こんにちは。
これまで地域活動について紹介してきましたが、
うまくいっているケースというのは、数人が中心になって推進しているわけではなく、
関わる人すべて、そこに住む人の多くが地域課題の当事者として、何らかの役割を担い、皆でその地域を創っていこうとしていることが分かりました。安全な食、健康、育児、教育などといった現在では家庭における課題も、地域課題として取り組んでおり、そこでは日常的に問題意識の高い女性たちが中心になって活動しており、大きな役割を果たしています。
今回は、地域課題を自分ごととして大きな成果をあげている福岡県大刀洗町の事例を紹介します。
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■ 政治、行政が「他人事」の日本
日本では政治や行政は全く「他人事」だと思う。街頭インタビューの受け答えを見てもよく分かる。東南アジアでも、アメリカでも、ヨーロッパでも、中近東でも、街の人はよくしゃべる。テーマによっては激しくしゃべる。日本では呑気な答えが多い(聞き手の質問もだが)。投票率が低いのも「他人事」のあらわれだろう。
政治・行政に「自分事度」という指標があったら、日本人のランキングは世界の中でも最低クラスかもしれない。政治や行政を良くするのは、政治家や官僚をいくら批判してもはじまらない。政治・行政の中身を「自分事」として考えないといけない。
「他人事」状態を変えるのは簡単ではないが、私は構想日本の活動を通じて、政治・行政のしくみに少し工夫を加えれば、住民が地域のことを、国民が国のことを「自分事」として考え行動するようになる経験をした。現在進行中の例を1つご紹介したい。
福岡県大刀洗町と構想日本が協力して行っている「住民協議会」だ。
■ 地域の課題を「自分事」に
「住民協議会」は、住民の関心が高い行政課題について、住民に集まってもらい具体的な問題整理とその解決策を考え、町として一定の方向性を出すという取組だ。
無作為に抽出した住民に案内を送付し、応募のあった人が委員として参加する。司法における裁判員制度と同様の仕組みだ。
行政への住民参加では、行政に対する要望、注文が多くなる傾向があるが、この協議会では、まず「個人でできること」、次に「地域でできること」を考え、最後に「行政で取り組むべきこと」を考える。
ゴミについて住民が日常的に考えることは「分別をして出す」ところまでだが、実際にはその後に収集があり、処分がある。まずはその全体像を参加した住民全体で共有したうえで、大刀洗町のゴミ行政についてどこに課題があり、どのような解決策があるかを住民間で議論した。
回を重ねるにつれて、「自分たちが分別をより細かくすることで町の負担(税金)が減るならやっていきたい」「生ごみの出し方に色々な工夫の余地があることを知ったので試してみたい」「靴を買いに行った際、無駄なゴミを出さないようにするために靴箱をもらうのを断った」など、住民側から行政を「自分事」として考えての議論が相次いだ。
■ 「行政対住民」から「住民対住民」の議論へ
この試みは一言で言うと政治・行政への住民参加だ。自治体でも国でも、公聴会、タウンミーティング、パブリックコメントなど以前から様々な形で行われている。しかし、その多くが形式化しているのは、
(1) 行政の情報提供、説明の仕方
(2) 住民、国民の参加の仕方(行政側から言うと集め方)
(3) 議論、意見集約の仕方
すべてを行政主導で行っているからだ。
「住民協議会」はいずれもこの点で大きく異なる。
(1)について、行政主導では行政が住民に対して「説得する」ための資料を整え情報提供を行うが、「住民協議会」では構想日本がアドバイスを行い、町の実態、事実を住民に対して「さらけ出す」ための資料作成を行う。
(2)については既述のとおり、無作為抽出で行う。
(3)について、行政は進め方のシナリオは作らない。外部からのコーディネーターの下であくまでも説明者、討論者の一員として参加するだけだ。
以上の工夫によって、地域の課題が「行政対住民」ではなく「住民対住民」の議論になる。
行政の役割は、住民の質問に破綻なく答えることではなく、住民が自ら考えるための情報を用意し、その議論に耳を傾けることだ。そうすれば住民は、財政のような個人の利便を越えたわかりにくいテーマについても「自分事」として考えるようになる。議論の進め方さえ間違わなければ行政関係者が懸念するような、議論が散漫になったり要求的になったりすることはない。
■ 「自分事」化による民主主義の建て直し
実は、以上述べたことは、構想日本が2002年から行ってきた事業仕分けの効果と同じことなのだ。事業仕分けでも国の事業の実態をさらけ出すためにフォーマット化した「事業シート」を使い、行政と外部の専門家、住民が同じ土俵で議論する。2009年以降、自治体では無作為抽出で選ばれた「市民判定人」が評価をしている。国の場合は、政治家が議論に加わるため、政治的な色彩が加わるのは否めないが、それでも国の事業や税金の使い方が国民にぐっと近づいた。国会の予算委員会では想像もできなかったことだ。同時に、自治体でも国でも、誠実な公務員が、行政事業の現場を自分の目で確かめることも増えた。これは公務員も、(当然ながら)政治・行政の現場や税金の使い方をより自分事として捉えるようになったことの表れと言えるだろう。
自治体の事業仕分けに参加した「市民判定人」のアンケート結果を見ると、「税金の使い方への関心度」「行政の事業内容についての理解度」など、仕分けに参加した後大きく伸びていることがわかる(表参照)。
また、茨城県下の3市の市民判定人に聞いたアンケートによると、「投票に必ず行く」という人が80%(「ほとんど行く」と合わせると94%)となっている。
住民、国民が政治・行政を「自分事」として考えるというのは民主主義の大前提だ。
住民参加を形式的なものに終わらせず、フォーマット化など資料作成や無作為抽出などの工夫を加えて、まずは自治体、そして国の政治・行政を変えていきたい。
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参考に、民主主義の前提とは何なのか、紹介しておきたい。
「民主主義という騙し:民主主義は自我の暴走装置である」より、
共同体では、まず第一に、自然の摂理に学び、部族の歴史に学び、先人の経験に学ぶことが、根本規範となっている。
従って第二に、共同体では、成員の誰もが自分たちの置かれている状況と課題を熟知している。
従ってまた第三に、何かを決めるのは、全員合意が原則であり、緊急時etcの長老一任も、この全員合意の延長上にある。
それに対して「民主主義」は、そもそも始めから共認原理を踏み外してしまっている。それは、成員の大多数が、ほとんど何も学ばず、何も知らないという点である。これでは共認原理はまともに作動しない。例えば法律については、それが日常のあらゆる生活を規制しているものであるにもかかわらず、(専門家以外)誰も知らないし、社会がおかれている状況についても、大半の成員がほとんど知らない。
とりわけ、市民運動を中心的に担ってきたのは若者であったが、学びの途上にあり殆ど何も知らない未熟者が、いったいどうして何かを主張し、評価を下すことが出来るのか、何かおかしいと感じないだろうか?
何も知らずとも、主張し判断できる主体は、一つしかない。それは、自我・私権の主体である。自我・私権の主体なら、ほとんど学ばず、ほとんど知らなくても、己に都合のいい理屈を並べたてることは出来る。子どもの言い訳や屁理屈と同じである。
また、民主主義は、自我・私権に立脚しているので全員合意は望めない。だから、多数決で決着をつけるしかなくなるが、この多数決もまた、民主主義が自我・私権に立脚したものであることの証拠である。
事実、民主主義は、何よりも「発言権」や「評価権(議決権)」を優先させ、『まず学ぶ』という人類の根本規範を見事に捨象している。だから、「民主主義は正しい」と信じ込まされた人々は、『まず学ぶ』という根本規範を踏みにじり、身勝手な要求を掲げて恥じない人間と化す。