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2015年11月05日

大らかな母系婚姻制は武家社会~明治維新を通じて衰退

父系婚への転換は武士の登場によるもの?
日本における婚姻習俗
南方系婿入り婚、北方系嫁入り婚

これまで、日本における父系婚への転換は武士の登場によるものとして、婚姻制について歴史を遡って検証してきたが、概ね南方由来の母系婚から、北方由来の父系婚へと武士の時代に大きく転換したことが分かった。しかしこの母系婚と父系婚とは集団統合上も全く異なる制度であり大きな転換であった。大らかな母系婚から家父長が実権を握る父系婚だが、明治時代になり父系婚が法制度として定着していくこととなる。以下、リンクより。

◆婚姻二類型の異質性
婿入り婚によって代表される一時的訪婚は、嫁入り婚とともに日本の伝統的な婚姻習俗をなしているが、嫁入り婚についてはとくに説明するまでもない。婚姻は、嫁が夫家に入る「嫁入り」の時点で成立し、そのまま生涯夫家で夫婦生活が営まれるのである(人類学の「夫方居住婚」)。

ところで、この婚姻の二類型は、婚姻成立の祝いが催される場所(妻家・夫家)や夫婦の居住方式において異なっているだけではない。きわめて異なった文化要素がそれぞれの類型に付着し、社会的に著しく対照的な婚姻習俗をなしているのである。
・一時的訪婚にあっては、配偶者の選択が成人男女の自由な交遊を通して行われ、
 若者組や娘仲間と彼らの寝宿が、その婚前交遊の機会を保障している。
 が、嫁入り婚にあっては一般に男女間の接触を禁圧する規範のもとに、
 婚姻の配偶者はもっぱら家長の意思によって決定され、家長の委託を受けた仲人(なこうど)がその選択に携わる。
・その社会的な基盤としては、一時的訪婚では、若者組・中老・長老という年齢階梯(かいてい)制が編成される。
 対して、嫁入り婚では多かれ少なかれ家父長制的な家族が前面に現われる。
・さらに親族のあり方は、一時的訪婚では双系的な範囲で親族間の交際が営まれるのが基本である。
 対して、嫁入り婚では父系的親族集団(「同族」)が組織される。
要するに、この二つの婚姻形態は、社会的に際だって異質的な婚姻類型として存在していた。

このように社会的にきわめて異質的な二大婚姻類型は、その文化的系統において、南北二つの圏域と関連したものと考えられるのである。一時的訪婚は、中国の江南(長江以南)からインドシナ方面にかけて居住する諸民族の婚姻習俗に源流を発するものであり、他方、嫁入り婚は、中国北部や韓国やシベリア東北端の諸民族の文化と関連するものと推定されるのである。それゆえ、日本の婚姻習俗を考察する場合、つねにこれらの隣接諸民族との文化比較が要求されるのである。

◆婚姻習俗の変化
さて、古代の支配階層に採用されたとされる一時的訪婚は、大和時代に限らず平安時代の貴族層にも受け継がれた。
・平安貴族にあっては、少なくとも嫡妻に関する限り、婚姻当初の妻訪い(妻問い)のあと、
 妻は夫家に同居する建前であった。つまり一時的訪婚がとられていたわけである。
・ところが、鎌倉時代に入ると、武家が政治の実権を掌握し、
 それに伴い東国の武家社会における嫁入り婚が支配階層の婚姻形態として浮上する。
・室町時代に創始された伊勢流、小笠原流の武家礼法も、嫁入り婚にのっとった婚姻儀礼を採用し、室町幕府や江戸幕府がこれに準拠した。このように鎌倉時代から江戸時代まで、支配階層たる武家社会のもとでもっぱら嫁入り婚が行われ、一時的訪婚は支配階層からまったく姿を消したのである。

一時的訪婚の衰退の傾向は、明治時代に入って、いっそう顕著となる。
一時的訪婚と密接に結び付いていた若者組や「よばい」が、維新政府の旧慣陋習(ろうしゅう)打破の政策や明治10年代末からの儒教的な国民教化の政策において批判の対象とされ、さらに日清日露の両戦後のころから展開する官製青年団運動では若者組が青年団に改編され、同運動の眼目の一つだった「風俗の矯正」によって「よばい」習俗は急速に衰微したのである。
このような経過のなかで、1898年(明治31)施行の民法は「妻ハ婚姻ニ因リテ夫ノ家ニ入ル」(第788条)と規定し、嫁入り婚が唯一公式の婚姻形態として、国家権力によって認証されたのである。

◆鎌倉時代に入り武家が政治の実権を掌握し、東国の武家社会における嫁入り婚が支配階層の婚姻形態として浮上してきたとあるが、武士階級にどのように定着していったのだろうか、もともとの疑問は武士による略奪婚が父系婚の始まりという点である。引き続き調査してみる。

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2015年10月29日

南方系婿入り婚、北方系嫁入り婚

前回記事「日本における婚姻習俗」においては以下の内容について扱った。
・嫁入り婚は北方文化由来として登場。
・婿入り婚(一時的訪婚)は南方系文化として登場。
・嫁入り婚は武家によって登場したものではなく、天皇家を中心に古くから行なわれていた模様。
今回も「日本における婚姻習俗」より、詳細を探ってみる。

◆婚姻習俗の変化
日本の婚姻習俗は隣接諸民族との文化的なつながりのもとに形成され、その後の時代的変遷とともに変貌を遂げてきたが、しかもなおその原型を近時までとどめるものも少なくなかった。
(1)嫁入り婚文化のうち東北地方の年期婿の習俗は、極北の採集狩猟民に連なるものとして日本の最古の文化に位置するものとみなされる。
(2)南方系の一時的訪婚の習俗は、黒潮が流れる房総以南の太平洋海域に分布するとともに、その分流の対馬暖流に沿って日本海域をも北上したことが判明している。
(3)元来、嫁入り婚を取り入れていた北方の遊牧騎馬民は、日本にもっとも遅く入ってきて大和王朝を打ち立てたが、その際、南方系の先住民と盛んに通婚することによって彼らの一時的訪婚の習俗を摂取した。
これら三つの文化史的現象を、(1)縄文、(2)弥生、(3)古墳の各文化段階に対応するものと考えることができる。

◆南方系習俗
よばいと歌垣
婿入り婚などの一時的訪婚の習俗が行われていた地帯(とくに日本西南部)では、若者組などという年齢集団が強力に組織され、ムラの娘たちとの自由な交遊(よばい)を通して結婚の相手を選んでいた。その場合、若者たちの(ときには娘たちの)共同の宿泊所たる「寝宿」が、この「よばい」の拠点をなしていた。「よばい」は、特定の日に限られず、男女が相遭うとき、年中つねに行われていたが、それとは別に、お祭りの際とか、市が開かれるときとか、節日など、一年の特定の日に、未婚男女が集まり、ともに歌いともに踊るなどしながら求愛しあう習俗があった。それは、古代には「歌垣」と称され、『万葉集』や『風土記』にも記載されていた。
そしてこのことは中国南部の少数民族の間でもみいだされた。たとえば雲南省圭山地区のイ族(彝族)のもとでは、寝宿における日常的な自由な交遊のほかに、「火把節」と称する「松明の祭り」が、若者たちの求婚の機会だったという。この松明祭りはまさに歌垣に相応する習俗であった。

一時的訪婚の源流
こうして結ばれる夫婦の婚姻が一時的訪婚の居住形式をとっていたことは、中国南部の少数民族でも同様であった。
この点に着眼した大林太良は、日本の一時的訪婚を中国南部の「不落夫家(ふらくふか)婚」と関連づけた。
江南の少数民族のもとでは、嫁が夫家で式をあげてもすぐに自家に戻り、ある期間(多くの場合、妊娠までの間)別居し、この間、夫家に労力が必要なときや節日などに、夫家の招きで嫁が夫家を訪れ、夫婦生活を営むのである。
日本の一時的訪婚のうちにも、夫家で婚姻成立の祝いがあげられたり、別居中に妻が夫家に通ったりする習俗があった。いわゆる「足入れ婚」「女よばい婚」がそうである。足入れ婚とは、嫁が夫家に初入りする儀礼を伊豆の大島で「足入れ」と称することから、大間知が名づけた術語である。この足入れの後、婿が妻家を訪問する点では婿入り婚と変わりないが、女よばい婚では夫家での婚姻成立祝いの後、嫁が夫家を訪問する点で中国の不落夫家婚とまったく一致しているのである。
また、中国の不落夫家婚のうちにも、日本の婿入り婚や足入れ婚と同様に、別居中の訪問が夫の妻訪い(妻問い)の形をとる場合もみられた。海南島のリー族(黎族)の少なくとも一部の部族がそうである。しかも、このリー族には別居中の婚舎に寝宿を用いる「寝宿婚」の習俗もみいだされた。このようにみてくると、日本の一時的訪婚の諸習俗が中国南部の不落夫家婚と著しく共通しており、両者の文化史的関連性が推定されうるのである。

◆北方系習俗
嫁入り婚の諸習俗
日本の嫁入り婚の文化のうちには、北方諸民族と共通する文化要素が少なからずみいだされた。
日本独特の慣習とみなされがちな仲人結婚もその一つである。
それは中国北方のオロチョン人、満州族、ダフール人、エベンキ人、蒙古族において広く行われていた。男家でたてられた仲人が縁談を女家にもっていくのであるが、興味深いことに、女家の方でよい縁談と思っても、すぐには応諾しないという点で、日本とこれら北方諸民族とは共通していた。
嫁入り婚は、前述のように嫁入りの儀式をもって成立する婚姻であるが、実はその儀式は単独に存在するのではなく、その前後に一、二の儀礼が伴っている。東北から九州まで広く分布しているもっとも基本的な形態では、嫁入りの当日、嫁入りに先だって妻家であげられる儀礼に婿なども参加し、また嫁入り後3日目に婿同伴で嫁の里帰りが行われる。前者は「呉れ渡しの式」とか「嫁迎えの式」などとよばれ、後者は「三ツ目帰り」などと称された。この婚姻成立儀礼は中国の漢族の「親迎」と「回門」に当るものであり、さらに北方の遊牧民族の間にもこの傾向がみられた。
この婚姻儀礼には、しばしば祓い清めの意義をもった呪術的儀礼が伴っていた。婚家が松明や篝火(かがりび)などで嫁を迎える一連の火の儀礼もその一つである。このうち嫁に火をまたがせる儀礼は、中国古代の史書『隋書』倭国伝にも記述されているので、古代にさかのぼる習俗であることが明らかである。この火をまたぐ習俗が集中的に分布している関東地方と長野県には、それと並んで、左右に掲げられた松明の間を花嫁にくぐらせる形式の儀礼も行われていた。そして火をまたぐ形式と松明の間をくぐらせる形式の併存は、驚くべきことに、中国東北地区の満州族の間にも近時まで行われていたのであり、日本における火の儀礼習俗が中国北方から伝播したと推察されるのである。

年期婿の習俗
「年期婿」とは、婿が3年なり5年なり、一定の年限を定めて妻家に住み込みで働き、その年限を勤めあげて初めて妻を自家に引き取るという婚姻習俗をいう。いずれは自家に戻ることを表して「還り婿」ともいう。それは、東北地方に広く分布していた。
この年期婿について、岩手県山形村の人たちは「娘をくれてやるかわりに、婿を自分のために働かせるのだ」と語っていたというが、この説明からすれば、それは人類学上の労役婚とみなされよう。確かに労役婚は、シベリア東北端の極北の狩猟漁労民や中国北方の古代の諸民族で行われており、日本の年期婿がこれら北方諸民族の労役婚文化の一環をなすと解されうる。
しかし、年期婿の習俗には、労役婚とは異なった性格も看取された。すなわち妻家の親がすでに年老いており、また家を継ぐべき男子がまだ幼いため、婿が一定期間、妻家に入って、幼い男子の後見を行うというものである。そして、このいわば幼男子後見型の年期婿と同様の習俗も、中国北方諸民族の間で「期限つきの入婿」として行われていたのである。
このいずれの場合であれ、娘を婚出させることによって妻家が被るであろう労働力の喪失を婿が補填するという意味がみいだされ、娘を他家へ嫁がせる嫁入り婚がその前提となっているのである。

 

以上のように、婿入り婚が南方系の文化、嫁入り婚が北方系文化として日本に定着したことが分かった。
次回は、大和朝廷以降どのように受け継がれていったのか、また、そもそも婿入り婚と嫁入り婚の本質的な違いは何なのか、について探ってみる。

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2015年10月22日

日本における婚姻習俗

前回記事においては 武家社会によって初めて嫁取り婚が登場し、その他は母系の婚姻形態であったとして日本の婚姻制の移り変わりについて考察。不明な点は嫁取り婚の起源が武家による略奪であったのかどうかという点にあった。今回また引き続き婚姻制の変遷について探ってみる。

以下は、リンクからの引用。

日本における婚姻習俗
日本の伝統的な婚姻は、かつては、嫁入り婚のみだと無造作に考えられていた。ところが、1929年(昭和4)の『聟(むこ)入考』で、柳田国男(やなぎたくにお)は、嫁入り婚――柳田のいう「嫁入り式中心の婚姻」――と並んで、「婿入り式中心の婚姻」が日本の二大婚姻類型をなし、しかも「婿入り式中心の婚姻」が古代の支配的な婚姻であって、「嫁入り式中心の婚姻」は中世武家階層のもとで初めて形成されたと論じ、学界に大きな波紋をひきおこし、爾後(じご)、この考え方が日本婚姻史の通説的見解をなしてきたのである。近時、この通説的見解に批判が提起されたが、その点は後にふれることとする。

この「婿入り式中心の婚姻」と「嫁入り式中心の婚姻」の二類型は、妻家であげられる婿入りの式で婚姻が成立するか、それとも夫家での嫁入りの式で婚姻が成立するかという、婚姻成立祝いの方式に着目したものであった。ところで、それらが後に、「婿入り婚」と「嫁入り婚」という略称でよばれることが民俗学界で一般的となったが、この略称法の「婿入り婚」という語は、夫が妻家に生涯居住する婚姻、つまり人類学上の妻方居住婚と誤解されかねなかった。そのため、人類学界のなかでは、婿入り婚の語にかえて、「一時的訪婚」という術語を用いる傾向も生じた。というのは、この婚姻の居住方式(民俗学の「婚舎」のあり方)をみると、婿入りの式があげられたのち、一時的に夫妻が別居し、この間、配偶者の訪問によって夫婦生活が営まれる婚姻だからである。

ただ、このような意味の「一時的訪婚」は、婿入り婚だけに限られはしない。後述する「足入れ婚」「女よばい婚」「寝宿婚」もまた、結婚当初の一時期、夫妻が別居し訪婚が営まれる点でかわりがない。そこで以下では、民俗学上の婿入り婚に限定して考察するときはやはり「婿入り婚」の語を用い、前述の訪婚諸習俗を包括的に考察する場合に「一時的訪婚」の術語を使うこととする。

続けて、リンクより
嫁入り婚の古代起源
日本の嫁入り婚には、前記のように、北方の諸民族と共通するさまざまな習俗がみいだされたが、次の二つの習俗もその点で無視しえぬ重要性を有している。
その第一は、中国の学者が「収継婚」と総称している習俗である。すなわち古代北方の遊牧民の間には、もしある男性が亡くなると、その寡婦は義子の妻とされる(俗に「後母をめとる婚姻」という)か、亡夫の弟にめとられる(人類学の「レビレート婚」)か、あるいは亡夫の甥(おい)の妻とされるか、の3方式があったのである。日本ではレビレート婚が近時まで広く行われていたものの、古代の史料にはまだみいだされていない。これに対して後母をめとる婚姻や、甥が義理の伯(叔)母をめとる婚姻は、古代の天皇家の間に行われていた。おそらくレビレート婚も、近時の広汎(こうはん)な分布状況からみて古い時代にさかのぼるものと推察され、そしてそれらは中国北方の遊牧民文化に連なるものとみなされよう。

第二に注目すべきものは、日本古代の姉妹型一夫多妻制の習俗である。それは、妻たちが互いに姉妹であるという特殊な一夫多妻制で、記紀には18件の事例が記述され、天皇家を中心として古代日本に少なからず行われていたのである。そして同様の習俗が韓国では高麗(こうらい)朝の王族のもとで、満州族やモンゴル人では17世紀の前半にやはり王族間で盛んに行われていたのであり、北方系文化に属することは論をまたないのである。
このように考察してくると、日本の嫁入り婚文化は日本民族生成時にまでさかのぼるものと考えられるのである。したがって嫁入り婚が中世の武家階層のもとで初めて形成されたとする柳田国男たちの通説は再検討されねばならないのである。古代日本には、一時的訪婚とともに、嫁入り婚が少なくとも一部で行われていたとみてよいであろう。

 

これによると嫁入り婚は武家によって登場したものではなく北方文化由来として天皇家を中心に古くから行なわれていた模様。また、通い婚は南方系文化として登場している模様。次回、もう少し追いかけてみたい。

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2015年10月15日

父系婚への転換は武士の登場によるもの?

家族って何? シリーズ3.江戸時代~武家だけが血縁父子相続であった~
>日本の江戸時代の家族?は、農村は村単位、商家は母系単位、その中で性はオープンで血縁の父子関係にこだわらないという共通の特徴があります。一方、武家は、これらとは異なり、血縁の父子相続を基本とする「家」を重視してこれに帰属し、嫁取りによってこれを存続させています。

日本の支配者層の婚姻形態は古くは妻問い婚、婿取り婚といった母系婚でしたが、先の投稿に見るように、武士の時代に父系婚に転換していますが、それは何時頃からなのでしょうか、また何を契機に変化したのでしょうか?
「日本の結婚形態の移り変わり」 よりまとめてみました。

◆平安時代〜招婿婚という形態
「妻問い婚」、「婿取り婚」という言葉は、時代時々の代表的な婚姻語の名称である。その二つをあわせて総称を「婿取り式婚」「招婿婚」と呼ぶ。
「妻問い婚」の「妻問い」、『婿取り婚』の『婿取り」という言葉がはじめて使われたのはいつだったのか?
まず『妻問」のほうは、古代の「風土記」などから「万葉集」まで使われ、「婿取り」のほうは、平安時代の「源氏物語」などから鎌倉時代初期の「愚管抄」など多くの文献に見られ、鎌倉時代中期ごろには少し衰えを見せたが、それに似た語が多く南北朝時代ころまで続いた。

招婿婚をまとめると、それは形態的には男子が女子の族または、家に招かれて、通ったりすんだりする婚姻生活で、機能的には、その婚姻生活によって、女子の族または家に子女を生むこと、すなわちその族または、家の成員を増やすことが、招婿婚の主たる要件であるということができる。そのことから見てもわかるように招婿婚、その本質は純粋な意味においてその起源は、女性中心なことから母系婚であることがわかる。妻問いした男を女の妻方の生活体に組み入れようとする意思があったことで生まれた、婿取りをあわせて呼ぶものである。

◆嫁取り婚への変化
嫁取りへと変わっていくはじめの起こりとは。めとりであるといえる。
「めとり」とは男が暴力で女を捕らえることである。藤沢衛彦氏の「めとり」説は、婦女略奪であるとされている。漢字で書くと「女捕り」だとしている。女を捕まえる、もっともである。めとりは主に、道路上で行われていたため「辻とり」とも呼ばれている。「めとり」「辻捕り」は各層関係なく行われたとされる。その行為が多く行われたため、刑罰が間に合わず、行為が横行して止めるに止められない状態なった。そのために「女は捕られても仕方が無い」と人々は思うようになった。そういえることが「お伽草子」にある。「ものぐさ太郎がある年長夫で都にでて、任終わりの帰国のときに、都のお土産に妻を得たいと、宿の主人に相談すると、その主人は「そうしたければ辻捕りをしなさい。」とものぐさ太郎に教えている。このことからもわかるように「めとり」「辻捕り」は罪の意識無く人々に浸透していたことがわかる。ものぐさ太郎のような一般的な庶民が女を(妻)を欲しがるのは当たり前のことだろうが、それが思うようにいかないからといって女を物のように見てそれを得ようとするのはおかしいことだ。このように女を得ようとする男が多いとそこに目をつけてそれを商売にしようと考え実際に「女売り」(女を辻捕りして売る)をする人々があらわれた。女を欲しがる男は、罪の意識はあったかどうかは、知らないが、彼らを「商人」とみたてて女を買った。これは女性をものとしてみている証拠である。この男たちの意識が略奪婚という形になり、それを多少正当化して成り立ったのが「嫁取り婚」の始まりだと考えることができる。

嫁取り婚への変化の時期の女の財産はどうだったのか。
以前の氏族制では女の財産と、男の財産の違いは無く、財産共有の権利をもっていた。鎌倉時代、南北朝時代のころまではこの制度であった。
どうして変わったのか、それは以前は女の身柄は女の族を離れることは無かったのだが、夫の家に迎え入れられる立場になると男の側からして不都合なことがあったからだ。鎌倉幕府も「貞永式目」で、女の財産に対し制約するような規定を作った。例えば、罪人の妻に対する財産の没収の規定である。しかし妻の財産は夫の財産と別のところ(家領圏)に属していることが多かったために幕府は財産を没収することが困難であった。そこに財産が残れば、その族がまた力をつけることにもなりかねないのだ。女の財産は、族の共有であった。女の財産には、後ろ盾があったので回収が難しかったのである。そこで幕府は、家人や公家らと結婚した女には財産を与えないということにし、女の財産を縮小していった。こうして女の財産権というものは、南北朝時代頃から急速に衰えていった。父権と並んで力を持っていた母権は財産権を失うことできえていった。こうなると出てくるのはもちろん父権である。ここで家族制になり、親権は家父長権に変わった。以前男がそれに近い状態だった、相手の財産の依存者になったのだ。ここに女は男の後ろになった。この背景があって婿取り(女優位)から嫁取り(男優位)に変わっていった。

◆室町時代〜嫁取り婚という形態
嫁取婚の時期とは、大まかに言って室町時代以後から昭和時代の日本国憲法が成立した1947年ごろとされている。
嫁取婚とは何だろうか。嫁取婚の始まりとはいつごろであったのか。またどのようにして定着していったのだろうか。
嫁取婚が現れたのは婿取婚の終滅の反面である。嫁取婚の遠い前兆といえるのは,母系の族の中の父系観念のあらわれがそれといえる。嫁取婚の形になるまでには、その前の形成段階があった。その形成段階といえるのが(由来)略奪婚、召上婚,進上婚であるといえる。
そして嫁取婚の最も重要な意味とは、「子を産むこと」である。

それを一番必要としたのは、当時力を伸ばし始めていた武家層である。
ではなぜ武家層は嫁取りを必要としたのか?
武家が自分の一族を残していくには「家」が一番大切であった。財産を相続するものがいなければ、「家」は消滅する、残らない。そこで一番必要となったのは「相続人=子」である。しかし男はいくらがんばっても子を生むことができない。そこで必然的に女にたどり着く。女は子を産むことができる。というよりは、子を産むものだ。女性が必要である。武家たちにとって女は必要なものになった。でも人間として大切だったのかといえばそうともいえない。中国の儒家の言葉に「子なきは去る」という言葉があるように、当時の女性は,「相続人を産む」これが存在の意味であり、子を産むことのできないものは「機能を果たさない無意味なもの」とみなされた。いくら嫁に行っても子ができなければ、自分の意思はまったく関係なく家を追い出されたのだ。平安時代はそのようなことは無かった。財産でたとえても、男女にそれぞれあり、女は、男に関係なく自分の意思で子に相続させることができていた。しかしこの時代は家父長(男)がすべての権限を握り、女子供は無財産が当たり前で、夫の被扶養者という立場になり、すべて夫に頼るしかなくなった。
そうなってくると当たり前に家父長が自分の純系の子供を相続人として財産を相続させる。そこで男の「家」が確立されるのであった。こうして確立された「家」で必要とされた結婚形態が言うまでも無く「嫁取り婚」なのである。

※略奪婚はどのように発生したのか?
父子相続のために武家としては嫁取り婚が必要であったのは理解できるが、その始まりが略奪であったとは驚きである。妻問いから一転して略奪に至るには、武士階級の登場を抜きには考えられないが、引き続きその詳細を追いかけてみたい。

 

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2015年10月09日

データでみる 現代の結婚をとりまく状況

今回は、結婚にとりまく状況を、国立社会保障・人口問題研究所の統計データに基づき、考察してみたいと思います。

下記のグラフは、見合い結婚と恋愛結婚の推移を示すグラフです。
グラフでみると、戦前は7割が見合い結婚。1960年代の後半に恋愛結婚と見合い結婚の比率が逆転し、現在は恋愛結婚が9割を占めています。

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上記グラフは、結婚した男女のみを対象としたデータです。

次は男女それぞれの生涯未婚率の推移を示すグラフです。80年代を境に男性の生涯未婚率が上昇し、90年以降女性の生涯未婚率も上昇していきます。そして現在の状況は、男性の5人に1人、女性の10人に1人が生涯一度も結婚しないこと示しており、今後も上昇していくと予想されます。
※この状況下で、「負け犬(’04年)」「草食男子(’06年)」「婚活(’07年)」などの男女関係や結婚に関するキーワードが登場します。

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2015年10月08日

共同体規範の解体過程

日本民族の精神的土台として共同体規範があるのは間違いないだろう。
しかし、市場経済の浸透により共同体が解体され同時に共同体規範もその場を失ってしまい、共同体に取って代わった市場経済も行き詰まりを見せ、現在は社会規範が有効に働かないきわめて危険な状態である。市場経済が行き詰ったにもかかわらず、それを牽引してきた法律や制度のみが幅を利かしており、社会規範が有効に働く空間が無い状態で個々人のモラルのみが頼み綱として問われる状況である。
果たしてこの先、共同体規範の再生、社会規範の形成はどのように実現可能なのだろうか。

「思想と空想の狭間で」を読んで、そんなことを思ってみた。

◆共同体規範の形成
かつての「農村共同体」のように、代々受け継がれていく田畑を住民達がお互い協働しながら維持していくような地縁・血縁的共同体では、生活の中での住民の共通認識や共通の利害が個人の中での多くを占める。個人の「自己意識」は近代の産物であり、それ以前の自己意識とは「共同体意識」と区別されるものではなかった。

そうした共同体の内部では、住民同士の衝突や軋轢は共同体全体の利益や秩序を損なうものとして、強く抑制される。他人を傷つけること、他人の財産(田畑)を荒らすことは共同体全体の損失であり、そういった行為は強く戒められなければならない。
そうした中から「共同体的規範=道徳律」が生まれ、犯罪的な行為はもちろん、「モラル(規律)」や「マナー(礼儀)」などについても、強く個人の行動を規制する力を持つようになる。この共同体的規範を犯すことは共同体全体の規律への違反でもあり、共同体全員からの強い注意や非難を受けることになる。共同体的規範はこのようにして、共同体の内部の個人に対し、その行動を律する強制力を発揮する。

◆市場経済による共同体解体
市場経済の浸透と商品交換は、互酬性に支配される共同体を解体する。土地と労働力は商品化され、商品交換のシステムに乗せられる。農民もまた土地から切り離されて労働者となり、その労働力もまた商品交換のシステムに組み込まれていく。
やがて(共同体内部で存在した)個人的な付き合いから「おまけ」「値引き」(互酬性交換)を行なってきた商店が消え、スーパーやコンビニへと姿を変える。農地もまた個別の土地の生産性が評価されることになり、「協働」から労働力の「雇用」へ、そして生産効率の向上のための「機械化」へと向かう。

そうして共同体は解体され、やがて「地域社会」と呼ばれるようになる。
この「地域社会」は、共同体とは違った顔を見せることになる。
土地と切り離された労働者は、労働力の「買い手」を求めて移り住む。それはまた仕事の場と生活の場が切り離されることでもあり、職場に応じて生活の場もまた流動化することになる。「地域社会」の住民は住居と離れた場所で働き、仕事の上でも生活の中でも、地域社会と利害が一致することは少なくなる。

同じように「血縁」による共同体もまた、解体を余儀なくされる。「血縁共同体」も親・祖先から子・子孫へと引き継がれる互酬(贈与)によって保たれてきた。もちろん今でも「親−子」という血縁関係は存続し、その中での互酬性交換は存在しうるが、共同体としての認識、利害を共有することは難しくなってくる。相続される土地や財産があったとしても、それらの土地・財産はすでに市場での売買が可能な「商品」として、でしかない。ここでもまた子は親の職業・居住地を「守るべきもの」として受け継ぐことは少なく、子もまた個人的な希望と条件によって職業や居住地を選択するのである。

流動化する労働者は「地縁的共同体」から切り離され、また「血縁的共同体」からも切り離される。 そのような中で、「共同体的規範」もまた無力化せざるを得ない。共同体的規範が個人に対して強制力を持つのは、その規範からの逸脱が互酬性交換の拒絶や排除(村八分など)によって、自らの生活への直接的な打撃となって返ってくるからである。共同体が解体された「地域社会」では、互酬性交換の関係が支配的なものとはなり得ず、規範の逸脱が自らへの打撃となって返ってくることが少なくなってしまうのである。
このようにして、個人の認識として共同体的規範を守らなければならない必然性が薄れるばかりか、個人に規範を守らせようとする力を持った「共同体」自体も解体されてしまっているため、規範自体が無力化されてしまう。

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2015年09月16日

縄文の交易ネットワークを可能にした婚姻制度

縄文時代中期、原産地が限られている黒曜石やヒスイ製勾玉が広範囲に流通していたことから、非常に広範な交易ネットワークがあったと考えられます。
それは同時に、集団が氏族⇒部族として組織化されていたことを示しています。交易の主体となる集団がてんでばらばらに交易を行ったとは考えにくいからです。氏族という最小単位の血族集団を統率する部族が生まれ、各地の部族と交易を行ったと考えなければ、広範囲にネットワークは広がりません。

★交易ネットワークを支えた原動力は何か?

本ブログでは、縄文中期の住居形態と婚姻制度に着目します。この時代の住居の特徴は、中央に広場を置いてその周りを住居が取り囲む形で建造されています。その広場では夜ごと火をたいて祭りを行い、性を開放していた考えられます。野放図な性の野合を禁じ、祖霊の祝福がある場と時間に、祖霊の決めた相手と性交することが氏族内の婚姻規範でした。これを『群婚』といいます。

『郡婚』では、男にとって集団内のすべての女性が伴侶であり、同時に女にとって集団内すべての男性が伴侶となります。同時進行の多夫多妻の婚姻形態となります。氏族の内部で婚姻が完結していることから「族内婚」ともいいます。

ここで、高群逸枝・著『日本婚姻史』から引用します。

縄文中期以後、日本では一群単位とはかぎらず、二群でも三群でもが集落をなしている。集落遺跡は環状型や馬テイ型をなし、中央にヒロバをもつことを特徴としている。その中央に祭祀施設のあるヒロバをもち、そこをクナド(神前の公開婚所)とし、集落の全男女が相あつまって共婚行事をもつことによって、族内婚から族外婚段階を経過したと考えられる。

クナドの神なるものは、数カ所村共有のヒロバや、入会山や、交通の要衝(いわゆるヤチマタや物々交換の市場)や、村の入り口に祭ってある石神であるが、その性格は一面が交通の神、他面が性の神という複雑さを持っている。

複数の氏族を包括する部族、さらに部族間の交流があったことは、氏族内で完結していた「族内婚」から「族外婚」への移行を意味します。そして、「クナド」が交通の神であり、同時に性の神であるということは注目に値します。クナドは文字通り神前共婚の場所であり、またそのことによって他群と交通し、結びつく場所となるのです。

縄文時代、性交は同族化を意味します。排他的な異族の間では性の交歓だけが(ときには性器のみせあいだけでも)和平への道であり、理解への道であり、村つくり、国つくりへの道となります。※大国主神の国つくり神話が、同時に妻問い神話になっているのも、この理由にほかなりません。 
∴クナドによる性による交歓は、充足感とともに、集団が氏族から部族へ、さらには交易ネットワークに結びついていったのです。

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2015年09月03日

赤松啓介の民俗学

赤松啓介(1909~2000)は一言で言うと反権力の人である。大阪中央郵便局に勤めていたころに大阪の被差別部落に興味をもち、大阪市の実態調査を行ううちに共産党や水平社の運動にのめり込んで特高警察に逮捕される。その後、地元の兵庫県に戻り喜田貞吉に師事して本格的に考古学や民俗学の調査研究を開始する。その民俗学の研究も“人民戦線運動”と銘打った反権力運動の一環だった。

その反権力指向から、当時民俗学のメインストリームだった柳田國男を痛烈に批判し、対抗意識を燃やしていた。

柳田のいう「常民」は、彼の政治的な意識を前提として創出されたファンタジーであり、それが「国民」という神話を創りあげることに対して徹底的に批判を加える。その対抗意識から柳田民俗学が取り上げなかった差別、性風俗、ヤクザ、天皇といったタブーを中心に研究を進めていった。

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【赤松啓介氏】

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2015年08月25日

男性がひそかに「女性はすごい!」と尊敬している6つのこと

 

『ハウコレ』~男性がひそかに「女性はすごい!」と尊敬しているところ~(リンク)より

あなた周りに、あなたのいいところを「すべて言葉にして褒めてくれる」男性は、わりと少ないのではないでしょうか。広く世間を見渡しても「男は口下手で、褒めるのが下手」というのが相場ではないかと思います。

女性は子どもを産み育てる役割を昔から担ってきたので、「わかりやすく、さとすように(友好的に)、たくさんしゃべる」能力が自然と備わっているという専門家もいるくらいです。この説を裏返せば、男は口下手……ということになりますよね。そんな口下手な男性が、じつはひそかに「女性ってすごい!」と思っていることを、今回はダイジェストでお送りしたいと思います。

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2015年08月21日

地域づくり~新聞販売店に見る宅配NWの可能性

地域共同体の実現に向け、ミニ新聞発行と宅配ネットワーク網の形成に現在力を入れている。

ミニ新聞は、マスコミが決して発信できない事実、市民の誰もが必要としている事実情報を発信するものであり、嘘・誤魔化しのマスコミに替わる共認域を拡げていくには不可欠なものであり、なによりこの国の進むべき道を考えるべき媒体・鑑となるものである。
一方、宅配ネットワーク網もまた地域共同体にとって不可欠なものであるが、単なるボランティアでは意味が無く、自立した新事業体として成立する必要があり、地域共同体にとっては新聞発行よりも重要な課題であるが、それは一体どういうことなのか、どのような可能性が拡がるのか、新聞販売店の事例を見ながら検証してみたい。

以下、記事を紹介する。
新聞販売店、異業種とのコラボで新たなビジネス・プラットフォームへ
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先日、駒澤大学の講義で、新聞メディアの紹介をする機会をいただいた。
その中で、私にとってちょっと興味深かったのが、新聞販売店についてコメントされているものを散見したことである。実は講義の中では、主に新聞社のビジネスモデルというテーマで話をしたため、販売店については多くは触れなかったのだが、(特に春先の)大学生にとって身近なのは、新聞社よりも、頻繁に勧誘に来る新聞販売店ということらしい。

私の家族を含め一般の生活者にとってみると、新聞を発行する新聞社よりも、新聞を配達する新聞販売店の方がより身近な存在なのかもしれない。妻いわく「インターホン越しに顔を見るだけでどこの新聞販売店の人か分かる」とのこと。同じような経験を持っている方も多いのではと思う。生活者との接点ということでは、直接の接点を持っているのは新聞社ではなく新聞販売店である。コンタクトポイントとかCRMとか難しい言葉を使うまでもなく、新聞サービスのイメージを良くするのも悪くするのも地域の販売店なのかもしれない。その販売店も、従来は新聞を届けるだけの存在だったのが、生活者との関係づくりのために、さまざまな新しいサービスに取り組んでいるそうだ。地域の住民側から見ると、新聞という枠組みを超えた販売店とのお付き合いが始まっている。

その新たなサービスの一つが、地域に貢献するコミュニティーサービスの拠点としての役割だ。高齢者の見守りサービスなどはその代表例で、新聞配達の際に独り暮らしのお年寄りの体調を気遣うことがお年寄りの健康維持に役立つそうだ。また万が一の事故があった場合にも、前日の朝刊がポストに残っていたことで早期発見につながったなど大きな効果を挙げている。独居老人の多い田舎の方では特に効果的で、警備会社とタイアップする事例も出ている。他にも、店舗を開放して、子ども向けに「寺子屋」や読み聞かせ活動を実践したり、親子向けのクリスマス会や七夕の飾り付け会を開いたりしている店舗もある。私が子どものころには「公民館」がその役割を果たしていたように記憶しているが、販売店が街のコミュニティーセンターとして同じような機能を果たしている。このように安心安全、子育て問題から街づくりの課題に至るまで、販売店が核となって地域課題を解決するようなコミュニティーを創出しているといえるだろう。

新たなサービスの二つ目は、実際に家庭を訪問して配達(販売)するという、デリバリーサービスの拠点としての役割だ。新聞を毎日配達しているので、地元の道路事情などは当然よく理解している。新聞配達以外の時間を使って他のモノをデリバリーする取り組みは珍しくなくなっている。例えば地元書店と連携することで、予約注文した本の宅配サービスを行う。また地元のスーパーと連携することで、食料品や日用品を届ける買い物代行サービスを行っている販売店もある。このサービスは、外出が難しい高齢者や育児中の母親の足代わりとして非常に重宝されているそうだ。その他にも、実際にお宅を訪問して、対面でサンプリングを実施している販売店や、折り込みチラシを活用することで健康器具や舞台(コンサート)チケットなどを実際に販売するお店なども出てきている。既にクリーニング店の代行とかお米の販売などをしている販売店もあるので、将来的にはピザ店とか弁当デリバリーなどを併設する、あるいは宅配便センターを併設する店舗が一般的になるかもしれない(ただし、朝夕刊配達時はデリバリー不可となるかもしれないが)。同じ配達員が、朝は新聞配達し、昼は宅配便を届け、夕方はピザを届けるなんてことが起こりうるのだろうか?

こうした取り組みは、販売店による読者サービスの側面もあるのだが、実は販売店を活用した新しいビジネススキームとしても注目され始めている。新聞販売店には、配達、集荷、集金、地域拠点、顧客情報、地域情報など、今現在でもさまざまな機能が包含されている。店舗は、既に全国に2万弱あり、全国の郵便局の数が約2万4,000といわれているので、ほぼ同規模のデリバリーネットワークの拠点、地域コミュニティーの拠点が存在していることになる。地域の生活者を深く知り尽くした販売店ネットワークは、顧客の接点拡大に取り組んでいる企業にとって、エリアマーケティングの有益なプラットフォームになる可能性を秘めている。新聞販売店にとっても、現在は新聞配達と折り込みチラシが収入の2本柱なのだが、3本目の収入の柱が全くの異業種とのコラボレーションによって起こるかもしれないのだ。
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◆生活者と直接接点があるのは新聞社ではなく、新聞販売店
活字を通した情報収集よりも、日々顔を合わせることで得られる関係の方がより深まるのは自明だろう。
現在では、単に新聞販売業を超えて、地域サービスに取り組む販売店が増えているようだ。

◆デリバリーサービスの拠点
新聞配達が本業ゆえ、物品宅配は得意分野。
高齢者や育児中の母親に対して、日曜品や食料品の委託販売、販売代行。
さらには、スーパー、宅急便、クリーニングなどと提携すれば、販売店に委託するだけで何でも足りてしまう。

◆コミュニティサービスの拠点
地域に根付いた宅配網を駆使すれば、さらに活動の幅は拡がる。
高齢者の見守りサービス、医療セミナー開催、子供たちへの寺子屋教室、親子教育セミナー開催、安全安心な食品フェア、、、
もちろん、自前の地域情報誌やミニ新聞など、地域課題を担う拠点として十分に成立する。

◆地域課題を知り尽くしたネットワーク
現在の新聞販売店は新聞社からの押し紙制度の強要により苦境に立たされているが、
このように地域に密着したサービスを提供することにより、新たな事業展開が可能であり、地域課題を担う新事業として成立する。
これが、宅配ネットワーク網の構築が重要戦略たる所以である。

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