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2016年01月04日

新しい社会を築いていくために

新年おめでとうございます!
今年も当ブログを宜しくお願いいたします。
新年にあたり、昨年の勉強会で学んだことを書きたいと思います。

最近では「仕方なく生きてる」若者が増えていると聞きます。
1990年代の「自分探し」から、2000年代の「やりたいことが見つからない」という意識潮流から時を経て、
現代では「仕方なく生きてる」という、若者がまるでゾンビ化しているようです。
社会に適応するには、それに応じた欠乏(内圧)が生じますが、今や欠乏の中身は何も無いことになります。
次代を担う若者がこのような状況では、お先真っ暗ですね。
一体なぜ、このような状況になったのでしょうか。

歴史を振り返ってみると、そこには必然の理由があることに気付きます。
若者に限らず、現代社会の最大の問題点である「思考停止」という構造が浮かび上がってきます。

◆無思想・無気力・無関心
いわゆる三無主義、団塊世代の次の世代に言われた言葉ですね。
1970年頃から言われはじめ、これに無感動を足して四無主義とも言われます。
それ以前は、貧困の脱出を目的とした近代観念(個人主義、民主主義など)に誰もが収束し、昔のエリートなどは近代観念で社会は良くなると本気で信じていたし、勉強していたものです。
ところが1970年、貧困の消滅(豊かさの実現)とともに、近代観念が否定していた対象がなくなると、近代観念は急速に意味を持たなくなり、誰も信じなくなりました。同時に何も考えなくなり(思考停止の始まり)、することがなくテレビや娯楽に埋没し、更なる思考停止状態となっていきました。

◆学校制度、試験制度の弊害
もう少し時代を遡ると、明治時代から始まった学校制度、試験制度のその要因が見られます。
江戸時代の寺子屋では自然圧力の中で生きる知恵を学んでいたのに対し、学校で学ぶのは試験のための知識を暗記することです。とりわけ1970年代に受験ブームになると暗記脳が顕著になり、さらに追求力・自考力が衰弱し、現在の思考停止に繋がっています。
1970年代に暗記脳が顕在化したのは、貧困の消滅に伴い家庭が無圧力空間となり、家庭には子育て課題しかなくなり、母親の囲い込みによる勉強圧力が受験に向かわせたことによります。

◆否定発の思考パラダイム
根本的な要因は思考のパラダイムにあります。
近代観念、とりわけ個人主義などは他の一切を捨象して自我を正当化した観念であり、さらには古代宗教も現実を否定して神などの架空観念を絶対化したにすぎません。人間は観念動物ゆえに物を考える際には観念が必要となりますが、その観念自体が否定のパラダイムに覆われているということです。1970年、貧困が消滅し新たな可能性が開けたにもかかわらず、また現代の閉塞した社会に対して何の答えも出せないのは、否定発・問題発の思考パラダイムに洗脳されているために思考停止になっているからです。

このように、「仕方なく生きてる」ことを掘り下げていくと、「思考停止」という大きな壁が見えてきます。
これは若者に限らず、三無主義の時代から続くもので、今や社会の基底部にある最大の問題ともいえます。
根本的な要因が「思考停止」にあるならば、否定発・問題発の思考パラダイムを捨て去り、可能性発の思考へと転換することで満ちは開けてきます。

これまで見てきたように、現代的な壁や課題を追求し突破するためには、歴史をとことん遡り、どこに可能性の実現基盤があるのか探る必要があります。私たちが歴史を学ぶ理由もそこにあります。あくまで現代の壁を、未来の実現可能性を探るために歴史を追及するということをあらためて肝に銘じ、単なる歴史探索にならぬよう心してブログ運営をしていきたいと思います。

 

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2016年01月01日

10/14実現塾「サル・人類史年表2」~同類闘争を共認原理でどう統合するか?

前回に続き、10/14実現塾「サル・人類史年表」の議事録要約版を投稿します。
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サル・人類史の追求は、日本の再生をどうする?という課題とも密接に繋がる、極めて現代的な課題である。

サル・人類に固有の共認機能は、相手の期待に応えることによって充足を得ることができる機能で、サル・人類の最大の活力源となっている。※共認とは、共に認め合うこと。
霊長類3000万年、人類500万年を貫く統合原理は、共認原理である。事実、人類は500万年に亘って課題を共認し、役割を共認し、あるいは規範や評価を共認して存続してきた。そして、個体(の意識)や集団や社会は、人々が、それらの共認内容に強く収束することによって、統合されてきた。又、そこでは、集団を破壊する自我や性闘争は、永い間、封印されてきた。
ところが、5500年前、人類は共認原理による社会統合に失敗し、その結果、略奪闘争(戦争)の果てに私権統合の社会が出来上がった。
これは共認機能が、互いに顔の見える範囲の個体と集団の統合機能であって、そのままでは集団を超えた数百万人もの社会空間を統合する事は出来なかったからである。

約1.5万年前、人類は弓矢の発明によって洞窟を出て地上に進出して以降、次第に人口が増大し、それにつれて集団間の軋轢も増大してゆく。人類は共認原理を集団外にも延長して贈り物を通じて友好関係の維持に努めたが、やがて、その同類闘争の潜在的緊張圧力に対応して、人々は自集団を正当化する守護神信仰に強く収束してゆく。こうして集団的自我が発現し、永い封印が解かれてゆく。そして遂に5500年前頃、乾燥と飢餓を契機として略奪闘争が開始され、玉突き的に世界中に伝播していった。こうして、5000年前頃には、人類最初の武力支配国家が成立する。

力の原理に貫かれたこの社会は、序列原理によって統合される。それが身分制度である。この力の序列原理は、性闘争を止揚する統合原理で、哺乳類やサルに一般に見られる統合様式である。しかし、人類社会は、力の原理だけで統合される訳ではない。力の序列は極めて不安定であり、すぐに崩壊する。人類社会は、人々が力の序列を共認し、それを言葉化した「身分」を共認することによって、はじめて安定的に統合される。つまり、この社会は、力の原理を追共認することによって秩序化されている。
この序列社会では、当然、力に応じた私権(私有権)が共認される。そして、私有権が共認されると、社会の全ての物財は(女も含めて)悉く私有の対象となり、人々は私権を確保しなければ生きてゆけなくなる。つまり、私権の共認は、否も応もない私権の強制圧力を生み出し、万人を私権追求の主体に改造してゆく。
実際、この序列社会の活力源は、女や財や身分を追い求める私権欠乏であり、誰もが私権を求めて争う私権闘争である。
従って、序列統合の社会は、誰もが私権(の獲得)に収束することによって統合された、私権統合の社会であると云い換えることもできる。

このように、人類は(わずか数十年~数百年という短い期間では)集団を超えた同類闘争を止揚・統合する機能or場を作り出すことが出来ずに、あっという間に略奪闘争(戦争)に席巻されてしまったのである。そして、力の序列原理に則った武力支配国家の下で、人々は私権を共認し、万人が私権の獲得(=私権闘争)に収束する私権統合の社会が出来上がった。

しかし、その私権社会も、’70年頃、貧困が消滅したことによって一気に私権闘争の圧力が衰弱し(従って活力が全面的に衰弱し)、もはや私権闘争に基づく国家や市場では、社会を統合できないことが明らかになってきた。
今、人類がぶつかっているのは、略奪闘争や私権闘争を超えた新たな社会統合の仕組みをどう作り出すのかという未明課題である。同時に、人類は改めて、5500年前には出来なかった、集団間・民族間の同類闘争を共認原理でどう止揚・統合するのかという課題を、突きつけられているのだと云えよう。

その実現基盤は何か?

同類闘争圧力を主圧力源として、共認充足を最大の活力源として進化してきたのが、サル・人類である。
私権圧力が衰弱した以上、その強制圧力によって抑圧されてきた人類本来の活力源が再生されてゆくのは、当然の理(ことわり)である。
事実、’70年以後、貧困の消滅に伴って私権追求はもはや第一の活力源ではなくなり、代わって、周りの期待に応えることによって得られる充足(安心や喜び)、すなわち共認充足こそが最大の活力源となっており、人々の期待に応える能力こそが現在の同類闘争の制覇力となっている。この共認収束こそ共認原理による社会統合の実現基盤である。

人類は、既に貧困(物的な生存圧力)から脱却した以上、生存圧力を背景とする同類闘争(略奪闘争や私権闘争)から、共認圧力を背景とする同類闘争へと脱皮するしかない。その新しい同類闘争とは、人類本来の共認機能に基づく共認闘争である。すなわち、環境その他の人類的課題に対する期待と応望を主活力源にして創造活動を営み、評価収束による創造競争(=新たな同類闘争)によって圧力=活力を高め、その同類闘争を同じ評価収束⇒評価共認によって統合する社会、これが次代の共認社会である。つまり人類は今、史上はじめて、人類本来の共認機能に基づく共認闘争によって掠奪闘争や私権闘争を止揚し、社会を再統合し直す段階に来たと云えるだろう。

その先導を担うのが、日本人である、日本はつい1800年前まで共同体社会であり、それ以降も、あまり激しい略奪闘争を経験せず、世界で最も本源的な縄文体質(共認体質)を色濃く残している民族が日本人である。従って、これからの共認時代をつくる上で、日本人が果たすべき役割は極めて大きい。

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2015年12月29日

「恋愛」と「結婚」 混ぜるなキケン

そもそも「恋愛」と「結婚」は矛盾する。

◆理由の一つは、生理的・科学的な矛盾
『愛はなぜ終わるのか』の著者でアメリカの人類学者ヘレン・フィッシャー博士は次のように述べている。
「人間が恋愛感情を抱くのは、あくまでも“種の保存(子作り)”のために進化させてきたDNAの命令によるもの。後世により多くの遺伝子を残すためには、出産・子育てが一段落する頃に男性が妻から離れ、新しい女性と改めて恋愛して子作りに入ったほうがいい・・・。ゆえに人は、大恋愛を本能的に3年で終わらせるようにできている。」

具体的には、恋愛には「第1ステージ」と「第2ステージ」があるという。
恋愛の第1ステージでは、脳内で快楽を司るドーパミンが放出され、「この人とキスすれば、幸せになれそう」などの期待感からドキドキ、盲目的な恋愛、子作り(セックス)へと向かわせる。男女とも異性を惹き付ける必要もあるから、それぞれの体内では男性・女性ホルモンも活発に作られる。
だが、第2ステージで放出されるセラトニンやβエンドロフィンは、癒し系の物質。恋愛初期のトキメキを抑え、落ち着いた生活や子育てに向かわせるホルモンだ。さらにこのステージでは、男性の体内で男性ホルモン「テストステロン」が大きく減ってしまう。
男性は安定した恋愛や結婚の状態におかれると、早い段階から「父親になる準備」を始める。テストロンが減る反面、男性でも分泌されたすいのがプロタクチン。母性を生成したり母性本能を引き起こすとっされるホルモンだ。よく男性は、結婚後数年後から太り始め、「幸せ太り」とも言われるが、科学者の間では「生理的には代謝やテストステロンが減ることで、ゴツゴツしたセクシーな男らしさが失われ、太りやすくなるため」だとされている。

◆男性が妻に求める「男子力」と、女性が夫に求める「女子力」
矛盾のもう1つは、現代特有の共働きとイクメン志向。
厚生労働省の調査(’13年)によると、出産後も働く女性の割りは年々増加、今や子どもが10歳になる頃には、7割以上の母親が何らかの仕事を持って働く時代だ。中央大学・山田昌弘教授は「近い将来、この割合は9割に達するだろう」とみる。社会全体の労働力不足や女性の社会進出、男性側の年収の伸び悩みがおもな原因だ。
実際、若い世代でも独身男性の9割以上が「未来の妻にも働いてほしい」と希望し、結婚後の妻に「稼ぎ力」や「男子力」を求める男性も増えている。

一方の女性はどうか。やはり未来の夫には、稼ぎ求めるだけではない。国の第三者機関の調査でも、「結婚相手(未来の夫)の『家事力』を重視する」と答えた女性(未婚18~34歳)は、なんと62%。さらに驚くことに、これは、「経済力を重視」の回答より2割も多い。(’11年/国立社会保障・人口問題研究所)
女性は女性で、結婚後の夫に「女子力」を強く求めているわけだ。
当然ながら、恋愛の初期に不可欠なのは、性衝動にもつながる「男らしさ」「女らしさ」。だが、結婚後の生活を考えれば、そこは必ずしも重要とは言えない。

これらを鑑みても、「恋愛」と「結婚」は元来、相容れないどころか相反するもの。極端に言えば、「混ぜるなキケン」なのである。

【参考】牛窪恵・著『恋愛しな若者たち』

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2015年12月24日

10/14実現塾「サル・人類史年表1」~原猿/真猿の定義(共認機能に着目しない学者の定義は無効)

10/14実現塾「サル・人類史年表」の議事録要約版を数回に亘って投稿します。
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原モグラから出発して樹上に逃避の場を求め、6000万年前に樹上機能(後ろ足の指で手と同じ様に枝を掴める)を獲得したのが原猿であるが、どこから(何を以て)原猿と定義すべきか?

樹上機能を獲得し、森林という森林を埋め尽くして(その食糧限界まで)繁殖した原猿たちが、絶えざる縄張り侵犯を繰り広げるのは必然である。これは同類同士で縄張り闘争を繰り広げるという同類闘争であり、同類闘争に対応する本能など存在しない以上、サルたちが本能機能を超えた共認機能を形成するのも必然である。

サルが同類闘争⇒共認機能を生み出したのは、彼らが樹上を埋め尽くしたからであり、それを可能にした機能、すなわち拇指対向性と立体視の獲得を以て原猿と定義すべきである。

ex.カルポレステスは、拇指対向性を獲得し、足の指で枝を掴んで樹上逃避できるようになったが、枝から枝へ飛び移るために必要な立体視機能(両目が顔の正面に並ぶ)を獲得していないので原猿とは云えない。立体視を獲得したショショニアスを以て原猿と定義すべきである。

では、真猿の定義は何か?
原猿と真猿の違いはその共認内容にある。
原猿は、同類闘争の不全感を揚棄するために、相手の課題=期待を自己のそれを重ね合わせ同一視することによって充足を得る回路を形成し、この親和充足共認の機能によって原猿オスたちは不全感を和らげたが、縄張りを確保することはできなかった。
それに対して、縄張り確保という課題共認⇒評価共認⇒役割共認⇒規範共認という一連の闘争共認を形成したのが真猿である。

原猿と真猿の違いは、その集団形態の違いにも現れている。
原猿集団は縄張りを確保した一匹の首雄と数匹のメスとその子供たちによって構成される生殖集団であるが、真猿集団はオスたちが縄張り闘争を闘うべく形成した闘争集団である。

このように、共認機能こそサルのサルたる所以であり、そこに焦点を当てて原猿/真猿の定義も考えるべきである。それに対して学者たちは、身体の形態や大きさだけを取り上げて原猿・真猿を定義し、それを「科学的」と称しているが、その定義はあまりに幼稚である。
例えば、学者たちはプレシアダピスをサルの祖先としているが、プレシアダピスはげっ歯類のリスと変わりがないのであって、そんな定義は無意味である。

そんなことになるのは、学者たちが集団や社会の構造に関心がなく、かつ歴史全体を構造化しようとする視点も全くないからである。学者たちが、サルの脳を解剖してミラーニューロン(同一視機能)まで発見しながら、それを母胎として進化した共認機能を発見できないでいるのも、その所為である。

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2015年12月22日

日本の歴史上例外的だった「つかの間の恋愛結婚至上主義」

平安時代から現在に至る「恋愛」「結婚」の歴史をみてみると、日本の若者の多くが、心底「恋愛したい!」と夢中になった時期と言えば、西洋ロマンチックラブが輸入された直後の明治・大正時代と、昭和のバブル期くらいではないだろうか。

明治・大正期のロマンチックラブ・イデオロギーは、多く男女にとって、ほぼ実現不可能な「見果てぬ夢」だった。一部の芸術家のように、無理に具現化しようと親や社会からに逆らえば、大きなリスクを負うことも分かっていた。でもだからこそ、彼らはまるでは遥か彼方の夜空を眺め、恋愛という輝く星を仰ぐように、「もしいつか手に入れることができたら」と強く願ったのだろう。

江戸時代にも、男女があちこち婚前交渉を楽しむ風景はあったよう。ただそれは、心と心の結びつき「運命の出会い」を願うような、現代の大恋愛や純愛のイメージとは違う。むしろ性的欲求や肉体のつながりが強かったはずだ。
強いてあと一時代をあげるとすれば、平安時代。まず恋文を交わし、セックスで互いに相性チェックやコミュニケーション能力をはかっていたこの時代も、あるいは若者自身が恋愛意欲の高まりを実感できた時代かもしれない。

★他方、結婚への道筋はどうか。
平安時代、三夜の夜這いが完了した直後、女性の実家の親が婿(男性)を歓待し、そこで結婚が成立した。この頃は、セックスが恋愛の「はじめの一歩」であり、恋愛(性)が結婚に直結していた。

ところがその後、鎌倉~江戸時代にかけて、武士の家庭や良家では「家系を守る」観点から、親や親族が中心に見合いをセッティング、政略結婚が当たり前のように成立するようになった。他方の村落共同体では、村の長が主導して夜這いが実行され、若者の結婚や出産(人手や労働力の維持)を後押した。
この頃、日本の結婚市場を支配したのは、「恋愛と結婚は別」「恋愛は、結婚後にすればいい」との発想。つまり恋愛と性、結婚の結びつきはいったん、鎌倉~江戸時代の「大人の事情」によって、完全に分断されたのだ。

そして明治・大正時代から昭和初期。若者たちは、西洋由来のロマンチックラブに憧れ、いわゆる恋愛結婚を夢見た。だが、現実には親の意思による「見合いが圧倒的多数。ほんのわずかに存在した当時の恋愛とて、「幸せな家庭生活」を目標とした「友愛結婚」でしかない。
その後、戦後に入っても、しばらくは恋愛の名を借りて、職場の上司や親族による「半見合い結婚」の状態が続いた。この頃も、「恋愛と結婚は別」とは言わないまでも、相手を心底好きになるのは、結婚したあとでいい」との思いが強かったはず。婚前交渉も基本的には「NO」だったからだ。

となれば、若者たちの大多数が「恋愛した」と強く願い、それをみずからの力で結婚までに結び付けられたのは、昭和後期の、ほんの一時期だけ。ただそれとて、現実には親や周りの大人たちが、恋愛か結婚、どちらかに強く関与していたからこそ、成り立っていたこと。実際に若者自身が、純粋に自分たちの力だけで真の恋愛結婚を勝ち取れた時代は本当に一瞬でししかなかった。

そんな中で、しかも90年代半ば以降にこれほど多くの恋愛レボリューションが起こってしまったいま、無理「もっと恋愛をせよ」「そこから結婚に発展させよ」と、いたずらに若者を煽っても意味がない。
それよりは、いまこそ歴史に学び、いったん昭和の「恋愛結婚」の概念をリセットし、改めて彼らが望む結婚の形を模索するほうが、より現実的ではないだろうか。
なぜなら、日本は平安以降の1200年のうち、圧倒的長きに渡って「恋愛と結婚は別」「心底好きになるのは、結婚した後でいい」との考えを、実践してきたのだから・・・。

~牛窪恵・著『恋愛しない若者たち』より~

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2015年12月15日

古代の婚姻習俗の変化

日本の婚姻習俗は、隣接諸民族との文化的なつながりのもとに形成され、その後の時代的変遷とともに変貌を遂げてきたが、しかもなおその原型を近時までとどめるものも少なくなかった。婚姻習俗の変化について古代を中心にまとめておく。

■(1)嫁入り婚文化のうち、東北地方の年期婿の習俗は、極北の採集狩猟民に連なるものとして、日本の最古の文化に位置するものとみなされよう。

・労役婚の側面をもつ年期婚は、シベリア東北端の極北の狩猟漁労民や中国北方の古代の諸民族で行われており、日本の年期婿がこれら北方諸民族の労役婚文化の一環をなすと解されうる。
・幼男子後見型の年期婿と同様の習俗も、中国北方諸民族の間で「期限つきの入婿」として行われていた。

※いずれの場合であれ、娘を婚出させることによって妻家が被るであろう労働力の喪失を婿が補填するという意味がみいだされ、娘を他家へ嫁がせる嫁入り婚がその前提となっている。

■(2)ついで南方系の一時的訪婚の習俗は、黒潮が流れる房総以南の太平洋海域に分布するとともに、その分流の対馬暖流に沿って日本海域をも北上したことが判明している。

・雲南省圭山地区のイ族(彝族)のもとでは、寝宿における日常的な自由な交遊のほかに、「火把節」と称する「松明の祭り」が、若者たちの求婚の機会だったという。この松明祭りはまさに歌垣に相応する習俗であった。
・江南の少数民族のもとでは、嫁が夫家で式をあげてもすぐに自家に戻り、ある期間(多くの場合、妊娠までの間)別居し、この間、夫家に労力が必要なときや節日などに、夫家の招きで嫁が夫家を訪れ、夫婦生活を営むのである。
・中国の不落夫家婚のうちにも、日本の婿入り婚や足入れ婚と同様に、別居中の訪問が夫の妻訪い(妻問い)の形をとる場合もみられた。海南島のリー族(黎族)の少なくとも一部の部族がそうである。しかも、このリー族には、別居中の婚舎に寝宿を用いる「寝宿婚」の習俗もみいだされた。

※日本の一時的訪婚の諸習俗が中国南部の不落夫家婚と著しく共通しており、両者の文化史的関連性が推定されうる。

■(3)元来、嫁入り婚を取り入れていた北方の遊牧騎馬民は、岡正雄や江上波夫によれば、日本にもっとも遅く入ってきて大和王朝を打ち立てたが、その際、南方系の先住民と盛んに通婚することによって彼らの一時的訪婚の習俗を摂取したという。この岡・江上説は、確かに古代の支配階層の婚姻形態に関する一般的傾向を示すものといえようが、天皇が妃妻を入内せしめるという形で嫁入り婚を堅持していたことは無視されてはならないし、また、遊牧騎馬民に淵源するとみられる婚姻諸習俗が前述したように少なからず伝承されてきたことを勘案すると、遊牧騎馬民の嫁入り婚がすべて一時的訪婚に変化したとはいえまい。

・中国北方のオロチョン人、満州族、ダフール人、エベンキ人、モンゴル族において広く行われていた仲人結婚。
・嫁入りの儀式・・・中国の漢族の「親迎」と「回門」に当るものであり、北方の遊牧民族の間にもこの傾向がみられた。
・中国東北地区の満州族の間で行われていた、松明や篝火などで嫁を迎える火の儀礼。

このように日本民族生成の時点において、(2)の南方の黒潮文化に属する一時的訪婚のほかに、(1)の極北採集狩猟民に連なる嫁入り婚と、(3)の北方遊牧騎馬民がもたらした嫁入り婚が併存したが、これら三つの文化史的現象を、(1)縄文、(2)弥生、(3)古墳の各文化段階に対応するものと考えることができる。

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2015年12月01日

母親による男の子の囲い込みが、オス性を去勢する

先ず、牛窪恵・著『恋愛しない若者たい』から、衝撃的なデータから紹介します。

東京都幼・小・中・高・心性教育研究会「児童・生徒の性に関する調査」(2014年)による、中学3年生を対象にした「性交願望の推移」です。
・中3男子の「性交(セックス)願望」は、1987年の86%をピークに、その後下がり続け、2014年には25.7%という結果になっています。
・また、中3男子の射精経験率についても年々減少し、2014年は調査を開始した2002から10ポイント減っています。
性交願望の推移

性を嫌悪する20代男性も年々増え、いまや男性5人に1人が、セックスを「汚らわしい」というニュアンスで見ています(2015年 日本家族計画協会)。

★なぜ、このような現象が起きているのか?

その要因に「母子密着」を上げる識者が多いのです。例えば、男子高生のセックス経験率。これを見ると、母親が「専業主婦(おそらく共働き母より息子と密着)」の場合、2005年(23%)をピークに経験率が急落し、2011年には8%まで下がっています。この下げ幅、共働き母をもつ男子高生や、女子高生の数値に比べ格段に大きいのです(2011年 日本性教育協会)。

「近年、親と10、20代男女の密着ぶりが顕著。高校生や大学生の一部が、まだ親と一緒にお風呂に入っている」と話しているのは、「尾木ママ」こと、法政大学・キャリアデザイン学部教授の尾木直樹氏。この現象が、子の性的欲求を封じ込める一因にもなってるのではないかと、尾木教授は指摘します。

★どうしたらいいのでだろうか?

そのヒントが、AV界の巨匠・代々木忠監督の記事にありました。
『オスがオスであるために』 (リンク)より

かつてヤップ島にハマッていたころ、帰国途中、グァムに2泊したことがあった。伸び放題だったヒゲを剃って、ビーチやプールサイドにいると「一人ですか?」とか「どれくらいいるんですか?」と女の子たちがやたら声をかけてきた。
グァムに寄る前、ヤップ島に1カ月ほど滞在していたと思う。だから僕はずいぶん日に焼けていた。だが、モテたのは日焼けのおかげでもなさそうだ。なぜなら、日に焼けている男たちなら他に何人もいたし、僕自身、グァムでもっと黒くしたこともあったが、そのときは何も起こらなかったからである。

きっとこれはオスの匂いだろうなと僕は思った。五感でいう匂いではない何かをメスが嗅ぎつけてやってきている。そのとき僕は何かを発していたのだ。
今とは違い、当時のヤップはまだ未開の地で、海洋民族である島民たちは気性もなかなか荒かった。男はみな蛮刀を持っており、集落間の抗争で酋長の四男坊が殺されたとか、その報復には巻貝の毒が使われたとか……生々しい話し合いの場が持たれているときに滞在したこともある。さすがに日本人の僕らが抗争に巻き込まれることはないけれど、島全体の空気感というか緊迫感がミクロネシアの他の島々とは違うのだ。

こういう所で1カ月も暮らしていると、野性が出てくるというか、おのずと本能的になってくるのだろう。
脳を、その進化になぞらえて3つに分ける考え方がある。(1)爬虫類の脳、(2)哺乳類の脳、(3)人間の脳などといわれる。(1)爬虫類の脳は、呼吸や心拍や血圧といった内臓器官を動かす、生命維持のための脳。(2)哺乳類の脳は、快や不快、恐怖や不安、怒りなどの情動をつかさどる脳。(3)人間の脳は、情報や知識を膨大に蓄え、それを論理的に組み立てる脳。

 先日、TOKYO МXテレビで戸塚ヨットスクールの戸塚宏校長が石原慎太郎議員と対談をしていた。戸塚さんの持論は「脳幹論」というのだそうだが、対談においても盛んに「脳幹を鍛えなきゃいけないんだ」と言っていた。
脳幹は、前述の(1)爬虫類の脳に属する。要するに、生きものとして根っこの部分である。戸塚さんの「脳幹論」では、現代っ子はこの大事な脳幹を刺激されないまま成長しているがゆえに生命力が弱くなり、精神力も弱くなったという。

今、男の子に必要なことは、母親によって囲いこまれた【飼育】を脱し、脳幹を鍛えて【野性】を取り戻すことではないだろうか。

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2015年11月24日

私権と共に瓦解した恋愛観念 ~20代男女の恋愛観はここまできた~

牛窪恵・著『恋愛しない若者たち』の内容を紹介します。

今の20代男女は、恋愛しない。出来ないのではない。したがらないのだ。
2014年の調査(リクルートマーケティングパートナーズ)によると、現在交際相手がいない20代は、女性で60%、男性で76%にも及ぶ。また、明治安田生命福祉研究所の調査で「過去に一度も交際経験がない20代」を見ると、女性で23%、男性で42%にのぼる。

30年前はどうだったか。バブル予兆期の82年最盛期の87年の調査で「交際相手なし」は、女性は35%、男性は43%で、裏を返せば、6~7割の男女に彼氏・彼女がいたことになる。今とは格段の差だ。

また、2015年に発表された内閣府の『少子化社会対策白書』では、未婚で恋人がいない20代男女の約4割が「恋人は欲しくない」と回答。そのうち、男女とも45%前後は「恋愛は面倒」だと答えている。

極めつけは、今回新たに取材した20代男女が発した、こんな声の数々だ。

 「告白って、なんか本気すぎて怖い。」
「恋愛自体、恥ずかしい。『ネタ』っぽい。」
「デートって疲れる。やたらコスト(お金と時間)がかかる割りに、トクがない。」
「最近、彼が仕事で忙しくなったなったから、月1回しか合わなくてすむんです。ラッキー。」
「結婚すれば、面倒な恋愛から開放される。早く結婚しちゃいたい!』

そう、実は恋愛は、しないだけでなく「無視したい」もの。多くは「恋愛スルー」なのだ。また、一部は恋愛嫌い。昨今は消費の世界でも、「嫌消費」との言葉が流布しているが、恋愛も例外ではない。特にここ数年は、女子にまで、恋愛が「ブラック扱い」されたりしているのだ。

そして取材・研究を進め、過去の恋愛史を振り返るなかで、若者の恋愛意欲における転換点が90年代半ば~00年代にあったことが判明。私はこれを「恋愛(ラブ)レボリューション」と位置づけることにした。

レボリューションの要因は5つある。おそらく最大要因は「バブル崩壊と長引く不況」だろう。以下「恋愛不良債権の露呈とリスク回避」「超情報化社会と行き過ぎたコミュニティ志向」「男女平等社会と男女不平等恋愛」、そしてちょっと意外に思えるかもしれないが、「超親ラブ現象(親子仲良し)と性のセルフ化・嫌悪化」も、どうやら現20代男女の恋愛嫌いに強く関係していそうなことが、少しずつ見えてきた。
※次回以降、各要因を紹介していきます。

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2015年11月19日

「家」の確立過程=嫁入婚への移行

婿入婚から嫁入婚への移行について、「家制度」の確立過程と併せ見ていく。

◆「家」の確立
中世は「家」の確立した時期である。
「家」とは、家督を相続した家父長を中心とした婚姻によって成り立った血縁家族のことである。

この「家」の成り立ちの時期は、それぞれの社会階層によって異なり、
貴族層・武家上層においては、院政期から鎌倉時代において、
そして一般武家は鎌倉時代から南北朝時代、
さらに庶民層においては、南北朝時代から室町時代であった。

それぞれの画期の前の時代においては夫と妻とは別々の姓(氏の名)を名乗り、それぞれが父母から相続した氏の財産を継承するという、夫婦別財産制度をとっており、女性が親から財産を相続するのは当たり前であった。
そしてそれぞれの画期の後の時代になると、夫婦は共に家の名としての姓を名乗るようになっていることから、それぞれの時代に「家」が成立したことが分かるのである。
この意味で、全ての社会階層において「家」が成立するのは、南北朝時代以後ということであり、「家」が全社会的に確立されたのは、戦国時代であった。中世の最末期である戦国時代は、今日まで続く日本社会の基層である「家」の確立した時期なのであった。

◆婚姻関係と財産権
中世における人間関係は、一夫一妻と夫婦の同居を原則とする父系制家族集団を最も重視し、(一族、一門、一統などと称した)ついで主従関係とする観念が強かった。そのため多くの武家は一族・一家を全うし、子孫の繁栄をはかることこそが究極のねらいであった。

鎌倉時代は一夫一妻をたてまえとしたが、これは徹底しなかったらしく、庶民は別として公家、武士ともに権門富豪の殆どは一夫多妻で、そのうえ式目では妻の貞操を強要している。
その原因の一つとしては、鎌倉初期の女性の貞操問題は寛大で男女間の節制の弛緩が伺われる。
そこで式目二十四条では「妻は夫の死後も、夫に対して貞操を守ることを原則」とした。

鎌倉初期の「男女を問わず諸子分割相続」の制度も中世中期(室町時代)には嫡男長子の単独相続が多く見られ、中世後期には遂に家長制、惣領制による単独相続がもっぱらとなって、女子の財産相続権は消滅し、婿取婚から嫁入婚への婚姻形態の推移とともに、古代以来の「家は女のもの」とする意識は変化し、この点で女性の立場は低下したといえる。

平安時代、貴族がすべて優美性を尚び、生活の遊戯化、形式化から工夫した婿取婚の儀式は誠に複雑で、拙速を喜び巧遅を嫌った武家社会では儀式の面倒さに耐えかねた。その上、父権制の確立などの要因により、公家社会でも平安末期から次第に変化しつつあった婿取婚は、鎌倉時代に入り武家では年とともにその数を減じ、嫁入婚が中心となった。一夫多妻の中では通婚もなお行なわれ、これをよしとしているといえるが、嫁入婚形態への移行は、中世中期以降女子の財産権が次第に喪失したことと相まって、武家社会は男性に依存してのみ生きることが可能となった。

参考:「女子教育に関する一つの考察」(第五編)

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2015年11月12日

掠奪婚は男の嫉妬発?

大らかな母系婚姻制は武家社会~明治維新を通じて衰退
>鎌倉時代に入り武家が政治の実権を掌握し、東国の武家社会における嫁入り婚が支配階層の婚姻形態として浮上してきたとあるが、武士階級にどのように定着していったのだろうか、もともとの疑問は武士による略奪婚が父系婚の始まりという点である。

略奪婚について調べてみたところ、「女性史研究」第21集(編集・家族史研究会)に記事があった。

掠奪婚というのは、その名のとおり女を掠奪して結婚することである。中山太郎はその『日本婚姻史』(一九二八年刊)で、掠奪婚の例として、当時各地に残っていた「嫁かつぎ」、「嫁かたげ」、「かつぎだし」、「思い立ち」、「どら」など呼び名は違うが、「嫁盗み」のことを説明している。これらの例は、相手の女の意志とは無関係に盗みだしてくるもの、あらかじめ女と共謀して行なうものなどであるが、多くはそれなりのその土地のルールがあり、周囲もそれを認めているというものであった。

 中山太郎は、掠奪婚は古くからあり、それが形をかえて残っているとしている。掠奪の理由については「共同婚及び団体婚にあっては…..男子の妻は部落の共有であり個別の結婚は許されてゐぬ…..かかる自然に背き倫常に反した婚姻がさう永久に持続される筈がないと同時に…..男子の嫉妬は何時までも此の婚制に忍従することができなくなってきて、個別的婚姻に入るべき工夫が案出された。それがここに言うところの掠奪婚である」など個別の婚姻に入る前段の男の嫉妬がその原因と前置きし、更に続けてその発生について解説を紹介している。

(1) 女子不足を補うために他部落から掠奪した(食物をとる時の困難または足手まとい、その他の理由で女を殺したので)。
(2) トーテム信仰から族内婚が禁止されていたので族外婚をするためである。
(3) 女子を仕事に服させるため奴隷として掠奪した。
(4) 妻は男の共有であったので、独占するため戦利またはその他によって掠奪した。

 我国の場合、この四つのどれとも関係しており、一説でもって解釈するわけにはいかないといいながら、「特に異なる氏神をもつ部落のものが通婚する場合、神を憧って正式の婚礼を行わず掠奪の形をとったのが、各地に慣行せられたのではないか」と特別な原因もあげている。

 掠奪婚がなぜ起ってきたのかということについて、中山太郎は、最初は男の嫉妬から等といいながらも古説のいずれもあてはまるとし、更には氏神を異にする云々…..をあげ、掠奪婚の発生についての説明に混乱をもちこんでいる。これは「我国には掠奪婚はりっぱに存在していたけれども、発生してから余りにも多くの年処を経ているため、手懸りを失ってしまっている。従って一説だけを以って代表させる確信がない」というくだりからも明らかである。

 ところで、江守五夫氏は『日本の婚姻 その歴史と民俗』のなかで、「『嫁盗み』といっても掠奪婚と混同されてはならない」として、 「嫁盗み」と「掠奪婚」を区別している。掠奪婚についての説明はここではなされていないが、「嫁盗み」については、「嫁自身が盗まれるのを承知しているのが通常であって言うなれば民族学上の駈落婚に相応する」と説明している。しかも、「若者の集団の勢力が強い地域に集中しており、配偶者選択権が伝統的に承認されていた地帯で、親の婚姻統制権が形成されはじめたところで生起するのである」と書いている。その証拠に、沖縄の少なくとも庶民階層では、親の介入がなかったので、「嫁盗み」もなかったということであるが、このことについて中山太郎は、琉球の糸満地方、宮古島の婚礼の儀式は、いずれも寝ている花嫁を連れさっていくことから掠奪婚が儀式に残っていったのではないかと推測し、掠奪婚の存在を証明しようとしている。

 中山太郎のいう「掠奪婚」、「嫁盗み」をどのように解釈し区別しなければならないか残されている問題である。
 ちなみに、海音寺潮五郎の作品「賢将門」では、雲門はその妻を掠奪したとある。当時、掠奪婚は一般の人々にとってはめずらしいことではなかったが、豪族と称せられるほどの階級の者はもうしないことであったと書かれている。わりと真実性が高いとされている『真福寺将門記』では、習事が妻を掠奪したという記述はみられない。

 

 

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