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2017年08月17日

輝きを失った近代からの決別~「与えられるもの」からの脱却

>近代化の中でつくり上げてきた社会が明らかに輝きを失う中、私たちは新しい社会を構想、創造できずにいます。
戦後のように近代化、経済発展はもはや希望にはなりえません。
近代化とは、様々な関係性を断ち切り、人間ひとりでも生きれる快適で便利な社会をつくることでした。

自然と人間の矛盾に向き合い、折り合いをつけながら共存するとき、人間は自然との関係性、他の人間との関係性、そして古の魂との関係性を紡ぎます。人間の知恵が磨かれ、地域の相互扶助が強化され、文化が豊かに育つ。このことを日本の民衆の伝統的生き方や精神は教えています。これを今こそ、学び直し、現代に合わせた形で紡ぎ直し、新しい社会を創造していくときです。(リンク

 

明治維新から150年、終戦から70年、そろそろ近代の総括が必要になったのだろうか。
新しい社会を作っていくには、社会を全面的に閉塞させた近代から明確に訣別する必要がある。

江戸時代の農業生産が主の地域共同体社会から、工業生産による個人が主役の市場社会への転換。
自給率の高い共同体では市場化は進まない、だから共同体の解体が必要だった。
地域共同体から切り離し、個々人を市場の住人とし、消費者を作りだす必要があった。
そのために、身分制否定、民主平等社会、人権尊重、個人の自由、自由な恋愛、、、と、まるでそれまでの社会が不自由極まりない抑圧された社会であったかのように、抑圧からの解放を煽った。中心的役割を担ったのはマスコミ、学校教育であるのは言うまでもなく、学者、文化人、知識人が言葉を与えた。
江戸時代の身分制は確かに無くなったが、国家権力、資本権力を握る私権序列制にとって代わられたのも言うまでもない。

共同体が解体され、都市における根無し草の個々人が大量に生産される。
地域課題もなく、生産課題もない核家族には、単なる消費課題しかない。
お上の望みどおりの市場社会、消費主体が誕生した。
しかし、生産課題のない集団、これは人類史上、例のないカタワの集団の誕生であった。
根無し草である以上、当然のように「社会をどうする?」など考えるわけもなく、
興味関心は己の生活のちっぽけな幸せ?と、子育て課題のみ。
「社会をどうする?」どころか、「国はどうしてくれる?」と要求主体となるのは必然。
かくして、要求ばかりの「与えられる」ままの思考停止社会となった。
これも、お上の望んだ社会なんだろう。統合者にとっては実に都合がよい。

しかし、豊かさ実現から45年、ようやく動き出した。
国家の暴走、己の非充足に黙ったまま仕方なく生きることに、本能次元から危機感が生起し始めた。
このままではヤバイと、ようやく皆が考え、行動するようになった。
何千年と受け継いできた日本人の集団性が、再生し始めた。
この流れはもはや止まらない。
足りないのは、近代に代わり誰もが共有できる未来像であり、言葉だ。
それは、近代思想を飯の種にしてきた学者や教育界からは決して生まれようがない。
現実の生産課題や地域課題にひたすらに取り組み追求する人々の実現態からしか生まれない。

 

>21世紀の公共性をつくろう(リンク

高度経済成長を経て、長期低迷に苦しんだ日本経済。人口の東京一極集中がもたらした地域産業の衰退と過疎化。世界一のスピードで少子高齢化が進展していく中で、「国や政治家はダメだ…」「どうせ田舎には何もない…」「役所はどんな補助をしてくれるのか…」。私たちは、どこかでそんな思考回路をしてきたのかもしれない。20世紀の公共性とは「与えられるもの」であったようにも思う。

僕が東北で学んだ最も重要なことは、目の前の「現実」は変えられるということだ。
直面する様々な困難を、自分たちの力では到底変えられないものと考えるのか。それとも、あらゆる社会の制度や課題は結局のところ人がつくり出してきたものだから、それらは人の力で変えることができると考えるのとでは、一人の人間としてのあり様がまったく異なる。

社会の中で、自分の責任と役割を全うする。そんな実感を持てることは幸せで、仕事を通じて大切にしたい価値観を、自らの意思によって形にする。本当に自由な働き方とは、単に「お金がある」「休みが多い」ということではない。21世紀の公共性は、多様な個人の生き様から生まれる。

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2017年08月17日

朝鮮半島から流れ着いた非農業民の市場・諜報ネットワーク

『国際ウラ天皇と数理系シャーマン―明治維新の立案実行者』(成甲書房 落合莞爾著)「第七章 伏見殿と天海大僧正」「第八章 国際ウラ天皇=伏見宮海外ネットワーク」から要約する。

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古代の土師君に始まり、加茂役君小角(役行者)がはじめた非人救済事業を受け継いだ行基の流れを汲む西大寺は、非人救済事業の実績を数世紀にわたり積んできた真言律宗(西大寺流律宗)の本山である。

古代の役民および中世の非人とは律令制度外の非農業民のことである。その大宗は古代に朝鮮半島から渡来したツングース系の非定着民の子孫で、律令制度下の公領から逃散した百姓たちも混じっていた。
奈良時代から平安・鎌倉時代にかけて、朝鮮半島から陸続として渡来し、畿内諸国に住みついた雑民労務者の子孫は時を経て増加し、畿内人口の大きな部分を占めるに至ったが、多くは無籍のままだった。
大和朝廷で無籍民「役民」に対する社会政策を担当していた姓が賀茂氏支流の「加茂の役君」で、その頭領の加茂役君小角は役行者と称し、山岳信仰を究めて修験道の元祖となった。

それを引き継いだのが仏僧行基である。初めは律令制の攪乱要因と観られていた行基の民衆仏教が、律令制の制度的欠陥たる無籍民対策をカバーしてくれたことから、行基大菩薩と讃えられる。

これ以来、渡来系都市雑民の社会政策を、律令国家が行基の流れを汲む宗教勢力(律宗本山西大寺)に委託したかのような形になる。
西大寺は土木建設事業を始め、労務者の福利厚生・療養介護・環境衛生・埋葬・道路港湾など、戦前の内務省が行っていた建設・運輸・厚生・労働など広範囲にわたる行政を自主的に運営した。

これら無籍の役民(非農業民)は、傀儡のように拠点を定めず、散所と呼ばれた集落に集まり、運輸・駅逓事業や葬礼・埋葬・芸能・らい病看護・製薬行商など、様々な雑事に従事して事業収入を得ていた。その一部が彼らを管掌した西大寺に貢納されて西大寺基金として積まれた。

14世紀、南朝勢力は全国に極楽寺のネットワークをつくり、非農業民たちの製薬・行商・救らい病事業の拠点とする。西大寺の事業は貨幣経済の浸透で莫大な収益を上げる。北朝に対抗して吉野に立て籠もった南朝勢力は、吉野の山中に散在した自然金を採取して蓄える。吉野から高野山にかけての水銀鉱脈から採掘した水銀を製剤原料とし、河内・和泉・紀伊を本拠にして列島沿岸の海運を握る和田楠木氏に任せた。

空海は紀伊で採れる水銀を原料とした水銀製剤を伝染病の特効薬として売りさばかせ、高野山密教の主要財源としたが、南朝勢力はそれを引き継いだ形で、吉野産の水銀から伝染病・皮膚病の特効薬として製造・販売した。その販売に当たったのが西大寺傘下の非農業民(非人)衆で、全国の散所に設けられた極楽寺を拠点に行商し、併せて南朝勢力のために諜報活動も行っていた。
西大寺は、大陸貨幣の流入による散所経済の興隆に乗り、西大寺流律宗系の散所が莫大な富を築く。その資産を用いて大塔宮護良親王は、全国の街道筋に数多くの極楽寺を建てて、散所民の行商拠点とする。

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まとめると、
非人(朝鮮半島からの流入民や国内の逃散農民)に対する社会政策を、加茂役君小角(役行者)を源流として西大寺が担っていた。彼ら非農業民(非人)の収入源は専ら市場(散所)活動であり、その上納金が西大寺に貢納され、西大寺基金となった。南北朝時代になって、南朝勢力が西大寺-極楽寺ネットワークを取り仕切るようになる。折からの市場(散所)経済の興隆によって、西大寺の事業は莫大な収益を上げる。また、非農業民たちは南朝勢力の諜報部隊でもあった。

この説で、南朝勢力の諜報組織の源流となっているのは、朝鮮半島からの流入民や国内の逃散農民の社会政策を担っていた役行者(役小角)である。役行者は修験道の開祖と云われるが、その正体は何か?あるいは修験道とは何だったのか?

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2017年08月16日

性と死の起源 生物にはなぜ、寿命があるのだろうか?

私たちは、年をとると必ず死を向かえる。ゾウもネズミも、時がたてばその命がつきる。その一方、不死と考えられる生物もいる。寿命は一部の生物が進化によって獲得したものなのだ。では、死ぬことはどんなメリットがあるというのだろうか?
実は、寿命をもつ生物には、「性別をもつ」というもう1つの共通点がある。生物史において、「性」が出現したとき、「死」も生物に備わったのだ。

◆「死」の起源は「性」の起源でもある
私たちヒトは、60兆個ほどの細胞でできた多細胞生物だ。細胞一つ一つのDNAに、自死するための手順を指示する「死の遺伝子群」が存在する。細胞はこの死の遺伝子を読み、死を実行する。このような死のしくみは、生物の進化上、いつからあるものだろうか?

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2017年08月11日

教育によって日本の「無力化」を図った、GHQの日本人再教育とは?

第二次世界大戦が話題になる季節、戦争が何を残したのかを書いておくのもいいかもしれない。

 

 

最近、「GHQ」について学習したいという若い日本人が増えてきています。
その理由は、日本が第二次世界大戦で敗戦して70年近く過ぎても、GHQがプログラミングした日本の制度・システムが、国内にそのまま残っている事実をネットなどで知ることができるようになったからです。

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◆◆◆ 教育によって日本の無力化を図る

GHQにとって、第二次世界大戦でアメリカと戦った日本人に対して、教育によって「無力化」することは至上命題でした。

今後も半永久的に日本人を従順させ、また「弱体化」させるためには、最初に日本人の教師や生徒を「洗脳」し、幼い頃からの教育によって、「心理的側面」、つまり過去の思想を変える方法が一番効果的であると、GHQは考えたのです。

それを彼らは「日本人の再教育」と呼びました。

GHQが日本人に対して、最も力を入れた政策は「教育政策」と「宗教政策」の2つです。

この2つは「武装解除」と「戦犯の逮捕」の次に早く着手せれた政策であると同時に、お互いを密接に関連させながら、彼らが強く指導したテーマです。

◆◆◆教育4大指令

「教育4大指令」と呼ばれるマッカーサー命令があります。

これは昭和20年10月22日から同12月31日までのわずか2ヶ月強の短期間で次々に出された4つの指令です。
内容は、
▼ 日本教育制度に対する管理政策
▼ 教職追放令
▼ 神道指令
▼ 修身、日本歴史及び地理に関する件
の4つです。

日本占領開始から言えば約4ヶ月の間に、この「4大指令」が矢継ぎ早に出されている事実から見ても、彼らが日本の教育に対して重大な関心を持っていたことがわかります。

最初の「日本教育制度に対する管理政策」では、「自由」や「人権」などの「民主教育」を教師・学生に指導する一方で、「軍国主義」、「封建主義」などの国威発揚につながる過去の教育内容を禁止しました。

次の8日後に出された「教職追放令」では、全国約45万人の教師のうち、11万5778人が自ら辞職、約5200人が教職追放させました。

詳しくはこちらのブログ記事に書いてあります。
『日本の常識は世界の非常識!戦後の日本はこうやって作られた!』
http://kanouseiji.com/security-3/

◆◆◆神道指令の本当の意図とは?

「教育4大指令」のなかで、とりわけ奇妙なものは、3番目の「神道指令」です。

彼らの行った「教育改革」のなかに、なぜ「神道改革」が含まれていたのでしょうか?

実はGHQは、日本人の「教育」を変えるためには、日本の「マスコミ」や「宗教」を改革しなければならないと考えていました。

日本の教育現場の背景から「神道的なもの」を取り除こうとしたのです。
ここでいう神道的なものとは、精神的なものと思ってもらえれば分かりやすいです。

人間の思想は、唯心論と唯物論に分かれています。
唯心論は、“心”と書きますが、“神”と書いて唯神論とも読みます。

神も心も同じだからです。
つまり唯心論とは、一切の存在は心が変化したもので、心が唯一の実存で在るという主義です。

当然、そこには神仏の存在があります。
精神世界なので精神とか魂とか神とか霊が入ってきます。

その逆が唯物論者です。

左翼思想は、一般的に「唯物論」を指します。
物質のみが真の存在であるとする主義です。

いわゆる唯物史観とも言われるマルクス主義です。
そこには神などは存在しません。

つまり神道指令の目的は、日本の精神文化を破壊することでした。
なぜなら、マッカーサーは日本の強さの秘密が武士道を核とした精神性にあると分析したからです。

詳しくはこちらのブログ記事に書いてあります。
『日本人のアイディンティティーを説明するのに神道を抜きに語れない!』
http://kanouseiji.com/shintoism-shinto/

 

◆◆◆修身、日本歴史および地理に関する件

4番目の「修身、日本歴史および地理に関する件」では、明治以来の日本人が使ってきた過去の修身・地理・歴史教育の教科書および教師用参考書の再使用を「封建的制度」として一切禁止しました。

そのため、しばらくの間、日本人には日本の地理や歴史が教えられなくなりました。

教育改革以降は戦前の「国史」ではなく「日本史」と呼ばせ、その代わりにGHQの検閲を受けた「国のあゆみ」や「公民教科書」などを使わさせました。

新しい教科書はGHQにとって「不都合な真実」なものは、異なるものに書き換えられるか、また「黒塗り」しました。

例えば、教科書で教える「偉人」とされる人物は、戦前までの「楠木正成」、「吉田松陰」、「東郷平八郎」の3人が、「豊田佐吉」、「ガリレオ」、「野口英世」に書き換えられました。

 

◆◆◆教育基本法による弊害

昭和22年3月31日、憲法施行に先駆けて、教育の基本法であり「教育の憲法」と呼ばれた「教育基本法」と、「学校教育法」が同時に成立しました。

形式上は日本の国会で可決された形ですが、基本的な中身は、憲法と同じくGHQの指導により作られたものです。

「教育基本法」は平成18年に改正されるまで60年間、一度も改正できませんでした。

この教育基本法のなかで戦後、常に問題となり続けたのが「教育権」とは一体、誰のものなのかという点です。

旧文部省(現文科省)など国や政治家は、「教育権は国」が持つと主張しました。
一方で日教組は、「教育権は教育現場(日教組)が持っている」と譲らなかったのです。

そして民法820条では、両親が「子の監護および教育をする権利を有し、義務を負う」と書かれています。

つまり「教師」と「国」と「地方公共団体」、さらには「親」が、「教育権とは一体誰のものか」という論点で対立させる仕組みを作ったのです。

とりわけ「国」つまり文部省と日教組は、戦後はことごとく対立するようになり、この決着は昭和50年代に文部省と日教組が「歴史的和解」を行うまで続けられました。

まさに日本人同士の不毛の戦いだったといえるのですが、その最大の原因が、GHQが「教育権」という権利を日本に押しつけながら、「教育権は誰が持っているのか」という内容を記載しなかったことです。

◆◆◆自虐史観の植え付け

GHQの教育やマスコミに対する方針は、「日本人の再教育」と並行して「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」という計画に基づいて行いました。

簡単に言うと「自虐史観」の植え付けです。
日本人が日本を悪く言うようになったのは戦後のGHQの政策によるものです!

戦後、「真相はかうだ」というラジオ番組を通じて「日本国民は軍に騙されていた」「日本軍は大陸で残虐なことをした」と刷り込み、新聞紙上でも日本軍の”蛮行”という捏造記事が連載されました。

仕上げはあのインチキな東京裁判です。

こうして日本の国民精神を衰退させようとしたのです。

日本が主権回復後も、革命思想を持った人たちが教育界やマスコミに入り込み、日本を破壊して共産主義革命を起こすために続けて洗脳していきました。

そして近年は中国や韓国などの日本崩壊を目論む国が、それを利用して日本をプロパガンダ攻撃しているという図式です。

GHQの歴史教育による影響は、外交にも及んでいます。

たとえば、世界を相手にする現役のある外務省幹部は、「相手国の外交官と議論をする時、日本はお互いの歴史認識がテーマになると、決まって負けてしまう」と述べています。

外交交渉上も無用な譲歩や謝罪をさせられ、この歴史認識問題は大きな外交敗北の原因になっているのです。

詳しくはこちらのブログ記事に書いてあります
『歴史を忘れた民族は滅びる!日本人なら知っておきたい日米開戦史』
http://kanouseiji.com/warfare/

◆◆◆日本人の最も得意な応用力が収奪された

GHQは、日本の「軍国主義」だけでなく、古き良き日本の教育制度まで破壊しました。

たとえば、自由でエリートを育てる気風のあった旧制中学や旧制高校を無くて、「6・3・3・4制」という学制を確立しました。

GHQは、日本の専修学校や専門学校、師範学校などを基本とする「複線」による制度を廃止し、直線的に「6・3・3・4」と上がるだけの「単線」に変えました。

そのため、その制度の実施に伴い、歴史ある陸軍士官学校や海軍士官学校など、軍関係の幹部学校はもちろんのこと、教師を養成する師範学校、各種の専修学校や高等商業学校などの「高等専門学校」も、彼らの方針により、すべて廃止しました。

ちなみに戦前の「複線」による学校は、尋常小学校さえ卒業していれば進め、高等学校に行かなくても誰でも進学できました。

一方、現在における日本の学校制度では、短大などの一部を除いて国立大学と同じ4年制大学に進むためには、必ず高等学校を卒業しなければならなくなったのです。

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このようにGHQの影響下で旧文部省が決めた「学制」あるいは「学区制」で、日本人の志望学校の選択肢を極めて狭くなりました。

この結果、必然的に基礎学習に追われ、日本人の最も得意な「応用技術力」や「専門知識」を身につける機会は、少なくとも高校か大学まではなくなってしまったのです。

GHQは、「リベラルアーツ(教養)を日本人に身につけさせる」といいながら、実際には「応用力」という日本人の「得意分野」を収奪していったのです。

 

参照:日本の歴史から学ぶ、日本人の精神性

 

 

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2017年08月10日

中世に形成された非農業民(商業民・芸能民)のネットワーク

「歴史ちょっとだけ 網野史学(3)非農業民と天皇」を要約したものです。

『日本中世都市の世界』筑摩書房 中世都市研究の問題点と展望

従来、古代・中世・近世の社会を農業社会と考え、古代はアジア的な農業共同体を基礎とした専制国家、中世・近世は農奴・隷農、封建的小農民に対する在地領主、大名などの封建的領主の支配を基軸とする封建社会とする見方が通説であった。しかし 網野善彦は10世紀後半以降の商業・金融の動き無しに国制が維持できなくなったとする。

それを主導したのが神人達(無主無縁の聖と公の立場に立ち、又その呪術的特質を持って恐れ畏怖された)のネットワークであった。金融業者、商人など都市の住人には僧侶、僧形の人、阿弥号を持つ人、女人が多かった。禅律僧、山伏などは各地の荘園・公領の代官として活躍、その専門的・事務的能力を以て農業経営を請け負った。中世の国制は西国では荘園公領制と神人・供御人制の二本柱で成り立っていたのである。

網野善彦は次のような従来歴史学の見方を批判する。

【1】農業生産力の発達→余剰生産物の形成によって商工業が農業から分離・自立する。
【2】商業・金融は生産・社会発展に寄与しないとする生産力説
【3】海に囲まれた列島社会が閉鎖的自給的社会とする「島国論」

従来の中世社会論は、基本的に農業社会である事を前提として、田畑を所領とする領主VS耕作する農民の支配・非支配の関係と見る。しかし、百姓の中には海民、山民をはじめ商工民、芸能民等がかなり多く含まれ、廻船業、商業、金融業そして手工業に携わる専業的職能民が神人、供御人、寄人として国家の公認身分となり、津泊、宿、市等、都会的な場が大きな役割を果たしていた。

そして、彼らが住する山野河海は本質的に「無縁」「無主」の世界である。そこは時代を遡れば俗人の力の及ばない聖なる神仏の世界と見られていた。それ故に主として山野河海、道で活動する人々は神仏と結び付いた人とされた。
商人、金融業者、廻船人などの職能民が神人、供御人、寄人あるいは、山僧、山伏のように神仏に直属する立場に立って生業を営んだ理由である。神仏に隷属する事で「初穂」としての上分・関料を取り立て、更にそれを資本化する。これは封建的主従制支配概念とは異質なものである。

農本主義的政治路線は新しい動きを「悪党・海賊」として厳しく禁圧し、所領を媒介とした主従制的秩序を維持しようとする。一方、「重商主義」的政治路線は商人・金融業者に依存して「悪党・海賊」を積極的に組織化、貿易を推進する。

この2つの路線の対決が、安達泰盛と平頼綱、花園天皇と後醍醐天皇、足利直義と高師直の対立に見られる。所領を媒介とする主従制、合議制と交易を媒介とする専制との対立が、農本主義VS重商主義の対立に重なってくる。

更に、16世紀~17世紀にかけて、都市に手を伸ばそうとした一向宗、日蓮宗、キリスト教等の宗派が織豊政権、江戸幕府によって徹底的に弾圧され、検知に基づく石高制を採用。建前上「農本主義」を強く前面に押し出した世俗権力が「重商主義」的宗教勢力、自立的自治的都市を制圧、近代国家が成立する。同時に、商人、金融業者、廻船人、職人等も世俗化を完成する。

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2017年08月03日

非農業民と天皇制

「歴史ちょっとだけ 網野史学(3)非農業民と天皇」の要約です。

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中世日本史を追求した網野善彦氏は、中世前期に於ける非農業民に注目、非農業民と天皇制の関係を論証した。

網野氏は、従来の歴史学の農業重視の姿勢、「日本は農業国」「百姓=農民」と言う常識を批判し、中世前期の非農業民に目を向けた。

山野河海等は元々「無主」の地であり、そこを生業の場とする非農業民は農地を占有する農業民と利害が対立しする。それら非農業民が「寄人」として11世紀以降、生業の保護を求めて中央官庁、権門等社寺に身を寄せる。その権門の性格に応じて供御人、舎人、供祭人、神人、悪僧などの呼称が生まれる。これらの集団は一ヶ所に集住していたわけではない。また、自らの階級構成を持ち、特定の権門に隷従していた訳ではない。非農業民は私的隷属民ではなく自由民としての側面を持つ。

では 何故多種多様な非農業民が他の権門ではなく供御人の名を求めて天皇に結びつく事になったのか。非農業民と天皇の接点は何か。

【1】律令制下「公私共利」の地として人民の本源的権利の行使のままに委ねられていた山野河海などが8世紀以降分割、制約を受けるようになる。元々は本源的権利だったものが一個の特権として、改めて天皇が直属する贄人等に与える。山野河海分割の新たな体制化(荘園公領制)の下で、この特権は供御人の「自由通行権」「国役免除」「給免田付与」に形を変える。

【2】山野河海の多くは人力の及ばぬ「無所有」な自然の状態にあり、人間にとって畏敬・畏怖する他無い神仏の力が強く投影する「聖なる世界」であった。その「聖なる世界」に生業を持つ海民、山民等が神・天皇に海の幸、山の幸の「初尾」を貢進・奉仕する。その見返りに彼らは神人、供御人として保護され、平民とは異なる「聖なる存在」の地位を得た。

【3】非農業民が生業を営む場は「無縁所」「公界」として、荘園領主からの自由・平和領域を形成する。神仏・天皇に直属する芸能者(技術者・宗教者・呪術者など)が神人・寄人・供御人・神奴・寺奴として平民とは異なる衣装、被物、杖などを持つ「異形」の民として、天皇から与えられた自由特権の下に、芸能・交易・金融活動に従事する。前世紀に活躍した権門から請け負う徴税人の受領郎や農場雇われ経営者としての田堵と言った職業人は姿を消し、農業とは完全分離した「芸能民」=非農業民は公的に給免田を保証され「芸能」で「公」に奉仕する事になる。

また、交易は武装を伴った。これら非農業民勢力はその後、後醍醐王権擁護の独自の軍事勢力になってゆく。

●非農業民と後醍醐天皇の関係
14世紀の後醍醐は、王朝国家体制における官司請負制や官位相当制と家格の序列、職の体系を全面的に否定。古代以来の議政官会議(太政官の公卿の合議体)を解体し、個別執行機関の総体を天皇が直轄する事を基本的な改革目標とした。

網野氏は、当時の絵巻物に描かれた職人、検非違使、悪僧、非人達の婆娑羅的風俗から、彼らの異類異形ぶりを読み取るとともに、同時に、その生き生きとした描写から 恐れられる事はあっても決して差別された存在でなかったと論証する。

後醍醐に最も大きな影響を与えた妖僧文観。楠木正成を後醍醐に近づけた異類の僧正である。
文観は算道を学び、卜筮を好み、専ら呪術を習い修験を立て、呪術訛文を通じて後醍醐に近づき、ついに僧綱にまで列す。また、律僧でありながら破戒無慚で武勇を好み兵具を好む。そして後醍醐は文観を通じて 文観や検非違使庁配下の異類異形の悪党、職人的武士達、非人をその軍事力として動員し、内裏(政権の中枢)に呼び込む。後醍醐に動員され直属武力になったのは この様な自由狼藉の世界の住人達だった。

また、後醍醐は現職の天皇でありながら、自ら法服を着て護摩を焚き、真言密教の祈祷(鎌倉幕府調伏の祈祷)を行った。

この異形の王権は何故、現出したか?

鎌倉幕府が成立して以降、14世紀初頭、天皇家支配権は九州を除く西国にしかなかった。加えて 後嵯峨死後の大覚寺党VS時明院党間の抗争、王朝支配体制としての職の体系の揺らぎ、貨幣経済浸透。
天皇制崩壊の危機に直面した後醍醐が賭けに出た。そして、密教の呪法、異類の律僧、異形の悪党・非人までを動員し、後醍醐は新たな直系の創出、天皇専制体制樹立に向かう。洛中商工民を直轄下に置くべく大胆専制的施策、幕府の西国交通路支配に対する挑戦としての関所停止令、唐船建造に見られる中国への関心、貨幣鋳造。

しかし、後醍醐の大いなる妄執の結果とも言うべき南北朝動乱によって 東西の王権は二つながら瓦解する事になる。

聖なる存在としての天皇と切り離しがたく結びついていた神仏(大寺社)の権威の低落、変質。

頼るべき権威を失った武士、商工民、百姓達の中から自治的一揆、自治都市、自治的村落が成長する。商工民、芸能民は世俗的な権力(将軍、守護大名、戦国大名)などに特権の保証を求める一方 職能を通して実利を追求し、富の力によって「有徳」の道を開いていった。自治的な都市はこうした人々によって形成されていく。

元々、聖なる存在である天皇の奴婢となる事によって自ら平民と区別された聖なる集団としての特権を保持していた給御人、神人、寄人。これら聖なる非農業民(芸能民、海民、非人、河原者たち)の一部は、職能自体の「穢」もあって社会的に蔑視されるようになった。「聖なる異人」としての平民との区別は差別に転化する。聖から賤への転換である。

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2017年07月27日

恋愛至上主義の時代は終わった

前回記事では、

自由恋愛がいつしか強迫性を帯びてきたこと、現在の恋愛離れは強制からの離脱現象であると書いた。

今回はネット上の声を拾ってみた。

 

多くの人が恋愛至上主義にうんざりしている。

恋愛の敗者だからというわけでもあるまい。

恋愛の正体(自我むき出しの、独占欲と支配欲、そのための駆け引き)にうんざりしているだけ。

ということは一方で、本源の男女関係の再生が始まっているということでもある。

 

 

・ 20代だからこそ感じる恋愛至上主義のつらさ

 

・ 恋愛至上主義の時代は終わった

 

・ 助けてください。恋愛至上主義をやめたいのです。

 

・ 少子化の原因は恋愛至上主義ではなかろうか

 

・ 恋愛至上主義の根深さに改めてうんざりした話

 

・ 恋をすることはツライこと。恋愛至上主義に物申す!

 

・ くたばれ!恋愛至上主義

 

・ 恋愛至上主義の終焉と結婚の危機!?

 

・ 自由恋愛が招いた結婚しない社会

 

 

以下、恋愛脳について

・ 恋愛してなかったらどうだとかウザい そんなに恋愛が大事かよ

 

・ リア充って何で常に恋愛脳なの?
バイト先のリア充がことあるごとに恋愛を推薦してくる
理由を聞くと春だから とか意味わからん
恋愛するのは勝手だけどそれを人に強要すんな

 

・ 恋愛って趣味のひとつだよね やってるから偉いってことはない。

 

・ 恋愛って普通に面白いものだからなぁ
完全否定するのも愚かで至上主義も愚かな事だと思うね

 

・ 恋愛してくれた方が世の中が活性化するからなぁ
マスメディアが洗脳して勘違いバカップルが金を落としてくれるだけで景気が良くなる

 

・ 中高と恋愛に傾倒してきた奴って大抵が碌な仕事についてなかったり
結婚してもすぐに離婚したりだよな
恋愛脳って低次元の欲望に忠実すぎるから家庭には向かないんだよね

 

・ 結局、恋愛してる自分が好き、いけてるって思ってる奴らばっか

 

・ 恋愛至上主義はウザい やたらポエマーで気色悪い

 

・ あのな、何で青春=恋愛なんだよ
自分が好きで今この時間を捧げてるモノが青春なんだよ
どいつもこいつも色恋しか考えてなくて萎えたわ

 

・ 恋人いないの?なんで?早く作れよ みたいなのは凄くウザイね

 

・ 結局、みんな恋に恋しているだけなんだよ くっだらね

 

・ 少女漫画の主人公は基本恋愛脳だよな
受け付けない奴は多いだろうな
煽りでもなんでもなくアレを好んで楽しめる感性が理解不能

 

 

 

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2017年07月27日

中世の村落や町の自治を支えた「無縁」の原理

中世には、無縁所といわれる場があった。例えば、縁切り寺などがその一つで、女が駆け込めば、夫婦の縁を切ることができ、下人が駆け込めば、主従の縁を切ることができた。中世には、こうした無縁所が至る所にあったらしい。津・泊・渡・河原など「無主」の地や、寺の門前などが、それである。そこは、主従関係や家父長制度などの身分秩序(序列原理)が及ばない(無縁な)場であった。そこに集まるのは、定住しない非農業民、例えば、諸国を遍歴した僧侶や勧進聖、手工業者、商人、猿楽・河原者と呼ばれた芸能民であった。この序列原理から無縁な場を母胎として、市場や演場が拡大していった。鎌倉時代後期から、遍歴する非農業民の活動が活発になり、津・泊・渡・河原など「無主」の地や、寺の門前など「聖」なる場所に市が立ち、そうした市を遍歴する無縁の人々が定住して、13世紀には、都市が各地に派生していった。(参考『無縁・公界・楽』網野善彦)

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以下、 「歴史ちょっとだけ(3)網野史学(2)無縁・公界・楽」の要約です。

●無縁空間では、夫婦の縁、主従の縁、貸借関係の縁を断ち切り、重科人さえそこに駆け込む事で刑罰の掟から逃れ得る。また無縁の空間は鋳物師・猿楽・山伏の様な広義の芸能を生み出した。(中世前期まで「芸能」は手工業者や宗教者まで含む広い意味を持っていた)。

戦国期、京の無縁所、阿弥陀寺は墓所であると同時に市場でもあった。「私所」にあたる「氏寺」と区別された「無縁所」としての「公界寺」は主従、戦闘と縁の切れた人々のための寺であった。自治都市は「老若」=「会合衆」によって運営された中世の自治都市(南伊勢・大湊、和泉の堺、北九州の博多等)も、農村の自治組織「惣」も「老若」の形態を持つ「無縁」「公界」の原理に立つ。「老若」という年齢階層的秩序原理は、級社会以前のor未開社会の身分的分化様式であり、性別と並ぶ自然発生的分業秩序である。

供御人、神人の流れをくみ、海民の後裔が作り上げた中世末期の自治都市桑名の「十楽の津」。戦国期「公界衆」にとって「お上」にあたる天皇・将軍・神社などは全く無力となったが、「十楽の津」の住人達は戦国大名が上になる事を容易に認めなかった。「うえなし」の主張、そこに「楽」にも「無縁」「公界」の原理が認められる。

「楽市楽座令は、戦国大名・織豊政権が本所と座の結び付きを打破し領国経済を確立するための法令」とする通説は間違っている。「楽市楽座令」は商人・職人が作り上げた都市法の一つである。

「無縁」「公界」「楽」は同一原理を現す一連の言葉であり、8点の特徴がある。①不入権、②地子、諸役免除(天皇に対する貢納を除く)、③自由通行の保証、④平和領域、平和集団、⑤私的隷属からの解放、⑥貸借関係の消滅、⑦連座制の否定、⑧老若の組織(年齢階梯的秩序原理)

古代末期から山林・河海は「無縁」の場でありアジール(避難所)であった。河原は非人が支配する葬送の地であり、山林は無縁の衆徒達の修行の場であった。鎌倉末から南北朝にかけて非人を組織した禅律僧・時衆達が「無縁」の聖として勧進を盛んにし、橋をかけ、道路を開き、船津をつくり、泊を修造し、更に無縁の場を広げていく。市庭がこのような無主の地、辺境に立てられる、非人の宿、宿駅の宿も無縁の地に立地する、そこに遊女・傀儡子達が生まれる。

海民、山民、鋳物師等各種手工業者、芸能民、陰陽師等知識人、武人、勝負師、宗教人。辺境に生まれた無縁世界の住人達は無縁の原理を逆手に取って天皇に直属するしたたかさも持っていた。不入の地としての「無縁・公界・楽」の淵源は私的所有でなく、原始・太古の本源的「自由」を根に持つ「無縁」の原理である。

①アジールの第一段階(原無縁):最も未開な民族にはアジールは存在しない。原始人類にとって無縁・無主と有縁・有主は未分化

②アジールの第二段階(実利的なアジール):有縁・有主を一方の極に持つ事で無縁原理は自覚され、「無縁・公界・楽」が生まれ宗教思想が形成される。罪人・異邦人・奴隷はそれ自身「無縁」の人であるが、王・族長・呪術師等がそれらを受け入れアジールになるのは彼ら自身無縁の原理を体現する存在であったからに他ならない。

③アジールの第三段階(衰退・終末の段階):有主・有縁の世界を固めた大名達による無縁原理の取り込み、国家権力の人民生活への浸透

「無縁・公界・楽」なる言葉は餓死・野垂れ死と背中合わせでは有ったものの、日本の社会に原始以来脈々と流れる無主・無所有の原思想(原無縁)を表した日本的表現であった。しかし、織豊時代から江戸期に入るにつれ、急速に失われてゆく。「楽」は信長・秀吉によって取り込まれ消え去り、「公界」は「苦界」に転化し「無縁」は「無縁仏」のように淋しく暗い世界に相応しい言葉になっていきます。

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三重県HP「歴史の情報蔵」「戦国時代、三重の各地に公界」から転載。

「自由」という言葉を知らない人はいないと思います。戦国時代の堺(現大阪府)を「自由都市」と呼ぶことがある、ということを御存知の人も多いでしょう。けれど、戦国時代の「自由」とは、現在と違って、その当時の身分制などによる束縛から解放されるというものです(最近では、誤解を避けるため、「自治都市」という用語を用いるようになりました)。具体的に言えば、戦国大名や荘園領主がかける税を免除されたり、主従制に反することなどの罪から免れたりするということであり、当時、「無縁」という言葉が使われていました。そして、その「無縁」が保障される場所を「公界(くがい)」と表現することが多かったようです。

三重県域にも、この「公界」がたくさんありました。最も有名なのが宇治と山田で、共に年寄衆による自治が行われていました。特に、山田の年寄衆は「山田三方」(山田は須原・坂・岩淵の三方に分かれており、三方からそれぞれ代表が出て会合し、衆議していたのが語源のようです)と呼ばれ、三つの花押を並べた形の印は、「公界の印判」と呼ぶにふさわしいものでした。 神宮の港として発達してきた大湊も、経済的基礎を確立させ、会合(えごう)衆による自治が行われており、「大湊公界」という署名が残っています。また、禁裏御料所であった桑名も「十楽の津」と言われ、自由な商売を認めた都市で、戦国大名の介入を許しませんでした。

このほか、松坂も自由な商取引が認められ、科(とが)人の走入りの場でありましたし、外宮の権禰宜であった度会氏の氏寺として建立された光明寺(現伊勢市域に所在)も「無縁」の寺だったようで、評定衆によって経営されていました。また、熊野の北山谷も無年貢の地だったと言われていることや、検地に激しく抵抗したこと、山林が「公界」となる例が多いことなどを考えると、「公界」という言葉こそ用いられていませんが、実質的には「公界」だったと言えるのではないでしょうか。
このように、数多く存在した「公界」も、信長や秀吉による天下統一が進むにつれて、圧倒的な武力の前に屈服せざるを得ませんでした。宇治や山田の年寄衆は江戸時代になってからも存続していますが、それは戦国時代に「公界」として自負を持っていた年寄衆とは随分違ったものだったでしょう。

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2017年07月20日

脱恋愛・脱結婚の潮流~強制化された恋愛、結婚からの離脱

面白い記事を見つけた。

・・・憧れの対象だった恋愛結婚は、いつしか当然のテンプレートとなり、ある種の強迫性を帯びてきた
・・・自由なパートナー選択が浸透したようにみえて、実のところ、恋愛の強制、自由選択を無理矢理に押し付けたものではなかったか
そう、自由な恋愛もまた、いつしか強制圧力となっていたというもの。
であれば現在の恋愛離れは、強制圧力としての恋愛からの離脱現象とも捉えられる。
様々な新しい男女関係は、強制化された「恋愛」からの離脱現象として始まったのではないか。

戦後、恋愛結婚が増加し、見合い結婚が減少していく。そのクロスする年が1970年である。
貧困を克服し、豊かさを実現した年、1970年。
1960年代以前、貧困の時代、農業生産が主流、地方では家父長権が残存、結婚は「家」にとっての生産課題であった。
同時に「家」を取り巻く農村共同体としての課題でもあった。
当然のように、結婚は個人の自由に委ねられる課題ではなく、家、共同体を貫く生産課題として存在していた。
しかし、自由恋愛をエンジンとした市場経済の拡大により、共同体社会から離脱し、市場社会へと身を投じる流れが主流に。
結果、共同体は崩壊、個人の自由、自由な恋愛をエネルギー源とする、個人が主役の時代となった。

個人が主役の時代、これは同時に生きづらい時代になったとも言える。
共同体の時代、貧困の時代は、その規範、課題により社会的評価、収束先が確かにあった。
貧困の消滅により私権序列~強制圧力も消滅した、残るのは個々人の私益獲得の差くらいしかない。
私権獲得の原動力であった性欠乏も衰弱する一方で、表層的なモテルモテナイといった相対格差のみ取り沙汰される。
・・・彼氏・彼女がいることが正義で、彼氏・彼女がいないことが悪であるかのような雰囲気が漂っていた
・・・そういった雰囲気についていけない者には、「ダサい」という烙印が容赦なく押された
いつしか自由な恋愛は、恋愛こそが正とでも云うべく強制化され、「自由な個人」の足かせとなり、個々人を苦しめていく。
そんな「恋愛」が作りだす空気こそ面倒くさい。恋愛から離脱していくのも当然だろう。
脱恋愛、脱結婚、、今はまだ既存の恋愛観や制度からの離脱に過ぎないが、向かう先は本源収束、本源の男女関係以外にない。

 

◆「恋愛結婚が当たり前」だった時代の終焉とこれから

>恋人いらないってホント?出現!“いきなり結婚族”
「恋愛が面倒」「セックスを嫌悪している」。そうした若者が急増している。9月に発表された国の調査でも、独身男性の約7割、女性の約6割に交際相手がおらず、独身男女の4割に性経験がないことが明らかになった。一方、恋愛プロセスを飛ばして「いきなり結婚」を目指す若者もいるという。一体、何が起きているのか。

リンク先には、恋愛を経ないで結婚を望む若者の話がまとめられている。
昔から「結婚と恋愛は別物」とは言われているにもかかわらず、結婚するためにわざわざ恋愛を経由しなければならないのは理不尽なわけで、こういう意見が出てくるのも当然だろう。家族を持つ・子どもを育てるといった家庭的なノウハウと、異性とときめいた時間を過ごすためのノウハウは大きく違っているので、恋愛が下手だから配偶者として不適かといったら、そうとも限らない。
むしろ、世の中には、恋愛上手だけれども結婚相手としては最悪な人も多い。だから、結婚する前に恋愛というハードルを越えなければならないという固定観念は、恋愛なんてどうでもいいから結婚したい人には邪魔でしかない。

恋愛の延長線上に結婚があるということ、逆に言うと恋愛というハードルを越えなければ結婚はできないということは、単なる共同幻想、あるいは流行でしかない。

 

◆猫も杓子も恋愛だった、あの時代

そういえば、猫も杓子も恋愛を持ち上げていた、あの、恋愛結婚の時代とは何だったのだろう?

ある時期までの恋愛結婚には、伝統的なライフスタイルや価値観から離れ、欧米風のライフスタイルや価値観に憧れるニュアンスが含まれていた。好きな者同士が自由に結婚できる社会は、そうでない社会よりは望ましいものだっただろう。

だが、恋愛結婚のアーリーアダプター達の二代目が思春期を迎え、恋愛結婚のレイトマジョリティが結婚適齢期を迎えた後の時代においては、そうとも限らない。

憧れの対象だった恋愛結婚は、いつしか当然のテンプレートとなり、ある種の強迫性を帯びてきた。「好きな者同士が、自由に伴侶を選びあう」はずの恋愛結婚が、「好きな者同士を探さなければならない」ものへと変貌していった。今にして思えば、四半世紀ほど前の若者は、今の若者よりも必死に恋愛して、結婚しようとしていたと思う。彼氏・彼女がいることが正義で、彼氏・彼女がいないことが悪であるかのような雰囲気が漂っていた。90年代のクリスマスの雰囲気などは、まさにそういうものだった。

そして、そういった雰囲気についていけない者には、「ダサい」という烙印が容赦なく押された。「まじめな」「かたい奴」だとしても、「ダサくて」「恋愛ができなければ」話にならない――そんな風に考えている人が、当事者たる若者だけでなく、少し年上の人達にすら珍しくなかったことを、私はよく憶えている。

今にして思うと、あの、恋愛にみんなが必死になっていた時代に、心の底から恋愛したがっていた人はそれほどいなかったんじゃないかと思う。

「みんなが恋愛しているから」「テレビやドラマで恋愛が恰好良いこととして描かれているから」「恋愛していないとダサいと思われるから」、なんとなく恋愛しよう、とにかく恋愛しなければ、と思っていた人って結構いたんじゃないだろうか。表向きは自由なパートナー選択が浸透したようにみえて、実のところ、恋愛の強制というか、自由選択を無理矢理に押し付けたものではなかったか。恋愛結婚推進派は、見合い結婚やイエの都合による結婚の不自由を批判し、自由な恋愛を良いものとしていたのだけれど、そういう自由が与えられた結果として、それでみんな恋愛を謳歌し結婚できていれば、世の中はこんなに少子化にはなっていない。

恋愛と結婚がセットとみなされるようになって実際に起こったのは、非婚化と少子化だった。それと、恋愛して結婚しなければならないという、強迫的な固定観念。

 

◆アーリーアダプターにとっての自由はレイトマジョリティにとっての束縛

ちなみに私は、旧来の束縛から自由にしてくれるような価値観やライフスタイルは、ある時点までは自由の源でも、ある時点からは抑圧の源になってしまうと思っている。

 そこには例外は無くて、初期のキリスト教の教えも、昨今の個人主義も、諸々の解放運動のたぐいもたぶん同じ。新しい価値観やライフスタイルがまだ世間に浸透しきっていないうちは、それらはアーリーアダプターを自由にしてくれる。だが、レイトマジョリティにまで浸透し、半ば常識とみなされるようになると、今度はその価値観やライフスタイル自身が旧来の束縛に取ってかわって、人々の心を縛り付けるようになる。

 たぶん、恋愛結婚もそういうものだったのだろうと思う。

 そこにマスメディアと資本主義システムが手を突っ込んで、恋愛と結婚が、さも常識であるかのように吹聴した。若者に恋愛してもらったほうがお金が儲かる、若者がお金を落としてくれる、というわけだ。

 言い換えると、トレンディドラマやクリスマスのシティホテルやレジャースキー場は、あの世代の男女関係に値札をつけて換金したってことだ。値札のついていなかったものに値札をつけて経済成長とは、いかにも現代資本主義的で抜け目のないことだが、そのためには、恋愛が固定観念になって、クリスマスを異性と過ごすのが常識になって、カップルでスキー場に出かけるのがトレンディでなければならなかった。バレンタインデーだってそうだ。そうやってメディアをあげて馬鹿騒ぎをして、「恋愛できなければ人にあらず」という雰囲気をつくることが、お金儲けをしたい大人の人達にとって肝心なことだったのだろう。

おぼこいことに、私も私の周辺の同世代も、そういう換金の構図にはほとんど気付いていなかったが。

 

◆やっと恋愛の呪縛が解消されてきた

 でも、バブルがはじけて、就職氷河期があって、恋愛結婚についていけない人が続出して、それからも長い時間が経って。どうやら下の世代は恋愛の呪縛から少しずつ解放されてきたようにみえる。

恋愛したい人はすればいい。けれども、したくない人はしなくて良い。
結婚したい人はすればいい。けれども、したくない人はしなくて良い。
もちろん現在でも、「孫の顔が観たい」的なプレッシャーは残っている。けれども、「恋愛できなければ人にあらず」という雰囲気が無くなっただけでも好ましいことだ。

>ただし、個人個人が「結婚には恋愛が必要」と思い込んだのみならず、社会から要請されたとの側面もあるかと。つまり、村落共同体単位での「通過儀礼」が崩壊し、世間全体から「大人」として認められるための新しい通過儀礼として「恋愛(するだけの社会性)および結婚」が必要とされた

>単身者が親戚から「あんたまだいい人いないの」と言われ続けるのも、「通過儀礼を経ていない」と見られているから、と解釈するといろいろ腑に落ちる。昔は見合い結婚が全盛だったが、当時の通過儀礼を経ていない人には見合い話なんて来なかったんぢゃよ

>んで、「恋愛をすっとばして結婚」というのは、通過儀礼の前提であった「恋愛をうまくこなせるだけの社会性の涵養」をすっとばすというわけで、まあ社会性の涵養がとてつもなく面倒だというのはわかるが、だからこそ通過儀礼として機能していたんぢゃろ、と思う反面で

>でもまあ日本人はカタチを重視するので、「兎にも角にも結婚した」ということで良しとなるのかもしれん

 

そう、いつしか恋愛と恋愛結婚には「恋愛できるぐらいに社会性を身に付けている」という成長の証、つまり通過儀礼としての性質を帯びていった。自由な個人主義社会ができあがり、社会から通過儀礼らしきものがことごとく消え去った後には、恋愛経験が通過儀礼としての機能を帯びるようになった。通過儀礼としての機能を帯びるようになったということは、つまり、恋愛もまた個人を抑圧する社会的因子の一つになったということに他ならない。

しかし今、恋愛のそうした通過儀礼的で抑圧的な性質までもが希薄になりつつある。おめでとう! また私達は、ひとつ自由になりましたね! まあ、この自由もまた未来の不自由の芽になっていくのだろうが、その負債を支払うのは現世代ではなく未来の世代なので、今は喜んでおけば良いのだろう。

恋愛の呪縛が解消された後の世界は、戦前世界に先祖返りするのではない。イエ血縁も希薄になってしまった現代社会における「恋愛抜きの結婚」とは、旧来の結婚に比べてもっと社会契約的で、もっと経済的で、もっと身も蓋も無いものになるだろうと私は予感する。そういう、身も蓋も無い結婚や社会契約的なパートナーシップが新しい常識となり、新しい抑圧の源となった時、未来の世代は何を思い、何を悩むだろうか。

参照: 「恋愛結婚が当たり前」だった時代の終焉とこれから

 

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2017年07月20日

古代・中世の商工業(座と問丸・馬借・土倉・酒屋)

『新しい歴史教科書-その嘘の構造と歴史的位置-この教科書から何を学ぶか?』「第2章:中世の日本」批判19を要約しました。
●商工業の発展の結果としての座の成立

律令国家は調や贄という形で品物を献納させていたが、10世紀ごろ、律令国家の統制力が緩み、この体制は崩壊。それに代って、有力な寺社や貴族が自分の荘園に住む商人や職人を「神人」「寄人」という形で隷属させ、免税特権を与える代わりに品物を献納させた。朝廷も商人や職人を「供御人」という形で役所に隷属させ、免税特権を与える代わりに品物を直接献納させた。

この「職(しき)」を得るということは、朝廷や貴族や寺社に隷属する事で特権を得て、営業の独占をはかるということだったのであり、主として神聖なものとしての朝廷・貴族・寺社に隷属することによって行われていた。この「職人(しきにん)」の中には、荘園や公領の荘官や地頭などの武士も含まれており、荘官・地頭などは、それぞれの地の管理と年貢の徴収を仕事とする「職(しき)」を得た人という意味であった。

中世前期の商工業・農業の発展とともに、商人や手工業者の朝廷・貴族・寺社からの独立は進み、彼らは自治組織「座」を結成し、朝廷や貴族・寺社へ「座役」としての銭を払う代わりに、免税特権や、朝廷の役所や貴族・寺社が支配する地域における自由通行権と営業の独占権を得るようになった。座の結成とは商人・手工業者が政治的にも独自性を強め、自治組織として動き出したことを意味する。そしてこの時代は、農民・商人・手工業者・武士の身分は分離しておらず、座は村を単位としても結成されていた。

●武家権力の登場の結果としての座の成立

商工業者が朝廷・貴族・寺社から独立していった、もう一つの理由が武家権力の登場である。
京都は朝廷・貴族・寺社の支配地が複雑に入り組んでおり、各支配地で朝廷・貴族・寺社が検断権(裁判・警察権)や徴税権を持っていた。京都に住む商工業者は、朝廷・貴族・寺社の隷属民として「供御人」「神人」「寄人」の身分を得て、商業上の特権を保持してきた。彼らは集落単位でまとまりその集団を座と呼んでいた。この場合の座は、神に仕える人々の集団を意味する座であり、商業上の特権はそれに付随するものであった。

室町幕府は所領が少なく経済的基盤が小さい事もあって、全国的商工業の中心である京都にその経済的基盤を置いた。
室町幕府は徐々に京都における直接的支配権を掌握し、検断権と徴税権を掌握し、商工業者には役銭を直接課税するようになった。その結果、京都でも朝廷・貴族・寺社による商工業民の支配は廃絶し、商工業民は神に仕える隷属民ではなく、純粋に利益を追求するようになった。さらに戦国時代になると、戦国大名は領国内で朝廷・貴族・寺社の支配を受けてその隷属民として商業上の特権をもっていた商工業者をその支配から切り離し、大名に直属した商工業者集団へと組替えていった。

●都市の形成と特権的大商人(問丸・馬借・土倉・酒屋)の形成

室町時代に登場した運送業者(問丸)や金融業者(土倉・酒屋)は、特権的大商人であり、彼らの営業範囲は広く、朝廷や幕府、守護大名にも癒着していた。問丸は鎌倉時代に、全国の港や津に居住し、渡船や商人宿を営み、年貢物や商品の中継・保管・輸送・販売に携わった業者のこと。年貢の保管・輸送などの業務を朝廷の役所や貴族に代って請け負う業務のことを「問職(といしき)」「問丸職(といまるしき)と呼んだ。彼らは室町時代になると、配下に廻船人という海の運送業者や馬借などを組みこみ、広域的に独占的な営業を行った。

馬借も単なる運送業者ではなく、有力寺社に隷属した商人である。近江の大津・坂本、山城の淀・山崎・木津、越前の敦賀、若狭の小浜などが集住地として知られ、特に近江・山城の馬借は京都に米を搬入する米商人でもあり、かつ叡山・日吉社の「神人」であり、その地域における物資の運送の独占権をもっていた。
しかし、馬借は獣(馬)に関わる仕事であったからか次第に賎視され、室町時代ともなると「非人」に等しい扱いを受けるようになった。室町時代の土一揆において馬借が最も過激な戦闘集団となっていったのには、このことが背景にあるかもしれない。

土倉も有力寺社に隷属した金融業者である。寺社に納められた初穂などを元手に人に貸し付け、利子をとる業者として登場した。叡山・日吉社の「寄人」として僧形のものが多く、土壁の倉に質物などを保管する事から土倉と呼ばれた。平均的な利率は月に6~8%と高いが、彼らは金貸し業だけではなく、荘園の代官となって年貢徴収や荘園経営にも当たり、室町時代になると、日明貿易にも携わるものも出た。彼らも朝廷や貴族・寺社と繋がり、その業務を請け負う事を代償にして利益をあげていた特権的大商人である。

酒屋も有力寺社(ex.叡山)と結びつき、その「寄人」として酒の醸造と販売の独占権を持っていた。そして、金融業にも進出した。

土倉や酒屋は朝廷や貴族・寺社の所領からの年貢の徴収を請け負い、これら権門の財政を事実上担う存在になった。室町幕府も京都の土倉・酒屋に役銭を課税してするとともに、彼らを幕府の勘定方に任命して、その財政を担う官僚として組織していった。

これらの特権的商人は大都市に集住し、その財力を背景に、他の商人や手工業者を統制する存在になっていった。納屋衆として自治都市の運営にあたった有力な商工業者には、問丸などの特権的商人が多かったのである。

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