東北復興新聞の記事から紹介。(リンク)
正しい変革は、国家ではなく、住民(民衆)の側から起こさなければならない。そんな歴史的舞台に私たちはいるんだということを、最近、自覚します。だからこそ、その試金石とも言える被災地復興の方向を正さなければならないとも強く思います。
今、大震災で日本の東北沿岸部にぽっかりと空いた創造的スペースが、猛烈な勢いで閉じようとしています。被災地を回っていて、日に日に危機感が強くなります。
震災直後、被災地にはたくさんの「気づき」が生まれ、これまでの価値観や生き方の見直しにもつながっていました。家財すべてを失った被災者の多くが当初、「所有する」ことへのこだわりから解放され、「生きること自体を喜べるようになった」、「ほんとに大事なものが何かわかった」と話していました。モノへの過度な執着心が消え、「命、水、食料、エネルギー、そして人を思いやる心」という当たり前の価値に気づいていました。それまでの価値観が一度ご破算になったからこその「気づき」だったと思います。
奪い合えば足りないものも、分かち合えば余るということも身を持って実感していました。また、いざというときのご近所のつながり、コミュニティーの大切さも身に染みて感じていました。内陸部と沿岸部の連帯、都市と地方の連帯もそう、ふるさとへの帰属意識もそう、郷土芸能の有する魅力もそう、自然への畏敬の念もそう、これら震災後に見直された価値観は、すべての価値をお金に換算し、人間の力で自然をコントロールしようとしてきた近代化の過程で私たちがなくしてきた、犠牲にしてきたものそのものではなかったでしょうか。
日本は震災前から行き詰っていました。その原因を突き詰めれば、この「気づき」なきままに近代化の惰性の回転に身をゆだね続けてきたことにあったような気がしてなりません。経済は本来、私たちが生まれた土地で、豊かに、幸せに生きていくための道具にすぎませんでした。しかし、近代化がその関係を逆転させた。私たちが目にしているのは、経済を守るために犠牲になっている人間の哀れな姿です。
人間から生きる喜びや、働く楽しさ、居場所や出番、役割、ふるさと、文化を奪い去り、人間を経済にひざまずかせている。この根底には、人間の文明を絶対視する発想があります。それこそが近代化の本質だったと考える哲学者の内山節氏は言います。
「この人間の文明を絶対視するところから、現在の経済社会が生まれ、科学の発達至上主義や人間の絶対化が生まれ、結果、貨幣や巨大なシステムが『権力』となり、人間はこれに従属することになってしまった。人間だけを絶対視する文明は、人間をもまた、人間によって生み出された貨幣やシステムの従属的存在に変えてしまった」。
このことは、これまでの日本社会、そして原発事故に翻弄される福島を見れば、一目瞭然です。福島では、ふるさとの主役であるはずの人間が、人間がつくった原発という巨大システムの崩壊ゆえに追い出されようとしています。原発事故がなくても、地方の農山漁村では同じような事態が進行していました。
だからこそ、被災地に生まれた「気づき」から出発しなければならないと私は思うのです。この「気づき」は無意識の内に近代化への疑問を含んでいます。スペースを活かす創造的な復興のあり方とは、この「気づき」を起点とするものでなければならないはずです。では今、このスペースを殺す、このスペースを閉じる圧力となっているのが何なのかと目を凝らすと、またしてもそこに近代の思想があることに気づきます。私たちは近代の思想が持つ危うさに薄々気づきながらも、それにとってかわる思想を持ちえず、結果として、惰性の回転を断ち切れずにいます。
一方、今なお、私たちの社会には、日本の政治、経済、社会システム、文化、生活様式を欧米に近づける、つまり近代化をさらに進めることこそが進歩だという巨大な勢力、思想が存在します(それは私たち一人ひとりの心の中にもある)。それらが、既得権益を守るために、スペースをコントロールしようとしています。その筆頭が、近代化を躍起になって推し進めてきた「国家」です。
日本の近代化とは、民衆思想を国家思想が呑み込む歴史でもありました。江戸時代、村々の人々が持っていたのは、自然と共に、村と共に、土を耕しながら生きてきた人々の精神でした。一方、武士が持っていたのは、古代以来の支配者から受け継いできた国家主義的な精神でした。明治に入り、この武家側の精神と欧米思想が融合する形で展開し、それゆえに儒学の国家論理と欧米的な国民国家の理論が一体になりながら、日本のナショナリズムを形成してきました。
日本の伝統思想はこのように、それぞれの地域の風土と共に暮らしてきた民衆の無事を願う思想と、国を基盤にして発想する思想とが、平行する形で展開してきました。この状況を解消し、国を基盤とする体制にすべてを統合していこうとしたのが日本の近代化であり、明治以降の歴史であったと、内山氏は言います。そうして民衆思想は衰退してきました。
だとすれば、被災地に生まれたスペースに打ち込まなければならないくさび、生み出さなければならない種火は、自然と共に生きた人々の、地域の自治と共に生きた人々の、民衆思想であるべきだと思うのです。残念ながら、現在、進められている復興の根底には、近代化を推し進めてきた国家思想が依然として横たわっており、画一的かつ管理型、依存型の復興になってしまっています。地域住民の意思や「気づき」をないがしろにするこのような復興では、早晩スペースは閉じてしまい、元の木阿弥です。
敗戦直後は、親や夫などの家族を失った人々が日本中にあふれていました。家もなくし、職もなくし、何もかも失った人々が、よりよき生活を求めて必死に日本を再建したのです。そこには、あらゆるレベルで信じられないほどの活気あふれる精神があったと言います。その精神を、私たちはその後の繁栄の中で失ってしまいました。そうして今また、私たちは大きな国難に直面することとなったわけですが、戦後復興のときに見られたような活気あふれる精神はそこにありません。なぜでしょうか。
明治以降の近代化の歴史の中で、日本は経済を発展させ、私たちは巨大な消費文明社会の中で暮らしています。しかし、この近代化の先に、幸せな未来があるかと問われれば、多くの人が首を傾げ、戸惑ってしまうのではないでしょうか。むしろこの近代化の過程で発生した多く歪、問題への不安が日に日に増しているのが現状ではないでしょうか。何のために働き、何のために生きているのかが問えないままに、日々の暮らしの中で疲れ果てていく自分。そして、家族や地域、自然とのつながりをなくし、根なし草のように漂流する孤立した個人。
近代化の中でつくり上げてきた社会が明らかに輝きを失う中、私たちは新しい社会を構想、創造できずにいます。戦後のように近代化、経済発展はもはや希望にはなりえません。各地域でつくられた復興計画もそれゆえ輝きを放ちえず、人々の活気あふれる精神を引き出せずにいます。
私たちがこの先、輝きある未来を構想、創造できるとすれば、人間を絶対視する近代の思想と決別したときでしょう。ならば、近代がそうであったように、自然と人間の矛盾(自然は人間にとって恵みを与える一方で、命を脅かす脅威になる)の解消を巨大防潮堤によって目指そうとする社会のあり方に希望を感じることができないのは、自明のことではないでしょうか。
自然と人間の矛盾の解消を目指そうとすると、自然と人間の間に壁ができます。そして、人間と人間の間にも壁ができます。近代化とは、様々な関係性を断ち切り、人間ひとりでも生きれる快適で便利な社会をつくることでした。しかし、快適さや便利さから得られる満足感は一時的なものです。そこに心の安寧、生きがい、自己肯定感がなければ、人間は幸せを感じることができません。
自然と人間の矛盾に向き合い、折り合いをつけながら共存するとき、人間は自然との関係性、他の人間との関係性、そして古の魂との関係性を紡ぎます。人間の知恵が磨かれ、地域の相互扶助が強化され、文化が豊かに育つ。ここに、自分たちが深く根を張って生きることができる場所が創造されていく。このことを日本の民衆の伝統的生き方や精神は教えています。これを今こそ、学び直し、現代に合わせた形で紡ぎ直し、新しい社会を創造していくときです。
その日本の民衆の伝統的生き方や精神の残骸が、被災地となった東北沿岸部にはかろうじて残っていました。それが津波で洗われ、全貌を露わにし、輝きを放っています。表面に近代の砂をかぶり、埋もれていた多くの残骸も、その一部の輪郭を浮き上がらせています。これらを掘り起し、磨き上げ、手がかりとし、新しいまちづくり、社会づくりに挑んでいかなくてはなりません。
世界的にも評価が高い日本のある建築士が言っています。
「今回は津波の被害が大きかったんですが、この震度で波長の短い地震だったら、東京でも木造建築はかなり壊れていたでしょう。絶対に安全というのはない。壊れたからと、より高い防潮堤をつくる考え方は近代主義的で、それをやったら、最後の『道の奥』だった東北が、ミニ東京になってしまう。被災地の街が、近代主義の建築で埋まってしまったら、日本はほとんど終わりだなと思っています」
この建築士は結局、被災地の自治体から拒絶されてしまったようです。その自治体は、住民の意向に耳を傾けず、行政主導の案を押し付ける復興まちづくりを進めています。
なんとかしなければなりません。問題意識を共にする被災者、ボランティア、専門家と新しい旗を立て、立ち上がらなければと思っています。