からはなかなか理解しにくい存在であり、中国からさまざまな文化を吸収した日本でも、宦官という制度を取り入れようとしたという話は、筆者は寡聞にして知りません。

宦官は、学(といっても四書五経に限定されたものですが)こそありませんでしたが、世間知に長け、また、科挙合格者にはない度胸や才を持ち合わせていました。中国史に残るトラブルを解決したのが宦官だったという話も多々あります。

宦官と科挙合格の官僚が絶妙のバランスで牽制しあい、難局においては協力したことが、中国の政治を支えたのです。

しかし、科挙の制度は時代を下るにしたがって、どんどん自己目的化し、優秀な人材の輩出という機能を失っていきます。清代になると、古典を知っていることが最高のことであり、実際の政治は俗事として下に見なすようになったとも言われています。しかし、科挙の運営が科挙合格者によって運営されているのですから(名目上は皇帝直轄の試験ではありましたが)、その制度は容易には変わりません。

それでも中国一国で物事が完結しているうちはよかったのですが、19世紀になると、西洋の列強が科学技術なども武器にして中国に攻め入ってくるようになります。1840年のアヘン戦争がそのさきがけです。これには当時の科挙合格者は全く対応できず、宦官も役には立ちませんでした。その結果、19世紀後半、清は欧米列強の軍門に下ることになってしまったのです。

科挙が廃止されたのは、日清戦争に敗れて約10年後の20世紀初頭です。清朝末期の権力者、西太后の決定によるものでした。西太后は歴史上、必ずしも称賛される存在ではありませんが、この意思決定については、評価は高いようです。科挙の廃止を西太后に提案した康有為は、「科挙のない日本にも優秀な人は多い」と言ったとされています。

こうして科挙は1300年超の歴史に幕を下ろしたのです。しかし、その影響は、いまでも日本の大学入試や公務員試験に残っていることは皆さんご存知の通りです。それがいつどのように変わるのかは興味深いところです。

今回の学びは以下のようになるでしょう。

・どんなに効果的な制度であっても、長く続くとそれが自己目的化し、本来の役割を果たせなくなる可能性が高い。その制度で恩恵を受けた人間がそれを監督すれば、その傾向はますます高まる
・権力が集中化するのは危険。パワーバランスをとる何かしらの仕組みやガバナンスが必要
・物事を変えるきっかけとして外圧は有効。しかし本来は、時代遅れのものは、外圧によらず、自発的に変える仕組みが内在化していることが望ましい

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2017年08月24日

子どもに「将来就かせたい職業」~25年前から一貫して「公務員」がトップ

先週の実現塾では「市場拡大の停止」について扱った。

なかでも、70年豊かさ実現~私権活力の衰弱~安定志向⇒凡人化(科学の停止)の構造は興味深かった。
私権活力の衰弱⇒安定志向とは何でなのか?
安定志向=闘争からの逃走、であるとは大きな気付きであった。

安定志向、公務員志向について検索してみたら、クラレが毎年調査しているデータが見つかった。
小学校に入学する子どもとその親に「将来就きたい職業」、「将来就かせたい職業」を聞いたものだが、
なんと、調査を開始した1992年から一貫して親の希望は公務員であった。
1992年で小1の子どもであれば、親は1950年~1960年頃の生まれであろうか。
ちょうどマイホーム主義~三無主義の世代である。
「闘争からの逃走」世代にピタリとはまる。
安定志向の親は凡人に違いないが、親の安定志向がさらに凡人の子ども達を生み出してきたということだ。



    男の子の親「将来就かせたい職業」          男の子「将来就きたい職業」
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    │1位      2位      3位    4位   ││1位      2位    3位    4位 
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1992年│公務員  14.5│スポーツ選手13.5│医者   │教師 ││       │   │   │     │
1993年│公務員  22.2│スポーツ選手12.0│医者   │教師 ││       │   │   │     │
1994年│公務員  22.6│スポーツ選手15.0│医者   │エンジニア││       │   │   │     │
1995年│公務員  21.3│スポーツ選手14.5│医者   │会社員││       │   │   │     │ 
1996年│公務員  22.3│スポーツ選手14.4│医者   │会社員││       │   │   │     │
1997年│公務員  20.9│スポーツ選手12.9│医者   │エンジニア││       │   │   │     │
1998年│公務員  19.2│スポーツ選手14.5│医者   │会社員││       │   │   │     │ 
1999年│公務員  26.1│スポーツ選手11.3│医者   │会社員││スポ-ツ選手22.7│運転士│警察官│おもちゃ屋│ 
2000年│公務員  24.1│スポーツ選手11.0│医者   │会社員││スポーツ選手20.5│警察官│職人 │運転士  │ 
2001年│公務員  25.5│スポーツ選手 9.4│医者   │会社員││スポーツ選手21.0│警察官│運転士│職人   │ 
2002年│公務員  25.5│スポーツ選手13.3│医者   │職人 ││スポーツ選手31.2│職人 │警察官│消防士  │ 
2003年│公務員  22.6│スポーツ選手15.0│医者   │エンジニア││スポーツ選手31.6│運転士│職人 │消防士  │ 
2004年│公務員  24.0│スポーツ選手15.0│医者   │会社員││スポーツ選手32.2│運転士│警察官│職人   │ 
2005年│公務員  23.5│スポーツ選手15.9│医者   │会社員││スポーツ選手29.8│運転士│警察官│職人   │ 
2006年│公務員  20.7│スポーツ選手16.7│医者   │会社員││スポーツ選手31.8│運転士│警察官│職人   │ 
2007年│公務員  18.3│スポーツ選手16.8│医者   │会社員││スポーツ選手31.8│警察官│運転士│消防士  │ 
2008年│公務員  19.9│スポーツ選手16.8│医者   │会社員││スポーツ選手30.2│消防士│運転士│警察官  │ 
2009年│スポーツ選手16.0│公務員  15.8│医者   │会社員││スポーツ選手28.6│職人 │警察官│運転士  │ 
2010年│公務員  18.3│スポーツ選手16.8│医者   │会社員││スポーツ選手30.1│警察官│運転士│消防士  │ 
2011年│公務員  19.8│スポーツ選手13.6│医者   │会社員││スポーツ選手29.8│警察官│運転士│消防士  │ 
2012年│公務員  20.8│スポーツ選手11.4│医者   │会社員││スポーツ選手26.7│警察官│運転士│アニメキャラ  │
2013年│公務員  19.8│スポーツ選手12.0│医者   │会社員││スポーツ選手27.2│警察官│アニメキャラ│運転士  │ 
2014年│公務員  22.0│医者    9.4│スポーツ選手│会社員││スポーツ選手22.6│警察官│運転士│アニメキャラ  │ 
2015年│公務員  18.7│スポーツ選手 9.9│医者   │消防隊││スポーツ選手26.1│警察官│運転士│消防隊  │ 
2016年│公務員  18.1│スポーツ選手11.8│医者   │会社員││スポーツ選手24.2│警察官│運転士│アニメキャラ  │ 
2017年│公務員  19.8│スポーツ選手 9.9│医者   │会社員││スポーツ選手21.9│警察官│運転士│消防隊  │
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2017年08月24日

性と死の起源② 私たちはなぜ死ぬのか?

進化上で「死」が登場したのは、遺伝子を交換して子をつくる「2倍体生物(性)」が登場したときだと考えられている。交換することで異常な遺伝子の組み合わせが生じる可能性があり、それを取り除くためためだ。
では、年をとるとすべての人が必ず死んでしまうことは、生物学的にはどのような意味があるのだろうか?

◆DNAの変異と修復は常に起きている
生命活動に必要な情報は、DNAという分子の鎖に書き込まれている。DNAとは、A・T・G・Cの4種類の文字(塩基:炭素や窒素が環状につながった化合物)で書かれた「遺伝子情報の暗号文」だ。鎖は2本で1組である。向かい合うDNA鎖は、AとC、GとCがそれぞれ結合するように配列している。

細胞分裂を行なう際には、このDNAを正確に複製する必要がある。しかし、どうしても複製ミスがおきてしまうことがある。また、普通に生活しているだけでも、紫外線をあびることなどでDNAには傷がついてしまう。傷とは、本来とはことなる塩基に変化したり、塩基が失われたりすることだ。1個の細胞に含まれるDNA(総塩基対30億)には、1日あたり数千個もの傷がつくと考えられている。

細胞の中にも、傷をもたらす原因がある。ミトコンドリアである。ミトコンドリアは、酸素を使って糖類を燃やし、使命活動に必要なエネルギー(ATP分子)をつくりだしている。ところがこの反応では「活性酸素」ができてしまう。活性酸素は、反応しやすい物質であり、DNAに傷をつけるのだ。

これらの傷を放置しておくと生命活動に支障が出る。そのためDNAは、修復酵素を用いて、たえず傷を修復している。これを裏づけるように、修復酵素がはたらかない人は老化が早まる疾患になることが知られている。※但し、老化が起きる仕組みはにはまだ定説がなく、さまざまな原因が研究されている段階だ。遺伝子に傷が残ることは、老化の大きな原因だと考えられている。

DNA修復

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2017年08月24日

古代中世の市場・諜報ネットワークを支配した葛城氏→秦氏

非人(朝鮮半島からの流入民や国内の逃散農民)に対する社会政策を、加茂役君小角(役行者)を源流として西大寺が担っていた。彼ら非農業民(非人)の収入源は専ら市場(散所)活動であり、その上納金が西大寺に貢納され、西大寺基金となった。南朝の諜報組織の源流となっているのは、朝鮮からの流入民や国内の逃散農民の社会政策を担っていた役行者(役小角)である。役行者は修験道の開祖と云われるが、その正体は何か?あるいは修験道とは何だったのか?

『皇統と鵺の影人検索キーワードダイジェスト集』「役小角(えんのおずぬ)」から引用する。
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小角の生まれた家の氏は「賀茂役君」と言い、後に京都で賀茂神社を奉る賀茂氏の流れである。この賀茂氏、元は天皇家に匹敵する臣王家葛城氏の子孫の事で、臣に下った後、「一部が賀茂氏を名乗った」と言われている。「役」は、特定の職掌をもって宗家・賀茂氏に使えた賀茂氏の分家の氏の名を意味する。従って、小角(おづぬ)は賀茂氏流れの血筋と言う事になる。
上・下賀茂社の社家・鴨氏は、山城国葛野郡賀茂郷に在住した土豪・鴨県主(かもあがたぬし)の後裔である。修験道の開祖・役小角が活躍したのは大化の改新の後、天智大王(天皇)の御世から天武大王(天皇)の御世に代わる670年頃で、712年編纂の古事記や720年編纂の日本書紀よりも古い時代の事である。小角が、大海人皇子(天武天皇)が即位したと時を同じくして陰陽修験道を始め、その修験道を組織化して行く所から、この陰陽修験組織成立には天武天皇の意向が存在したのではないだろうか?
役行者とも称される葛城氏・賀茂小角は、朝廷の権威をあまねく列島の隅々まで知らしめる為の武装組織兼布教組織の長官ではないだろうか?
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『皇統と鵺の影人検索キーワードダイジェスト集』「陰陽師=国家諜報機関説」
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修験道の祖「役小角(賀茂小角)」が創設した陰陽修験は、賀茂・葛城家に伝わる「呪詛信仰(事代主神)」の呪術、占術、元々列島に存在した八百万の「原始自然信仰」と、渡来して来た中世の「妙見信仰・北辰信仰」や「道教」を習い合わせて誕生し、その後の仏教などの渡来宗教にも影響を受けて行くのだが、どう考えても自然発生的に陰陽修験が成立したとは思えないのである。疑うべき最大の疑問は資金と組織力で、表向きの個人的な宗教への情熱などが理由では、余りにも話が綺麗過ぎる。つまり、行動範囲と人数の規模が、不自然に大掛かりに過ぎるのだ。

そして、「役小角」の修験道師育成には影の目的が存在した。占領支配された先住民(蝦夷)も、征服者達に隷属・同化した者ばかりではない。大半は戦闘を繰り返しながら、東に、そして東北へと住居を移して生き残りを図ったが、中には取り残された者達も居る。当然見つかり難い処に身を隠し、ゲリラで長期に抗戦した集団も各地にいた。古事記、日本書紀、各地の風土記に登場した土蜘蛛族達は、こうした先住民(蝦夷)の抵抗の事で、支配者も枕を高くして眠れない。小規模の相手に対して、どんな対策がなされたのか?

山深く移動し、戦闘、説得帰順の為の宗教的知識まで持った古代のレンジャー部隊が山伏(修験道師)の影の役割で、つまり修験道師は帝の「工作機関・秘密警察」ではなかったのか?
地方により違うが代表的な所で、ゲリラ蝦夷の呼び名は鵺、土蜘蛛、鬼、・・・この本拠の一つはどうした訳か、大和の葛城山・大江山などの山々である。つまり、修験道の「行動守備範囲」と重なっているのである。

大和朝廷によって、日本列島の西日本統一が実現された時、征服(侵略)部族の王達が神格化された。
王達が神格化された事もあって、「神の威光で統治する」と言う呪術的発想の「統治理念」から、武力を統治の裏付けとする事は建前上矛盾する。矛盾を解消する為に、「軍事力ないし警察力の行使」と言う汚れた仕事は、国家の制度の内に「公式のものとしての存在を認めない」と言う世界でも類の少ない建前の「特異な制度」が採用された。この建前の「特異な制度」、「神の威光で統治する」では、結果的に地方における警察力欠如の環境が成立してしまう。

しかし先住民の山岳ゲリラは続いていた。それに、征服部族同士の対立も散発的に起こっていた。
そこで中央では、最先端の科学力と信仰理論を修めた人材を結集して秘密警察の修験道師組織が内々(本音の部分)で編成される。列島に渡来した道教が、日本オリジナルの陰陽道に変形して行った背景には、事代主を祭る賀茂氏(葛城氏)の影響である。つまり「お上(氏神)には間違いが無い」と言う神話を作る為に、性善説に立った建前を民衆に植え付けたのだ。

そして、修験道の祖「役小角(賀茂小角)」が創設した陰陽修験は、情報収集の為の「大規模ネットワークを持っていた」と言われて居る。陰陽修験組織は当時なりの、今で言う「メディア戦略と情報操作」の為の機関だった。
古事記・日本書紀の編纂開始時期と役小角の陰陽修験組織の成立時期が一致しているところから、修験組織は全国津々浦々の集落に出向き、政治的意図を含んだ古事記・日本書紀の内容を民話や伝説として語り広げる「政府の広報活動も担っていた」と考えられる。
山間僻地に到る民衆まで心服させる為には、役小角とその配下の神格化が必要だった。しかし、神になっては大王(天皇)の権威と同格になる。そこで考え出されたのが、「会得」と言う手段である。
難行苦行の末に超人的能力を会得した役行者が誕生する。
役小角やその配下の不思議な術は、当時渡来した仏教を通して中華文明の最先端技術を駆使した事である。
今で言う天文学、気象学、医学・薬学(治療術・治療薬から化学反応)、鉱物学(採掘から錬金術)、建築学、機械工学、など多岐にわたる最先端技術である。これが、民衆には人間業とは思えない奇跡に見え、陰陽修験は恐れられ尊敬される事になる。
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つまり、葛城氏(その源流は秦始皇帝を騙して日本に脱出した徐福の一派)の諜報組織があり、その統括者が修験道の開祖と云われる役行者であった。
元々は、土蜘蛛や蝦夷と呼ばれた先住民(縄文人)を諜報や調略の対象としてたが、その後、朝鮮半島からの流入民や国内の逃散民対策も担うことになり、彼らを諜報員に組み込むことによって、諜報組織を拡大していった。それが修験道や陰陽道である。
修験道も南朝も吉野や葛城を拠点としている(楠木正成も葛城近辺の勢力である)。
また、修験道の開祖役行者は葛城一族である。

『秦氏の研究』(大和書房刊 大和岩雄著)の次の記述によると、朝鮮からの流入民を受入れ、彼らの市場・芸能・諜報活動を統括していったのは秦氏だと考えられる。
「漂白芸能民や白比丘尼が秦河勝・秦道満を祖とすることからみて、古代の日本列島へ渡ってきた朝鮮半島の才人白丁は、秦氏の統制下に入るか、自ら秦氏に結びつこうとしたかの、どちらかであったと推測される。」
「散所は、中世前期まではそれほど差別的な意味はなかった。しかし、中世後期になると、散所という語は、非人・乞食など被差別民を指す言葉となる。」
「秦氏は、平安京造営のスポンサーになり、藤原氏とも血縁をもち、彼らが祀る松尾大社は上賀茂・下賀茂神社と共に平安京の守護神となっているが、一方では、被差別の対象にもなっている」

元々、市場や諜報のネットワーク、神社ネットワークを作り上げたのは葛城氏(賀茂氏)だが、その後、賀茂神社の実権を秦氏が握ったように、ネットワークは秦氏に移行したと考えられる。

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