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2017年07月13日

新しい男女関係「ポリアモリー」~まとめ記事

新しい男女関係の潮流「ポリアモリー」(リンク
まだあまり耳にしない言葉だが、静かに進行しているらしい。
どうやら、自然な男女関係の模様。
ネットから記事を拾ってみた。

 

恋愛は1対1で行われるべきものという私たちの価値観に一石を投じるのが、複数の人と合意の上で性愛関係を築く“ポリアモリー”という概念。

 

ポリアモラスな関係、ポリアモリーとは何か。簡単に言ってしまえば「複数恋愛」。同時に複数の人間と親密な関係――恋人関係――を築くことだ。

 

ポリアモリーとは、最もシンプルに言えば、『複数のパートナーと誠実に愛の関係を築くスタイル』です。ただし定義は人それぞれ。『合意の上で複数の人と性愛関係を築く』という人や、『結婚制度にとらわれず自分が愛する人の人数を決める』という人もいます

 

全ての関係者が全ての状況を知る選択が可能であり、全員がすべての関係に合意している、という考え方に基づく行為、ライフスタイル、または恋愛関係のこと

 

ポリアモリーという言葉はギリシア語の「複数」(poly)とラテン語の「愛」(amor)に由来し、アメリカで造られた造語です。

 

世間でいう「浮気」とはちょっと違う。

 

恋人や伴侶に嘘をついたり、隠すのはポリアモリーではありません。自分の交際状況をオープンにし、合意の上で築く人間関係です。

 

もともと、相手にもほかにも親密な関係があることを知っているし、自分も他に親密な関係の人がいる。
それに対しての独占欲とかか嫉妬は感じない。みんなハッピーであれっ!という、ある意味最高に愛があふれているの状態。

 

自分にも相手にも嘘をつかない生き方なんです。他者を受け入れる・自分を変える柔軟性が必要だと思います。その場限りのセックスを求めるスワッピングもポリアモリーとは別物。誰でもよいわけではなく、愛する人としか性的関係を持ちたくないという人が多いのです

 

一般的な嫉妬では、「なんで他の女とデートしたのよ!」といった感情が先行します。しかし、ポリアモリストは、「自分と彼がきちんと心を開いて話し合えていないかも」とか、「自分は彼とこれからも本当にやっていきたいのか」と自問するきっかけにしたり、自分たちの関係性を見直すきっかけにしたりしていました。

 

嫉妬という感情を乗り越える必要があるだろうが,よく考えてみれば嫉妬というものは独占できる可能性があるから起こることなのかも知れない。むしろ最初からそれが前提であれば,嫉妬の感情の持ち方も変わるのかも知れない。

 

決してフリーセックスや浮気が目的ではなく、複数の相手と同時に親密な恋愛関係を築く形態をいう。

 

現代の欧米や日本では一夫一婦制が社会規範となっている。しかし、この制度で束縛を受けるのは苦痛であり、動物的に不自然なのだ。

一夫多妻もポリアモリーも、結婚のあり方を考え直すのにはいい題材なのかもしれない。

 

嫉妬や独占感情、愛情の持続不可能性からの解放が最も大事なのではないかと考える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2017年07月13日

鎌倉・室町、神聖な場「市」から発展した自治都市

『新しい歴史教科書-その嘘の構造と歴史的位置-この教科書から何を学ぶか?』「第2章:中世の日本」批判21を要約しました。

(1)「神聖な場」としての都市

①市と市の守護神を中心として成立した中世都市

中世の都市は、有名な寺社門前の市や宿、港に商工業者が集住して成立しただけではない。各地の街道の辻などに栄えた市も次第に宿の機能を併せ持つようになり、都市へと発展していった。また港町も、海の道に沿ったものだけではなく、川や湖の沿岸にも数多く誕生した。つまり中世の都市は、市を中心として発展した。

市は交通の便の良い、商品の交換に便の良い場所だけではなく、かつどの世俗権力にも属さない「聖なる」場所に開かれた。商品を交換するという行為は、商品に込められた生産者の魂を抜いて購入者の魂を入れ替えるという行為であり、従って、商品の交換は「聖なる」場で行われる必要があると考えられていたからである。実際、市が開かれたのは、辻や河原・中州などの「無主の地」であった。だから市には必ず「市神」が祭られていた。市を立てる前にまず「市神」を勧進し神を祭る祭祀を行った上で、市の場に建屋を設けて商売の場を作った。従って、市には守護神としての寺社が必ず存在した(「市神」=仏の場合もあった)。

市の開かれた場が「神聖な」場であったゆえに、市を基盤として成り立つ(中世の)都市も「神聖な」場と観念されていた。

②古代都市の中世都市への変貌
京都や奈良・鎌倉、各地の国府は古代では役所が都市の中心だったが、律令国家や幕府権力の衰退によって、都市の中心は鎮守である寺社とその周辺の市が占めるようになり、市場と鎮守の寺社を中心とした中世都市へと変貌した。

古代の京都は役所と貴族の邸宅から成り、市は、平安京南部の東西の市以外にはなかった。しかし律令国家の衰退とともに、京都の中心は内裏ではなく寺社、それも大衆的な信仰を獲得した寺社に移り、その寺社の門前で寺社地内の街路沿いの空き地に間借りするという形で商工業者の店=棚が出き、それが市町となって発展した。

中心となった寺社は八坂の祇園社や北野の天神社、そして洛中の六角堂や革堂や阿弥陀堂など。中世の京都は寺社門前の市町の集合体となった。政治権力の所在地すら市町の周囲に移動した。院政期の白河や鳥羽、鎌倉時代の六波羅や室町幕府の室町御所。これらは寺社門前町の周辺に建てられ、そこに住む商工業者と密接な関係を持った。
平安遷都後の奈良も興福寺・春日社の門前の市町として発展したし、鎌倉も鶴岡八幡宮と大町の祇園社門前の市町として発展した。大宰府の外港として発展し大宰府政庁の統治下にあった博多や和泉・河内の守護所が置かれその統治下にあった堺も同様な経過を辿って、市とその守護神を中心とした中世都市に変貌した。
中世都市そのものが「神聖な」場であったのである。

③「神聖」な権威との結合
神聖な場であった市町は、自治都市となってゆく。

市町から発展した都市は、それ自身が神聖な場であり世俗の権力に属さない場であった。都市を領有したのは「神聖さ」を兼ね備えた朝廷や寺社、そして幕府であり、「領有」すると言っても直接的支配ではなくて諸々の税を免除し、都市に住む商工業者の「座」の自治に委ね、それから種々の公事を徴収するという程度のものであった。

このため、世俗の権力である地頭や守護は都市に介入する事も許されず、地頭・守護の家臣が都市に住む事も許されず、都市は早くから都市住民の自治によって統治されていた。早いものでは平安時代末期に、遅くとも鎌倉時代には、諸国の都市において住民の「座」的結合が見られた。住民の「座」によって統治された都市は、朝廷や寺社の権威を背景として武家権力(地頭や守護)の介入を阻止できた。都市に住む商工業者の多くは朝廷や有力寺社の供御人・神人や寄人となってその権威を背景として商工業の独占を図る特権を手に入れ、武家権力とも対抗していた。

※住民の座にも様々な形があった。
地方の都市では、住民の有力者は自治的な村と同様に「侍」を名乗り「殿原衆」と呼ばれて多くの下人を抱え、中には御家人であった例すらある。博多・京都・鎌倉・堺などの都市では、このような「侍」層は見られず、「町人」と呼ばれる商工業者による自治都市の成立は室町時代から戦国時代と、他に比べれば比較的遅かった。

都市を領有する権力そのものが神聖な性格を帯びており、都市を動かす住民の「座」組織も「一味同心」であり神聖なものだった。この都市が持つ神聖さがその財力とともに自治の基盤でもあったのである。
この中世都市の神聖な性格と自前の富と武力を背景として、室町時代から戦国時代にかけて「楽市楽座」を掲げて、市場税も座の特権も認めず、朝廷や有力寺社からも自立した「自治都市」が各地に出現した。

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2017年07月06日

奈良・平安~鎌倉・室町時代の商工業の発展過程

『新しい歴史教科書-その嘘の構造と歴史的位置-この教科書から何を学ぶか?』「第2章:中世の日本」批判19を要約しました。

【1】各地に手工業が発展した背景
①各地に職人が生まれたのは中世前期
各地に様々な職人が生まれたのは、中世前期、平安時代末期から鎌倉時代。
さまざまな専門的知識をもとにして様々な工業製品をつくる「職人」はそれまでは朝廷の諸々の役所や寺社に隷属していた。なぜなら朝廷や寺社以外に需要がなかったからである。
しかし各地で農業・商業が発展すると新たな需要が生まれ、朝廷や寺社に隷属していた職人が諸国を経巡って、各地で工業製品を作り、それを市で売買するようになった。
そして最初は地方の有力者のために生産していたのが、次第に発展していった市を基盤に、多くの人々を対象に生産を行うようになったのである。こうして地方にも専門的な「職人」が生まれた。

しかし、職人は平安時代末期や鎌倉時代において、その仕事を安定させるためにも、また各地の市で製品を有利に売りさばくためにも、有力者の庇護を必要とした。彼らは貴族や寺社にその職人として奉仕する見返りとして、諸税の免除や諸国自由通交権などの特権を得た。こうして貴族や寺社の庇護を受けた商工業者を「神人」「寄人」などと呼んだ。同じ時期に武士という階級が荘園や公領の管理者という「職(しき)」を得ることでさまざまな特権を得ていた動きとも対応し、彼ら商工業者の長は武士でもあった。
職人の力が増大し、保護を受けていた寺社・貴族からも半ば独立し、その仕事の独占権を巡って各地に「座」を結成したのは、中世後期・室町時代である。

②手工業の発展の裏には商業の発展がある

各地での市の発展と各地の市を結んで大規模に商品を運送する運送業者の発展と、大規模な商品交換を可能にするための交換手段(=貨幣)の進化が存在した。平安時代末には各地に手工業が生まれ、その製品がかなり遠隔地にまで運ばれていた。その代表的は瀬戸や常滑の陶器である。有名な奥州平泉の館址から瀬戸や常滑で生産された粗製の陶器が大量に出土している。各地での手工業の発展の裏には、外国貿易の発展も寄与している。京都を中心として各地に刀や紙の生産が盛んになったことも、輸出品としての刀や輸出品としての扇の存在がその背景にある。このように諸国にさまざまな手工業が発展したのは、中世後期・室町時代のことである。

【2】商業の発展過程

①平安時代末の商業の発展の様

大和の国でも諸所で市が開かれていた事は古事記や万葉集からもわかる。また、律令国家の租税体系が、調・贄として様々な手工業製品を要求しており、その中には市で米との交換で流通したものもある。平安時代末には各地の国府(近辺)で定期的な市が開かれており、都市といってもよいほどの集落が発展していた。各地の市を貫いた海路と陸路が整備され、そこで
運送業をなりわいとした商人集団も生まれていた。

この市は、神聖な場所、人と神とが交歓できる場に開かれていた。品物にはそれを作った人の魂が込められていると昔の人は観念していた。それを他の人の所有物にするには、その魂を入れ替えねばならない。それは人と神とが交歓できる聖なる場所でのみ可能だとも考えていた。市が開かれる場所が聖なる場所、例えば寺社の門前や交通の要所(川や湖や海と陸路の出会う場所=異界との接点)だったのは、それが理由である。また、斎日という神をまつる日に市が開かれた理由でもある。

奈良時代までには貨幣は全国的に流通した。しかし10世紀ともなると律令国家の統合力は衰え、国家が鋳造した貨幣は使われなくなり米や布が貨幣の役割を果たした。しかし12世紀に、まず東国において宋銭が流通し始め、後には西国にも広がり、鎌倉時代には全国的に流通するようになった。

②鎌倉時代における商業発展の様

斎日に行われていた各地の市も、月に三日の斎日に開かれるようになった(三斎市)。農民も領主も職人も商品を持ちこむようになり、大きな市では、常設の家に住み商業に従事するものも現われた。都市の誕生である。全国的な商業の発展とともに、各地に職人集団が形成され、商業の独占を巡って争いが生じる。寺社や貴族から神人や寄人という商業上の特権を得
ていた集団に対して、全国的な特権を得て商業上の利益を独占しようとした集団がある。後者は、都の役所に役を納めることによて「供御人」という身分を得、それによって各地の神人・寄人を統制しようと画策した。

この時代には金貸し業も誕生していた。彼らの多くは有力な寺社の神人・寄人であり、神に納められた初穂を貸し付ける形で金融業を開始した。さらに、商品の運送を生業とし、かつ年貢の運送を代行する業者が生まれた。土倉・酒屋・問屋や馬借である。

幕府も朝廷も商業を統制し、そこから諸税を得ようとしていた。次第に寺社・貴族、そして幕府の統制から脱して自立してゆく人々を幕府は悪党と呼んで怖れ、これを鎮圧しようとしていた。

③室町時代における商業発展の様

市の開催は月に六度となり六斎市と呼ばれ、どこの市でも町屋に常住して商いを営む商人や職人が現われ、政治的都市以外にも大きな寺社の門前や重要な港などに都市が形成された。これらの都市は、全国的な陸路・海路の輸送とも緊密に結びつき、朝鮮・中国・琉球・蝦夷が島などの外国との貿易を行った。

貨幣では明銭が流通するとともに、これでは不足したために各種の私鋳銭が作られ全国的に流通した。さらに商品取引の活発化を背景とした信用貨幣も登場し、割符や為替と呼ばれて、各地の問屋を経由して貨幣とも交換可能な紙幣も使用されていた。

商業・手工業の民は寺社や貴族から独立する傾向を強め、各地で「座」を形成して、それを保護する寺社・貴族に座銭を払う事で、諸税の免除や諸国往来の自由などの特権を得ようとした。また、守護などの武士の力を背景にして、寺社・貴族などの権威を背景とした座の特権に対抗するものも出てきた。大きな重要な門前町や港町ともなると、市それ自身の神聖さを背景として、寺社や貴族そして諸国守護などの武士の介入も排除た「自治都市」を形成し、「楽市」と称して、諸税の免除や市座の座銭免除などの特権を手工業者や商人に与える所まで出てきたのである。

※その後の織田信長がこれに倣って、新たに作られた城下町に多くの商工業者を集めるための「楽市」を作らせた。

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2017年07月06日

輝きを失った近代からの決別~正しい変革は民衆の側から起こさなければならない

東北復興新聞の記事から紹介。(リンク

 

正しい変革は、国家ではなく、住民(民衆)の側から起こさなければならない。そんな歴史的舞台に私たちはいるんだということを、最近、自覚します。だからこそ、その試金石とも言える被災地復興の方向を正さなければならないとも強く思います。

今、大震災で日本の東北沿岸部にぽっかりと空いた創造的スペースが、猛烈な勢いで閉じようとしています。被災地を回っていて、日に日に危機感が強くなります。

震災直後、被災地にはたくさんの「気づき」が生まれ、これまでの価値観や生き方の見直しにもつながっていました。家財すべてを失った被災者の多くが当初、「所有する」ことへのこだわりから解放され、「生きること自体を喜べるようになった」、「ほんとに大事なものが何かわかった」と話していました。モノへの過度な執着心が消え、「命、水、食料、エネルギー、そして人を思いやる心」という当たり前の価値に気づいていました。それまでの価値観が一度ご破算になったからこその「気づき」だったと思います。

奪い合えば足りないものも、分かち合えば余るということも身を持って実感していました。また、いざというときのご近所のつながり、コミュニティーの大切さも身に染みて感じていました。内陸部と沿岸部の連帯、都市と地方の連帯もそう、ふるさとへの帰属意識もそう、郷土芸能の有する魅力もそう、自然への畏敬の念もそう、これら震災後に見直された価値観は、すべての価値をお金に換算し、人間の力で自然をコントロールしようとしてきた近代化の過程で私たちがなくしてきた、犠牲にしてきたものそのものではなかったでしょうか。

日本は震災前から行き詰っていました。その原因を突き詰めれば、この「気づき」なきままに近代化の惰性の回転に身をゆだね続けてきたことにあったような気がしてなりません。経済は本来、私たちが生まれた土地で、豊かに、幸せに生きていくための道具にすぎませんでした。しかし、近代化がその関係を逆転させた。私たちが目にしているのは、経済を守るために犠牲になっている人間の哀れな姿です。

人間から生きる喜びや、働く楽しさ、居場所や出番、役割、ふるさと、文化を奪い去り、人間を経済にひざまずかせている。この根底には、人間の文明を絶対視する発想があります。それこそが近代化の本質だったと考える哲学者の内山節氏は言います。

「この人間の文明を絶対視するところから、現在の経済社会が生まれ、科学の発達至上主義や人間の絶対化が生まれ、結果、貨幣や巨大なシステムが『権力』となり、人間はこれに従属することになってしまった。人間だけを絶対視する文明は、人間をもまた、人間によって生み出された貨幣やシステムの従属的存在に変えてしまった」。

このことは、これまでの日本社会、そして原発事故に翻弄される福島を見れば、一目瞭然です。福島では、ふるさとの主役であるはずの人間が、人間がつくった原発という巨大システムの崩壊ゆえに追い出されようとしています。原発事故がなくても、地方の農山漁村では同じような事態が進行していました。

だからこそ、被災地に生まれた「気づき」から出発しなければならないと私は思うのです。この「気づき」は無意識の内に近代化への疑問を含んでいます。スペースを活かす創造的な復興のあり方とは、この「気づき」を起点とするものでなければならないはずです。では今、このスペースを殺す、このスペースを閉じる圧力となっているのが何なのかと目を凝らすと、またしてもそこに近代の思想があることに気づきます。私たちは近代の思想が持つ危うさに薄々気づきながらも、それにとってかわる思想を持ちえず、結果として、惰性の回転を断ち切れずにいます。

一方、今なお、私たちの社会には、日本の政治、経済、社会システム、文化、生活様式を欧米に近づける、つまり近代化をさらに進めることこそが進歩だという巨大な勢力、思想が存在します(それは私たち一人ひとりの心の中にもある)。それらが、既得権益を守るために、スペースをコントロールしようとしています。その筆頭が、近代化を躍起になって推し進めてきた「国家」です。

日本の近代化とは、民衆思想を国家思想が呑み込む歴史でもありました。江戸時代、村々の人々が持っていたのは、自然と共に、村と共に、土を耕しながら生きてきた人々の精神でした。一方、武士が持っていたのは、古代以来の支配者から受け継いできた国家主義的な精神でした。明治に入り、この武家側の精神と欧米思想が融合する形で展開し、それゆえに儒学の国家論理と欧米的な国民国家の理論が一体になりながら、日本のナショナリズムを形成してきました。

日本の伝統思想はこのように、それぞれの地域の風土と共に暮らしてきた民衆の無事を願う思想と、国を基盤にして発想する思想とが、平行する形で展開してきました。この状況を解消し、国を基盤とする体制にすべてを統合していこうとしたのが日本の近代化であり、明治以降の歴史であったと、内山氏は言います。そうして民衆思想は衰退してきました。

だとすれば、被災地に生まれたスペースに打ち込まなければならないくさび、生み出さなければならない種火は、自然と共に生きた人々の、地域の自治と共に生きた人々の、民衆思想であるべきだと思うのです残念ながら、現在、進められている復興の根底には、近代化を推し進めてきた国家思想が依然として横たわっており、画一的かつ管理型、依存型の復興になってしまっています。地域住民の意思や「気づき」をないがしろにするこのような復興では、早晩スペースは閉じてしまい、元の木阿弥です。

敗戦直後は、親や夫などの家族を失った人々が日本中にあふれていました。家もなくし、職もなくし、何もかも失った人々が、よりよき生活を求めて必死に日本を再建したのです。そこには、あらゆるレベルで信じられないほどの活気あふれる精神があったと言います。その精神を、私たちはその後の繁栄の中で失ってしまいました。そうして今また、私たちは大きな国難に直面することとなったわけですが、戦後復興のときに見られたような活気あふれる精神はそこにありません。なぜでしょうか。

明治以降の近代化の歴史の中で、日本は経済を発展させ、私たちは巨大な消費文明社会の中で暮らしています。しかし、この近代化の先に、幸せな未来があるかと問われれば、多くの人が首を傾げ、戸惑ってしまうのではないでしょうか。むしろこの近代化の過程で発生した多く歪、問題への不安が日に日に増しているのが現状ではないでしょうか。何のために働き、何のために生きているのかが問えないままに、日々の暮らしの中で疲れ果てていく自分。そして、家族や地域、自然とのつながりをなくし、根なし草のように漂流する孤立した個人。

近代化の中でつくり上げてきた社会が明らかに輝きを失う中、私たちは新しい社会を構想、創造できずにいます。戦後のように近代化、経済発展はもはや希望にはなりえません。各地域でつくられた復興計画もそれゆえ輝きを放ちえず、人々の活気あふれる精神を引き出せずにいます。

私たちがこの先、輝きある未来を構想、創造できるとすれば、人間を絶対視する近代の思想と決別したときでしょう。ならば、近代がそうであったように、自然と人間の矛盾(自然は人間にとって恵みを与える一方で、命を脅かす脅威になる)の解消を巨大防潮堤によって目指そうとする社会のあり方に希望を感じることができないのは、自明のことではないでしょうか。

自然と人間の矛盾の解消を目指そうとすると、自然と人間の間に壁ができます。そして、人間と人間の間にも壁ができます。近代化とは、様々な関係性を断ち切り、人間ひとりでも生きれる快適で便利な社会をつくることでした。しかし、快適さや便利さから得られる満足感は一時的なものです。そこに心の安寧、生きがい、自己肯定感がなければ、人間は幸せを感じることができません。

自然と人間の矛盾に向き合い、折り合いをつけながら共存するとき、人間は自然との関係性、他の人間との関係性、そして古の魂との関係性を紡ぎます。人間の知恵が磨かれ、地域の相互扶助が強化され、文化が豊かに育つ。ここに、自分たちが深く根を張って生きることができる場所が創造されていく。このことを日本の民衆の伝統的生き方や精神は教えています。これを今こそ、学び直し、現代に合わせた形で紡ぎ直し、新しい社会を創造していくときです。

その日本の民衆の伝統的生き方や精神の残骸が、被災地となった東北沿岸部にはかろうじて残っていました。それが津波で洗われ、全貌を露わにし、輝きを放っています。表面に近代の砂をかぶり、埋もれていた多くの残骸も、その一部の輪郭を浮き上がらせています。これらを掘り起し、磨き上げ、手がかりとし、新しいまちづくり、社会づくりに挑んでいかなくてはなりません。

世界的にも評価が高い日本のある建築士が言っています。

「今回は津波の被害が大きかったんですが、この震度で波長の短い地震だったら、東京でも木造建築はかなり壊れていたでしょう。絶対に安全というのはない。壊れたからと、より高い防潮堤をつくる考え方は近代主義的で、それをやったら、最後の『道の奥』だった東北が、ミニ東京になってしまう。被災地の街が、近代主義の建築で埋まってしまったら、日本はほとんど終わりだなと思っています」

この建築士は結局、被災地の自治体から拒絶されてしまったようです。その自治体は、住民の意向に耳を傾けず、行政主導の案を押し付ける復興まちづくりを進めています。

なんとかしなければなりません。問題意識を共にする被災者、ボランティア、専門家と新しい旗を立て、立ち上がらなければと思っています。

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2017年06月29日

集団自治で秩序化されていた江戸以前~共同体を破壊した明治の地租改正と学校制度

●日本の幕藩体制の統治能力は、中国(明・清)の中央集権(皇帝独裁と官僚制)のそれを、はるかに上回っていた。

中国の歴代王朝の人民を把握する力は時代を経るごとに弱まっていき、唐の後半には兵役が、明の後半には労役が、清の中頃には戸籍に基づく徴税そのものが放棄される。

中国の科挙官僚に行政能力はなかった。科挙に合格するために必要なのは、儒教経典の丸暗記や規則に従って詩文をつくる能力にすぎないからである。しかも、中国の科挙官僚たちは、地位と職権を乱用して庶民から収奪の限りを尽くした。

●江戸時代までは、共同体の自治能力によって秩序化されていた。

日本の村落共同体は、村落集団を秩序化し統合する機能を有していた(田植えや稲刈りなどの共同作業、道路・用水路・入会地などの管理、年貢の割り当てと納入、そして集団としての規範など)。この村落共同体の自治能力を土台にして、幕府や藩の統治と社会秩序が成り立っていた(同様のことは、座や仲間が機能していた商工業にもいえる。)

実際、幕府や藩は、最低限必要な法度等を定めるのみで、後は農民や町人の共同体の自治に委ねていた。法度も支配者が上から押し付けられたものではなく、農民の規範を元に法制化されていた。

その典型が「慶安の触書」である。その原型は「百姓身持之事」という江戸時代の農民が自分たちでつくった規範である。それが甲府藩をはじめとして主に東日本の藩の法「触書」として採用され、幕法となっていった。あるいは、1713年の分地制限令は、生産量10石、耕地1町より少なくなるような耕地分割相続をしてはならないという内容だが、村において農民自らが「このまま分地を続ければ我々は共倒れする」という危機意識から、分地制限を取り決めた村掟をつくり、幕府にその法制化を求めたのが分地制限令である。

明治以降、法律は上から押し付けられるものになったが、江戸時代は、農民がつくった規範が幕府や藩に採用され法制化されていたのである。

●戦闘に明け暮れた戦国大名でさえ、民の生活第一であった。例えば、豊臣秀吉は1593年、尾張国復興策の中で、尾張国領主秀次の家臣の軍役を半減し、村が負担する夫役(労働力負担)を免除し、「(これで)給人(家臣)も百姓(村)も成りたち候様」と述べている。また、欧州の農民反乱が支配者と農民との間の血で血を争う殺し合いであったのに対して、江戸時代の百姓一揆のほとんどは年貢等についての陳情と交渉にすぎなかった。

●また、江戸時代には農地の私有権は存在していなかった。農地は村の共有財産であり、その上の大名も領地の管理者にすぎなかった。

●明治の地租改正によって農地私有(個人所有)がはじめて確立した。

地租改正によって農民たちが「所有した」土地を自分の自由裁量で売却できるようになると同時に、これまで村全体で納めていた年貢に代わって、農民個人に地租が課税されることになった。農地の私有制度によって、農地は投機の渦の中に巻き込まれ、投資家たちは稲田や漁業権や湾の使用権を買い漁った。その結果、江戸時代の日本には存在しなかった大地主が出現し、一般農民は小作に転落していった。戦後の農地改革で「戦前の大地主は封建的な存在であり、日本を戦争に導いた」と喧伝されたが、日本の大地主は近代的な私有制度の下で登場したのである。

明治の初期に地租改正や学校の制度化に反対する農民一揆が起こっている。それは、農地の私有制度(地租改正)や学校制度が共同体を破壊するものだったからである。

参考『驕れる白人と闘うための日本近代史』(松原久子著 文藝春秋刊)

 

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2017年06月22日

赤ちゃんの言葉の発達過程から、人類の言語の登場過程を推定する

胎児→乳児→幼児に成長していく過程は生命の進化過程をなぞっている。ということは、言語の登場過程を解明する鍵も、赤ん坊にある。

『赤ちゃんの進化学』(西原克成著)によると、赤ん坊は一歳までは身体構造上、気管と食道が分かれている。これは、サルをはじめとする哺乳動物と同じであり、身体構造的に言葉を発することができないらしい。

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胎児では、受精後、単細胞から始まって、心臓が動き出し、受精後30日ぐらいから魚類になり、両生類になり、手が生まれ、爬虫類になり、哺乳類になり、やがて刻々と人間(ヒト)になっていく。

しかし、一歳までの赤ちゃんは、ホモ・サピエンスではなく、他の哺乳類と同様の特徴をそなえている。

一歳を過ぎた頃から、赤ちゃんは段々に人間になっていき、二歳半の頃になってようやく「ホモ・サピエンスの子供」になる。

赤ちゃんは、母親の乳首に吸いついて数分間、息継ぎもせずにお乳を飲む。これは、人間以前の哺乳類に出来るが、大人の人間にはできない。つまり、大人は食べ物や飲み物を飲み込むとき息を止めるが、赤ちゃんは息を止めないでも飲み込める。

大人は、食道と気管が交差しているが、赤ちゃんは、この食道と気管が分かれていて、食道と気管がそれぞれの働きを同時にに行うことができるからである。サルやイヌ、ネコなど他の哺乳動物は、赤ちゃんと同じように、息継ぎせずに、食べ物を食べ続けることができる。ということは、赤ちゃんの身体構造は、他の哺乳動物と同じ段階にある。

成長した人間だけが他の哺乳動物と異なる喉の構造になったのは、人間が言葉を話すようになったためである。
声を発するメカニズムは、肺にある空気を、鼻ではなく、口へ向かって吐き出すことで、哺乳動物は声を発する。このとき、気管から鼻へ向かうべき空気が、喉の交差点で、口へと向かう。動物が吠えるときは喉を激しく緊張させ、かつ運動させ、気管を強引に喉の方に近づけ、食べ物の道である口につなぎ、さらに声を発する(吠える・鳴く)。これは、かなり努力を要する特別な作業である。赤ちゃんが泣くときも、全身に力をこめるほどの大変な作業をすることで泣くのである。他の哺乳動物と同じように、気管を強引に喉につなげることで泣き声を発するからである。

これが成人になると、食道と気管が喉で交差し、つながってしまうので、私たちは苦しまずに、声を発することができるのである。赤ちゃんが言葉を話すのは、構造的に無理なのである。

気管と食道が交差してある程度、人間の構造を備えてくるのが、一歳ごろだといわれている。
二歳半といえば、言葉もだいぶ話せるようになった頃であり、自分のアンヨで立って歩くことも楽にできる頃である。したがってこの時期までは、「この子は今、必死で進化の過程を歩んでいるのだ」と考えることが大切である。そして、三~五歳ごろに脳細胞が急激に発達する。

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だとすれば、①人類が言葉を話し始めたのは赤ん坊の成長段階でいうと1歳頃に相当する。②2歳に相当する段階でかなり言葉を話せるようになり、③3~5歳に相当する段階で急速に頭脳が発達した(言葉がしゃべれるようになっていきなり脳が発達するわけではない。おそらく、この3~5歳の脳発達に相当するのが現生人類の数万年前の急激な知能進化→道具や壁画の進化であろう)。

赤ん坊が1歳になる前に焦点を当てると、もう一つの顕著な変化がある。

生後数ヶ月の赤ちゃんはあらゆる言語の音を聞き分けられるらしい。それが、1歳を迎える前に大きな変化が起き、自国語に応じた脳構造に変化するらしい。

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「赤ちゃんは、あらゆる言語の音を聞き分けられる」

東京の赤ちゃんと シアトルの赤ちゃんについて 「ra」と「la」を聞き分けるテストを行なった所、生後6~8ヶ月の赤ちゃんでは違いが見られなかった 。それが2ヶ月たつとアメリカの赤ちゃんは成績が良くなり 日本の赤ちゃんは悪くなる。
赤ちゃんの頭の中で言語の統計処理が行なわれており、赤ちゃんは言語の統計を吸収し それが脳を変化させる。

第2言語に接したことのないアメリカ人の赤ちゃんに、生後8~12ヶ月の言語習得の臨界期に初めて中国語に触れさせると、10ヶ月半ずっと中国語を聞いてきた台湾の赤ちゃんに劣らぬ、良い成績になった。赤ちゃんは、新たな言語に対して統計処理をしている。何語であろうと赤ちゃんは接した言語を統計処理する。

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まとめると、こういうことになる。

一歳になるまでに、①赤ん坊の身体構造(喉)は、気管と食道が交差するようになり言葉が話せるようになる。②それまでは、赤ん坊はあらゆる言語の音(波動)を聞き分けられる脳機能を備えているが、生後8ヶ月~1歳までの間に周囲で話されている言語に特化した脳構造に変化する。

原始人類が言語機能を獲得した時も同じ過程を踏んでいるはずである。

赤ん坊生まれた時が、500万年前カタワのサル=人類が登場した時だとする。3~5歳の急激な脳の発達が10~3万年前の現生人類だとする。それから推定すると、人類の言語機能の発達過程は次のようになる。

1歳児≒350~300万年前に喉の気管と食道が分かれた。同時に、それまで人類はあらゆる波動を聞き分ける聴覚(脳機能)を備えていたが、言語機能に特化した聴覚(脳機能)に変わる。小脳の発達と照準力を司る左脳シフト⇒右脳の抑制制御)もこの段階で進んではず。

2歳児≒200~100万年前の間に、かなり言葉を話せるようになり、

3~5歳時≒10~3万年前に急激に脳が発達し、道具や壁画が発達する。

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2017年06月15日

言語機能を司る脳の構造(小脳の発達と照準力を司る左脳シフト⇒右脳の抑制制御)

人類も鳥類も、運動機能を司る小脳の進化によって、言語機能を進化させた。
一度自転車に乗ることを覚えたら一生忘れないように、運動機能⇒小脳の記憶力は絶大である。

『脳の方程式 ぷらす・あるふぁ』(中田力著 紀伊国屋書店)の要約。

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カナリヤが歌を歌うために用いる脳に優位があり、その内容は学習による。カナリヤは人間の言語同様に、片側の脳を優位に使って歌を歌い、父親から最初の歌を習う。

ここに、ヒトの言語が生まれてきた秘密を解く鍵がある。 脳の機能画像で確認されたが、言語と音楽とはヒトの脳にとっては、ほとんど同一の機能である。これは 言語機能の発生にとって高い知能が必ずしも必須でなかったということを示す。 オウムも九官鳥もカラスも人間の真似で言葉を話す。ヒトの言語は高度の知性にもとづいているが、高い知性を獲得しなかった鳥は知性の高くない言語しか持っていない。

ヒトも鳥も小脳の機能を顕著に進化させることで、運動機能の飛躍的進化を果たした。事実、ヒトの脳が相対量として最も増加させた脳は小脳であり(絶対量としては前頭葉)、鳥の脳で中心を占めるのも小脳である。
言語機能は運動系の進化、小脳の進化から生まれてきた。ヒトの祖先は高度化した声を出す運動機能を用いて、言語を生み出した。
言語機能にとって小脳が重要な役割を果たすことは、自閉症の研究によって知られる。言葉を発しない子供たちに共通するのは、小脳の未成熟度である。
鳥類は小脳の進化によって運動機能を進化させ、飛行を実現した。その運動機能を発声に応用する種が生まれ、音楽機能を獲得したが、鳥類は高度な知能はなく、歌を歌う能力とオウム返しの言語能力しか獲得できなかった。

歌う鳥はその音楽機能に片側の脳を優位に使うのと同様に、ヒトも言語機能に優位半球を持つ。
ヒトでは左脳と右脳で機能が乖離しているが、歌う鳥にも同じような機能乖離がある。このことは、言語機能の基本構造が優位半球を持つことが必須であったことを意味する。
その必須条件とは何だったのか?何故、両側の脳を使っていてはいけなかったのか?
発声に使われる筋肉は、元々、呼吸とか食物の摂取とか、生きてゆくための基本的な動作に必要な筋肉(球筋)である。球筋を支配する神経に出発点が延髄である。 球筋の特徴は、左右両方の脳から支配を受けることである。

ここに優位半球登場の秘密を解く鍵が隠れている。
全身の筋肉は左右対称に存在する。一部の例外を除き、身体の右側にある筋肉は左の脳、左側にある筋肉は右の脳に支配される。 ところが、球筋は左右両方の脳の支配を同時に受けている。両側の脳からの支配を受けていれば、片側の脳に障害が起こったとしても球筋の麻痺は起こらない。呼吸や食物の摂取など生命の維持を左右する筋肉は麻痺しない。しかし、両方の脳が健全な時には、ちょっと働き難い。左右両方の脳の正確な同期を要求するからである。

 ヒトは調音器官に高度の運動機能を獲得することで言語機能を獲得した。その調音器官の中心的な運動は球筋によってなされるが、球筋は、左右の脳の両方から支配を受け、単純作業をやるものと決められていた筋肉である。 球筋の主な仕事である呼吸とか食物の摂取などは、ほとんど一定の作業である。随意に動かす場合でも自由な動きをさせることはできないので、言語機能という繊細な運動機能には向いていない。

 そこで、脳は言語機能に関する運動においてのみ、球筋への命令を与える権利を片側の脳に優先的に与えることにした。
しかし、基本的な球筋の運動の両側支配は残したまま、言語運動のときだけ片方の脳に支配させる機構を作ることは容易ではない。
言語運動は随意運動であるが、球筋の随意運動に対して左右の脳にランクをつける仕組みが生まれた。 脳は、随意運動を開始する信号を受けて、自動的に片方の脳の支配を押さえ込む制御装置を作った。随意運動の開始が自動的に片側の脳の支配力を低下させ、その結果、片側の脳が球筋の運動支配に優先権を持つようにした。優位半球の登場である。これを抑制制御といい、抑制制御の装置を加味することで、両側支配の構造を変えずに、片側支配を作り出すことができる。言語機能という随意運動の場合のみ、球筋への支配は優位半球からの信号が優先される。

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言語機能の場合だけ、右脳の支配を抑制制御する仕組みを脳は作り上げた。これが言語機能における優位半球(左脳優位)である。

『るいネット』「哺乳類の逆境からの進化適応が、右脳と左脳を接続する脳梁を生み出した」にあるように、右脳が360度の(外圧)情報探索、左脳が照準力を担っている。

以上を踏まえて、言語機能がどのようにして登場してきたのか?

人類はサル時代から表情や身振りを頼りにしてきたが、それらの情報を含めて全ての情報は、意識や集団を共認統合するためにある。その統合度を上げるためには、刻々と変化する意識を固定・定着させた方がよい。そのために生み出されたのが言葉である(さらにその先には言葉よりも一段と固定度の高い文字が生み出された)。

この言語機能による意識の固定化とは、360度の外圧情報の中から照準を絞り込む照準力と非常に近いものがある。すなわち、言語によって意識を固定化するためには、強力な照準力が必要とされるので、そのために照準力を司る左脳シフトが行われた。
言語機能がデジタル構造(タコツボ構造)になるのも、一点に照準を絞り込む照準力の成せる業であろう。
これが、言語機能における優位半球(左脳優位)が形成された理由ではないだろうか。

外圧情報のキャッチは生物にとって最も根底的機能かつ重要な課題でなのであって、外圧情報のキャッチ担う右脳機能を抑制するのは生物にとって危険な行為である。それほど重要な右脳(外圧情報の探索機能)を、人類が抑制制御した理由は何なのか?

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2017年06月15日

生涯未婚率急上昇! 国家が足元から崩れようとしている

【生涯未婚率】男性23%、女性14%に急上昇 「皆が結婚する社会こそ異常」と指摘する専門家も

50歳まで一度も結婚をしたことがない人の割合を示す「生涯未婚率」について、2015年の国勢調査の結果、男性で23.37%、女性で14.06%にのぼったことがわかった。前回の2010年の結果と比べて急上昇し、過去最高を更新した。
今回の調査では、男性のおよそ4人に1人、女性のおよそ7人に1人が生涯未婚であることがわかった。

 

文書 1

 

未婚率の上昇カーブには驚いた。
男性は90年、バブル以降に急上昇している。
女性は05年から急上昇、収束不全が顕在化して以降か。
このまま進むと日本はいよいよヤバくなる。どうする?

子供たちは学校で試験のための勉強ばかりを強いられ、やる気を失い、思考停止人間が量産される。
仕事をするようになっても、国家をあげて長時間労働を締め付け、活力源であるはずの働きがいまで奪われようとしている。
そして未婚率の急上昇、、、国家統合の最小単位である「家族」はすでに崩壊している。
加えて、社会の最基盤にある男と女の充足関係は、ますます刹那的になっているように思える。

国家が足元から崩れれようとしているのに、政府は共謀罪やら憲法改正やら強制統合を進め、権力維持しか頭に無い模様。
しばらく教育関係を扱っていたが、また男女関係、家族、地域、共同体などの視点で追求してみる。

恋愛至上主義や個人主義が進んだ結果、ついに結婚制度が崩壊へ
古い強制制度は「制度疲労」を起こし自滅する
結婚制度は崩壊寸前!?~個人の自由と集団再生の綱引き
結婚はオワコン!?~制度崩壊の先の、男女の性充足関係を如何に再生させるか!

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2017年06月08日

経産省 次官・若手プロジェクト「不安な個人、立ちすくむ国家」への違和感

経産省の「次官・若手プロジェクト」がネットで注目を集めている。
行き詰った国家統合に若手官僚が声をあげたことは○だが、本来それが統合者の役割である。
しかし、それにしては極めてお粗末な内容である。

「不安な個人、立ちすくむ国家」
まず最初に、このタイトルに違和感を感じる。個人と国家という枠組み。
個人のために国家があるのか、国家は個人のためにあるのか。
個人が主体となったのは戦争が始まった5000年前以降、日本においては村落共同体が解体されていく明治以降に過ぎない。
人類500万年の歴史において、99.9%は集団第一の時代であり、個人が主体の時代は人類史上極めて異常な状態といえる。

こと日本においては一部の地域では戦後も夜這い婚が続いていたなど、村落共同体の様式を色濃く残している。
西欧に追いつけ追い越せとばかりに、近代思想を輸入し、学校教育で洗脳し、個人の自由を夢見させ、国家を挙げて市場化に精を出した結果が、現在の行き詰った姿に他ならない。であれば、まず近代の総括が必要であろう。

先日の「実現塾」では、愛・人権・平等などといった感応観念のもつ支配力の強さについて考えさせられた。たしかに近代は、自由・平等・博愛にはじまる近代思想に導かれ、誰もが個人の自由・恋愛へと私権獲得に収束した。その言葉自体だれも真っ当に説明できないが、誰もが納得する力をもつ、それは何故なのか?

本来、言葉は洞窟に隠れ住んでいた仲間に伝えるために生まれたもの。仲間発、集団発である。
それに対し感応観念は、個々人の心の内にある自我に訴えかけたもの、個人発の言葉である。
だから誰も傷つけないし、誰からも受け容れられる。しかし、集団にとっては「個人の自由」は敵対物に他ならない。
感応観念たる近代思想は個人発の、個人が主体の観念である。
ちょうど戦争が始まって古代宗教が生まれ、近代国家のはじまりに近代思想が生まれたことが符号する。
集団から個人へと転換するには、個人主体の観念が必要だったということ。

そして今、個人が主役の市場社会は終焉を迎えようとしている。
にもかかわらず、個人発の観念でしか社会を捉えれられないのが、試験の勝者にすぎない官僚の限界である。
これは学者も政治家もマスコミもみな同じである。
近代思想を疑うどころか錦の御旗に私権社会を勝ち抜いてきた彼らに、自らの基盤を否定し新たな観念を生み出すことは出来ない。

不安な個人に、国家が答を出そうとするのが、そもそも間違いではないか。
現実に生きる不安な個人、その不整合・危機感の集合体が、自らの生きる場を自分たちで作っていくうねりとなる。
それこそが、いわゆる「民主主義社会」であり、日本人の誰もが心底にもつ「共同体社会」への実現の道である。

不安な個人、立ちすくむ国家
~モデル無き時代をどう前向きに生き抜くか~

かつて、人生には目指すべきモデルがあり、自然と人生設計ができていた。
今は、何をやったら「合格」「100点」か分からない中で、人生100年、自分の生き方を自分で決断しなければならない。
世の中は昔より豊かになり、日々の危険やリスクは減っているはずだが、個人の不安・不満をこのまま放置すると、社会が不安定化しかねない。我々は、再び「権威」や「型」に頼って不安・不満を解消するのではなく、「自由の中にも秩序があり、個人が安心して挑戦できる新たな社会システム」を創るための努力をはじめなければならないのではないか。

人類がこれまで経験したことのない変化に直面し、個人の生き方や価値観も 急速に変化しつつあるにもかかわらず、日本の社会システムはちっとも変化できていない。このことが人々の焦り、いら立ち、不安に 拍車をかけているのではないか。
なぜ日本は、大きな発想の転換や思い切った選択ができないままなのだろうか。

今後は、人生100年、二毛作三毛作が当たり前。
にも関わらず、「昭和の標準モデル」を前提に作られた制度と、それを当然と思いがちな価値観が絡み合い、変革が進まない。これが、多様な生き方をしようとする個人の選択を歪めているのではないか。

みんなの人生にあてはまり みんなに共感してもらえる「共通の目標」を政府が示すことは難しくなっている。

戦後、日本は、世界に誇れる社会保障制度の構築に成功し、公平性を維持した経済成長を実現。
しかし、本格的な少子高齢化が進むなか、過去に最適だった仕組みは明らかに現在に適応していない。
既に人々の価値観は変化しつつあるにもかかわらず、過去の仕組みに引きずられた既得権や固定観念が改革を阻んでいる。
「シルバー民主主義」を背景に大胆な改革は困難と思い込み、誰もが本質的な課題から逃げているのではないか。

このままでは、いつか社会が立ちゆかなくなることは明らか。
若い世代には、そんな日本を見限って、生活の場を海外に移す動きも出てきている。
従来の延長線上で個別制度を少しずつ手直しするのではなく、今こそ、社会の仕組みを新しい価値観に基づいて抜本的に組み替える時期に来ているのではないか。
①一律に年齢で「高齢者=弱者」とみなす社会保障をやめ、働ける限り貢献する社会へ
②子どもや教育への投資を財政における最優先課題に
③「公」の課題を全て官が担うのではなく、意欲と能力ある個人が担い手に(公共事業・サイバー空間対策など)
これにより、個人の帰属・つながりを回復し、不確実でも明るい未来を実現する。

2025年には、団塊の世代の大半が75歳を超えている。
それまでに高齢者が支えられる側から支える側へと転換するような社会を作り上げる必要がある。
そこから逆算すると、この数年が勝負。
かつて、少子化を止めるためには、団塊ジュニアを対象に効果的な少子化対策を行う必要があったが、今や彼らはすでに40歳を超えており、対策が後手に回りつつある。今回、高齢者が社会を支える側に回れるかは、日本が少子高齢化を克服できるかの最後のチャンス。

2度目の見逃し三振はもう許されない。
日本は、アジアがいずれ経験する高齢化を20年早く経験する。
これを解決していくのが日本に課せられた歴史的使命であり 挑戦しがいのある課題ではないか。
日本社会が思い切った決断をして変わってみせることが、アジア、ひいては国際社会への貢献にもつながるのではないか。

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2017年06月01日

教員も軍隊式の強制教育を受け養成された

学校において生徒たちにとっての教員とは、絶対的な存在である。
学校制度ができた明治時代には、その教員を養成する師範学校が重要な役割として設立されている。
師範学校の生徒(将来の教員)は、徹底して国家的イデオロギー(国民道徳と天皇への忠誠)を注入され、
兵式体操で身体を訓練し、全員が寄宿舎生活をし、帰属意識や集団的規律を身につけた特有の人物像が形成されたという。
教員もまた軍隊式による強制教育を受け、養成されたのであった。
(※学校は軍隊をモデルに作られた。その強権体質が、今、子供を潰し始めた。)リンク

 

近代的教職像の確立と変遷
1885年、太政官制に代わって内閣制度が導入され、伊藤博文が初代首相に任命される。
伊藤により米国、英国などで外交官を経験していた開明主義者の官僚、森有礼が初代文部大臣に任命される。
西欧化による国民の啓蒙を続行しつつ、天皇を中心とした日本人としての国民意識形成と倫理的行動原理を育成強化するというという重要な 課題と、明治初期から目前の必要をみたすために応急的、試行錯誤的に進められてきた教育事業を整理して、一貫した教育体系を作り上げる課題が森有礼に課せられた。

この森文相によって、1886年に「小学校令」「中学校令」「帝国大学令」「師範学校令」が 公布され、この後の日本教育発展の基盤となる教育制度の基本的骨格が形成されることになる。
1890 年には教育勅語が発布される。
その直前に行われた小学校令の改正では、「小学校ハ児童身体ノ発達ニ留意シテ道徳教育及 国民教育ノ基礎並其生活ニ必須ナル普通ノ知識技能ヲ授クルヲ以テ本旨スト」として 小学校教育の目的が規定され、道徳教育、国民教育、普通の知識技能の習得の三本柱で構成される初等教育の目的が明示された。この目的規定はその後50年にわたって変わることなく維持された。

森文相は、国民教育における初等学校教員の重要性を認識しており、師範学校の役割を重視した。
森の制定した師範学校令第一条は、次のように規定した。
「師範学校ハ 教員トナルヘキモノヲ養成スル所トス但生徒ヲシテ順良信愛威重ノ気質ヲ備へシム ルコトニ注目スヘキモノトス」。
ここで注目されることは、法令の条文でわざわざ、未来の教員に「順良」「信愛」「威重」という三つの気質ないしは徳性を植えつけること をめざすと書き込んでいることである。
森の案では、当初は、それぞれ、従順、友愛、 威儀と表現されていた。こちらの方が分かりやすい。
師範学校の生徒が身につけるべき理想的な資質は、「順良、信愛、威重」すなわち、上長の命令に従属すること、同僚に愛情あふれた信頼を寄せること、児童の行動や態度を重々しく威厳をもって統制するということにされたのである。

未来の教員に徹底して国家的イデオロギー(国民道徳と天皇への忠誠)を注入することを目指す。
生徒は、兵式体操で身体を訓練し、また全員が寄宿舎生活をして帰属意識や集団的規律を身につけた特有の人物像が形成されることになる。生徒には、兵役の免除、授業料や食費の無償、衣服や雑費の支給などの特権が与えられた反面、 卒業後一定期間の教職への奉職義務(男子10年、女子5年)が課されていた。また、中等学校教員および師範学校の教員を養成するための機関として、高等師範学校が設置された。

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