「本格追求シリーズ3 共同体社会に学ぶ子育て」14 近世農村の貰子、捨子
に続いて今回は江戸中期以降頻繁に行われていた“子返し”について見ていきたいと思います。それでは早速“子返し”って何?と言うところから押さえて行きたいきましょう。
この絵馬は、柏原白鬚神社境内にある浅間神社に奉納されたものです。産まれたばかりの我が子を殺す女性2人が彩色で描かれていますが、一方は鬼の顔をしており、そこには
「足らぬとて まひ(間引)くこころの愚かさよ 世に子宝といふをし(知)らすや」
「罪は身に むくうとしりて天より さつ(授)けたまわ(賜)る子かえ(返)しをする」
と記されており、子返しを戒める目的で奉納されたことがわかります。製作年代と作者は不明ですが、奉納者の氏名から江戸時代末期の作と考えられています。狭山市の指定文化財より
“子返し”って何?
近代的用語で言えば“間引き”=子殺し(親が子を殺す)のことです。それを江戸時代では“子返し”と言っていました。「返す」というのは、「天」に返すという意味です。当時7歳以下の子どもは神の子とされ、いつでも神にお返しする(つまり殺す)ことができるとされていまいた。
また“子返し”の実態も当時それほど珍しい行いではなかったようです。“間引き”と言うと口減らし印象があり、貧困で食えないから間引いた・・・と思っている方もいると思いますが、必ずしもそうとは限らず、一定の生活水準を保つためにも行われていました。またそれ以外にも、生まれてきた子供が奇形児や障害を持った子供であった場合等は“子返し”が行われていたようです。
親は一般に子を守るものと考えられ、民法においても子は親が扶養すべきものとされ明確な扶養の義務づけがされている現代とはエライ違いですね。
では今度は“子返し”がどんな背景によって行われてきたのか?またどんな意識をもっていたのか?を見てみましょう。これについては『子宝と子返し』(著:大田素子)からそれに纏わる内容をピックアップして紹介したいと思います。
ちなみに『子宝と子返し』は江戸時代の豪農(在郷商人)の日記から考察した内容となっています。